3 大地の裂け目の守り神

文字数 6,949文字

 塩漬けの魚に飽き飽きしていた〈飛騨〉では、和泉の収穫が記録的な高値で取引され、少年少女は目下の懸念である先立つものをたっぷり稼ぐことができた。
 とはいえ飛騨路は聞いていた以上の難路で、定期的な整備が放棄されて久しい山岳路の状態は平野の比ではなく、落石、崩落、水没と三拍子そろった劣悪なしろものだった。
 行程はいくぶん遅れ、〈飛騨〉を抜けた時点で十一月の下旬に差しかかっていたけれども、これからいく先々の町でアルバイトをして足止めを食うことを考えれば、有意義な迂回であったといえるだろう。
 山岳地帯を抜け、安全運転の時速四十キロで走り続けること数日、左右に林立していた都市の残骸が突如として消え去り、目前の道路がすっぱりと消失した。
 大地の裂け目に着いたのである。
 三人はピックアップから降り、眼前に広がる恐るべき亀裂のスケールに息を呑んだ。
「これ、どこまで続いてんの」
 上方人がぐるりと東西を見渡す。「信じられへん。西も東も終わりが見えへんで」
「話には聞いてましたが、これほどとは」エンジニアは視差を利用して対岸までの幅を目測した。「軽く一キロはありますよ、向こう岸まで」
 大地の裂け目は〈エリミネイト〉が島国に穿った裂傷である。文字通り東西の端から端までぽっかりと口を空け、北部へ渡ろうとする旅人を頑として寄せつけない。その深さを知る者はおらず、一説によると最下部は宇宙――すなわち裂け目は地球を完全に分断してしまっているのだという。
 その説を裏づけるような逸話がある。腕に覚えのあるロッククライマーがビレイポイントを見つけ、ロープをくくりつけた。そのままレンジャー隊の要領で慎重に懸垂下降したのだが、一向に底へ降り立つ気配がない。彼の無謀な試みを見守っていたパートナーが最後に聞いた台詞は、「なんてこった、星がいっぱいだ!」
 しばらくのあいだ三人は一言も口を利かず、裂け目の境界をうろついてスケール感を掴もうと試みたけれども、それはどだい無理な話だった。あまりにも途方もなさすぎて、脳が眼前の光景を把握できないのである。
 やがて時間を無駄にしていることに気づいた香苗が、おぼつかない足取りで気流船乗り場へと歩き出した。あとの二人もそれに続く。
「気流船乗り場へようこそ」切符売り場の係員は少年少女たちをうさんくさそうに眺め渡した。「きみたち、気流船は初めてかね」
 三人は上の空でうなずいた。
「大地の裂け目を渡るにはいまのところ、気流船がもっとも安全な手段だ。ずっと東では橋を架けようとしてるみたいだが、完成日は二十年前から未定のまま。いったん底まで降りて谷を渡り、クライミングをやるという手もあるけど、それを試して対岸に辿り着いた者はいない」
「どういう原理で飛んでるんです」エンジニアが間髪入れずに質問した。
「気流船は裂け目から絶えず吹き上げてくる風を利用して飛行する」
 続きがあるものと謹聴していた槇村は、沈黙が五秒以上続いたのを機にいまのですべてなのだと観念した。「動力は」
「だから、風だよ」
「風向きが必ずしも北だとは限らないでしょう」
「時間帯によって北向きと南向きに偏るから心配いらない」
「東と西に吹くときもあるんじゃないですか。そうなったらいつまでも裂け目の上を漂流することになる」
「ないとは言えないね。気流のパターンが掴めてなかった黎明期は墜落事故も起きてる」
「決まりですね」槇村は二人に向かって宣言した。「信頼性が低すぎる。自殺するようなもんですよ」
「まあまあ。ほんとに自殺幇助ビークルなのかは現物を見てから決めればいいじゃない」
