8月31日 朝

文字数 4,172文字

 5時半に設定していたアラームが鳴り、脳からの動きたくないという命令に逆らって無理やりにでも体を起こしたのは、今日が夏休みの最終日だからだった。
 別に宿題に追われているから早起きしたなんて事はなく、進学希望だからと自主勉に精を出すわけでもなく、単純に今日という24時間を少しでも長いと錯覚するために睡眠時間を削ったのだ。本当は貫徹すれば24時間の長さを痛感できるんだろうけど、そうすれば思考回路が正常には働かないだろうから止めた。
 思考回路を尊重したい理由は、夏希の行為を善行だと認めさせるために知恵を振り絞るためだ。知らぬ間に猶予期間の最終日になっていたものの、未だに答えを導く事はできていない。だから、卓越した思考回路を欲していた。とはいえ、就寝は午前2時を過ぎた頃だったから、貫徹と大差はないのかもしれないと思う。
 だからこそ、しっかりとした食事や水分補給、カフェインを摂取して脳を働かせなければと思う。が、残念な事に起床間もなくは食欲がなく、その状態で無理やり少量でも食べるのは登校する時の習慣であって夏休み中にそんな事をして夏休みが終わってしまったと勘違いしたくはないし、かと言って空っぽの胃にコーヒーを入れれば胃の不快感に襲われ、思考どころではなくなってしまう。とはいえ喉は潤いを求めてくるため、水分を求めて台所へと向かうのが今年の夏休みの習慣だった。
 すると決まって両親から「早起きなんて珍しい」と、おはようより先に皮肉交じりの言葉が飛んでくるから、それとなく相槌を返しつつ、枕元に天然水でも備えておけばよかったと巡らせながらコップ一杯の水を流し込む。こんな風に10秒足らずで1日に必要な栄養素を体内に摂り入れる事ができれば、幾分か1日の時間を長く感じる事ができるのかもしれない。
 しかしながらそんな近未来的な願望が具現化している事はなく、むしろ母親が、僕の分のこぢんまりした一汁二菜を用意しようとしていたため、後で食べるとだけ告げて足早に部屋に戻った。
 今朝は寝落ちでもしていたのか、枕の下にスマホを見つけて救出すると、その充電が尽きそうな筐体は、まもなく5時47分を示そうとしている。
 充電がてらに、LINEを見た。当たり前だけど夏希との会話に進展はなく、1週間前で止まっている。決して不仲になったなんて事は自他ともにないはずだけど、いやむしろ、会話は平然と親し気にこなせるはずだけど、次第に何を話していいかわかりにくくなって、LINEが音を立てる事はなくなった。
 夏希との会話をスクロールしている間にも、猶予期間の終わりが詰め寄ってくる。そのせわしい時間の進みを見るとスマホに釘付けになっている様や呼吸ですら時間を無駄にした感じがして、慌てて机に向き直った。
 ここ数日は、こんな感じだった。早起きしては夏希の行為を善行だと証明できそうな思考や理論を模索している。とはいえ証明できそうな求めている答えが出ることはなく、ここ1週間は慌ててペースアップしてみたものの、目ぼしい進展があるわけでもなしに、むしろ善と悪についての謎が深まるばかりだった。
 だって、夏希の行動は、根っからの悪だと言い切れる事は決してなく、むしろ善にも見える行動だったと言えるだろうし、けれどそれを純粋な善と言えるかと考えれば、勢いよく首肯する事もまた難しいのだ。……と、まるで結論のような堂々巡りばかりが頭の中を支配しようとし始めると、結論を導くどころではなくなり、考えるという時間の使い方が酷く無駄に感じられる。
 それにしても時間の進みは、本当に容赦がない。少し思考に耽るだけで、スマホの数字がみるみる変わっていく。
 もし、現実に、時間の進みを遅らせる事ができたとして、今僕らに平等に流れているはずの1秒が、例えば10秒に感じられるようになれば――いや、感じるだけでは駄目で、実際に1秒が10秒になってくれれば、1日の時間は24時間という名称は変わらなかったとしても、時間では10倍となり、240時間と飛躍的な向上となる。これは、当たり前に過ごす10日と同等で、1ヶ月あれば、約1年に等しい。1ヶ月と1年では、天と地ほどの時間の差があり、思考に費やすことができる時間の量の差でもあり、今日中に結論を出さねばならない事実が、10日の余裕があるという現実になって、今の僕にとってはとてつもなく都合が良かった。
 とはいえそれらは現実的ではないため、実際に時間を長くする方法は嫌いな授業のような、物凄く嫌な事に向き合えば時間を長く感じるという錯覚だけだった。
 錯覚な以上、感覚的には時間の進みに差異が生じたとしても、実際に24時間が240時間になるとか、1秒が10秒になるとか、そういった事は起こるはずもない。つまり、自首までの時間を稼ぐ事などできるわけもなく、タイムリミットは風のように目に見えないまま過ぎ去っていくのだ。
 こんな事を思うのは、もしかしたら結論が出ない事に対しての諦めなのではと案じ、だけど諦めるだなんてあり得ないと内面で怒り、奮い立たせてみたものの、頭を悩ませる主題を深層まで掘り下げようとしてもまだ脳は眠っているのか、どこに着目すべきかを把握できなくて、中々掘り進めずにいた。
 停滞しているのは、栄養分を摂取していないからかもしれないという邪念が急浮上したとて、残念な事にお腹には謎の満腹感があるために、もう少しだけ手探りを続けなければならない。
 時刻は6時を回った。こんなにも中身のない時間を過ごしているのにもかかわらず、時間の進みは通常通り容赦がない。今のところの救いは、耐え難い睡気はなく瞼の重さが微弱である点くらいのものだろう。とはいえ、今日の睡眠時間を考えれば、それも時間の問題か。



