8月31日 昼

文字数 4,518文字

 これまで数学の証明問題がとてつもなく難しいと思っていたけど、比べ物にならないくらいに簡単である事を知った。それは、前提と公式によって明確な答えを導き出す事ができるからだった。
 そんな発見をするってことは正直行き詰っていて、時間は次々と通り去って行くくせに、善と悪の定義や解釈という、なんとしてでも解決したい問題の答えは見つかるどころか、未だに道筋すら見つけられていない。
 それは僕が、心理学的でもなく宗教的でもない善と悪の答えを探しているからだった。だって、それらに当てはめて善と悪を考えても、夏希の行動が当たり前の行動で、善行だったと認められないからだ。
 認められないのであれば、僕が求めている答えとは違う。むしろ、そんなものは必要ない。僕が求めているのは、夏希の行動を全うで正しいものであったと証明できる道理なのだから。
 とはいえ、見つけられていればこんな風にもがく事もなく、焦る事もなく、憤る事もなく、今日という夏休み最終日――猶予期間の最後だって、なんてことのないただの1日に過ぎず、明日から始まる二学期を漠然と嘆いていたのだろう。そうだとしたら、今頃善と悪を解き明かそうなどする余地もなく、遊んだり、現実逃避したり、とにかく最終日を謳歌していたに違いない。そんな風に気楽で、当たり前だと思っていた事柄が当たり前のまま目の前に広がる日常が恋しい。
 などと、そんな妄想に浸っている余裕などない。そんな妄想に縋る時間に24時間の幾らかを割くくらいであれば、知恵を振り絞るべきだった。漠然とした推論でもいい。仮説でもいい。そこから発展して、最終的には今当たり前だと思って信じてやまない善と悪の定義を覆す事ができればいいのだ。
 当たり前だと刷り込まれているものを打ち壊す考え。その刷り込みに毒された人類が危機感さえ抱いて刷り込みを気付く仮説。どれだけ小さかろうが、考えや仮説の芽が出てくれさえすれば、それを手塩にかけて育てて、当たり前を覆す理論にしてみせるのに。
 しかし、推論だろうが仮説だろうが考えても、現実的な要素が1つばかり入るだけでそれらは玉砕してしまう。つまり、悪人に対して悪事をぶつければ、後出しの悪が悪になるという事だった。今のご時世、ハンムラビ法典とか自業自得なんていう考え方は善とはかけ離れているものなのだろう。
 実際は、目を潰されたら目を潰し返したり、歯を折られたら歯を折り返したりするみたいに、同じように悪をぶつけるというのは犯罪の抑止には効果的だった。また、極刑に処すのも悪人の抑止には効果的なのかもしれない。だけど、それらが見直されているということは、抑止以上に倫理が重んじられている世の中になっているという解釈ができる。だからこそ、善と悪の立ち位置が難しいのだ。夏希が悪染みてしまうのだ。
 そう考えると、なおさら納得できなかった。今までその風潮を特別視した事はなかったのに、夏希の発言以降はやたらと胸に引っかかる。だって、無慈悲な悪人でさえ擁護する風潮に甘んじているような気がするじゃないか。
 もちろん悪人にだって人権はあるし、人権は守るべきだとは思うけれど、被害の拡大を防ぐという観点から捉えれば、夏希の行動のような悪事に見える行動は、善行であるべきじゃないか。
 どうしたら証明できる? どうしたら理解してもらえる? 心理学的でも宗教的でもない善と悪の定義、善行の解釈――どんな前提と、どんな公式があれば認識を変える事ができるのか、あるいは、どれだけ革新的な理論が求められるのか、その暗闇の中を歩き回っては、一向に光と出会えない。はじめから眼が眩む程の光じゃなくてよくて、薄弱なものでいいから、とりあえず手掛かりが欲しいのに。そう願っても、空気が抜けるような唸りしか見つけられなかった。
 ……もしかしたらこれにも、答えらしい答えなんてものはないのかもしれない。夏が始まる確率のように、当たり前というフィルターが邪魔をして答えらしい答えなんて見えないのかもしれない。
 当たり前だから深く考えない。そういうものだから、異論を唱えることはしない。当たり前という割り切り方は、答えを隠すのかもしれなかった。かもしれないというよりかは、隠すのだ。当たり前は疑う事がないから当たり前なんだし、疑わないって事は受け入れているという事になるはずだろう。
 諦めた訳ではないけど、もしそのフィルターが人類に共通して備わっていて、それ越しにしか世界を見やる事ができないのであれば、足掻いても覆らない現実に弱気になってしまいそうになる。
 いい加減、食傷気味になってしまいそうだけど、ここで打開できなければ、夏希は……


