第3話

文字数 13,228文字

 家に着いたのは十八時三十分頃だった。家にはヨーコしかいない。親父は仕事のムシだし、お袋はかなりの社交家で、ボランティアなんかもやってるんだよ。ヨーコは小学校六年生なんだ。来年、私立の中学を受験するんで、勉強が忙しかったりするんだな。ヨーコはとっても頭が良いんだよ。本当さ。とにかく、我が家で出来の悪いのはボクだけなんだ。兄貴は大学病院でインターンかなんかをやってる。でも、愉快な奴なんだ、兄貴は。兄貴が医者になったりするのを考えると、ボクはちょっと怖いね。心臓の弱い患者なんて、任せられないな。なにしろ、かなりドギツいブラックユーモアのセンスを持ってたりするんでね。「患者(クランケ)ってのは気まぐれだから、手術がうまくいこうが、いくまいが、気の向いたときに死ぬんだよな。」なんて言ってたりするんだ。医大時代のニックネームは『切り裂きジャック』なんだ。まったく、ボクは病気になっても兄貴にだけは診てもらいたくないね。
「ヨースケ、ここんとこ教えて。」
 ボクは飛び上がった。煙草を吸ってたんだ。まったく、ヨーコのやつ、猫みたいに足音もたてずに歩き回るんだ。
「ヨースケったら、また煙草なんか吸ってる。今に肺が腐って死んじゃうからね。」
 ヨーコはおたふく風邪にでもなったみたいにホッペタをふくらましてる。怒ったときのクセなんだよ。
 うちの両親は、N.Y.で暮らしたりしたんで、すごい欧米かぶれなんだ。そんな訳で、うちの兄弟はお互いに名前を呼び捨てにすることになってるんだ。昔から。まったく、二人の欧米かぶれはすごいもんさ。特にお袋の方がね。彼女の洋服タンスに国産のものなんか数える程しか入ってないんだ。殆どが、ヨーロッパ旅行かN.Y.在住中に買ってきた服さ。ボクたちの名前をジョンや、メアリーにしなかったのが、不思議なくらいだよ。まったく、ロバートなんて名前をつけられたらたまんないものね。ボクたちの名づけ親は、親父の親父、つまり祖父さんなんだ。彼には感謝してるよ。もうとっても年寄りで、ちょっとボケちゃってるんだけどさ。年に3回くらい誕生祝だと言って、金を送って寄こすんだ。それが、十万円だったり、五十円だったりするんだけどさ。祖父さんは、かなりの金持ちなんだ。先祖は華族かなんかだったみたい。四人も奥さんに先立たれてる女運のない人なんだ。伯父さんは、親の跡を継いで政治屋をやってる。とっても誠実で正義感に燃えているとは言えないけど、根は悪い人じゃないみたい。ま、インチキなのは、政治屋の職業病みたいなもんだからね。親父は医大の教授なんだけど、大学で教えたり、患者さんを診たりするより、TV出演している時間の方が長いんじゃないかな。大企業の嘱託医なんかもやってるから、親父は相当な金持ちなんだ。不動産もかなり持ってるみたいだしね。祖父さんが、お隠れになったら、ますます金持ちになるんだろうね。叔父も叔母もそれぞれ羽振りが良いみたいだし、とにかく、我が一族は揃いも揃って、「やり手」なんだ。
 ヨーコが持ってきた問題は、算数のニュートン算だった。ほら、水槽の中に水を入れてるんだけど、底の穴からどんどんこぼれていっちゃうってやつさ。ちょっとXとYを借りてきて説明してやったら、すぐにわかっちゃった。なにしろ賢い子だからね。ボクと違ってさ。本当は、小学生に方程式なんか、教えちゃいけないのさ。でもボクは、方程式の力を借りずに問題が解ける程、賢くないからね。
「兄さん、今日はどこに行ってたの?」
 ヨーコがボクを『兄さん』なんて呼ぶのは、こういう時だけなんだ。つまり、ボクにとってありがたくない時だけなのさ。
「決まってるじゃないか。予備校だよ。」
「嘘ばっかし。」
 ボクはヨーコには嘘がつけないんだ。いつも、すぐに見抜かれちゃうんだ。何しろヨーコは、ボクよりずっと頭が良いんだから。
「そうなんだ。嘘なんだよ。でもね、今日はとっても素敵な女の子に会ったんだ。本当だよ。」
「その人、美人?」
