第8話

文字数 8,950文字

「本当に、大丈夫なんですか?」

 コンビニの駐車場に設置されたゴミ箱の前で寝転がる俺の顔を心配そうに覗き込む警察の男の声に、「ちょっと、転んだだけなので……」と愛想笑いで応える。

 夜が明ける頃。俺は〈脳美祖村〉から一番近い町にたどり着いた。引っ越しの時、来たことがある町だったので、ある程度、地理が頭に入っていた。

 警察の男は、多分、コンビニの店員から通報を受けて来たのだと思う。闇夜の森の中を全力疾走し、木の葉と切り傷まみれになった俺がゴミ箱の前で休んでいるのを見て、危険人物がいるとでも思ったのだろう。

「ちょっと、近くの森で遊んでいて……」

「森? 一人で?」

「はい……」

 汗で濡れた服が外気で冷えていた。身体が震えるのは寒いから。村人たちもさすがにここまでは追ってこないはず。傍にいる警察の男や、その辺にいる一般人の存在が、俺を安心させてくれた。

「まぁ、酔っぱらっていたというか……。まぁ、すぐ消えますよ……」
 
 寒さで歯をカチカチさせながら警察の男に適当な言い訳を伝え、立ち上がった。

 金は、〈脳美祖村〉に全部置いてきてしまったので、今は一文無しだ。

 図々しいと思いながら、ダメもとで警察の男に金をせびると、家はどこかと訊かれた。

 俺は、ずっと疎遠になっていた両親の家の住所を伝えた。

 すると、警察の男は、実家がある町へ行くための電車賃を恵んでくれた。

 良い人だなぁ、と俺は笑った。〈脳美祖村〉でイカレた村人たちに殺されかけた後だと、どんなことでも、どんなに小さな幸せでも笑顔になれそうな気がした。

 ニコニコ笑う俺を警察の男は気味悪そうに一瞥して、どこかへ歩いて行った。

 俺は汚い格好のまま駅へ向かい、電車に乗った。

 降りたら、真っ直ぐ実家を目指す。

 しばらく見ない間に、コンビニが増えた気がする。

 子供の頃、毎日目にしていたスーパーは、車がまばらに停まった駐車場になっていた。

 こちらをチラ見する通行人たちの視線が、今はまったく気にならないのは、新しいものが増えていて、そっちにばかり目がいくせいだろう。

 古ぼけた木製のドアが目に入り、俺は足を止めた。

 二階建ての一軒家を見上げる。ここが、俺の実家だ。

 玄関脇に取り付けられたポストには、大量のチラシがねじ込まれていた。

 家の前は歩道なので、庭は無いに等しかった。

 犬の散歩をする女性が、俺の横を通り過ぎた。隣の家に住んでいる人で、子供の頃、よく挨拶を交わしていた記憶がある。俺は気がついたが、相手は眼中に無い様子。俺は声をかけず、後ろ姿を一瞥して、実家に視線を戻した。

 二階の角部屋。カーテンで中は見えないが、あそこが俺の部屋だった。物置にされていても別に構わないが、せめて、PCだけ捨てられずに残っていてほしかった。

 玄関に立ち、ドアを開ける。

 無造作に脱ぎ捨てられた靴の山の上に、泥だらけになった靴を脱いで置いて、中に入った。

 茶の間の方から音がしたので、行ってみると、父親がコントローラーを握ってテレビゲームをプレイしていた。

 プラスチックの弁当入れや、ペットボトル、スナック菓子の袋、丸めたティッシュ等に囲まれていて、まるでアリジゴクに落ちたことに気づかない鈍感なアリのようだった。

 ハエがたかっていないのは、季節のおかげだろうか。だが、茶の間の中はゴミ捨て場のような臭いが充満していた。よくこんなところでゲームできるな、と思ったが、不思議と嫌悪感は無かった。

