第2話

文字数 12,276文字

 突然、けたたましいクラクションが鳴って、ボクは十メートルほど飛び上がった。赤い自転車だ。赤い自転車がさ、自動車の間をぬって、すごいスピードで―と言っても、自転車にしてはってこと―走ってるんだ。月末の午後でさ、車は道にあふれててさ、どいつもこいつも殺気だってんのにさ。そんなことには少しもお構いなしって感じで走ってんだよ。轢けるもんなら、轢いてみろってな具合に。乗ってるのは十代半ばってくらいの女の子なんだ。真っ白なサマードレスかなんか着ちゃってさ。それが、小学生の男の子みたいに走ってんだ。ボクは嬉しくなっちゃったね。髪はまっすぐで、肩甲骨の下ぐらいまであるんだけど、すごく赤くてさ。陽光を反射してちょっときれいな眺めだったな。
 ボクは突然、この娘と結婚したいなって、思ったんだ。なんでそんな風に思ったのか、わかんないけど。でもさ、きっとこの娘とは二度と会えないだろうってことも、ちゃんとわかってたのさ。
 大通りの信号が赤になったんで、自転車は渋々って感じで停まった。チャンスだって思った。これを逃すくらいなら、今すぐに通りに飛び出してって死んだほうが良いと思った。
 ボクは、一メートルも離れていないその娘に声をかけた。すごく甘ったるい声なんか出しちゃってさ。
「今、何時ですか?」
 まさか、いきなり「君と結婚したい」って言うほど、ボクは正直じゃないし、それくらいの世渡りができるトシさ。
「さあ、わたしが聞きたいくらいだわ。」
 チキショウ!ボクは腕時計をしてたんだ。彼女はしてないのにさ。
「時計がイカレちゃってね。」
 イカサナイ言い訳。他になんて言えばよかったんだ?
「どこに行くの?」
 今度は意識的に親し気な口調を使った。彼女は不思議そうにボクを見た。余計なお世話だよな、まったく。
「君、何年生?」
「何年生でもないわ」
 彼女は隣の信号を気にしてた。
「君、急ぐの?」
 急いでるのはボクの方だった。信号が変わっちまうまでに何とかしないと、彼女は行っちまいそうだたからね。
「べつに・・・。でも、わたし映画はあまり好きじゃないし、有利な条件で海外旅行もしたくないし、お金もそんなに持ってないわよ。」
「いや、キャッチセールスじゃないんだ。ボクはただ、君とどこか涼しいとこで、お茶でも飲みながら話がしたいと思って」
 なんてイカサナイんだろ。ボクはいつも、ここ一番に弱いんだ。ナンパなんてもう慣れっこのはずなのにさ。どうでもいい女の子にならスマートな誘い方ができるのにさ。
「おごり?なら考えてもいいわ。」
 これは気に入ったね。お茶に誘われた女の子がさ、おごりならいいって言うんだよ。そこいらの女の子ならさ、おごってもらって当然みたいな顔してるのに。そう言う奴に限って、男女差別だなんだって騒ぐんだな。要するに自分が優遇されればいいと思ってるくせに。
「おごるよ。あまり高くないものなら。」
「お茶じゃなくて、コーヒーがいいんだけどそれでも構わない?」
 参ったね。彼女の言葉に対する姿勢、素敵だな。きっと、とても頭がいいんだよ。
「ボクもコーヒーがいいと思ってたところさ、気が合うね。」
「じゃ、つきあうわ」
 彼女は自転車から降りて歩道に上げた。それから自転車を押して歩道をボクと並んで歩いた。自転車がいいんだ。余計なものが何一つついてないだ。ライトさえついてなかった。彼女もそうなんだお。服と靴以外は何も身に着けてないんだ。イアリングも、指環も、化粧品だって。まあ、これは、彼女がうんと若かったりするせいかもしれないけどね。でも、彼女なら20歳になっても30歳になってもそうなんじゃないかと思えるんだ。
 ボクらは全国チェーンの珈琲専門店に入った。彼女はアメリカンコーヒーを、ボクはアイスミルクを注文した。コーヒーが飲みたいみたいなこと言ってたくせにさ。実はボクはコーヒーが飲めないんだ。
「そういうの好きだな。」
「え?」
「君が、ミルクを注文するみたいなの。」
「どうして?」
「どうしてかな。でも君が、コーヒーよりアイスミルクが飲みたかったから、アイスミルクを注文するみたいなの好きだと思ったんだ。」
 彼女の感じ方わかるな。ボクが体裁をつくろってコーヒーを注文したりしたら、きっと怒って帰っちゃったんじゃないかな。
 ボクが喫茶店でミルクやなんかを頼むと、たいていの女の子は笑うんだ。山下愛子なんてさ、これは以前つきあってて、二か月ほどで会わなくなっちゃった子なんだけど、こう言ったんだ。「あんた、まだママのオッパイが恋しいの?」ってさ。あんなに美人じゃなかったら、2か月もつきあってられなかったよ。高三の時、隣の席にいたテツロウって奴がさ、よくサ店でダベッてたりしたんだけどさ、こいつが、コーヒーにミルクや砂糖なんかをどっさり入れて飲むんだ。どっさりとだよ。それが、ある日突然やめたんだ。何も入れなくなったんだ。どうしてだ?って聞いたら、「彼女がいつもブラックなんだ」だとさ。こういうのは嫌いだね。G.F. がどうやって飲もうが自分は自分の好きなやり方で飲めばいいじゃないか。マズそうに流し込むより、ずっといいと思うけどな。