「わからないな。美人だと思う人もいるだろうし、そうじゃないと思う人もいるだろうね。」
「ヨースケは、どう思ったの?」
 ヨーコがボクのことを『ヨースケ』って呼び始めたら、もう大丈夫なんだ。機嫌が直ってるんだな。
「とってもきれいだと思ったよ。」
 ヨーコはニッコリした。
「その人、どんな服を着てたの?」
「よく見なかったけど、白い服だったよ。」
「丈の長いやつ?それとも短いの?」
 女の子なんだよな。まだほんの子供なのに。
「膝のところが隠れるくらいだったよ。おまえもそういうのが欲しいのかい?」
「うん。襟のところがレースで囲んであるのが欲しいの。」
「明日、いっしょに買いに行こうか?」
「でも・・・・・」
 ヨーコは目を伏せちゃった。遠慮してるのかな。まだほんの子供のくせに。
「金のことなら心配ないよ。先週じいさんから、誕生祝いにって、たくさん小遣いをもらったばかりだから。おまえに洋服の一枚くらい買ってやれるよ。明日は、ちょうど日曜だしさ。」
 本当は、祖父さんから小遣いなんかもらってなくたって、小さな女の子に服を買ってやるくらいの金、ボクはいつでも持ってるんだけどね。
「日曜は、進学教室のテストがあるから・・・・・・」
「いいじゃないか。一日くらい休んだって。おまえはとってもよく勉強してるし、たまには休息も必要だよ。」
「でも、月謝を払ってもらってるのに、パパに悪いわ。」
 ヨーコはとっても義理堅いんだ。まだ、ほんの子供なのにさ。
「じゃあ、そのテストが終わってから行こう。午前中で終わるんだろ?どこかで待ち合わせしてさ。どこがいいかな。進学教室まで迎えに行ってやろうか。」
 ボクはなんだか、どうしてもヨーコにその白い服を買ってやりたくなってた。きっと、それを着たヨーコは、とっても可愛いに違いないし、どうしても、それが見たくなったんだ。それで、かなり興奮してきちゃったんだ。
「でも、いい。やっぱり。わたしみたいな子供にはもったいないもの。すぐに身体が大きくなって、着られなくなっちゃうのに。」
 子供のくせに、すごい倹約家でもあるんだよ、ヨーコは。
「じゃあ君、自分で作ったら?その子は自分で作ったんだって。そんなに難しくないみたなこと言ってたよ。ヨーコは器用だから、きっとできるよ。」
 これは本当なんだ。ヨーコが学校の図工の時間に作った操り人形を見せてあげたよ。そりゃ、見事なんだから。
「本当?本当にそう思う?」
「もちろんさ。今までにボクが、ヨーコに嘘ついたことあったかい?」
「まるでなかったような言い方は、よしてよね。」
 参ったね。ヨーコはユーモアのセンスも、かなりのものなんだ。
「今度彼女に会ったら、頼んでやるよ。ヨーコに教えてくれるようにさ。」
「その人と、会う約束してあるの?」
 ヨーコは目を輝かせてた。ワクワクって感じでさ。
「え?・・・・・してないけど。きっと会えるさ、近いうちに。オレと彼女は縁があるんだ。直感したんだから。」
 ヨーコはちょっと失望したみたいだった。大丈夫だよ。きっと会えるさ。決まってるじゃないか。
「なんて名前?」
「え?」
「その人の名前。なんていうの?」
「イヨ」
「なにイヨっていうの?苗字は?」
「まだ聞いてないんだ。でも、おまえが欲しがってる自転車に乗ってたよ。ほら、車輪がでっかくて、フレームがスマートな奴さ。」
「わたしが欲しがってんじゃないわ。ジュンコちゃんが欲しがってんのよ。」
 ジュンコちゃんてのは、ヨーコの仲良しなんだ。ボクも一度だけ会ったことあるけど、かなりおませな子だったな。ませた子供ってのは、いつもいつも可愛いってわけにはいかないね。嫌いじゃないけどさ、もちろん。
「その自転車で日本橋から高田馬場まで来てたんだ。」
「日本橋って、『お江戸日本橋』の?」
「そう。下町のね。だから途中には上り坂がいくつもあるんだよ。わかるだろ?彼女は日本橋に
 住んでるんだって。」