 係員に案内され、旅人たちは気流船が係留されているドックをおっかなびっくりのぞいてみた。槇村少年が危惧した通り、それは風船に気が生えた程度のしろものだった。不釣り合いに巨大な滞空ユニット、それにぶら下がる申しわけ程度のカーゴ部分。人間どころか猫の子一匹運搬できるかも怪しい見た目だった。
「定員は飛行士を含めて七名。ちょうどほかに三人の待機客がいるからすぐにでも乗れるぞ」再びうさんくさそうにおのおのの顔を眺め渡す。「料金を払えるならな」
「ちょっと待ってや。空飛ぶ棺桶に乗るのに銭がいるんか」
「いやなら谷底へ降りるんだな」
 和泉はいまいましげにうなった。「いくらなんや」
「一人二万サウスYEN」
「あほ抜かすなや。なんで死ぬために大金払わなあかんねん」
「ちょっと失礼」香苗がするりと割り込んだ。「飛行記録を見せてもらえますか」
「必要ないと思うがね」
 係員の抱えているフォルダを巧みに抜き去り、奪い返される前に軽快なステップで距離を取る。「ふむふむ、事故率は無視できない数値みたいですね」
「うちの優秀な飛行士が操舵してなけりゃ、もっとひどかったろうさ」
「おーい、待機客連れてきたで」和泉が待合室から待ちくたびれていらだっている三人の男女を引っ張ってきた。彼らは集客に積極的でない気流船サービスに露骨な敵意を抱く段階に達しており、眉間には例外なく青筋が浮いている。
 係員と香苗がやり合っているのを見るや否や、待機客たちも加勢して集中砲火を浴びせ始めた。係員は実際に二インチも縮んだように見え、ついに一人頭一万五千サウスYENまで運賃を値引きすることに同意した。
 お世話になった旧友のピックアップとはここでお別れとなったが、メカニックが見栄えのよいように外装を整備し、著しく車体価格を高騰させるという離れ業をやってのけた。その足で交渉屋が乗船場のとなりで営業している完成車の取り扱い店舗に押しかけ、渡世人のような長広舌をふるって海千山千の買い取り人を籠絡、記録的な高値で売りさばいた。鮮魚の売り上げと合わせると、彼らはちょっとした財産を築いたかっこうになる。
 地獄いきの片道切符を値切って購入した旅人たちは、翌日船上の人となった。
 それは得がたい経験だった。眼下には宇宙まで貫通しているというふれこみの深淵がぽっかりと口を開け、船体はわずかな風向きの変化だけで敏感に反応、北へ直進するのはむしろまれで、二歩進んでは三歩下がるといったありさま。
 やがて船はいっさい北へも南へも進まなくなってしまった。東西にだけふらふらと往復をくり返すばかりで、対岸との距離が一向に縮まらない。
「つかぬことをお聞きしますが」槇村少年はおずおずと飛行士に尋ねた。「ここ四時間ばかり船速が鈍ってませんかね」
 返答はなかった。少年は上目遣いでようすをうかがう。飛行士は口をへの字に曲げて対岸を睨みつけている。舵輪を握る両手にも必要以上に力が入っているように見える。
「おっさん、さっきからぜんぜん進んでへんやんけ」和泉のクレームも無視された。
「ちょっと失礼」香苗が横合いから首を突っ込み、無造作に放り出されていた操舵マニュアルのページを繰った。付箋の貼ってあるページがあったので、そこに目を通す。ある名詞に何重にも丸印でマークしてある。「〈ライアン・ベルト〉ってなんですか」
「大地の裂け目には悪魔が棲んでる」操舵手はゆっくりとかぶりを振った。「そいつはいつどんな条件で気流船を狙うか誰にもわからん。この商売を初めて二十年以上経つが、いまだに統計的なパターンを誰も見つけられずにいる」
「せやから〈ライアン・ベルト〉ってなんやねん」
「そいつはごくたまにしか姿を現さない代わりに、掴まったやつは裂け目の上を長いあいだ滞空することになる」首を機械的に三人のほうへ向けた。「墜落するまで永遠にな」

