第5話

文字数 10,003文字

 ボクは昼頃まで眠った。家には誰もいなかった。タツローは昨夜から戻ってこないんだろう。いつものことさ。親父はゴルフか、TV局か、要するに家と大学以外の所にいるのは確かだ。お袋は講演か慰問かそんなとこだろう。中川さんは、通いのお手伝いさんで、ボクが生まれる前からこの家で働いてるんだ。もう六十歳くらいのおばあちゃんなんだけどね。日曜日は休みだから来てない。喜子ちゃんは、彼女は住み込みのお手伝いさんなんだけど、休みの日には遊びに行っているか、離れにある自分の部屋でTVでも見てるかなのさ。まだ、若くて二十代の前半だと思うんだけど、お洒落したりするのを見たことないな。でもね、喜子ちゃんは兄貴に気があるらしいんだな。兄貴はって言うと、彼女のことを玄関の置物くらいにしか思ってないみたいだな。兄貴は抜群の美女にしか興味ないんだ。本当だよ。
 ボクは突然、たまらなくヨーコに会いたくなった。彼女は日曜テストを受けに四谷に行ってるはずだ。ボクは彼女に会いに行くことにした。場所はわかってるんだ。ボクだって小学生の頃には通わされたものさ。
「ヨースケ坊ちゃま。」
 門のところで呼び止められた。喜子ちゃんだ。彼女、うちに来た頃からボクを「坊ちゃま」って呼ぶんだ。中川さんの影響だろうけど、たいしてトシが違わない彼女に言われると、ちょっと変な気分だな。
「やぁ、おはよう。出かけるの?」
「すみません。映画でも見に行こうと思いまして。」
「やだなぁ、謝らないでよ。今日は休みじゃないか。」
「すみません。」
 頭に来ちゃうよ。ヒトに謝られるとさ。その人が何も悪いことをしていないのに。気が滅入っちゃうじゃないか。
「ボクも出かけるんだ。駅まで送るよ。」
 ボクは彼女にメットを渡した。喜子ちゃんはいつもジーンズなんだ。いつもだよ。他に持ってないんじゃないのかな。こういうのって気が滅入っちゃうよ。二十三歳くらいの女の人がさ、ジーンズしか持ってないみたいなのは。
「よろしいんですか?」
「何言ってんの。ついでだよ。安全運転だから心配しなくてもいいよ。」
 喜子ちゃんは、ニッコリ笑った。でも、どこかギコチナイんだな。
 喜子ちゃんを駅で降ろして四谷に向かって走りながら、ボクは悲しくなっちゃったんだ。喜子ちゃんがとっても楽しそうに、映画なんかを見に行くからさ。一人で、しかもジーンズなんかを履いて行くってのにさ。他になんの楽しみもないんだよ。遊びに行くっても、映画を見に行く位しか思いつかないのさ。そんなのって、寂しいじゃないか。悲しすぎるよ。四谷の土手の所で単車を停めて、ヨーコを待つことにした。この土手は好きだったな。橋の下が空き地になってて、そこで冬なんか雪が降ると雪投げをしたものさ。その横を丸の内線が走っててね、それに雪玉をぶつけるんだ。中に乗ってる奴らが驚くのが、たまらなく可笑しかったっけ。日曜テストの試験会場に行くのにも、わざわざ土手の上を歩いて行った。木に触ったりしながらさ。ヨーコはきっと、この土手を歩いて帰ってくるよ。ボクもそうしたんだからね。石造りのベンチに腰掛けて煙草を吸った。最後の一本だった。でも、駅の売店に買いに行ったりはしないよ。その間に、ヨーコが来たら大変だからね。
 子供がドッと出て来た。どいつも、こいつも手提げかばんなんかを持っちゃってさ。みんな同じ格好してさ。でも子供が騒いでる声ってのは、不思議と気にならないな。野球帽をかぶった男の子が、空き缶を蹴りながら歩いてる。ボクは嬉しくなっちゃった。その子、車が横をすり抜けてくのなんかにはお構いなしで、ただ缶だけを見てるんだ。他の子にぶつかったりするんだけどさ、お互いに気にもとめてないんだ。大人なら舌打ちするところさ。
 ボクはヨーコを目で探した。目は良いんだ。勉強しないからね。それに、どんなに離れていたってヨーコなら後ろ姿だけでもわかるんだ。本当だよ。彼女とは十二年もの付き合いだからね。
「ヨースケ!」
 参ったよ。ヨーコの方がウワテだったね。ヨーコは手を振りながら駆けて来た。後ろから数人の女の子がついて来る。たぶん友だちなんだろう。
「どうしたの、ヨースケ?」
「バカだな、こんなに走って。暑いのに。汗かいてるじゃないか。」