 一体、日本橋に住んでるって、どういう家庭なんだろう。ボクはこの時、初めて気が付いた。今まで日本橋に住んでる知り合いなんかいなかったんだ。跡無学園に行ってたんだから、そんなに苦しい経済状況にないってことは確かだよな。日本橋が実は広いってこと、ボクは知らなかったんだ。日本橋の駅のまわり、つまりビジネス街なんだけど、と時代劇なんかに出てくる下町情緒たっぷりの光景が重なって一体、どういうところなのか想像もできなかったんだ。
「日本橋って、行ったことないわ。」
「日本橋だけじゃないだろ。ヨーコは家の近所と学校と塾以外は、ほとんど出歩かないじゃないか。」
 無理もないよね。まだほんの子供だし、女の子なんだから。でもヨーコの場合、東京よりも、パリの方が詳しいかもしれない。お袋が毎年夏と春に連れて行ってるからね。
「そんなことないよ。ママと銀座や赤坂にお買い物に行ったりするもの。」
「でも、下町には行ったことないだろう?おまえ『もんじゃ焼き』って知ってるかい?」
 ボクは、日本橋がもういわゆる『下町』じゃなくなってるってことを知らなかったんだ。何しろバカだからね、ボクは。
「なあに、それ?有田焼みたいなもの?」
「違うよ。食べるものだよ。お好み焼きの親戚みたいなものさ。」
「ふうん。それって、おいしいの?」
「ボクはたいしてうまいと思えなかったけどね。絶賛してるやつもいるよ。」
 ボクは成林学園の近くにあった『もんじゃ焼き』屋の店頭の「下町の味、もんじゃ」って書いた幟を思い浮かべてた。
「でも、あまりおいしそうな名前じゃないわね。」
「確かに。」
 少し前に、『確かに』ってのが流行ってたんだけど、知ってるかな?相手に何を言われても、『確かに』って言っとけば、たいていは、まちがいないだろ?『本当かよ』とか、『嘘だろ』じゃ疑ってるみたいで失礼だし、『すごいね』『たいしたもんだ』じゃ、馬鹿にしてるみたいだしね。『確かに』ってのはさ、相手の言ってることが理解できてなくても使える返答なんだな。ま、失礼な話ではあるけどね。誓って言うけど、ボクはそんなつもりでそう言ったわけじゃないんだ。本当だよ。でも、ボクは誓うものなんて、ないんだ。無神論者だからね。君は神を信じてるかな?ジーザスとか、ヤーヴェ、アッラー、ヤヌス、天照大神、なんでもいいや。
 教会に通ったりするやつも結構いるけどさ、多分に、ファッションって感じだもんな。そうじゃない人だって、いるにはいるけどさ。ひどいのになると、日曜の礼拝にナンパに行くんだ。本当だよ。高一の時、隣に座ってたイチローは、G.F.を教会で『ひっかけた』って言ってたんだ。『ひっかけた』だからね。神への冒涜ってもんじゃないかな。まあ、そんなことはどうでもいいんだけどさ。こいつは、変わったやつだったよ。自分の持ち物をいちいちボクに見せて、そのブランドと値段を言うんだ。「このベルト、ヴァレンチノでさ。四万円もしたんだ。参ったよなぁ。」なんてさ。参るのはこっちだよ。しかも、いつでもムスクかなんかをつけてるもんだからさ、傍にいてくさいのなんのって。
 廊下で電話のベルが鳴って、ヨーコが出て行った。すぐに戻ってきて、にやにやと笑いながら言った。
「ヨースケ、高城さんから電話だよ。」
 ヨーコは高城孝志がどういう奴で、どういう時に電話をして寄こすか、ちゃんとわかってるんだな。まったくヨーコにはかなわないよ。
 ボクはできるだけゆっくり歩いた。タカシと話したい気分じゃなかったんだ。まあ、いつだってあまり話したい気分にさせる奴じゃないんだけどさ。
「モシモシ」
「おーい、ヨースケ元気かよ?」
 畜生、こいつはいつも大声でしゃべりやがるんだ。いつもだよ。
「相変わらずさ」
「こっちもあまり変わり映えしないよ。大学つったって、高校の延長みたいなもんだし。共学になったっつっても、不細工な女ばっかだしよ。」
 タカシは中学時代の同級生でさ、ボクは私立の武蔵野学園に行ったんだ。ここは、中高一貫教育で、わりと名門の進学校みたいに言われてるけど、エスカレータ入学できる大学の方は、落ちこぼれのすべり止め。つまりは、掃きだめさ。中には優秀なのもいるだろうけどさ。どんな学校だって一人や二人は優秀なのがいるもんさ。君、まさか武蔵野大学じゃないよね。
