8月31日 夕

文字数 8,652文字

 LINEの通知音で意識が明確となり、眠っていた事を自覚すると、体が独りでに飛び上がった。嫌な予想をしながらスマホを見ると、時刻はもう間もなく18時を示そうとしている。案の定、嫌な予想などではなかった事を知ると、さっきまでの眠気が嘘のように目が覚めた。
 その事象を咀嚼すればする程、睡眠という横着のせいで長い時間を無駄にした事実が露呈して、体の奥底から耐え難い怒りが湧きたってくる。睡眠という、どうしようもなく当たり前で本能的な欲求にここまで苛立った事はない。というか、睡眠という行為が本能的な欲求である人間の構造が憎たらしいとさえ思う。
 せめてアラームを設定してからニュースに耽っていれば、早めに起床できていたかもしれなかった。ベッドに横にならなければ、無駄に過ごしてしまった時間内で答えが見つかっていたかもしれなかった。こんな風にタラレバを連ねても残念ながら時間は戻る術を知らないから、目の前に広がる現実が、アラームを設定してからニュースを読むという現実に変わることはないし、というか戻る術を知っているのであれば、夏希が罪悪感に苛まれる前に戻るわけで、全てが丸く収まるのだ。……しょーもない。こんな思考をしたところで何にもならない。ただでさえも時間を無駄にしたのに、追加で時間を浪費するだなんて、馬鹿のする事だ。とにかく、早く善と悪の定義に、解釈に、夏希の行為の必然性に、答えを導かないと。
 だのに、思考を巡らせていたと思っていた机上は散らばっているだけで、ノートも考えを纏めていた気持ちでいたけど、全くと言っていい程に進展はしていなかったし、この時間まで本当に何をしていたのだろうかと、自分が愚かしくて仕方がない。
 とはいえ、答えを見つけるためには机上で散らばっている物に引き続き頼らざるを得ないと思うのだが、直ぐに行き詰ってはやっぱり、邪念が入る。
 都度、時間がないと焦る気持ちを堪え、眠っていたせいだと憤る気持ちを抑え、だけどアラームをかけていればとの後悔はどうやっても押し殺す事ができなかった。その悔みが想像以上に胸に残っているらしく、気が付けば妬ましいようにスマホを見ている始末だ。この、僕のへまで役割をこなす事なく充電だけを全うしたスマホ。おかげで、活動力がみなぎっているスマホ。このスマホのように、充電で活動力が最大になるみたいに、睡眠で体調や思考力が万全になればいいのだが、僕はせいぜい3割程度しか充電できていない。睡眠なんてそんなものだ。今となっては、ただの横着だ。だからこそ、この筐体が羨ましいと思った。だって、充電だけで動力を得られるのはもちろん、人工知能を搭載している。人工知能は人間とは違って、絶えず学習をするらしく、であれば、僕のように憤る事も焦る事もなく、ただ寡黙に答えを追って前進できるのだ。そんなの羨まし過ぎて、僕の――人間の作りに憤った。
 ……そういえば、LINEが来ていたっけ。それも、2件も来ているだなんて珍しい事もあるものだ。とはいえ、珍しさに胸を弾ませている事などせず、端的に既読をつけるだけだ。そのはずだったのだが、相手が夏希である事を知ると、今さっきまでの憤りに変わって、疑問と高揚が募ってしまった。もしかしたら、憤りと高鳴りはどこか重なる部分があるのかもしれない。
 内容を予想しながら、恐る恐るLINEを開くと、一つ目は16時に「久し振り」と来ていた。そして今鳴ったのは、「いま時間ある?」なんていう、蠱惑的なものだった。
 正直迷った。時間があると嘘をつけば、確実に善と悪について答えを出す時間がなくなるからだ。とはいえ、時間がないと告げたとしてもこれまで通り答えを導く事ができなかったとしたら、それこそ時間の無駄で、なによりもこの機会を踏み倒せば、夏希との思いでは一週間前の会話が消滅した瞬間で止まってしまう。その時間は、次いつ動き出すかも分からないのだ。それは辛かった。本当は答えを導いて夏希と共に過ごす事のできる時間を確保できればいいのだけど、答えを用意できる確証は、惨めな事に僕は持ち合わせていない。