 大地の裂け目から吹き上がってくる気流には、①北向きの順風、②南向きの逆風の二種類がある。誰も見たことのない谷底がどうなっているにせよ、なんらかの理由で常時、上昇気流が発生していることは誰もが認める事実である。それがわずかに南北へ偏差する時間帯があるのを利用し、気流船は文字通り風に吹かれるまま気の向くまま、めまいを起こしそうな深淵を渡っているのだ。
 気流船サービスが創業して三年後、〈スカイウォーカー一号〉が乗員四人とともに忽然と姿を消すという痛ましい事故が起きた。出港を見送った係員の証言では、本船出港後に一寸先も判別できないような深い霧が発生したという。それはあたかも初代気流船の運命を暗示しているかのようであった。
 謎の失踪事件からさらに五年後、〈スカイウォーカー三号〉が消息を絶ったのを機に、気流船サービスは本腰を入れて事件の究明に乗り出すことを決意した。ただでさえ多くない渡航客たちのあいだに、大地の裂け目には魔物が棲んでいるのだといううわさが流れ始め、顕著な客足の減少を惹起せしめていたからだ。
 間髪入れずに単座の小型探査船が建造されはしたものの、肝心の飛行士を誰がやるのかは依然として懸念材料であった。誰だって失われた十四人の命に自分のを加えて、事務所の棚に封印されている不名誉なスコア――死者および行方不明者数――に貢献しようなどとは思わないだろう。
 大方の予想を裏切り、対策会議が始まって議題が提案された数秒後、文句のつけようがない百点満点の挙手が陰鬱な空気を貫いた。創業以来無事故――動力のない不安定な乗り物としては驚異的な実績である――を維持しているベテラン飛行士、パーシヴァル・A・ライアンだった。
 もとアメリカ合衆国の大手航空会社に勤務していたライアンは、磨き抜かれた操縦テクニックと天性の勘をあわせ持つ、生まれながらの飛行士だった。彼は定期便として日本に寄港していた際、〈エリミネイト〉に遭遇して異国の地に取り残された残留組であった。異国人としての負い目からか人付き合いはあくまで浅く、非番の日などは一日中アメリカ産のたばこを吹かし、あごに生えた無精ひげを撫でながら故郷の思い出を噛みしめている姿がしばしば目撃された。
 もしかすると彼は、異国の地で生きていくのに倦んでいたのかもしれない。ほかに誰も立候補者がいなかったのもあり、調査担当は満場一致でライアンにゆだねられた。それからの彼の働きぶりは常軌を逸していたとしか表現のしようがない。
 異国の男は飛行シフトを従前どおりこなしつつ、空いた時間すべてを探査船での調査につぎ込んだ。いつ寝ているのか不審に思った同僚が彼に問いただしたところ、ライアンはこともなげに言い放った。「気流を読めれば舵輪にしがみついてる必要なんかない。風が俺を望み通りの場所に運んでくれてるあいだに、一眠りすればいいだけの話さ」
 ある朝、ライアンは定刻通りに出勤してこなかった。アメリカ人が時間にルーズなのはみんな知っていたので、誰もわざわざ下宿先に連絡しなかった。飛行時間になっても彼が現れなかったので、その日は非番の飛行士が緊急招集された。休みを台なしにされた男は一言文句をつけてやろうと下宿先に乗り込んだが、空振りに終わった。ライアンは不在だった。
 翌日も翌々日も、彼は出勤しなかった。ライアンは忽然と姿を消してしまった。単座船も帰還していないので、外国人は調査中に事故で死んだのだというのがおおかたの意見だった。いっぽう少数派の意見としては、こんなものがある。いわく、ライアンはアメリカに帰ったのだという。彼ほどの腕前なら動力なしの風船で太平洋を渡るくらいのことはやりかねない。
 アメリカ人がいなくなってから数か月後、裂け目の縁を散歩するのを日課にしている飛行士が奇妙な手紙を見つけた。それは英語で書かれていたので、誰が認めたのかは一目瞭然だった。内容は次の通りである。