 今日は本当に暑いんだ。もう夏も終わるってのにさ。今年は猛暑だって騒がれてたけど、ボクに言わせれば、去年までが異常なんだ。ここ二、三年、冷夏が続いてたもんな。しかも暖冬で。今年は冬も半端じゃなかった。年が明けてから、この東京で十日以上も雪が降ったんだから。ボクは夏はうんと暑くて、冬はうんと寒いのが好きだ。
「どうして来たの?」
「おまえに会いたくなったからさ。」
「菱垣さん、この人あなたの恋人?」
 ヨーコの仲間の一人がきいた。ちっちゃいくせに『恋人』だもの、参ったよ。
「バレちゃしょうがない。実はそうなんだ。」
 女の子たちは『ヒャアー』と喚声をあげた。小学校も六年生ともなると、結構マセてきてブラジャーした方がイイみたいな子もいるんだ。でも中身はやっぱり子供なのさ。話声が『ピヨピヨ』って感じでさ。これが中学生くらいになると『キャッ、キャッ』になって、中年のおばさんたちになると『ギャー、ギャー』になるんだ。本当だよ。ボクとしては、もちろんソプラノの方が好きなんだ。
「君たち、いっしょにジュースでも飲まないかい?もし良ければだけど。」
 ボクは女の子たちを誘った。こういう子たちが大好きなんだ。本当に。
「せっかくだけど、わたしたちこれから友だちと約束があるんです。」
 リーダー格っぽい子が言った。子供ってのは、いつでも友だちと約束があるんだから、参っちゃうよ。
「じゃあ、さよなら。」
 女の子たちはボクにお辞儀をして駅の方へ行った。歩きながらでも絶対に黙っていないんだよ。まるで今日一日しか命がないみたいに早口なんだ。
「さてヨーコ、昼めしまだだろ?」
「うん、あの人たちと食べるつもりだったの。だってヨースケが来るなんて思ってなかったんだもの。」
「じゃあ、今日はオレがおごろう。何が良いかな?フランス料理?ロシア料理?中華?それとも和食?何でも好きなものを言ってごらんよ。何が食べたい?」
「わたし、オムライスが食べたい!」
「オムライス!?」
「ダメ?」
「ダメじゃないさ。でも、そんなんで本当にいいの?」
「うん。食べてみたかったんだ、前から。」
「食べてみたいって、ヨーコ食べたことないのかい?」
「わたし、食べたことないわ。」
「一度も?」
「一度も。」
 オムライスを食べたことのない子供なんて、本当の子供じゃないよ。あの赤くて黄色いやつを食べなきゃね。だいたいオムライスてのは、近代日本的文化融合的見栄張的メニューの代表なんだから。外見は卵たっぷりの豪華オムレツ。実は古米のケチャップ炒め。なあんて具合にさ。
「オムライスぐらい誰だって作れるだろ。中川さんでも、喜子ちゃんでも、作ってもらえばよかったのに。」
 そういえば、我が家のテーブルにオムライスが並んだことはなかった気がする。
「中川さんが栄養価が低いからダメだって。野菜やお肉をもっとたくさん食べたら作ってくれるって。」
 何が栄養価だ!子供には好きなものを食べさせておけばいいんだよ。第一、それほど栄養に気を使っている中川さんが、でっぷり太ってるんだから、おかしいや。
「よし。オムライスにしよう。乗りな。」
 ヨーコは慣れた素振りでケツに座った。普段から、「十六歳になったら限定解除で免許をとる。」なんて言ってるんだ。本当にヨーコは素敵な子供なんだ。君も会ったら一度で好きになっちゃうほ。保証するよ。
 ボクは「これぞオムライス」ってのを食べさせてくれる店を知ってるんだ。君も知ってるかな?都立三田図書館の地下食堂。いかにも公営って感じで、働いている人とかも中産階級の主婦の典型みたいな人なんだよ。だもんだから、オムライスも彼女たちの子供が食べてるようなやつなのさ。図書館はまだ新しい感じの建物で、レコードまで聞けるし、夜の十時までやってるんで便利に使わせてもらってる。
「図書館だよ。」
「ここの地下なんだ。おいで。」
 ボクたちは階段を下りて食堂になっているスペースに入った。白い壁に白いテーブル。二十一インチのテレビはもちろんNHK。
 ボクは急に空腹を感じだ。考えてみれば、朝から、いや昨日の昼にマクドッテリアでハンバーガーを食べて以来、何も口にしてなくて、今はもう午後の一時半を回ってる。ボクは食べるってことにあまり興味が持てないんだ。もし一錠で一日分の栄養が摂れる錠剤があったら、それだけで済ませたいくらいさ。