 既読をつけてから、2,3分が経っただろうか。数分間の葛藤もむなしく、結局は時間があるような返信をした。それも18時30分までだったらとか、15分だけだったらなんていう条件なんてこれっぽっちもつけずに、暇を装った。所詮人間は、目先の誘惑に負けてしまう事が多いのだろう。そう思わなければ、自分の言動の不一致が浅ましすぎて耐えられなかった。
 会話は、初対面のように遠い点と点のようなものから始まった。正直、交わすだけ時間の無駄ような会話が続くのであれば、暇を装っておいでなんだけど、早々に会話を断ち切って、これから先にあったはずの夏希とのありふれた会話を現実的にするためにこの惨めな思考を振るった方が有意義になるはずだ。
 それでも宵宮に一緒に遊びにいった仲だから、徐々にあの頃のように近しく、線のような掛け合いなり、それに没頭してしまう。その没入が不便であると知ったのは、話題が軽快なものからさっきのニュースに遷移した時だった。
『あのさ、ニュース見た?』
 嫌な推測が過り、話題がこうなるのであれば、点と点のような状態でいた方が良かったとすら思える。
『なんの?』
『死体遺棄』
 案じていた邪推が事実染みてきて、胸の内側が半鐘以上に騒がしく鳴りだした。ここで会話を止めようとさえ思った。返信しないで、なんだったらブロックすらして、継ぐであろう言葉を聞かないようにしてしまいたいと思った。
 でも夏希は、僕の決断よりも早く、言葉を継いでしまった。
『犯人は多分、私』
 苦しい。強烈な眩暈で視界が暗闇に変わったように苦しくて、鋭利な刃物を突き立てられたように痛い。
 どう返信したらいいのだろう。あるいは、返信なんてしない方がいいのだろうか。いやしかし、既読をつけてしまったのだから、返信しないというのは、話題が話題だけに気が引けた。とはいえ返信するにしても、都合のいい言葉が見つからない。
 そうこうしている間にも、スマホの時計は進むのだ。時間が経過すれば、夏希を引き留める考えを捜索する時間が減り、また、返信しない事によって夏希の不信を煽って、さっきのような刺々しい言葉が迫るのだ。だから早く、僕の方から言葉を挟みたかった。
『なんで?』
 咄嗟に送ったのは、気も利いていなければ都合もよくなく、ただ話題を掘り下げるだけの言葉だった。やはり、有無を言わさず会話が進んでしまう。しまったと思う時には既に、どうしようもないくらいに、夏希が犯人と言わんばかりの供述が始まっていた。
 それによれば、夏希が紛れもない犯人だった。殺害場所や遺棄したおおよその場所、経過時間についてのどれを切り取っても、犯人らしさが目を引く。とはいえ、結局は夏希が自分の行動とニュースを照らし合わせて事実めかしているだけだけど、それでも否定できなかったし、受け入れたくはないのに辻褄が合っているような気もしたし、まるで観念した犯罪者の供述のような独り言染みたLINEを、息苦しくなりながら既読をつける事しかできなかった。
 やがて夏希は、自分が犯人だともう一度言った。それに対して、悩んだ末に「まだ分らない」としか返信ができなかった。僕の返信に間髪入れずに既読がついて、だけどそれに対する反論や同意の返信はまるで送られてこない。
 勝手に、これまで以上の罪悪感に苛まれている夏希を想像した。やつれた顔つきでLINEしている姿を想像した。もしかしたら改めて罪の意識に掻き立てられて、涙を流している事だって考えられた。想像が想像を呼んでは、胸が一入騒ぎ始めて忌々しい。
『今から神社に来れる? 宵宮に行った神社』
 こんなにも胸が騒いでしまっては、行かないという選択はできそうになかった。



 蜩の声が、体内で響く。体中を揺するように、内側で振幅が大きくなる。胸の高鳴りを煽るような起伏のある声は、今日に限って酷く侘し気に聞こえた。
 それはきっと、蜩の声が侘しいのではなく、単に僕の内情が荒れているからだ。基本的に蜩の鳴き声は周波数的に心地のよいもので、だからこそ、侘しいという感情は僕だけが勝手に作りだした、いわば見せかけの感情なのである。……いや、夏希も抱いているかもしれない。であれば、この侘しいという感情は、他の出来事によって傷ついた、あるいは逃げ出したいとか、まあなんでもいいんだけど、とにかく数多の悲劇のヒロイン的な解釈による付加価値的な感情なのかもしれなかった。だから、本来小気味いいはずの声色に侘しいとか、場合によっては恐怖とか、お門違いのような感情を育てるのだろう。やっぱり人間というのは、成長過程で目先のものに心を動かされる技を覚えてしまうらしかった。