 昔は俺も、ここで暮らしていたのだ。これが実家の臭いだと、身体が認識しているせいで、気分が悪くならないのかもしれない。

「ただいま」

 俺の声に父親はピクッと反応し、驚いた目をこちらに向けた。

 父親は、「おかえり」も何も言わず、幽霊でも見るような目で俺を凝視している。

「部屋でちょっとやることがあるから」

 それだけ言って、俺は二階にある自室を目指して階段を上った。

 母親の姿が見当たらないのは、多分、早朝パチンコの列に並ぶため、家を出ているからだろう。

 自室に入ると、そこは、俺が出た日と何一つ変わらない状態だった。

 まるで、俺が家を出た瞬間、ここだけ時間が止まってしまったかのように思える。

 唯一変わっている点は、部屋にある、ありとあらゆる物に、雪みたいに埃が溜まり積もっていることくらいだ。誰が見ても、俺と両親の仲が一目でわかるほどの汚部屋だった。

 粉っぽい空気に辟易しながら、窓に近づき、カーテンを開ける。

 日の光に照らされた俺の部屋は、カビの生えた食パンのようだった。

 窓を開けて空気の入れ替えを行う。掃除しようかと思ったが、やることが済んだらすぐ出るだろう、とそのまま放置することにした。

 勉強机の椅子に腰を下ろすと、バフッと埃が舞った。

 軽くせき込み、机の上の半分を占領するPCに電源を入れた。埃まみれのルーターに、緑色の小さな光が点く。ネットは普通に使えそうだった。

 少し待ち、映ったパスワード打ち込み画面に使われている壁紙は、俺が大好きな映画監督の代表作で、眺めていると、なんだか懐かしい気持ちになった。パスワードは、壁紙の映画が公開された日付だった。

 ホーム画面の、ショートカットに登録してあるアプリの中に、昔使っていた動画編集アプリに交じって生放送用のアプリのアイコンがあった。

 起動すると、いきなり更新の通知が現れた。

「これは……。まぁ、しょうがない」

 俺は更新が終わるまで、生放送に必要な機材を用意することにした。

 といっても、相手が誰であろうと、聞いてもらうだけでよかったので、マイクだけ戸棚から引っ張り出してきて、アプリが起動するのを待った。

 インターネットから、ブックマークのリンクを辿って、某動画投稿サイトへと辿り着く。

 俺のアカウントは

で消されているので、新たに一から作成する必要があった。

 アカウント名は、〈のうみそ村〉にした。あの村で体験した出来事を話すだけのチャンネルだ。

 液晶画面の左下に目をやると、〈9:00〉と現在の時刻が表示されていた。

 こんな時間から俺の雑談配信に——しかも、無名の放送主に付き合ってくれる人がいるとは思えなかったが、語った後の動画はアーカイブに残しておく気でいるので、SNSでの拡散も視野に入れて、目に留めてくれる人が現れるのを気長に待つことにした。

 五分ほど間を開けて、生放送をスタートさせた。

 当然、視聴者はゼロ。配信画面は真っ暗。客観的に見て、

放送だった。

 しかし、俺は気にせず、喋り始めた。

「おはようございます。〈のうみそ村〉です」

 名乗った後、アホみたいな名前だな、と笑った。

「俺が生放送をする理由は一つ。俺の実体験を、誰かに聞いてもらいたかったからです」

 これ、〈にちゃん〉の方が人来るんじゃないか?

 先に情報整理してからやった方がよかったかな?

 などという雑念交じりで、俺の語りは進行する。

「えーっと……。ノート……」

 鏑木さんのノートをめくりながら、まず、俺が村に行く経緯から話す。

 気がつくと、生放送画面の端に〈2〉と表示されていた。視聴者が二人に増えた、ということだ。

 視線はノートばかりにいっており、コメビュ(コメント表示ソフト。コメントを自動で読み上げるタイプのソフトも存在する)を使っていないこともあって、俺は視聴者のコメントを見逃していた。

『初見。〈のうみそ村〉って何?』

『声小さくね?』

 コメントを読み上げて、「ああ、すみません」とマイクの音量を調節する。

 視聴者は、間違いなく、俺が初心者だと確信している。だが、茶化す目的で来た人はいないようで、これなら、雑談が成立しそうだった。

「初見さん、おはようございます。いらっしゃいませ」

 マイクに向かって、俺は話しかける。

「誰か来てくれたみたいなので、最初から話しますかね……」

『怖い話?』

『配信画面がホラーな件について』

 意外とノリの良い視聴者で安心し、俺は、はっきりとした声で語りを再開した。

「みなさんは、〈のうみそ村〉って知ってますか?」

 返答コメントは来なかった。

「じゃあ、〈脳美祖村〉は知ってますか?」

『作り話?』

 視聴者は、フィクションをあたかもノンフィクションであるかのように俺が語る、ホラートーク配信だと思い始めているかもしれない。

 釣り(視聴者稼ぎのためのイタズラ)と疑われて、せっかく来てくれた視聴者が減ってしまうのではないかと、俺は心配になってきた。

 鏑木さんのアカウントを使って生放送をしていたら、初っ端から聞き専の視聴者が集まってくれていたのだろうが、無名の俺では視聴者をここに留めるのが大変だ。

 視聴者数は、一人、二人と、代わる代わる変動している。一人だけ残ってくれている気がして喜んだのも束の間、よく考えると、自分も視聴者数に加えられているので、視聴者はほぼゼロみたいなものだった。