 何を食べるかに頭を悩ませるのが面倒なんだ。もちろん気の合う奴と食事をするのは大好きだよ。でも、一人で食べることが多いんでね、最近は。以前のガールフレンドで、圭子っていうのがね、なに圭子か忘れちゃったけど、食べるために生きてるみたいな子だったな。フランス料理ならどこそこの店、ラーメンならあそこ、ケーキならどことどこでって調子なんだ。ファストフードなんか食べてるところを見られたら、救い難い大馬鹿者って顔されちゃうよ。あいつは、もしこの世の中に吉野家の牛丼しか食べるものがないなんてことになったら、迷わず餓死を選ぶね。
 ボクはヨーコとなら、それこそ即席ラーメンだってご馳走に思えちゃうね。それくらいの舌しか持ち合わせてないのさ。
 オムライスの食券を二枚買って、一枚をヨーコに渡してやる。
「ありがとう。」
 ヨーコはニッコリ笑った。こういう場面で「ありがとう」をすぐに言える子なんだよ。
 比較的奥まったTVの雑音が届かない席にボクたちは座った。もう二時に近いんでわりと空いてる。
「兄さんはどうして学校へ行かないの?」
「行ってるじゃないか、毎日。」
「嘘よ。」
「どうしてそう思うんだい?」
「思うんじゃなくて、わかるのよ。」
 ヨーコはボクをにらんでた。可愛い顔が台無しだよ。
「わかったよ。確かにボクは行ってない。だってね、予備校ってのはね、今まで行ったどんな学校よりもずっとインチキなとこなんだ。あそこではね、受験のテクニックってやつを切り売りしてるだけなんだよ。」
「兄さんは、今までの学校だって行ってなかったじゃない。」
 確かにそうなんだ。ヨーコの言う通りさ。
「高校もね、予備校と大差ないのさ。ついでに言えば中学校もね。一流高校へ、そして一流大学へ、やがては一流企業へっていう馬鹿らしい競争なんだよ。」
 ボクは『人生は競争(レース)だ』っていう誰かの言葉を思い出した。イヨの顔と一緒にね。
「競争を避けてちゃ向上しないわ。」
 と、ヨーコはまるで教師みたいなことを言った。子供ってのは、大人が考えてるより、ずっとしっかりしてたりするものなんだ。本当だよ。
「学問はゲームじゃないよ。勝ち負けは関係ない。それに成績がトップだってことに、能力がトップだってことは同じじゃない。テストはいかに知識があるかを計ってるけど、知識と知性は違うものだ。もちろん知識なしに知性を高めることはできないけれど、知識だけ持ってても駄目なんだ。それに本当に大切なのは知性よりも人間性だ。言ってる意味わかるかい?」
「わからない。それは屁理屈よ。だって・・・・」
 おばさんのウエイトレスがオムライスを運んで来た。「どうぞごゆっくり」と声をかけてくれる。ボクが言いたいのは、こういうことなんだ。英単語を七千語覚えてるより、こういう場面で「どうぞごゆっくり」の言葉をかけられる方が何倍も大切なことだと思うのさ。
「この話は終わり。冷めないうちに食べちまおう。」
 ヨーコに理解させるには彼女はまだ若すぎる。ヨーコにとっては学校が世界の総てなんだから。それはそれでいいのかもしれない。でもボクとしては、ヨーコに東京大学に入るよりも、「どうぞごゆっくり」が言える人間になって欲しいんだ。
「これからどうしよう?どこかに行きたい所はあるかい?どこでも連れて行くよ。泳ぎに行く?それとも美術館がいいかい?」
 ヨーコはミュシャなんかが大好きなんだ。お袋のせいなんだけど。お袋の偉いとこはこういうところだね。「美しいものを美しいと思える感性を身に着けて欲しい。」って考えで、まあ考えるだけなら誰にでも出来るんだけど、ちゃんと実践したりするわけだ。うちの兄妹は三人とも子供のころからショパンを聞いて、ダビンチを見て育った。今でも有名な画家やなんかの展覧会なんかがあると、お袋のやつ、招待券を仕入れてくるのさ。そのうえ米語教育。ボクらが学校に上がるまでの子守は、どこから連れて来たのか、アメリカ人のベビーシッターがやってた。幼稚園は駐日米人家庭専門みたいなところでさ。小学校に入った時は面食らったものさ。何しろ誰一人として米語で話すやつがいないんだからね。ボクにとっては日本語イコール家族語、米語イコール公用語だったわけだからね。まあ、そんなことはたいしたことじゃないんだけど、お袋の米国カブレには、ときどき頭に来ちゃうよ。ボクは日本の文化で気に入らないところも確かにたくさんあるけど、気に入ってるとこだってたくさんあるんだ。お袋の場合は、アメリカンカスタムは非の打ちどころがないって調子だからね。