 それを衝動と呼ぶのであれば格好がつくかもしれないが、実際は意志の薄弱性でしかなく、その意志の薄弱性を育む集団意識や日和見主義的な生き方は現代病と呼べるのかもしれない。
 ……そういえば、待ち合わせ場所って明記してたっけ。思い出せないという事はおそらく曖昧で、LINEを確認すると案の定場所しか明記がなく地点については触れていなかったため、「御社近くのベンチにいる」と送った。どうせだったら、宵宮と同じ場所で話したかったからだ。本来であれば、入り口付近で話して、早々に帰って、考えを纏める時間を作るのが最適と言えると思うのだけど、残念な事に僕は現代っ子だから、その場の感情に負けてしまったのだ。
 宵宮の時と同じようにベンチに腰を下ろしてみると、景色はまるで違って見えた。宵宮の時は幻想的な魅力があったけど、まだまだ太陽が張り切る夏休み最終日では綺麗な夕焼けになる時刻はもう少し先らしく、中途半端な空模様に照らされる僕しかいない姿はそこはかとなく気味が悪い。まさに不穏という言葉が合致してしまいそうな佇まいだった。まだ気温が高いからいいものの、これで涼しかったらと思うと、ありあまる雰囲気に背すじが冷えた。
 とはいえ不穏そうな空間に変わることはなく、そんな空間では前向きな思考よりも後ろ向きの思考が多くなる。例えば、もう善と悪について答えが出ないんじゃないのかとか、今こうやって夏希と会う約束をしている時点で答えを導く事を放棄して、夏希と共に二学期という当たり前を過ごす日々を諦めた事になるんじゃないだろうかとか、そういった思考だ。
 実際に俯瞰してみれば、この行動は諦めた先にある行動であるような気がしてならないけど、そうだとは思っていないし、帰ったら考えるつもりだし、もしかしたら滑り込みで答えが出るかもしれないし、とにかくまだ諦めてはいないつもりだ。しかし頭の片隅には、約1ヶ月間、毎日のように思考を巡らせたくせして状況が状況だから、望み薄と言っても過言ではないんだろうなと思っている自分がいるのも確かで、まるでメロスのように揺らいでいる。ただメロスには明確な動機と明確なゴールがあるわけで、それらのお蔭で、生じた揺らぎに勝てたのだとしたら、はたして僕はどうなるのだろう。
 夏休み最終日には似合わない残暑のせいか、額から汗が流れた。あるいは、恐ろしい想像のせいかもしれない。
「よっ、久し振りだね」
 いつの間にか下がっていた視線を上げると、夏希が立っていた。
 座りざまに、宵宮の時には高い位置で纏めていた髪の毛が肩のラインで舞って、そんな当たり前の姿を見るのは今日が最後かもしれないと思うと、可及的速やかに答えが見つかる事を欲した。
「LINEしたとき寝てたでしょ?」
「まあ」
「てか、人と会うんだから少しくらいお洒落して来いし」
「うるさ」
 やたらと元気な夏希だが、おそらくただの空元気である事を、眼の下の隈が証明していた。きっと、罪悪感からか、十分な睡眠を取れていないんだ。周囲が当たり前だと定めているものによって、夏希は咎められているのだろうから、息苦しいんだ。せめて僕が答えを持っていれば、いくらかは夏希の気持ちが楽になったのかもだけど、答えを見つけられていないどころか、答えを必要としている時間の終わりが近づいてきている。今となっては、夏希の出頭を見届ける可能性の方が高かった。
「あのさ、今こうやって会ったらさ、その……」
「なにさ、早く言ってよ」
「なんていうか、未練っていうのかな。出頭したくなくならないの?」
 出頭が近づいていると思うと、つい変に鎌をかけていた。このまま夏希の行為への視点が見直されないまま出頭という悪を認めなければならない行動を起こす姿を想像するとやるせない。だから、未練が残って欲しかった。いや増して欲しかった。出頭したくない旨を夏希の声で聞きたかった。答えを持っていなくても、夏希がそう思ってくれれば、理論なんてお構いなしに説得して、丸め込んで、引き留めることができそうじゃないか。それができるのであれば、僕はそれを望みたい。