 けれど、逆に考えれば、誰もいないから、グダグダになっても文句を付ける人がいないということ。俺は開き直って、視聴者を意識しない、自分勝手な配信を進行した。

 鏑木さんのノートをめくる。日記みたいに、日付とその日あったことが書かれていた。一日の出来事をノート一ページ丸々使って書いていたので、活字が苦手な俺は、最後のページにたどり着くまで数時間かかるかもしれない。

 一枚目のページには、〈脳美祖村〉に来たことや、村人たちと酒を飲み交わしたことなどが書かれていた。やはり、あの村では最初、歓迎されるのだ。鏑木さんも、村人たちを良い人だと信じ切っている様子だった。

 村に来て一週間ほどは、村人の仕事を手伝ったり、酒を飲んだり、楽し気な内容の日記が続いた。

 読んでいて驚いたのは、俺と違って鏑木さんは、決まった仕事をしていなかったことだ。俺はゴミ処理の仕事を勝子と組んでやっていた——というか、やらされていたが、鏑木さんは「自由に生活したい」といって、村人の仕事を気が向いた時しかやっていなかった。その代わり、村人を連れてちょこちょこ外に出て、町で大量に酒を買って借りた家に溜め込み、酒好きの村人にタダで配っていたそうだ。

 前田が鏑木さんに酒をせびった理由が、今になってわかった。村の外に出ることを誰も止めなかったのは、見張りとして村人が付き添っていたからだろう。

 俺もこの方法にもっと早く気がついていれば、村の外に出て、逃げ出すことができたかもしれない。だが、俺も鏑木さんと同じで、〈脳美祖村〉の恐ろしい実態を後になって知ったから、逃げ出そうという発想すら浮かばなかったと思うが……。

 ページをめくる。一週間の後、つまり、八日目の日記を読む。

 ここからついに、鏑木さんが〈脳美祖村〉に来た本来の目的。動画配信のネタ探しが本格的に始まった。

「鏑木さん。あなたは……」

 共に〈脳美祖村〉からの脱出を目指した、仲間だったからわかることがある。

 鏑木さんは、その気になれば、どこまでも冷徹になれる人だ。やると決めたら最後までやる。一番良い選択肢が人への暴力行為だったなら、躊躇わずに実行できる人なのだ。

 俺は、鏑木さんのことを良い人だと

だったのかもしれない。

 目的達成のためには、俺と組む以外に選択肢が無かった。だから、俺を相棒として傍に置いた。

 とはいえ、俺もあの時は、鏑木さんと組む以外に選択肢は無かった。鏑木さんの身体を張った行動に心を打たれ、相棒になることを決めたが、本性を知っていたら、もっと悩んでから決めていたかもしれない。

 何故なら、本当の鏑木さんは、計算高くてずる賢い、マイペースな人間なのだ。

 日記に目を通して、俺は、何も知らないまま鏑木さんの言いなりになっていたのだと思い、少し残念な気分になった。

 〈脳美祖村〉に住み始めてから、鏑木さんは積極的に村人たちと交流し、自分が悪者では無いことを信じ込ませた。

 すべて、

と、八日目の日記にはっきりと書かれていた。

 村人たちが、鏑木さんが社交的な人を演じていることに気がついていないと思える描写がいくつも存在した。

 例えば、他人の家に勝手に上がって、家主が留守の間に色々と物色する。勝手にタンスを開けたり、物置を掘っ繰り返したりなど、やりたい放題していた。

 余程、信頼されていなければ、言い咎められることなく続けることは不可能な所業の数々……。鏑木さんは、動画のネタを手に入れるために、行く先々でこんなことをしていたのだろうか。

 きっと過去には、ネタ探しのために付き合わせた誰かから、やり過ぎた行いを注意されたり、勝手に侵入した施設の管理人から出禁を食らうなど、何かしらの罰を与えられたに違いない。

 そして、そういった愚行を繰り返すうちに、

のか。或いは、動画のネタ探しのためだと割り切って、深く考えずに行っていたのか……。

 なんにせよ、仲間にはしたくない人物だと(今更だが)、日記を読み進めるうちに鏑木さんに対する嫌悪感が膨れていった。

 だが、なんだかんだ言っても、〈脳美祖村〉からの脱出に、鏑木さんの手助けが大いに役立ったことは事実だ。俺はこれ以上、心の中で鏑木さんに対する悪口を吐くのは止めることにした。