 ボクは米語なんかより日本語の方が、数段美しいと思ってるんだ。まあ、ボクに日本語を語る資格なんてないけどさ。でも、ボクはお袋がどう教育しようと根っからの日本人なんだ。ついこの間まで、本気で合衆国に永住したいって思ってたんだからね。それって、すごく日本的発想だと思うわけ。隣の芝生は青く見えるってやつ。ボクがアメリカ人だったら日本がうらやましいかっていうと、そうじゃない。そんなこと考えてもみないはずさ。それこそAmerican optimism(アメリカ的楽観主義)なわけ。それに気付いちゃったらアメリカ人になれるわけがないじゃないか。
「・・・・・・・・ヨースケってば!」
「え?」
「What's the Matter?」
「ああ、ちょっとね。考え事。なに?」
「図書館を見に行こうよ。」
「そうだね。」
 ヨーコはアチラもんのちょっとした話題作が好きなんだ。サリンジャーとかエリカ・ジョングとかのね。でも、お袋はそれを嫌がってるんだ。ヨーコには『若草物語』や『赤毛のアン』みたいな類を読ませたいらしいんだ。まあ、気持ちはわかるけどね。ヨーコもそうみたい。で、学校に提出する感想文なんかには、その手の本を選んで書いてるんだ。
「で、今日は何を読みたいわけ?」
「うんとね、『異邦人』かな。ヨースケ、あれいいって言ってたでしょ。」
「まあね。カミュはわりといいよ。」
「ヨースケってば、なんでも

なのね。」
「そりゃあね。そうそう簡単に最高のものに出会えたりしたら疲れちゃうからね。」
「そういうもんかな。」
「そういうもんだよ。」
 ボクらは低い声で話しながら本を見て回った。ヨーコは『異邦人』を持って、ベンチに座りに行った。ボクはぶらぶらと、本の背表紙を眺めることに専念した。こういう時間って

好きなんだ。目的もなく歩いたりするのがさ。銀座の歩行者天国なんてよく行ったね。銀座ならある程度、自由に歩けるからね。渋谷や新宿じゃダメさ。群衆に押し流されちゃってね。あそこには方向選択と停止の自由がないんだ。あるのは速度の自由だけ。銀座なら、気が向けば和光ビルの下に突っ立って、一時間でも通行人を眺めたりしてた。いろんなものが見えるのさ。おもしろいよ。あの二人は父娘だろうか?愛人とパトロンなのか?叔父と姪?なんて考えたりしてね。どうでもいいことには違いないけどさ。友だちと大笑いしてる不細工な女の子が、実は昨日、失恋したかもしれない。落第が確定したかもしれない。もしかしたら明日は死ぬかもしれない。なんて考えてさ。この人は何処から来たんだろう?歩いて十分の新橋に住んでるのかもしれないし、千葉や埼玉から電車に揺られてきたのかもしれない。ひょっとしたら北海道からの旅行者だったりして。なぁんて具合に。こんな事を言うと、たいていの奴は「それがどうしたっていうのさ。」と来る。そりゃボクだって、そんな事考えてみても、何の得にもならないことくらい百も承知さ。でもね、映画館の前で列を作ってるのだって同じことじゃないか。ボクは楽しんでるんだ、それをさ。
 ボクはハッとして足を停めた。ひとけのない書棚の隅で、床に座り込んで本を読んでる女の子に気が付いたからなんだ。髪が長くて顔なんか見えなんだけどさ。ボクはイヨだと思った。だって他に誰だっていうのさ?あんなとこであんな格好して本を読むやつがさ。
「ハーイ、イヨじゃない?」
 ボクはまるでヤンキーみたいにやたら明るく声を掛けた。本から顔を上げたのは。やっぱりイヨだった。ついてるな。こんな時は、神でも仏でも鬼でも悪魔にでも、なんだろうと感謝しちゃうよ。
「また逢えたね。そんな気がしてたんだ。」
「そりゃ良かったわね。」
 イヨはかなり高飛車に応えた。でも泣いてるんだ。目が涙で一杯なんだよ。
「What's wrong?」
「Nothing」
「Why are you cryin' ?」
「I’m not cryin'」
 ボクは聞きにくいことって、ついつい米語でおちゃらけちゃうクセがあるんだけど、それに逆襲されたのは初めてだった。
「何、読んでんのさ?」
 原因は本にあると見たね。で、イヨの持ってる本を少し持ち上げて、タイトルをのぞいてみた。『資本論』。どうなってんだこいつ?