「未練が増えるのは明確だけど、このまま別れた方が絶対後悔すると思って。だから、そういった観点で言えば、最小限の未練なのかな。よくわからないけど」
「……さほど未練はないってこと?」
「でも、時間が止まればいいのにって思うし、あとは、もしこんな風に静かで2人しかいないような世界だったら、私はあんな行動をすることもなかったんだよなっても思うんだから、結局は未練タラタラなのかもね」
「じゃあ――」
 夏希は哀しそうに首を横に振った。そして直ぐに笑って見せた。でも、その作り笑いがあまりにも苦し気で、直視する事を戸惑ってしまいそうになる。
「あのニュースで私の罪が公になったかもしれないって思った瞬間に、息苦しさが増したんだ。それはもう、潰されてしまいそうなくらい」
「いやでも、あの報道は夏希が関係しているものじゃないかもしれないよね」
「ううん。たぶん私。さっきLINEで話した通り、色々と当てはまるから」
 確かに当てはまり方は異常なまでだった。とはいえ確証できたものではないため、夏希が関係しているものではないと一応は考えられるけど、しかし夏希が関係しているものではないと言い切れる証拠がないのも事実だから、かける言葉が見つからない。
「と、ダメだね。こんな話をしてちゃ二学期を迎えたくなってきちゃうよ」
「……出頭しなきゃいいんじゃない」
「それはしんどいよ」
 しんどいのは、こっちだってそうだ。そう言わんばかりに口が忙しく動いていた。
「ニュースは粗雑なものだったしあの感じじゃ身元が判明する事はなさそうな雰囲気で、なによりも今までだって普通に生活できてきたんだからきっと――」
「ありがと。でも、私は罪人だから」
 しんどさか、怒りか、両方かもしれないし、はたまたその他かは分らないけど、僕の中で何かが破裂した。
「どうして悪人をやっつけたのに夏希が罪人なんだよ! 意味わかんねえよ……!」
 ずっと考えていた。善と悪について、夏希の正当性について、これまでの通説に抜本的な見直しをしようと思わざるを得ない理屈を探していた。それも、あの日以来毎日だ。
 悪人の悪事を防ぐために起こした行動が、なぜ善とは言えないのか。悪人がいなくなるのは結果的には善なはずなのに、どうしてその一見悪に見える賢い行為を善と呼べないのか。
 だけど、どれだけ考えても答えなんて見つからないし、第一、僕1人だけが考えていたようでは答えを導けたとしても世の中の風潮は変わることはない。仮に僕が、拡声器なんかを用いて持論を展開したとして、集団意識だ、日和見主義的だなどと罵っても、それを当たり前と思っている奴等にはこれっぽっちもダメージなんて与えられっこないのだ。そんな風に善と悪についても当たり前という厭わしさ越しでしか捉える事ができないから、そんな人たちに僕が善と悪の定義や解釈を提唱できたとて無意味だ。どうせ僕が爪弾きに会うだろう。……きっと、今胸の中に溢れて止まない念は、僕がはじめから抱いていて、それでいて隠していた感情なんだ。はじめから僕は勝ち目がないと思っていたのだ。多勢に無勢という言葉があるくらいだから、勝てっこない。
 所詮、力のない者が反逆を企てたところで、こうなるのだ。無力さを痛感するだけなのだ。だけど僕が、これからも今まで通り善と悪について耽るのであれば、夏希のためではなくて、習慣化しているからなのだろう。当たり前に苦言を呈するくせして当たり前なんていう価値観に踊らされる僕は、なんと愚かしいものか。それに気づくと、破裂した感情が嘘のように凪た。いや萎えたの間違いか。
「……ごめん。大きな声出して」
「ううん、大丈夫」
「……ごめん」
「だから大丈夫だって」
 夏希は何でもないように笑い飛ばしたが、僕の気持ちは軽くなる事はなかった。それどころか、むしろ燻るのだ。そのせいで何を話していいか、どう切り出していいかわからなくて、宵宮を貸し切っているかのような静かな時間が流れる。それが小気味の良いものだと思っていたのは理想上だけで、目の前にすると孤独に近かった。