 気持ちを切り替える。

 鏑木さんは、〈脳美祖村〉誕生の秘話や、〈脳美祖神〉に関する情報集めに成功した。

 〈脳美祖村〉や〈脳美祖神〉については、二人で地下に監禁された時、聞かされた内容と同じだった。

 しかし、〈脳美祖神〉と崇められていた、特殊能力持ちの少女と、その子孫たちに関する情報の中には、俺が聞かされていないものもあった。

 まず、特殊能力持ちの少女——オトギについてだが、彼女が人の脳を食べることで衰えていく力を回復できるメカニズムに関しては、どの文献を読んでも最後まで解明できなかったらしい。

 だが、オトギ及び、その子孫たちが持つ特殊能力については、情報を得られていた。

 特殊能力、その一。危険予知。これは、殺意や悪意といった、人が放つ悪いオーラのようなものを感じ取ることができる力で、鏑木さんから聞かされた昔話にあったように、悪人を認知するときに使われる能力。

 特殊能力、その二。思考共有。これは、同族——つまり、〈脳美祖村〉で生まれ育った人にのみ使える力で、文字通り、思考を共有できる能力。オトギやその子孫は、村人と見えない通話機器のようなもので会話ができた、らしい。ただ、四六時中思考が垂れ流しになっているわけではなく、それこそスマホの通話アプリのように、思考のスイッチを入れなければ発動しなかったそうだ。

 鏑木さんは勝子の能力で情報を伝えられ、村人全員に怪しまれ、最終的には捕まって監禁されたのだと予想できる。

 そして、そのきっかけを作ったのは、俺だ。

 俺が、前田家の裏山で何かしていた鏑木さんのことを話してしまったせいで、計画が狂ったのだ。

 その証拠に、その日から鏑木さんの姿が一切見えなくなった。



『お父さん』

『匠君。今は食事中だよ。食べ物を口に含みながらの会話は、行儀が悪いんじゃあないかな』



 朝食時、前田が勝子に名前を呼ばれて性格が変化したのも、思考共有で何か伝えられたからだと思われる。

 恐らく、「鏑木さんが怪しい。調べてみるから、終わるまで、これ以上、彼についてよそ者に何も喋るな」とでも言われたのだろう。

 鏑木さんも、この時点では、勝子がオトギと同じ能力を持っていることを知らなかったはず。それとも、警戒はしていたが、俺がチクったせいで警戒の意味が失われてしまったのか。死んでしまった今、本人に答えを聞くことができない。

 俺は次の文を読んだ。

 特殊能力、その三。探知。これは、特定の相手にしか使えない能力で、二の能力と併用もできない、限定条件付きの能力だという。というのも、この能力は、オトギが流れ者と恋に落ちた後、他の村人たちに知られないように行動するために生み出した能力らしく、簡単に言うと〈好きな相手にしか使えない探知能力〉なのだそうだ。

 オトギは、流れ者の居場所をこの能力で探知し、他の村人がいないところで、恋愛を楽しんでいたと想像できる。だが、最終的には、村人に知られてしまったのだろう。狭い村だから、どこかで誰が見ていても不思議ではない。

 そして、この一連の流れは俺と勝子にも当てはまる。俺と勝子の恋愛が、他の村人たちに知られた、或いは

のは、〈脳美祖神〉信者たちが風習を重視する連中だからだ。

 俺は、最初から最後まで〈脳美祖村〉の昔話の演劇に付き合わされていた——いや、途中で逃げ出したが、流れに従っていたら、勝子の産む子の父親になっていたに違いない。鏑木さんが地下で言っていた通りの展開になっていた。

 風習なんてクソくらえ、と俺は毒づきながら、能力に関する、最後の記述に目をやった。

特殊能力、その四。

。この能力に関しては、確定ではないらしい。実際に見ていないから、本当にそうなのかはっきりしない能力だと、鏑木さんは書いている。

 能力の効果は、文字通り、自身の負った傷を完治させる。完治までにかかる時間はわからない。

 鏑木さんが読んだオトギに関する昔話の中で、彼女が誤って川に落ち、村の端から端まで流され、全身骨折の重傷を負ったという内容の話があり、しかし、オトギは次の日には何事もなかったかのように村を走り回っていた。その様子を見た村人たちは、神様は天寿を全うするまで生き続ける、と思い込んだそうだ。

