9月1日 朝

文字数 4,329文字

 眠っていた自覚はまるでないものの、それでも確かに眠っていたらしく、眼を開けた時にはもう太陽が顔を覗かせてから幾何か時間が経過していたようで、カーテン越しの陽射しが強かった。
 はっとした。今日は9月1日なのだ。暦上や時計上だけでなく、僕の感覚的にも9月1日になったのだ。もうどんな言い訳も屁理屈も通用する事はなく、9月1日である事実を避けようがなくなったのだ。
 時間の流れという当たり前が、睡眠という当たり前がどこかやるせなくて、憤り以上にやるせなくて、その情を舌打ちで代弁しながらスマホを手繰り寄せると、スマホの時計も正常通り働いており時刻は7時を回っている。今まで5時30分頃に起床する事が多かったため、物凄く寝過ごした感覚に襲われた。……いや、寝過ごしているじゃないか。今日から二学期なのだから、既に身支度をしていなければいけない時刻だ。
 飛び起きてリビングへ向かうと、両親から「遅刻するぞ」と投げやりな忠告が飛んでくる。冗談めかして返事をしようと思ったが、ふと、どうして脊椎反射並みに慌ててまでリビングに向かったのだろうかという疑問が、それを塗り潰した。慌てていたという事は、進学に影響がでるからと、遅刻を恐れていたのだろうか。いやそもそも、夏希のいない学校に行くつもりだったのだろうか。登校するより自宅で考えに耽っていた方が有意義なはずなのに、わざわざ登校して授業という時間に思考する時間を奪わせてしまうつもりだったのだろうか。
 自分の行動を疑問視しながら、出所の分らない満腹感に逆らって朝食を摂ると、人間の作りはとても都合が良くて、その行為が登校する日の朝の習慣だとニューロンが勘違いしたらしく、自我を取り戻した時には既に制服に身を包んでいた。じゃあ変化をつけて、コップ一杯の水だけで済ませていればそうならなかったかと考えれば、そうではない。今頃きっと、鞄に筆箱とかクリアファイルとかを押し込んでいる。
 きっとそれは僕にとって、季節が変わるのと同じくらい、当たり前の事だからだった。夏休みが終われば学校に行くという義務教育で刷り込まれた当たり前。満腹感の中、無理やり食べ物を胃の中に入れた事によって歯車が回り始めるという、古典的な刷り込み。
 例えば僕が不登校で、登校が当たり前だと思わなければ習慣を過ごしても登校拒否できるんだろうけど、あるいは変化をつけても登校拒否ができるんだろうけど、残念な事に僕はそうではなく、むしろ進学希望だから、登校は呼吸を繰り返すくらいには当たり前だと思っていた。
 ……一緒だ。善と悪と一緒だ。目に見えるものではないけれど、当たり前のようにそれらは蔓延っているのだ。暗黙の了解のように悪事と悪人は等符号で結ばれていて、特に殺人は断固として許してはいけない行為と刷り込まれているのだ。それと同じように僕にも当たり前が刷り込まれているわけで、結局人間は当たり前越しに生きているのだろう。でも少しばかり深く考えてみれば、僕の当たり前と善と悪に対する当たり前は質がかけ離れているような気がして、どうしても善と悪に対しての当たり前というフィルターには納得ができなかった。だってやっぱり、悪人を野放しにしている方が、よっぽど絶対悪に見えると僕は思うし、悪人から親しい人を護るために悪を振るうのであれば正当防衛という言葉では推し量れないほど正当な行為なような気がする。とはいえ僕はその辺の法律に詳しくはないから、夏希の正当防衛は正当防衛とは言いにくい可能性だってあって、平然と罰せられる事だって考えられた。
 つまり悪は、善のように扱ってそれが本当に善になったのだとしても、結局は悪の枠組みを抜け出す事はできないのだろう。できないというか、させてもらえないの方が的確かもしれない。だってそれは、社会の風潮的にそういうものだと定められているからだ。夏が終われば秋になる事を疑問に思わないみたいに、殺人は悪であるという考えが当然の事だからだ。
 もちろん、悪人を悪事で解決すれば、芋づる式に悪が広がる可能性がある事くらい考えれば分る。だから、その悪を以て悪を征する姿を一般的に認めないなんていう風潮も理解はできているつもりだ。もっとも、その善と悪の距離感と言うか、立ち位置というか、相互関係に納得はしていないし、憤りすら覚えるのだ。だって夏希の行為は、善の姿をした悪ではなくて、悪の姿をした善だからだ。いやあるいは、純度の高い善なのかもしれない。とにかく、その辺のどうしようもなく卑劣な犯罪とは訳が違う。
 だからやっぱり、答えを求めて耽らなければいけない。世の中の当たり前を、当たり前というフィルター越しでしか景色を見る事ができない人間を、抜本的に変えるために耽ってやる。どれほど制限時間を過ぎてしまうかは推し量る事はできないけど、答えが出るまで耽るのだ。だって僕は、夏希と一緒に夏の終わりを、始まりを、これまで通りこれからも、過ごしたかったと切々と思うのだから。
 ……もし夏希が、しっかりと遺体を埋葬していたのであれば、それは善と認められていたのだろうか? 認められないとすれば、弔うという生粋の善行はどうなるのだろう? 案外、善と悪は表裏一体なのかもしれない。――という事は、答えはないのだろうか。表裏一体であれば、切り離す事ができないという事になる。つまり、善と悪は同じものなのだ。
 ふと、それらしい仮説が擡げた。善と悪の解釈に対して答えがあるのではなくて、当たり前を当たり前ではないと捉える姿勢の取得が、一番必要な答えなのかもしれないという仮説だった。



