侠客少女の友人その二――香蘭
文字数 2,627文字
深夜の街を、飛雪は飛ぶように翔ける。
廃墟の目立つ地域を抜けると、今度は貧民街。粗末な建物が身を寄せ合うように建つ片隅に、一つの寺がある。屋根の上には独特な丁字型の飾り。啓教 の寺だ。
啓教は数百年前に西の彼方から伝わって来た宗教だ。「汝の隣人を愛せよ」「啓教の神こそが唯一の神である」などという教義だが、この国では根付かず、信者の数は快教よりもはるかに少ない。この王都においても寺はここ一つきりで住職は年老いた華人が一人だけ。ただ、快教にとっては親戚筋に当たるらしく、玲蓮などは好意的である。
そんな啓教の寺に一人の少女が現れたのは、聞いた話によると今年の初頭。昨年までの前皇帝とその叔父の闘争がようやく終わり、勝利した叔父が新皇帝になった頃だった。
「こころ貧しい人たちは幸いである、天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは幸いである、彼らは慰められるであろう」
「やっぱり起きてたんだ」
寺の屋根裏。窓を開け、夜景を眺めながら書を朗読している少女に飛雪は話しかけた。
「うん」
少女は驚くでもなくこくりと肯く。実際に知り合った二ヶ月ほど前、初めて飛雪が夜空を翔けていく姿を見た時にも、彼女は平然とした表情を崩しはしなかった。
どこからともなく寺の前に現れた少女は、粗末な身なりで頭を粗雑な丸刈りにしていたという。身元不明な彼女を扱いかねた住職が旧知の玲蓮に手助けを求めたことがきっかけで、玲蓮と少女が出会い、その縁で飛雪も関わりを持つようになった。
正確な年齢は定かでないが、背の高さや体つきから判断するに飛雪と同い年くらいか。顔立ちは精巧な人形のよう。伸びてきた髪はまだ少年のような短さでありながら、見間違えようもない美少女ぶりである。胸元には啓教徒の証、丁字 型の首飾りが揺れている。
どこから来たのか、名前は何か、そうしたことは何も語らず、少女は寺に住み込んで、最近では啓教に帰依 して寺のこまごましたことを手伝い始めている。名無しでは困るだろうと、香蘭と名付けたのは住職と玲蓮だ。
香蘭は、不意の来客をもてなすように、竹笛を手にして吹き始める。か細い音色が夜の闇をひそやかに流れ出す。
月の光。笛の音。屋根裏部屋の窓辺でその音色を奏でる儚げな少女。それらはまるで上等な芝居の一場面を見ているような美しさだった。
「明日の天気はどんな具合?」
一曲終わった時に飛雪が声をかけると、香蘭は空を見上げ、少しすると口を開いた。
「昼過ぎまで雨。夕方から晴れ」
どういう力によるものか、香蘭は天気を当てる名人である。飛雪は香蘭が天気を当て損ねる姿を見たことがなかった。便利すぎて、会うたびに訊ねてしまう。
「そう。ありがとね。それじゃまたそのうち、玲蓮と一緒に遊びに来るわ」
簡単に礼を述べて、飛雪はねぐらに帰るべく窓から飛び立つ。ちらと振り返れば、香蘭も軽い調子で手を振るのが見えた。
康天府郊外、太江 をやや遡 った山の中。堅牢な石造りではあるが小さな作りの飛雪の住まい。六年前に一度は去ったその家に、四年前からまた住んでいる。
入り口を入ると土間とかまどがあり、その奥が居間と寝室。全体に装飾が乏しく殺風景だが、寝室の寝台脇に棚が作られて本がぎっしり詰まっている点が珍しいと言えようか。
収穫の詰まった袋を寝台に放り投げ、飛雪は大きく伸びをする。
こぼれる長い髪は蜂蜜色。瞳は冬の空のように澄みきった青。十六歳の今、顔立ちは実によく整っていて、よくある黒髪黒瞳だったとしても道行く者は振り返らずにおかないだろう美しさ。しかし侠客としては自分より弱い男と付き合う気にもなれず、また、四年前からのごたごたが尾を引いていて、交友関係が驚くほど狭いからそもそも出会いがない。
それに、まだ飛雪は色恋沙汰よりも楽しいことがある。