 武蔵野学園は私立では珍しく、中高も私服通学なんだ。校舎も、中学・高校・大学がひとかたまりになってるから、タカシみたいな奴は10年間同じ道を通うことになるんだな。まあ、一生同じ会社に通う奴らのことを考えればどうってことないか。
 ボクはよく大学生に間違われたっけ。十時頃に登校してたし、頻繁にエスケープしてたからね。
 私服通学の利点ってのは、途中で煙草が吸えるってことだね。制服通学だと文句言われるだろうけどね。だいたい専売公社って、キチガイの集まりなんじゃないの。『健康のため吸いすぎに注意しましょう』なんて言ってる舌の根も乾かないうちに、新製品のCMをガンガンやってんだから。あんなこと言うくらいなら生産しなきゃいいんだ。
 おかしいのはさ、民間企業で禁煙運動をやったり、禁煙パイプを売ったりして、健康を呼び掛けてるのに、国のほうが、「百害あって一利なし」の煙草を売ってるってことだよ。しかも、法律で禁止しておきながら、未成年者に煙草を売ってるのは国なんだ。笑っちゃうよ。ま、国としては煙草の値段の大部分を占める税金も、大切な財政源なんだから、気持ちはわかるけどね。
「おい、ヨースケ、聞いてるのか?」
「えっ?なんだって?」
「だからさ、ディスコだよ。しっかりしてくれよ。六本木の『マジック』だからな。すぐ来いよ。みんな待ってんだから。」
「わかった。三十分くらいで着くよ。」
 わかってるもんか。聞いちゃいなかったんだからな。でも、だいたいのところは察しがつくさ。数合わせをしたいんだろう。女の子をナンパしたら向こうの人数がこっちの人数よりも多かったってだけの話さ。女の子ってのは、団結が固いからな。一人でも帰っちゃうと、みんな着いて行っちゃうんだよ。だからさ。でもね、女の子ってのはそのくせいつでも、ぬけがけしようと目を光らせてるのさ。男だってそうだけどさ。男の場合はそれを隠したりしないものな。
 とにかくボクはシャワーを浴びて、シャツを取り換えた。べつにお洒落したってわけじゃないんだ。シャワーの後にまた汚いシャツを着る気がしないってだけさ。それから、ちょっとの間、バイクで行くか電車を使うか考えた。結局、バイクで行くことにしたのは、ボクが酒とかを飲むつもりがなかったわけじゃなくて、電車に乗ったりするのが面倒に思えたからなんだ。ときどき、ちょっとしたことでも、たまらなく面倒になっちゃうんだ、ボクは。
「ヨースケ、でかけるの?」
 玄関でヨーコに呼び止められた。
「ちょっと六本木までね。帰りは遅くなるかもしれないから、おまえ悪いけど一人でメシ食ってくれよ。」
「べつにいいよ。お留守番は慣れてるもん。」
 ボクは急にとっても哀しくなっちゃって、出かける気も失せちゃったんだ。
「中学生になったら、おまえも連れてってやるからな。」
「大学生になれたら、ついて行ってあげてもいいよ。」
 ヨーコのやつ、最近、言うことが兄貴に似てきたんだよ。良くない傾向さ。
「タツローは、今日も遅いのかい?」
「土曜日はリアンさんのところよ。」
 リアンてのは、兄貴の恋人なんだ。混血で、なかなかの、いや正しい見方をすれば、とびきりの美人なんだ。兄貴には今までにつきあってた女の人が何人もいるんだけど、彼女のことは本気みたいだな。彼女はちょっとばかしオツムが鈍そうだけど、兄貴にはそのほうが良いんだ。感受性が豊かだったりすると、兄貴の話についていけないからね。前に付き合ってた女の子で、とっても感受性が鋭い子がいてさ、ミユキっていうんだけど、ボクより一つ年上で、もう結婚してるんだ。去年の秋だったっけな。ボクが高一で、彼女が高二の時に、ボクの家に彼女が遊びに来ててね、ジュースかなんかをこぼしてボクが着替えに行ってる間に、兄貴と二人だけで話してたんだ。ボクが戻った時、ミユキ、真っ青だったな。もう少し、ボクが戻るのが遅かったら、ミユキは失神してたかもしれないな。兄貴のやつ、大学でやった遺体解剖の話かなんかしてたらしいんだ。