 教室には何食わぬ顔のまま喧騒が広がっていたから、当たり前というフィルターは本当に強力なものだと痛感した。とはいえそれを痛感しているのは僕だけで、彼らは夏休み振りに会った友人たちと日焼けの有無や寝不足を競うような会話を交わす姿を当然だと思っているだろうし、まさかクラスメイトが登校してこないとは過りもしていないようで、夏休み明け早々に次の休みの予定を企てている。まるでその日が当たり前のようにやってくると考えている姿がどこか懐かしくて、妬ましかった。
 かく言う僕も、習慣に促されて登校し、こうやって着席までしているのだから、当たり前に動かされている1人なのだ。とはいえ、感覚的には全く当たり前などではなくて、目の前には夏休みという非日常が終わったくせに夏希がいないという非日常が広がっているのだから、そんなのは全くもって当たり前などではなく、むしろ夏休み以上に非日常ですらあると思っている。だのに周囲の、笑ったり欠伸したり、学校に似合うそれらの行動を見ていると、夏希が登校してくるようにも思えてきて、やっぱり僕は、当たり前という錯覚に動かされているのかもしれない。
 うっすらと、例の遺棄事件が話題に上がっている声が聞こえて、思わず耳を欹てた。でもやっぱり、まさかクラスメイトがその犯人かもしれないだなんて思うはずもなくて、「怖いよね」とか「早く犯人捕まらないかな」なんていう簡単な言葉だけで、直ぐに話題が流行りの音楽やらテレビ番組やらに移り変わってしまう。今ですらそんな薄弱な見解でしかないのだから、あんな風にまるで関係ないと割り切っている姿勢ですらいずれは完全になくなって、卒業が近い頃になれば夏希というクラスメイトがいた事すら頭の端に追いやってしまうのかもしれなかった。もっとも、そうなる前に夏希の不自然な欠席と事件を繋ぎ合わせて夏希が犯人であるという噂が蔓延るのだろう。それは想像だけでも苦しかった。なにが苦しいって、夏希の行為に思考を巡らせる事をしないまま犯人であると騒ぎ立てる事だ。どうせ、犯行動機は気になったとしても、善と悪の定義や解釈に疑問を抱く事なんてないのだろうから。
 だからこそ、仮に夏希の出頭がネットニュースかなんかでクラス中に拡散されたとして、話題がそれで持ち切りになってしまうのは怖かった。話題に上がらないのはそれはそれで悲しいけど、それ以上に夏希を悪としてしか見ようとしない彼らの当たり前が怖かった。もしそうなれば、ぐっと唇を噛みしめて、聴覚すらも塞いでしまって、クラスメイトの口から広がる誹謗中傷に似た発言を遮断しなければきっと心が持たなくなる。しかし、ニュースが拡散されたとしても未成年だから実名報道はされないだろうし、出頭の事実を知っているのは僕だけだろうから、その記事が目に留まったとしても、まさか夏希の事だとは直ぐには思わないかもしれない。だからこそ、「もしかしてあいつじゃね?」なんていう無責任で刺々しい冗談が耳に届く事を恐れた。
 幸い、今はまだその現実が訪れる事はなくチャイムが鳴った。クラスメイトが着席していく事によって、夏希の席が目立つ。突発的にその空席を隠してしまいたいと思ったけど、担任が夏希の欠席を告げてしまったために、もうどうしようもなくなった。もし他にも休んだ人がいれば、騒がしい男子生徒の「宿題終わってないんじゃね?」なんていう、あまりにも不知な発言が生まれる事はなかったかもしれない。当たり前というフィルターの存在にすら気付けない人たちの短慮な冗談や品のない笑い声が広がる空間に僕もいるんだと気付くと、当たり前だと思って行っていた登校という行動が無駄に思えてきた。
 とはいえ、一学期の時ではこんな風に思う事なく登校していたわけで、おまけにあのような冗談が飛ぶ空間をなんとも思っていなかったわけで、なんというか、喧嘩過ぎの棒千切りというか、今更習慣になっているそれらを愁いたところで手遅れなのかなって思う。
 もし、夏希と共に当たり前のように二学期を始められていれば、全ての視界を邪魔してくる当たり前という常識に引っかかる事なんてきっと生涯なくて、今頃、あまりにも不知な彼らのように謳歌できているのだろう。そうなっていた方が幸せなのか、今のような状況が幸せなのかは知り得ないけど、どうあれ僕の目の前に広がっている現実というやつに夏希を加えるためには、善と悪について付き纏う当たり前を掻い潜って是正するしかないのだ。
 もう一度――いや何度でも訪れるはずだった共に過ごす時間を焦がれながら夏希のいない席を見つめると、その虚空はあまりにも侘しくて、改めてこの景色が納得できなくて、夏希の行為が正しかったと認識させてやると誓った。
 ふと、風が吹いた。カーテンを揺らしながらその隙間を縫って室内で荒ぶ風。まだまだ暖かいと思っていたその風はひんやりとしていて、季節は秋になったのだろう。
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