皇帝の影

文字数 2,810文字

 恵蔵に襲われ亮矩に出会い、誠治と香蘭に話を聞いた、その十日後。
 夜の康天府に飛雪はいた。東の海岸に面する港のすぐ傍に位置する宿が帝府飯店だ。
 その受付に向かうと、泊まっている桐生亮矩という男に宛てた紙片を渡し、さっさと外へ出る。非友好的な状態であまり会いたい相手じゃない。
 ――負ける気はしないけどさ。
 内心の呟きも、ちょっと力弱い。実は少しばかり不安だったりする。
 やや小走りに飯店から離れ、歩き慣れた道に出るとようやく緊張が解けた。
 お気に入りの屋台で水飴を買う。左眉の脇に大きなほくろがある白髪白髭の老爺が、にこやかに飴を差し出してくれた。
「ここの飴、おいしいわよね。スーッとしてて」
「薬草の香りを溶かし込むのがコツでねえ」
 飴を舐め舐め、屋台を離れてしばらく行く。
 と、背後で何やら騒々しい気配が生じた。振り返り、一呼吸で人の波をすり抜ける。
 さっきまで飛雪がいた飴売りの屋台が、何者かに襲われているのが見えた。
 長身の男と太った男と小柄な男が、手にした棒で屋台を打ち壊している。だらしなく服を着崩し、薄汚い言葉を口走りながら破壊を楽しむ、絵に描いたようなならず者どもだ。
「何してんのよあんたたち!」
 道端に転がっていた小石を三つ拾い、指で弾く。急所に当てるつもりはないから死にはしないだろうが、のたうち回る激痛くらいは与えられるはず。
 と、男たちは飛雪の言葉に振り返り、そのせいなのか、小石はすべて外れた。
 三人のならず者は、飛雪を三方から取り囲む。酒の臭いが強く漂った。
「何だてめえ? ガキはすっこんでな」
 飛雪の金色の髪を見ても怯まないのは、酔っているからか。
「その爺さんが何したってのよ? 大事な屋台を壊されたら明日からあの人が食うに困ることぐらい、あんたらの足りない頭でも理解できるでしょ?」
「うるせえな、あのジジイの顔がむかついたんだよ」
 まるで理由にならないたわ言で切り返すと三人組は崩壊寸前の屋台を見てせせら笑う。
 人を嘲るその笑いが、飛雪の怒りにはっきり火を点けた。
「つまりあんたたちはただの阿呆ってことね。きちんと爺さんに詫びて金払うなら、それで見逃してやろうかとも思ってたんだけど」
「見逃さないならどうするってんだ? おいらたちと遊びてえのかい?」
「棒遊びがいいか? それとも玉遊びか?」
 太った男の言葉に、他の二人が妙に受けている。いかにも小物ども、という風情。
 飛雪は懐から判官筆を取り出すと、にっこり微笑みながら三人組に小声で言った。
「棒に玉、ねえ。宦官のあんたらにそんな物残っているわけないと思うけど?」
 その言葉に、ごろつきたちは過剰なまでに反応した。最前その話を持ち出した太った男が顔色を変え、棒を構えて打ちかかる。それは、その辺にたむろしている街の不良が使える技ではなかった。長年修練を積んだ手だれの武芸者による、力強い剣術だ。
 それでも飛雪はあっさりとかわす。振り下ろした棒を切り返す暇も与えずに、男の顔面を殴りつけ、判官筆で何ヶ所もの経穴を突いて、太った男の動きを完全に封じ込めた。
「おのれ!」
 残る二人ももはやチンピラの仮面をかなぐり捨てて飛雪に襲いかかった。小男の動きは俊敏この上ないし、彼を背後から援護する長身の男は堅実な剣を振るう。
「へえ、なかなかやるわね」
「【青眼鷹】! なぜ我らの正体を見破れた?」
 長身の男が低い小声で問い質す。
「油断させて不意を襲うつもりなら、小石はせめて二人くらいは素直に喰らっておくべきだったわね。偶然が一度に三つ重なるなんて、小説だったら噴飯物よ」
 足元から撥ね上げる小男の斬撃と上から振り下ろす長身の剣風を、飛雪は潜り抜けた。
 判官筆で巧みに木剣の攻めを凌ぎながら、飛雪も小声で解説を始める。