 ボクの初体験の相手は、実はミユキなんだ。ミユキは初めてじゃなかった。ボクはショックだった。ミユキが経験者だったなんてことがじゃないよ。そんなことはどうでも良いんだ。誰が初めにやるかなんて、こだわるほどのことじゃないじゃないか。もちろん相手の女の子が初めてだったら、男は優しくしてあげるべきだけどね。違うな。男はどんな女の子が相手でも、優しくしてあげるべきだよね。よく結婚するなら、処女じゃなきゃイヤだみたいなことを言う奴がいるけど、それって、一番風呂に入りたがったり、雑誌を一番始めに読みたがったりするのと大差ないと思うな。それにさ、レコードみたいに、使えば使うほど、質が悪くなるようなものじゃないだろう?よくわかんないけどさ。ボクがショックだったのは、彼女が嘘をついたことなんだ。彼女はさ、年下のボクには、自分が経験者だってことは、ショックに違いないと思ったらしいんだな。ボクはその手の思い上がりは好きじゃないんだ。彼女の方が早かったってだけで、どうしてボクが劣等感を感じなくちゃいけないんだ?ボクにとっては、『いつ』ってことより、『誰と』ってことの方が、大切なんだ。絶対的にさ。男と女もさ、初めての相手になることなんか問題じゃないよ。問題は、最後の相手になることなんだ。でも、ミユキはそうじゃなかったわけだ。それを知っててつきあうなんて、ボクにはできないよ。でもボクは優柔不断だったりするもんだから、それが言い出せなかったんだ。ミユキは、すぐに勘付いて、彼女のほうから『さようなら』を言ってきたよ。なにしろ感受性の鋭い子だからね。ボクが考えてることなんて、手に取るように分かったと思うんだ。それからずっと、何もなかったんだけど、去年の晩秋に突然、電話してきたんだ。土曜日だったな。
「ヨースケ、わたし明日結婚するの。」って、唐突に言い出してさ。ボクが戸惑いながら「おめでとう」って言うと、なんだか少し、悲しそうに「ありがとう」ってそれだけ言って切れたんだ。ボクにとっては結婚なんて、別世界の話でさ。自分の知ってる女の子が結婚するなんて、信じられない気もしたな。ボクだって、結婚してもおかしくないトシなのにさ。それから、いつかミユキが言ってた言葉を思い出したんだ。「わたし、結婚するなら春が良い」ってのを。
 ネオンサインの塊が近づいてきて、ボクは六本木に着いた。土曜のよるだったりするもんで、にぎやかなもんだ。まるで、昼の世界を再編成したみたいに。『マジック』ってのは、地下にあるんだけど、フロアもコーナーも広いし、天井が高くて、照明やインテリア、なんといっても、選曲の気が利いてるんで、ボクらはよく踊りに来るんだ。カクテルも味はともかく種類がそろってるし、料理の方も我慢できる範囲だしね。それに、他の店よりもちょっと値が張ることなんかもあって、中学生みたいなのがいないんだ。奴らが来るような店は長くないね。すぐつぶれちゃう。大人の客が寄り付かなくなっちゃうせいかな。
「よう!ヨースケ、早かったな。カッ飛んで来たのか?」
「ああ。」
 タカシの他にはリューイチと、女の子が三人いた。初めて見る顔だ。タカシたちにしてもそうだろうけど。
「こいつヨースケ。中学の時のクラスメイト。」
 タカシの奴、女の子たちの中で、一番イカす娘にしか話しかけないんだ。いつもそうなんだよ。
「こっちが、メグミちゃん。ユキちゃんとサエコちゃん。」
 メグミってのが、タカシに言わせると『ダイナマイト』なんだ。夏みかんを二つ入れたみたな胸をしててさ、ウエストがキリキリにしめつけてあって、デザイナージーンズ向きの尻。真っ黒に日灼けした顔に、パールの化粧してサーファーカット。もちろんその髪ときたら、「サーファーです」って感じに錆びている。ユキも同じ髪に同じ化粧。服まで似たり寄ったり。ただ、メグミよりも、チビで寸胴な感じ。サエコに関しては描写を控えよう。