寛 げる部屋着に着替えると、飛雪は寝台に腰かけた。手には先ほど玲蓮にもらった本。
様々なわけあって江湖をさすらう熱く優しい男たちが、激しい戦いの数々に挑む姿が描かれる。飛雪がこの前読んだ巻では、強敵たちを打倒した好漢たち十六人は昨日までの敵を新たな仲間としてついに三十二人の一団となり、次なる戦いへ乗り出そうとしていた。
蝋燭の灯りの下、飛雪は夢中になって本を読む。
物語を読むのは昔から好きだ。現実には簡単に解けない難題も物語の中ではすっぱりと解決し、善は報われ悪はしっかり懲らしめられる。気持ちよくてわかりやすくて面白い。
時間は飛ぶように過ぎ、気づくと窓の向こうでは、雨雲の下、夜が明けかけている。雨がやむまでは寝ることにして、寝台にもぐり込んで毛布をかぶり、身を丸める。
「義賊もおしまい、か」
本で読んだ義賊の物語が気に入って以来続けてきたことだが、世情が落ち着けば官憲による捜査にも本腰が入るはず。譚佳哲が現れなくとも、手を引く頃合いだったのだろう。
「さて、次は何をやろうかしらね」
母の死と四年前の事件以来ずっと孤独に過ごしてきた少女にとって、生きることは常にいくばくかの倦怠 と隣り合わせであった。
――好きなように、思う存分、生きなさい。
母の遺した言葉に従い、好きなように生きてるはずなのに。少し、もどかしい。
ふと思い立って、髪飾りを手に取り、秘密の蓋を開けてみる。
中にあるのは錆びた釘。はるか西、母方の先祖伝来の代物だが、由来ももうよくわからない。
それでも、それらを見ていると、何とはなしに落ち着くものはある。この華の国に根を持たぬ自分にも、過去から連綿と伝わるものはあるのだという安堵感。
雨音を聞き、毛布の暖かさに包まれながら、飛雪はすやすやと眠りに落ちた。
目が覚めると昼下がりだがまだ雨。保存食の団子を食べつつ茶を喫し、本を読み耽る。
のんびり過ごしているうちに雨も上がり、雲の晴れた空は夕焼けの赤に染まっていく。
「まずは街に出て、他の本の続きが出てないか調べて、屋台でおいしいもの食べて……今夜は東坡肉 でも食べようかな」
柔らかくとろける豚肉の味を思い浮かべて微笑みながら、飛雪は家を出る。
「そうだ」
ふと思い立って、川沿いを行くことに決めた。夕間暮 れの太江は、きっと美しい光景を見せてくれることだろう。
廃墟の目立つ地域を抜けると、今度は貧民街。粗末な建物が身を寄せ合うように建つ片隅に、一つの寺がある。屋根の上には独特な丁字型の飾り。
啓教は数百年前に西の彼方から伝わって来た宗教だ。「汝の隣人を愛せよ」「啓教の神こそが唯一の神である」などという教義だが、この国では根付かず、信者の数は快教よりもはるかに少ない。この王都においても寺はここ一つきりで住職は年老いた華人が一人だけ。ただ、快教にとっては親戚筋に当たるらしく、玲蓮などは好意的である。
そんな啓教の寺に一人の少女が現れたのは、聞いた話によると今年の初頭。昨年までの前皇帝とその叔父の闘争がようやく終わり、勝利した叔父が新皇帝になった頃だった。
「こころ貧しい人たちは幸いである、天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは幸いである、彼らは慰められるであろう」
「やっぱり起きてたんだ」
寺の屋根裏。窓を開け、夜景を眺めながら書を朗読している少女に飛雪は話しかけた。
「うん」
少女は驚くでもなくこくりと肯く。実際に知り合った二ヶ月ほど前、初めて飛雪が夜空を翔けていく姿を見た時にも、彼女は平然とした表情を崩しはしなかった。
どこからともなく寺の前に現れた少女は、粗末な身なりで頭を粗雑な丸刈りにしていたという。身元不明な彼女を扱いかねた住職が旧知の玲蓮に手助けを求めたことがきっかけで、玲蓮と少女が出会い、その縁で飛雪も関わりを持つようになった。