「で、あんたたちの本分は剣術のようだけど、小石をかわした身のこなしには沙拳の影響が見て取れる。今の康天府で沙拳って言ったら、皇帝の懐刀にして宦官の親玉、【三宝太鑑】の異名を持つ鄭嘉が一番有名よね。それと最近聞いた噂で、皇帝が宦官だけを登用する南廠(なんしょう)やら言う密偵機関を組織したなんて話もあって……二つを併せると、あんたらがその一員と考えたっておかしくないでしょ?」
「鼻が利く上に知恵の回る小娘だ」
「で、あんたらの目的は、雑魚チンピラを装って、気を抜いたあたしを襲い、捕えるかどうかすることのようだけど……一介の侠客に皇帝陛下の犬が何の用?」
 香蘭のことを警戒する。だが飛雪との関係を知る者は少ないし、それなら玲蓮も狙われるはずだが、さっき穆書房に寄った時もいつも通りで、今言った噂を教えてくれた。
「知りたくば我らを打ち破ることだな!」
 二人の剣は互いを補い合う。この前戦った譚家の五兄妹と似るが、精妙さではこちらが上か。しかし渡り合ううちに、そこにいくばくかの隙が存在するのを飛雪は見抜いた。
「あんたたち、三人揃って一人前ってわけ? 今の突きと薙ぎ、防ぐかさらに攻め立てるもう一人がいなければ格好の餌食になるわよ?」
「南廠三剣を愚弄するか!」
 長身の男はまだ冷静だったが、小柄な男は侮辱を受けたと感じて顔を朱に染めた。
 前に飛び出して果敢に攻めかかってきたものの、それは相棒との連繋を乱す愚行に他ならない。飛雪は易々と小男の経穴を突く。動きを封じるには到らないが戦闘力は奪えた。
「くそっ! 退くぞ!」
 長身の男が太った男を背負い叫ぶ。小男も身を引き、三人組は軽功で逃げ去った。
「姐さん……もう終わったんですかい?」
「ええ。屋台は壊れちゃったけど……これで新しいのが作れるんじゃないかしら?」
 少し離れたところでまだ震えている飴売りの老人に、飛雪は財布を放り投げた。太った男から抜き取っておいたもので、ずしりと重い。
 しきりに礼を言う相手にいたたまれなくなって、飛雪はその場を去った。連中が屋台を壊したのは、単に飛雪を誘き出すためである。飴売りは飛雪のとばっちりを受けたのだ。
 だが、何のために?
 尾行を警戒していつも以上に軽功の大盤振る舞いをしつつ、飛雪は考える。
 義賊の真似をしていた時の件か? だがそれなら役人が来るのが筋。恨みを買った悪党の家族や友人が仕返しを企んだにせよ、皇帝直属の密偵機関になど助力を頼むわけがない。
「もう誠治をお使いには出せなくなったか。いや、どの道サムライとシノビがいるから無理な相談だったけど」
 誠治が尾行されて、陽ノ本の連中ばかりか宦官どもにまで自分たちの居所を暴かれるのはまずい。これまで以上に康天府への出入りには警戒しなければ。
「この暮らしも潮時だったのかな。なら、玲蓮たちの話は渡りに船だったのかも」
 飛雪は頭をかきながら独りごちた。母の形見の髪飾りが指先に触れた。
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登場人物紹介

宋飛雪

十六歳の少女。黒髪黒瞳が一般的な華の国にあって、金髪碧眼を持つ。かつて華の地を支配していた騎馬民族国家・狄が遠征した際にさらってきた西方人が祖先であるらしい。

侠客の母から武術・陽凰拳を一通り習い修めている。

楠宮誠治

十六歳の少年。諸事情により、陽ノ本から独りで華に渡って来た。

護身術として抜刀術を会得、達人の域に達している。

穆玲蓮

十八歳の少女。百年ほど前に南洋の国から華へ移り住んできた、快教徒の一族の娘。

一家は本屋を営みつつ、江湖の情報を取り扱う裏稼業も営んでいる。

香蘭

十代の少女。華の首都・康天府が前皇帝と現皇帝の争いで荒れ果てた際にふらりと啓教の寺に現れた。

空を見ると、以後の天気を当てる能力を持つ。

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