「じゃ、武蔵野学園なの?秀才ねぇ。」
 ユキがはしゃいで言った。本当にそう思ってるんだよ。気の毒になっちゃうよ。馬鹿な女の子と話してるとさ。
 ボクはウェイターにジンライムソーダを頼んだ。それにしても、ディスコの黒服ってのはどうしてみんな同じような顔をしてるんだろう。リューイチは女の子たちに、スクリュードライバーを注文してやってた。そういう男なんだよ、奴は。ボクはひしゃげた袋から煙草を出して火をつけた。煙でも吐いていなきゃ、こんなところに座ってられないじゃないか。ボクの前に座ってるのはサエコなんだ。畜生。彼女、長い髪を目の前に持ってきて、枝毛を探してるんだ。すごく暗かったりするのにさ。腰に巻き付けてるカバンから『セーラム』を出して吸い始めた。それが無様なんだ。口をとんがらせて笛でも吹くみたいなんだ。自分では、すごくサマになってるような気でいるんだろうけどさ。肺にまで入れてないのは一目瞭然なんだ。イライラしちゃうよ。こういうのを見るとさ。もっと悪いのは、彼女、二重瞼を作ってるんだ。接着剤かなにかでくっつけてさ。上を向いてるときは厚化粧のせいなんかもあって、わからないんだけど、うつむいたりすると、まぶたがひきつれちゃうんだよ。ボクはよっぽど注意してやろうかと思ったけど、止めておいた。女の子ってのはプライドが高かったりするからね。サエコはすぐに煙草をもみ消した。吸殻にはパールピンクの口紅。
「あなたはどこの大学?」
 サエコは社交辞令のつもりで聞いてるんだろうけど、まったくこの手の女の子にはうんざりしちゃうよ。
「どこでもないよ。」
「専門学校なの?」
 ボクはまた気が滅入っちゃった。だってさ、彼女すごく軽蔑したみたいに言うんだよ。専門学校生だと何か不都合かい?
「違うよ。」
「じゃ浪人?社会人ではないわよね。」
「そんなようなもんかな。」
「どこねらってるの?」
「べつに、どこも。」
 サエコは口をつぐんだ。なんて言っていいかわかんないんだな。そのくらいの頭しかないんだよ。
「わたし、あなたのこと知ってるわ。文化祭の時、見たことあるもの。わたし跡無学園の二年生なの。あなた、上条さんと一緒だったでしょ。わたしも演劇部なの。」
 ああ、そんなこともあったっけ。朋子がお姫様かなんかを演ったときだ。可愛かったな彼女。それにしても今日は、なんだって跡無がつきまとうんだ?
「今度の文化祭はね、わたしが舞台監督をやるの。これでも副部長なんだから。」
 舞台に立たないってのは正解だな。
「あなたも見に来ない?招待するわ。」
 跡無祭の入場には招待券が必要なんだ。偉そうにさ。誰でも入れるわけにはいかないってわけ。もっとも当日、校門あたりをうろついてると、必ず招待券を売りに来る子がいるけどね。それが一枚二千円は下らないんだから、まったくナニサマのつもりかね。
「その頃は、忙しいと思うから。」
「あっ、そうね。受験生だもんね。」
 跡無祭なんて、百万円くれるって言われても行くもんか。一千万円なら考えてもいいけどさ。
「あっ、この曲大好き。」
 サエコは目を輝かせた。ボクは、この子がこんな魅力的な表情をするってことが驚きだった。かかってたのは、プリンスの『パープルレイン』。つまり、全米ナンバーワンヒットさ。ボクは、彼の曲ならこの前の『1999』の方が好きだな。終末思想ってやつさ。
「これならビデオ持ってるよ。」
「本当!?」
「嘘なんかつかないよ。」
 まったく、ボクの一番嫌いな言葉、使ってくれちゃってさ。
「あとは、『フットルース』とか、『ブレイクダンス』もあったと思うけど。」
「ウッソオ!!」
 いい加減にしろよな。
「いいなぁ、うらやましいな。それって、日本じゃまだ売り出し前のばっかりじゃない。あなた、お金持ちなのね。」
「オレじゃなくて、オヤジがね。」
「同じことじゃない。」
 同じなもんか。こんなこともわからないなんて、腹が立つより悲しくなっちゃよ。ボクは何も言わなかった。馬鹿な女の子に何を言ったって無駄じゃないか。