 
 相変わらず答えが出ないどころか、注意力が散漫になっていた。もしかして、腹が減っているのかもしれないと案じたが、あんな中途半端な時間に食事を摂ったのだから、空いているはずがなかった。
 じゃあ、この注意力の欠如はカフェイン不足だろうか。それはあるかもしれない。が、コーヒーを飲んで直ちに頭が澄み渡るかと言えば違うだろう。であれば、ただの水分補給でしかなく、時間が惜しかった。
 畜生、どうしてこんなにも光が見えない。僕の脳のスペックが驚く程に低くて処理速度が拙いからだろうか。それとも、僕の眼が複眼じゃなければ触角もなく、走光性が備わっていないからだろうか。
 どうしたらいいんだ。この調子だと絶対に間に合わない。今日中に、善と悪についての答えを導く事ができない。夏希が遠ざかってしまうのに……。厭きる程にそう巡る時間が無駄であると自覚したものの、とはいえ理性でどうにかできるものでもなく、気が付けば怠ろうとしている思考を奮い立たせて、だけど辿り着かない光に憤り、やがて知らず知らず過ぎる時間に焦ってしまう。注意力の欠如や焦り以上に、実際はそのサイクルが一番の時間の無駄である事に気付くと、頗るやるせなかった。
 時間の流れというやつは、いつも通り容赦なく早く進み、既に14時を回っている。もう半日が終わっているのだ。だのに何一つとして進展はないだなんて、その現実が、余計に焦りを駆り立ててくる。
 夏希の行動を悪と呼ぶのであれば悪人を擁護する世論が蔓延っている事になって――いや違う。そんなんじゃ駄目だ。弱過ぎて善と悪に向ける視線を変える事はできそうにない。
 夏希の行動を罰するのであれば延長線上にある悪を黙認している事と一緒で――いや、以下同文で役に立たない。
 駄目だ。一貫して堂々巡りだ。ただの時間の無駄だ。もっとこう、ハムスターの共食いのような、生存確率を上げるために行う一見残酷だけど賢い選択のように、夏希の行動をもっともらしさに当てはめることができればいいのだが、共食いと夏希の行為を並べれば、動物と人間の行動の比較では、どことなく、それはそれこれはこれのような視点があるような気がして、相容れそうになかった。それに、ハムスターの共食いの例はあくまで考え方の理想でしかなく、答えではなかった。むしろその先にある問題の方が本懐で、夏希が起こした行動をいかに正しくて賢く、当たり前の行動であったかを認識してもらうかが頭を悩ませるのだ。
 思わず唸りが零れた。苛立ち交じりの唸り。先が見えない事を嘆くような唸り。それらの唸り声が、いつの間にか叫びに近しくなっている事を知って、冷静さを欠いていた事を知った。こんな状態では、著しく視野が狭まるばかりで、良い事など何一つない。
 本当は、思考以外に時間を使うのは無駄でもったいなく思うから時間を割り当てたくはないのだが、こんな状態では10分だけでも休憩を挟んだ方が能率的に思える。
 無駄な時間ではあるけど、せめて有効に用いよう。例えば、コーヒーを飲もう。席を立ったついでにカフェインを摂取して、思考力を加速させるのだ。いやその前に、しっかりと10分のアラームをかけるべきだ。無駄に過ごしていい時間を、余計に取らないように。
 スマホを手繰り、アラームを10分――いや9分に設定する時に、画面上部を支配するかのようなニュースの通知が表示されて、横槍さに舌打ちが零れた。しかし、それによれば遺体が発見されたらしく、そのような話題には敏感になっているからか、アラームの設定そっちのけで、吸い込まれるようにそのニュースをタップしてしまった。
 内容は、通知通り、遺体が見つかったとの事だった。山中に遺棄されていた所を山菜採りに出掛けた人が偶然に見つけたらしい。また、死後結構な日数が経過しているらしく、身元は判りそうにないらしかった。
 ……もしかして、夏希が関係している遺体だろうか。宵宮で交わした夏希との会話を思い出すと、人間というやつは勝手に会話と出来事を結び付るのが得意らしくて、感心するくらい事実染みてくる。まさかなと疑いながらも、眩暈に似た恐怖が体を巡った。
 もしこれが本当に夏希と関係が深い出来事だったとして、このニュースを夏希が目撃したらどう思うのだろう。自首――いや、出頭したいという念が強くなってしまうのだろうか。それは困る。ただでさえも僕の頑張りが届いていないのに溝が深まるのは、なんというか、やるせない。
 あるいは、遺体が公になった事によって幾分か気持ちが軽くなるのかもしれない――いやそんなのは、天文学的確率だろう。だって夏希が苛まれている罪悪感は、きっと物凄く大きくて重い。
 なぜだろう。夏希が関係しているという確証なんてどこにもないのに、なぜか包囲されているような、あと1手で詰まれてしまうような絶望感が湧いて、投げ出したくなった。引き返す事ができない現実が手を伸ばせば掴める距離にあって、逃げ出したくなった。
 だって、幼稚園児に因数分解を解かせるくらいの無理難題はお手上げしたくなるだろう。それ以上に辛辣となれば、無理もなかった。
 いや、きっと脳が疲弊しているんだ。だから答えも見いだせないし、こんなにも意味不明な例えを盾にするし、弱気になるのだろう。なにせ今日は睡眠不足だし、暫くは難しい事柄に思考を巡らせているのだから、疲弊するのも無理はない。
 独りでに納得すると、まるで打ちひしがれたみたいに急に疲れが現れて、吸い込まれるようにベッドに倒れ込んだ。せめて椅子に座るくらいにすればよかったのに、横になってしまっては、耐え難い睡気がちょっかいを出してくる。そのちょっかいは可愛くなく鬱陶しいのに、逆らう気は毛頭起きそうにない。睡眠不足と疲弊と寝具は呆れるくらいに相性が良すぎて、その快楽加減に困った。
 多分僕は、少しばかり眠っていたのだろう。しかし、このまま睡眠に耽溺してはいけないと慌てて眼を見開けば、妙に目が覚める。だのに、気が付けば瞼を下ろしていて、これまた慌てて眼を開けるのだ。
 目覚めたては時間を無駄にしてはいけないという危機感から清々しい目覚めのように冴えているものの、たった数秒で瞼が重くなる。そんな、瞬間的な起床と本能的な欲求の間を何度か行き来していた。
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