 裂け目に棲む魔物を俺は見つけた。もちろん得体の知れない怪物なんかじゃない。魔物は東西にのみ吹き抜ける強烈な停滞気流だったんだ。こいつの発生条件も終息条件もわからないが、少なくともそれが存在することだけは確信を持って断言できる。なぜなら俺がそいつに掴まっちまったからだ。
 俺は日本に取り残されたのがわかったとき、はっきり言って失望した。故郷に帰りたいと切実に願った。けれどもいまは飛行士として生きた日々を誇りに思っている。俺はこのちっぽけな島が大好きだ。
 俺の読みが当たっていれば、この手紙は南岸にいつか漂着するはずだ。この些細な情報が気流船の安全に少しでも寄与するのなら、俺はそれ以上なにも望まない。
 ありがとう。そして、さようなら。
 P・A・ライアン

 それからのち、飛行士たちには気流船を飛ばすのとはべつにひとつ、仕事が増えた。それは上から命令されたのでもなく、誰かが音頭を取ったのでもなく、彼ら全員のなかからまったく自発的に同意が形成されるという稀有なかたちで生まれた。
 その仕事内容とは、

、である。

 四日後、七人の乗員はすっかりやつれ果てていた。
 食料はとっくに食べ尽くされ、水はときおり降るにわか雨から取水するきり。全員が泣く泣く荷物を投棄して軽量化を図ることには同意したけれども、船はまるで見えない壁に阻まれたかのように北進もしなければ南進もしなかった。カーゴスペースには濃厚な死の匂いが立ち込めていた。
 飛行士はとっくに現在地をロストしており、旅人たちはこのまま衰弱するよりもいっそのこと、柵から身を乗り出して深淵へダイヴしたほうがよいのではないかと思い始めていた(実際に絶望した飛行士が職務(と同時に人生をも)放棄しようとしかけた一幕が何度となくあり、その都度子どもたちが考え直すよう説得した)。
 最初に異変に気づいたのは少女だった。「おかしいな。さっきから船が動いてないよ」
 誰も反応を示さなかった。わずかに顔を上げただけで、元通り立てた膝にがっくりと顔をうずめる。
「ねえってば」和泉の耳を引っ張り、大声で怒鳴る。「もしもーし。聞いてますか!」
「やかましいわボケ。なんやねん」
「船が動いてないんだってば」
「ほんとだ」槇村少年も興味深そうにあたりを見回している。「これはいったい……」
 いまでは全員が立膝から顔を上げ、異様な風景に魅入っていた。そこは裂け目のエア・ポケットとでもいおうか。布きれ、木の枝、木の葉、過去に投棄されたであろう旅人の荷物。気流の勢いで浮かび上がるあらゆるものが集まっている。それらはただその場に浮かんでいた。間もなく彼ら自身も同じ状態だということが、驚嘆とともに了解された。
「ここはサルガッソ海なんだ」ぽつりと飛行士がつぶやいた。「すべての漂着物がいきつく空の墓場なのさ」
 槇村少年はおっかなびっくり、柵をまたいで船外へ身を乗り出してみた。「見てください。この通り落ちる気づかいはないですよ」
 旅客たちは宇宙遊泳のまねごとをやって喜んでいる少年を目の当たりにして、例外なくめまいを感じた。実に瞠目すべき現象ではあるものの、二番手は現れなかった。
「断言はできんが、おそらくここは気流が衝突し合う空域なんだろう。奇跡的に風速のパラメータが打ち消し合って、見かけは重力がなくなってるように感じるんだ」
「てことは飛行士さん、あたしたち自身の力で脱出できるんじゃないの」櫂を漕ぐしぐさ。「こうやって一生懸命みんなで身体動かせばさ」
 提案は間をおかずに実行に移された。ところが空のサルガッソが複雑に入り組んだ迷宮であることが判明しただけだった。見えないだけで、気流の流れはそこかしこに存在している。強引に北進しようとすれば押し戻され、べつのポケットに弾き出される。そこでも同じことがくり返されるばかりだった。
 希望の灯が消えかけた瞬間、今度は飛行士がなにかを見つけた。似たような風船のお化けだが、こちらの船よりずいぶん小さい。単座のようである。
「ライアンだ」彼は流れる涙を拭おうともしなかった。「あの野郎にちがいない」
 四苦八苦し、ついに気流船はライアンの探査船に肉薄するところまでいった。カーゴスペースは空だったが、飛行士は残されていたザックは確かにアメリカ人のものだと請け合あった。「あいつはアメリカに帰ったのさ。どうやってかは知らんがな」
 それからの行程は飛行士の神がかり体質に依存することになった。彼は遺棄された探査船のあとをついていくと宣言して譲らず、旅客は不安そうに顔を見合わせたのち、やぶれかぶれな気持ちで同意した。
 すると不思議なことに、船はいっさい気流の壁に妨げられることなく滑るように空を漕いでいくではないか。探査船はまるでアメリカ人が乗っているかのように自信に満ちた航跡を示し、旅人たちは飛行士の命ずるままに空気を掻いた。
 何時間そうしていただろうか。その瞬間は全員が感じ取った。彼らはついに〈ライアン・ベルト〉を抜けたのである。
 旅客たちが快哉を叫ぶなか、先導者は役割を終えたのを悟ったかのように百八十度向きを変え、停滞気流のなかへと戻っていった。飛行士はロープをくり出して単座船を掴まえようとして、はたと手を止めた。そのまま風の牢獄に帰っていくのを見守る。
「どうしたの、飛行士さん。仲間の船なんじゃないの」
「あいつはアメリカに帰ってなんかいなかった。〈ライアン・ベルト〉の守り神になってたんだよ」涙を拭って大きく手を振った。「ありがとうライアン。俺たちをこれからも見守っててくれ」
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