 フロアが暗くなってスローな曲が流れ始めた。チークタイムさ。タカシとリューイチは「待ってました」ってかんじで、女の子の手を取って降りて行った。
「何か飲まない?」
「任せるわ。」
 ボクは少しでもサエコと離れていたかったんだ。それでバーカウンターまで行って、バーテンダーにワインクーラーを注文した。彼は実に手早く作り上げちまった。普段なら気持ちいいんだろうけど、この際もたついてくれたほうが助かったのにな。
 ボックスに戻ると、サエコは片肘ついて煙草をふかしてた。
「お待たせ」
「これなあに?」
「ワインクーラー」
「きれいな色ね。」
 サエコは全然飲もうとしないんだ。フロアを見るのに夢中なんだな。彼女がチークを踊りたがっているのは、すぐにわかった。普段なら誘ってやるんだけど、ボクはとっても気が滅入ってたんでね。ウエイターにお代わりを注文してた。がんがんね。
「そんなに飲んで大丈夫なの?」
「え!?」
「バイクなんでしょ?」
 ボクはちょっとスケベな発想をしちゃってたんだ。「そんなに飲んで、ベッドでちゃんと出来るの?」みたいなね。酔ってなくても、彼女を相手にちゃんとやる自信なんてないけどさ。
「酔わないんだ、ボクは。」
 嘘じゃないよ。彼女を相手に酔ったりなんかできるもんか。
「何か食べない?取って来ようか?」
 ボクはとにかく離れたかったんだ。彼女とさ。
「わたし、減量中なの。」
 手遅れの気もするけどな。
「どうして?ちっとも太ってなんかいないじゃないか。」
 これぐらいのことを言ってあげる思いやりぐらい、ボクだって持ち合わせてるさ。
「そうなんだけど、わたしジャズダンスやってるのよ。十一月に発表会みたいなのがあるのね。で、それまでに、もう少し痩せたいのよ。」
 ジャズダンスだって?舞台の床が気の毒になるよ。
「うちの人はみんなスマートなのよ。なのに、わたしだけ太めなの。突然変異かしら?」
 単なる食べすぎだろ。肥満の原因なんて、それしかないんだから。消費熱量に比べて摂取熱量が多いんだよ。小学生だってそれぐらいのこと知ってるさ。
「あなたって、シブがき隊のモッくんに似てるわね。」
「え?誰だって?」
「モッくんよ。いつも画面の右端で歌ってる子。一番いい男よ。」
「似てるもんか。」
「そんなことないって。髪型を同じにすればかなりイイ線いけるわよ。」
 何がイイ線だか。参っちゃうよ。この子ってば誉めてるつもりなんだから。これっぱっかしの頭しかもってないんだ。だいたいボクはそういう安っぽいアイドルは大嫌いなんだ。
「だからわたし、あなたのこと覚えてたのよ。評判だったんだもの。上条さんのカレシて、すごいハンサムってさ。今でも付き合ってるの?」
「いや、あれ以来会ってないんだ。」
「そうよね、上条さんてすっごいプレイガールだものね。毎年、文化祭につれてくる男の人が違うんで有名だったもの。」
 こういうの好きじゃない。みっともないよ。うらやましいって正直に言えばいいのに。
「すっごいブリッコでね。下級生にも評判悪かったんだ。」
 女の子の妬みって怖いね。
「美人だけど、わたしが男だったらああいうのは御免だわ。」
 ボクも君みたいのは御免だね。
「あれは、あれでいいんではないかい?」
「ほぉんと、男の人って美人には弱いんだから。メグミも美人だけどね。あの子はやめといたほうがいいわよ。すっごく遊んでるんだから。」
 で、そのおこぼれに預かってるわけか、君は。
 チークタイムが終わって他の奴らが戻ってきたんで、サエコは口をつぐんだ。
 メグミがボクの隣に腰を下ろして、耳打ちした。
「どうして踊らないの?サエコが気に入らない?」
「そんなことはないさ。」
「まあ、フェミニストなのね。」
 メグミはクスクス笑って意味深な瞳をした。
「それ君のクセかい?妙に意味ありげな視線を投げかけるの。哀れな男どもはこぞって誤解するだろうな。」
「あら、誰にでもってわけじゃないわ。」
 それって、ひょっとして、ボクにモーションかけてるわけ?