「そういえば、考えててくれた?」
「え?」
「夏が終わる確率が100パーセントであるとき、夏が始まる確率」
 考えてはいなかったが、それ以上に難解な問題に触れていたお蔭で脳の回転が増したのか、瞬発的に口が動く。
「夏が始まる確率は100パーセントだよ。変わらない。だからこそ、夏希と共に過ごす夏が始まる事を願う」
「ここにきてそんな模範解答みたいな事言わないでよ。出頭したくなくなるじゃん」
「それでいいじゃん」
「ダメだよ。……ダメだよってか、ダメなんだ。もちろんこれまで通りの生活を送りたいけど、勝手に猜疑的になっちゃって、見られてる感じがするんだよ」
 その、おずおずとした声が苛立った。むろん、夏希をそこまで追い詰めている、善と悪の定義を見直そうともしない人間にだ。でも僕は、ただ独りでに憤る事しかできない。それにもまた、腹が立った。
「犯罪者に向けるような鋭い視線や空気感が刺さるの。皆、私の事を見てないのにね」
「それが夏希を出頭に駆り立てる理由?」
「そうだね。それに、私の行動が善行だったと証明できる答えは見つかってないんでしょ?」
 言葉が出なかった。その通り、僕は答えを持っていないからだ。答えを持っていないのに出頭するなと言う姿は、お金がないのに不足分を賄う事なく勘定を強要しているのと大差ない事に気が付いて、それはあまりにも醜くて、継ぐ言葉が見つからない。
「ともあれ、最後に話せてよかったよ」
「……うん」
「よし。それじゃあ、未練がこれ以上増えるのはさすがに辛いから、簡単に、清々しくさよならしよっか」
 きっとそれが正しかった。夏希にとって一番良い選択だと思う。だのに、僕はその背中を押すどころか逆方向に引っ張りたいとすら思う。だけど、夏希が頑張って導いた答えを否定して余計に表情を曇らせたくないから夏希を尊重したいとも思うし、そもそも答えを持っていない僕には止める権利すらないと今更になって痛感する。感情がぶつかり合って、引き留めたい思いや夏希の意見を尊重する思いが口を伝おうとしては飲み込んでいた。
「あ、私を追いかけて来たら駄目だからね。追いかけられると、それこそ未練に呑まれそうだから」
「……わかったよ」
「えっと……ばいばいとか、じゃあねだと、どこか暗い印象を受けるから」
 ふと、夏希が立ち上がった。僕は追いかけたいという願望をやはり持っているようで、まるで追いかける準備をするように腰が上がる。
「――またね!」
 未練という感情が顔を覗かせるのを隠すみたいに踵を返した夏希は、気忙しく背中を小さくしていく。その背中を反射的に追いかけてしまいそうだったけど、寸前の所でなんとか踏み止まった。
 それは、振り向きざまに涙が散ったからだ。――いや、日差しはじりじりと照りつけているから汗という可能性は捨てきれないけど、そんな事はどうでもよくて、とにかくそれが悲しかった。悲しくて、辛くて、何かが掻き立てられた。それは、紛れもなく、善と悪の定義や解釈に対しての答えを見つけなければという義務感だ。この先僕が相も変わらず新しい善と悪の解釈を求めて耽るのであれば、それは当たり前という習慣的な行動だと思っていたけど、たった今覆った。
 僕のこの義務感は、恋心によるものだ。僕にとっての大切な人の苦しみは、世の中にとってのどうでもいい事である姿勢への不平不満によるものだ。
 つまり僕は、蔓延る当たり前という刷り込みを打ちひしがなければならない。善と悪に対して振りかざす当たり前を撤廃して、善と悪を是正しなければならない。
 だから僕は耽るのだ。夏希が学生らしく買い物したり、受験したり、一人の人間として視線を気に留めることなく堂々と生活を送れるような世界を求めて耽るのだ。それらの答えを見つけた先に、夏希を引き留める、または引き寄せる権利を得られるから耽るのだ。
 この状態で耽る事が習慣的なものであったり、あるいは止めてしまったりしたら、あの涙はやるせないだろう。
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