 やたらと注意力が散漫となり、それが空腹によって引き起こされている事を自覚したのは、10時30分を回った頃だった。
 ここまでくると、もはや朝食なのか昼食なのか、はたまた間食なのか曖昧だが、そんなものはどうでもよく、空腹を満たしたいという理性ではどうしようもできない本能的な欲求が、大きな壁となって邪魔をしてくる。
 ただでさえも答えを導くことができていない僕が空腹を放置してけば、益々壁は高く大きくなり、探っている答えは遠ざかってしまうだろう。
 満腹中枢をコントロールできれば、空腹という原因によって集中力が欠如する事はなくなり、幾分か時間を有効活用できるのかもしれない。と、巡らせながらも、僕は食事の中にいた。
 咀嚼しながら、食事という名のエネルギー補填をしている自分を俯瞰視して、スマホと同様に充電する時間がなければ満足に活動できない事を知った。じゃあスマホみたいに睡眠中に充電できるかと、エネルギーを補填できるかと問われれば答えは、「そんなことはない」が正解で、睡眠では栄養素を作りだす事はできず、肉体的疲労が取れるだけだった。
 そう考えると、睡眠なんて時間の無駄であるように思えてくるし、わざわざ食事という行為を介さなければ栄養素と巡り合わない姿が、2度手間に感じた。スマホのように充電という一つの行動でエネルギーを得る事ができればいいのだが、惜しむらくそれはできないから、やっぱり2度手間でしかなかった。とはいえ、眠らなければ身体機能は著しく低下するし、食事を摂らなければ生命維持に係わってくるし、なによりもそれらは人間の本能的な欲求であり、ある種の快楽でさえあるというのが人間の構造で現実だった。
 こんな風にこねくり回していると、食事に味なんてなく、多様な形をとった何かを飲み込んでいるのと同等に思えてくる。だったら同じ無味である水の方が効率的だから水でいいやと思うけど、料理というその固形がしっかりと胃に貯まり栄養素に分解され、お蔭で脳が働くとイメージすれば、なんとなく味がする気がして、料理が好ましくなる。 
 それでも味わう時間でさえもったいなく感じ、乱雑に胃に詰め込んで部屋に引き返す事にした。
 早く答えを見つけなければ。善と悪について、正当防衛以上にもっともらしい善の定義――当たり前で、良い行動をしたという解釈ができる程の定義だ。そうすれば、当たり前の行動をした夏希はあんな風に罪悪感に苛まれる事もなく、罪悪感に苛まれる事がなければ自首しようと思い立つ事もなく、夏希と共に夏の終わりを、始まりを目撃できるのだから。
 ……というか、というかというより改めて、どうして夏希が悪という立ち位置にいるんだろう。そんなのまるで、社会的に非道を尽くした悪人に慈悲を与えているみたいじゃないか。どうしようもない悪人の死ですら悲しいと言っているみたいじゃないか。悪人が生きているのが善みたいじゃないか。そのくせ、トロッコ問題では少ない犠牲で多数を救うという選択をする人が多いのだ。実際目の前にトロッコ問題のような現実が広がると、夏希の行動のように少ない犠牲で多数を救う事になる事実ですら法的に裁くくせにだ。もし、少ない犠牲で多数を救う選択をするのが一般的なのであれば、自首は無効化どころか、当たり前の行動をした正義ですらあるはずだろう。
 以前夏希が、問題と公式は前提によって景色が変わると言っていたけど、善悪の境目とトロッコ問題には前提の差なんて見受けられないのだから、社会的に夏希の行動が当たり前の選択で善行だと認められるべきだった。が、残念な事に別物のように扱われて一蹴されるのだ。
 善と悪なんていう、曖昧極まりないものについて考えれば考える程、憤ってくる。人間の矛盾染みた思考や大雑把な定義に気付くと腹立たしくなってくる。とはいえ、形のない物に苛立ってもどうしようもなく、ましてや今日が締切日なため、怒りという感情を育てるだけ時間の無駄だった。でも、その無意味な怒りは思考の間を縫うように近づいてくる。都度、深呼吸をするものの、怒りの根源がなくならない以上、取り払う事はできないのだろう。
 机に向き直り、教科書や辞書、考えを纏めているノートとか、とにかく、なしかしらのヒントや答えを見つけられそうな物を広げた。広げただけでまるで進展のない景色に、嫌な焦りが芽を出した。
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