「踊りに行きましょうよ。座りに来たわけじゃないでしょう?」
 ユキが割り込んできた。ボクはもう誰とも話したくなかったんで、フロアに降りた。
 なんだか無性にイヨに会いたくなった。皮肉も中傷もない会話がしたかった。
 ボクは踊るのが好きなんだ。昔は毎晩ディスコ通いをしたものさ。渋谷や新宿も行ったけど、六本木が一番好きだな。六本木のディスコならお好みに合わせて案内できるよ。イヨは踊るのが好きかな。嫌いじゃないといいんだけど。イヨとならチークを踊ってもいいな。
 ボクの悪いクセでね、すぐに一目惚れしちゃうんだ。もう病気だよ。何人も一目惚れしては、つきあってみて幻滅するのを繰り返してるんだ。でもね、イヨとなら、幻滅しなくてもすみそうな気がする。ま、今までだって始めのうちは、そう思ってたっけ。
 喉が渇いて、カウンターへ行った。カンパリソーダを注文するといつの間にか横にタカシが来てた。
「おまえを呼んだのは失敗だったな。メグミの奴、おまえのことばかり聞いてきやがるんだ。畜生。」
「へぇ。」
「彼女イカすだろ。近年まれにみるダイナマイトだぜ。」
「オレの趣味じゃないな。」
「じゃ、ユキはどうだ?あの子もおまえに気があるみたいじゃないか。」
「遠慮願いたいね。」
「このホモ野郎。それとも何か?サエコが気に入ったのか?」
「とんでもない。オレは今、恋をしてるんだ。他の女なんて眼中にないよ。」
「やったね!どんな女だ?グラマーか?美人か?可愛いのか?」
「そいつは企業秘密でね。」
「この野郎、もったいつけやがって。」
「そういうこと。もったいなくて、おまえなんかに話せないよ。」
 本当なんだ。タカシみたいなスケベ野郎にイヨのことを想像させるのもイヤなんだ。ボクにとっては近年まれにみるエンジェルだからね。
「でもおまえ、あのサエコって子もなかなかじゃないか。胸なんかドーンとでっかくて。」
「じゃ、おまえが相手してやったら?あちらさんも欲求不満気味だぜ。」
「冗談。オレはメグミ一人で手一杯。二輪車できる程、体力満々じゃないんでね。」
 ボクは胸糞悪くなってきた。そりゃボクだって、かなりスケベではあるんだけど、今夜はそんな気分じゃないんだ。早く帰って眠りたいよ。
 二十二時まで踊って女の子たちを送っていくことになった。タカシたちは車で来てるんだ。かなり遠くに停めてあるんだろうけどさ。で、ボクはサエコを乗っけてくハメになった。あいつらどうせ、まっすぐに送るつもりなんかないんだ。サエコは邪魔ってわけさ。
「わぁ、四百CCね。すごいんだ。」
「家はどこ?」
「市川よ。」
 市川だって!?冗談じゃないよ。まるっきり逆方向じゃないか。千葉県民が六本木なんかに遊びに来るなよな。
「じゃぁ、電車の方が早いんじゃないかな。」
「いいの。わたし、一度こういうのに乗ってみたかったの。それに、うちって駅から遠いし途中の道が暗いから怖いの。」
 怖いってガラかよ。駅からタクシーでも拾えばいいじゃないか。図々しい。
「でも、メットがないしなぁ。」
「平気よ。そんなにスピード出さなければ。」
 こっちは平気じゃないんだよ。捕まったらヤバいのはボクの方なんだよ。
「でも、ちょっとアルコールが入ってるし、土曜の夜だしな。君、補導されたりすると、まずいだろ?」
「じゃぁ、どこかで酔いをさましてく?」
 これってもしかして誘ってるわけ?
「わたしならいいのよ。」
 ボクは良くないよ。
「上野まで送るから、そこから国鉄で帰ってくれない?」
 サエコは不満そうだったけど、ボクはそれ以上のことをしてやるつもりはなかった。サエコは黙り込んだままだ。畜生、どういうつもりさ。ボクは財布の中身を思い出した。まだ五万くらいは入ってるはずだ。サエコの手を掴むと、空いてるほうの手でタクシーを呼び止めた。
「乗って。」
 ボクはサエコを無理矢理くるまに押し込むと、運転手に二万円渡した。
「この子を市川まで送ってください。」
 運転手に告げると、あわてて車を離れた。走り出す車の窓からサエコが大声で叫んだ。
「待って。わたしまだあなたの名前きいてないわ。」
「ヨースケだよ。おやすみ。」
 ボクは一目散に逃げだした。やれやれ、とんだ災難だったよ。
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