正確な年齢は定かでないが、背の高さや体つきから判断するに飛雪と同い年くらいか。顔立ちは精巧な人形のよう。伸びてきた髪はまだ少年のような短さでありながら、見間違えようもない美少女ぶりである。胸元には啓教徒の証、
どこから来たのか、名前は何か、そうしたことは何も語らず、少女は寺に住み込んで、最近では啓教に
香蘭は、不意の来客をもてなすように、竹笛を手にして吹き始める。か細い音色が夜の闇をひそやかに流れ出す。
月の光。笛の音。屋根裏部屋の窓辺でその音色を奏でる儚げな少女。それらはまるで上等な芝居の一場面を見ているような美しさだった。
「明日の天気はどんな具合?」
一曲終わった時に飛雪が声をかけると、香蘭は空を見上げ、少しすると口を開いた。
「昼過ぎまで雨。夕方から晴れ」
どういう力によるものか、香蘭は天気を当てる名人である。飛雪は香蘭が天気を当て損ねる姿を見たことがなかった。便利すぎて、会うたびに訊ねてしまう。
「そう。ありがとね。それじゃまたそのうち、玲蓮と一緒に遊びに来るわ」
簡単に礼を述べて、飛雪はねぐらに帰るべく窓から飛び立つ。ちらと振り返れば、香蘭も軽い調子で手を振るのが見えた。
康天府郊外、
入り口を入ると土間とかまどがあり、その奥が居間と寝室。全体に装飾が乏しく殺風景だが、寝室の寝台脇に棚が作られて本がぎっしり詰まっている点が珍しいと言えようか。
収穫の詰まった袋を寝台に放り投げ、飛雪は大きく伸びをする。
こぼれる長い髪は蜂蜜色。瞳は冬の空のように澄みきった青。十六歳の今、顔立ちは実によく整っていて、よくある黒髪黒瞳だったとしても道行く者は振り返らずにおかないだろう美しさ。しかし侠客としては自分より弱い男と付き合う気にもなれず、また、四年前からのごたごたが尾を引いていて、交友関係が驚くほど狭いからそもそも出会いがない。
それに、まだ飛雪は色恋沙汰よりも楽しいことがある。
様々なわけあって江湖をさすらう熱く優しい男たちが、激しい戦いの数々に挑む姿が描かれる。飛雪がこの前読んだ巻では、強敵たちを打倒した好漢たち十六人は昨日までの敵を新たな仲間としてついに三十二人の一団となり、次なる戦いへ乗り出そうとしていた。
蝋燭の灯りの下、飛雪は夢中になって本を読む。
物語を読むのは昔から好きだ。現実には簡単に解けない難題も物語の中ではすっぱりと解決し、善は報われ悪はしっかり懲らしめられる。気持ちよくてわかりやすくて面白い。
時間は飛ぶように過ぎ、気づくと窓の向こうでは、雨雲の下、夜が明けかけている。雨がやむまでは寝ることにして、寝台にもぐり込んで毛布をかぶり、身を丸める。
「義賊もおしまい、か」
本で読んだ義賊の物語が気に入って以来続けてきたことだが、世情が落ち着けば官憲による捜査にも本腰が入るはず。譚佳哲が現れなくとも、手を引く頃合いだったのだろう。
「さて、次は何をやろうかしらね」
母の死と四年前の事件以来ずっと孤独に過ごしてきた少女にとって、生きることは常にいくばくかの
――好きなように、思う存分、生きなさい。
母の遺した言葉に従い、好きなように生きてるはずなのに。少し、もどかしい。
ふと思い立って、髪飾りを手に取り、秘密の蓋を開けてみる。
中にあるのは錆びた釘。はるか西、母方の先祖伝来の代物だが、由来ももうよくわからない。
それでも、それらを見ていると、何とはなしに落ち着くものはある。この華の国に根を持たぬ自分にも、過去から連綿と伝わるものはあるのだという安堵感。
雨音を聞き、毛布の暖かさに包まれながら、飛雪はすやすやと眠りに落ちた。
目が覚めると昼下がりだがまだ雨。保存食の団子を食べつつ茶を喫し、本を読み耽る。
のんびり過ごしているうちに雨も上がり、雲の晴れた空は夕焼けの赤に染まっていく。
「まずは街に出て、他の本の続きが出てないか調べて、屋台でおいしいもの食べて……今夜は
柔らかくとろける豚肉の味を思い浮かべて微笑みながら、飛雪は家を出る。
「そうだ」
ふと思い立って、川沿いを行くことに決めた。