「おもしろいのかい?それ。」
「愉快ってわけじゃないけど、おもしろいわよ。」
「OK。ここにはよく来るの?」
「たまにね。」
「今日、明日中にもまた君と逢える気がしてたんだ。まさかここでだとは思ってなかったけどさ。」
「どうして?」
「直感ってやつかな。君とは運命の糸でつながってるような気がするんだ。」
 まったく、我ながらトリ肌もんの気障な科白だってのは、わかってんだけど、本当なんだ。ボクとイヨとは、きっと同じ人間なんだ。
「で、その本は感動的なのかい?」
「え?どうしてそう思うわけ?」
「君が普通じゃないみたいだからさ。つまりボクには泣いてるみたいに見えたんだけど。」
「違うの。わたしが普通じゃないように見えるんなら、それは本のせいじゃないわ。」
「何かあったの?話したくなければ言わなくていいけど。」
「友だちが一人、死んだの。」
 『今日は嫌な天気ね』そんな調子だった。
「病気?」
「翔んだの。」
「翔んだ?」
「建設中のビルの屋上から。」
「どうして?」
「わからない。自分が鳥じゃないってことを確かめるつもりだったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。」
「親しくしてた人?」
「そうね、わたしは彼女の妹分だった。いろいろお店の中のこととか教えてくれて・・・・・。わからない。結局、わたしは彼女じゃないもの。」
 そうさ。そうであってたまるもんか。
「君は、死なないよね?」
「死ぬわよ。不死身じゃない普通の人間だもの。」
「そうじゃなくて、自殺したりしないよね?」
「わからない。自殺しない理由がないわ。人間って、いつ自殺してもおかしくない動物じゃないかしら。人間が人間であるために、存在証明に自殺する。他の動物との差別化のためにね。」
「じゃあ、今の自殺者は少な過ぎるんじゃない?みんながみんな、目的を持って生きてるとは思えないけどな。」
「痛みを恐れてるからよ。」
「痛み?」
「そう。例えば地上十メートルのビルから飛び降りる。痛いかしら?」
「そんな暇はないだろう。多分、即死。」
「そうよね。でも実際にビルの屋上に立って下を見下ろしたら『落ちたら痛いだろうな』って思うんじゃない?」
「そうかもしれない。殆どの人はそうなんだろうね。」
「手首を切る痛みなんて、歯を抜くよりも軽いわ。でも正常な人が平常心なら、自分から自分を痛めつけようなんて思わない。多分、自己防衛本能なのよ。そう。手首を切るなんて、たいした痛みじゃなかった。」
 イヨの手首の傷がボクを震わせた。
「で、でも、君は死んじゃいない。」
「そっ。わたしは死に損ない。」
 彼女は突然笑い出した。声を抑えて、かなり長い間、ボクにはそう感じられた。忍び笑いを漏らしていた。ボクは背筋に冷水を浴びせられたように感じていた。
「これはね。」
 イヨはボクの目の前に、左手首の傷を差し出した。
「心中の記念、いいえ二つの自殺。正確には一件の自殺と一件の自殺未遂。」
「じゃぁ・・・・」
「二年前のクリスマス。わたしたちは午前零時を合図に決行したの。わたしは手首を切り、彼女は首を吊った。」
「なぜ?」
「なぜ?理由なんてないわ。自殺しない理由がなかっただけ。」
「そんな馬鹿な。狂ってるよ。」
「みんなそう言うわ。」
 イヨはクスクスと笑った。
「ヨースケはなぜ自殺しないの?」
「理由がない。自殺する理由がないよ。ボクはまだ若いし、健康だし。それにまだいい思いをしていない。もったいなくて死ねやしないじゃないか。」