 特殊能力に関する記述は、ここで終わった。

「…………」

 俺は、次のページをめくる気になれなかった。

 何か一つ、重要な見落としがあるような、気持ちの悪さがあったせいだ。


 ……オトギは死なない。どんな怪我を負っても死なない。死ぬときは、寿命が尽きる時。まるで、ファンタジーの世界に登場する不死身の化け物じゃあないか。


 もしも、その能力さえも勝子が継承していたとしたらと思うと、ゾッとする。

 だがしかし、所詮は昔の情報。作り話だって一つはあるだろう。オトギを神と崇める信者たちの誇張から生まれた、大げさな作り話だったとしてもおかしくはない。

「…………」

 なんだろう。俺は何を気にしている。

 特殊能力に関する文を、さっきから何度も読み返しているのはどうしてだ。


 ……俺は、怖いのか? 何が怖い? 勝子は間違いなく……。


 俺は目を見開いた。足りなかったパズルのピースがはまったのだ。

 〈脳美祖村〉の連中がやっていたことは、言い換えれば、過去の再現。

 もしも、川に流されたオトギが、次の日、何事もなかったかのように動いていた——その昔話が真実であり、それさえも再現しようとしていたと考えると、

「勝子が川に落ちたのは……」

 俺が突き落としたことは、必然だった?

 勝子と取っ組み合いの最中、俺は興奮して何がなんだか終わるまでよくわからなかった。

 だから勝子が、突き落とされたのか、

、はっきりしない。

 不意に、俺の頭に勝子の姿が浮かんだ。

 場面は、俺との取っ組み合いのラスト。川に落ちる瞬間、勝子は気味の悪い笑みを浮かべた。

 こうなることを、望んでいたかのような……。

「い、いや! そんなわけないだろ! あいつは、間違いなく死んだんだッ!」

 間違いなく死んだ。本当に、そうだろうか。

 俺は死体を見ていない。殺した気になっているだけではないのか。

 もしかすると勝子は、今、川から這い上がって、恋人の居場所を探しているかもしれない。

 探知能力の射程に限度が無いのなら、俺は必ず、勝子に見つかる。



 ピンポーン!



「うわぁッ!?」

 玄関で鳴ったチャイムの音に驚き、俺は椅子から転がり落ちた。

 今のは、誰が押したのだろう。

 両親ではない。この家で暮らしていた頃、両親がチャイムを押して家に上がるのを俺は一度も見たことがないから。

 多分、宅配便が届いたのだろう。父親が動く音が聞こえないので、俺が出ることにする。

 階段を下りかけたところで、父親の声が聞こえ、俺は立ち止まった。

 どうやら、チャイムを押した相手に、父親が対応してくれているみたいだ。

 俺の出番は無い、と部屋に戻りかけた刹那、「ウッ!」という野太い声が聞こえた。

 父親の声だろうか。ドタドタと、慌ただしく動いている音も聞こえる。受け取った荷物が予想以上に重くて、床に落としたのかもしれない。

 別に、親孝行するつもりはないが、そもそもそこまでのレベルの行いではないけれど、俺は親父の荷物運びを手伝ってあげようと思った。

 一歩、二歩、と階段を下りたところで、何かがゴロリと転がるのが見えた。

 一瞬で、俺は固まった。土間と廊下の中間、低い段差のあたりに、人が仰向けで倒れている。頭部が階段側に向いているので、上階付近からでも、その人物の顔を確認することができた。

 それは、父親だった。両目を見開き、首からおびただしい量の血を流す父親が、死んだ魚のような目を俺に向けていた。

「と、父さん……?」

 何がなんだかわからない。父親は、どうしたというのだ。

 首周りに血だまりを作る父親のその姿は、〈脳美祖村〉で村人に殺された鏑木さんとそっくりだった。


 ……まさか、死んでる? いや、そんな馬鹿な!


 父親の安否を確かめようと、階段を一気に駆け下りようとした、その時だった。

 倒れている父親の身体をまたいで、一人の女性が姿を現した。

 スニーカーにジャージ。シワも汚れもまったく無い、今日初めて身につけたのだとわかるほど、女性の服は綺麗だった。まるで、どこかの店で一式買い揃えて、試着室で身につけてここに来たみたいに……。

 女性は、ゆっくりと顔を上げた。俺がどこにいるのかわかっているかのような、一切の無駄の無い動きで、視線を向けてきた。

 目が合った瞬間、俺は絶句する。その女性は、俺が

はずの、前田勝子だった。

 勝子はニコッと微笑むと、頬についている赤い液体を、同じく、赤い液体でべっとりと濡れた包丁が握られている右手の甲で、ぐいっと拭った。

「匠君、見ぃつけた!」
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