「それが自殺しない理由じゃないの。あなたは、命や将来を捨てるのが惜しい。違う?わたしたちはそうじゃなかった。若さも健康も未来も惜しくなかったの。」
「なぜさ?なぜそんなに簡単に命を捨てられるんだい?世間には、生きていたくてしょうがないのに生きられない人だっているんだよ。」
「そんなこと、わたしには関係ないわよ。その人たちの身代わりに生きられるはずないじゃない。それに、わたしはべつに生きたいとは思わなかったの。食べたくない時に、食べないのと同じことよ。それとも、ヨースケはやりたくないことでも、やるわけ?」
「必要ならね。仕方ないじゃないか。そりゃやりたいことだけやって生きられれば最高だけど、それじゃ生きていけないだろ?」
「違うわ。あなたは、生きていたいから、やりたくないことでもするんでしょ?結局、意志に従って行動してるのよ。」
「君はまるで哲学者だね。ボクには理解できないよ。でも、君のことをもっと知りたい。ボクが自殺しない理由は君みたいだね。」
「へんな人ね。わたしもヨースケに興味がでてきたわ。」
 畜生。ボクのシャツは汗でビショ濡れになってる。なんだってこんな奴にイカレちまったんだろう。ボクは彼女が自殺しない理由ってのをみつけたみたいなんで、ホッとしてるんだよ。なんてこった。
「妹と来てるんだ。もし良ければ紹介すうりょ。いい?」
「もちろん。」
 ボクはイヨをヨーコの所へ連れて行った。本を読んでる時のヨーコは目の前で殺人があったって気づかないよ。本当さ。ヨーコの肩を叩いて、こちら側の世界に呼び戻してやる。
「妹のヨーコ。ヨーコ、こちらは昨日話したイヨ。」
「How do you do, Iyo」
 畜生。ヨーコの奴、ボクのガールフレンドには必ず、こいつをやらかすんだ。
「Glad to see you」
 イヨの返事にヨーコがニッコリして、ボクは胸をなでおろした。
「ごめんなさい。生意気な子だと思わないで。ヨースケの連れてくる女の人には、いつも意地悪したくなっちゃうの。きっと、わたしブラザーコンプレックスなんだわ。」
「わたしには兄はいないけど、いたら多分、同じような気持ちだと思うわ。」
 ヨーコはイヨのファンになっちまったことは明白だ。ヨーコの感情には「好き」と「嫌い」しかないんだから。まだ、ほんの子供なんだよ。
「読書の邪魔をしてごめんね。カミュはわたしも好きよ。」
 ボクらは、ヨーコを残して窓辺のベンチに並んで腰を下ろした。
「びっくりしただろう?兄貴を呼び捨てにする妹なんて。うちじゃみんなそうなんだ。いいのか悪いのかわかんないけど。」
「いいんでない?『お兄さん』とか『お姉さん』て、呼ばれただけでもプレッシャーだもの。」
 イヨは昨日の明るさとはうってかわって沈鬱な表情をしていた。
「わたしのこと躁鬱症だと思ってるでしょ。」
「少しね。」
「そうかもしれないけど、わたしはわたし。」
「ボクはボクだ。君を好きになりかけてる。」
「そういう言い方、好きよ。」
 イヨは悪戯っぽく微笑んだ。畜生。これで、参っちゃわない男がいたら、お目にかかりたいね。ここで引き下がっちゃ男が廃るってもんさ。
「オレのことは?」
「嫌いじゃないわ。」
「オーケー、それでいい。」
 イヨはなんとなく落ち着かない様子だった。煙草が吸いたいんじゃないかな。
「コーヒーでも?」
「え?」
「下の喫茶室へ行かないかい?喉が渇いて死にそうなんだ。」
 ちっ。馬鹿な誘い方だよ。第一、ボクはコーヒーなんて好きじゃない。
「いいわ。付き合ったげる。」
 イヨは笑った。ボクは少し救われたよ。


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