 ものすごい早さで、コーヒーとアイスミルクがやってきた。ウェイターの野郎、アベコベに置いていきやがった。
「ドジな男ね」
 彼女は自分の前にコーヒーを引き寄せ、ボクの前にアイスミルクを押し出すと、
「いただきます。」
 と、ボクに笑いかけてから、そのまま何も入れずに飲んだんだ。もうちょっとで、「君、テツロウて知らない?」って、聞くとこだったよ。二十三区内にコーヒーをブラックで飲む女の子が何人いるかも考えないでさ。
「君、いくつ?」
「あなたは?」
「二十二歳」
「嘘つきね」
 この言い方が良かったな。「今日は、天気が良いわね」みたいな感じなんだよ。
「君は?」
「あなたの嘘が見破れないトシじゃないわ。」
 これには参ったな。まだとっても若い女の子が、こんな言い方をするなんて、ちょっと愉快じゃないか。
「君、ブルック・シールズに似てるね。そういわれたことない?」
 これは、半分本当で、半分は嘘。彼女はその女優に似た濃くて形の良い眉をちょっと吊り上げると、
「わたしは、わたしよ。誰にも似てないわ。」
 と、少し不機嫌そうに言った。
「ごめん、君の言うとおりだ。あやまるよ」
「では、今回は君の失言を大目に見ましょう」
 いやあ、気に入ったね。彼女はまったく最高だよ。女の子ってのは馬鹿が多いけどさ。もちろん愛すべき「お馬鹿さん」なんだけど。ボクなんか若輩者だから、イライラしちゃうんだ。まあ、ボクのまわりの女の子が馬鹿が多いってだけかもしれないけれど。
「君、松田聖子に似てるね。そっくりだよ。」とか、「中森明菜みたいに可愛いね。」って言ったら、手放しで喜ぶもんな。ま、喜ぶと思うから言ってんだけどさ。よく考えてみろよ。「松田聖子って、ちょっと君に似てるみたいじゃない」っていうのとは、根本的に違うんだな。わかるかなあ。ボクの言ってる意味。
「聖子に似てる君が好き。」なんてことになた日には、これはもう侮辱されてるんだ。こんなのは、誉め言葉じゃないんだ。誉めてるつもりで言ってる馬鹿な男もいるけどさ。そんなやつとは早く手を切るべきだし、馬鹿にするつもりで言ってる男なんか―ボクのことだけど―は、つきあっててもロクなことにはならないよ。保証する。
「さっき、何年生でもないって言ってたけど、何か仕事してるの?」
「パブでアルバイトよ」
「パブ!?」
「そうよ。」
「パブって、酒やなんかを飲んだりする?君も飲むの?」
「飲むのはお客様。わたしは、飲まないわ。」
 こりゃもっともだな。本屋にしろ、魚屋にしろ、買うのは客で、店員じゃないもの。
「いつから?」
「十八時からよ。」
 十八時か。こういう気取り方みたいなの、ボクは結構好きだな。
「そうじゃなくて、いつごろからそこでバイトしてるの?」
「十八歳の誕生日からよ。」
「なぜ?」
「え?」
「なぜ、バイトしてるの?」
「変なことを聞く人ね。お金をもらうためよ。」
 参ったね。
「そうじゃなくて、なぜパブなのか?って聞いてるんだ。」
「おかしな人ね。決まってるじゃない。わたしは仕事を探してて、その店は求人募集をしてたからよ。」
「そりゃいいや。でも、君のご両親は何も言わなかった?その、そんなとこで働くのはやめなさいとか、なんとか。」
「ねぇ、君は、職業選択自由の権利って知らない?」
「ああ、そうか。うっかりしてたよ。」
 六法全書みたいな子だな。まったく。でもさ、ちょっと愉快じゃないか。ボクは、彼女が、ボクのことを呼ぶときに、「あなた」と「きみ」を使い分けてることに気付いた。まだ、自己紹介をしてないんだ。まぬけな話さ。
「ボクはヨースケっていうんだ。君は?」
「イヨ」
「どういう字?」
「伊豆の伊に、予備校の予よ。」
 この時、フルネームを聞かなかったのは、正解だった。きっとボクは不用意にも大笑いして、彼女の気分を害してしまったに違いないからね。彼女の苗字はカワイっていうんだ。まったく、親の顔が見たいよ。自分の子供にこんな冗談みたいな名前を付けるなんて。
「煙草を吸ってもいいかな。」
「いやだ」と言われるはずはないのに、きいてみるんだな。これも礼儀ってもんさ。相手の方にしたって、「いやだ」と思ってても、人間関係を面倒にしたくなければ、「どうぞ」って言わなかならないんだから、困ったもんだな。でも、イヨなら嫌な時は、「いやだ」というんじゃないかな。
「わたしは構わないけど、法律ではダメなんでしょうね。未成年のヨースケ君。」
 どうしてボクが未成年だってイヨにわかったのかは、わからない。ま、ボクの言ってることや、やってることを見れば、ちょっとオツムの中身が詰まってる人には、わかるんだろうけど。
 彼女はいつも本音で話してるんだな。君と違ってさ。怒らないでくれよ。考えてみなよ。いつでも本音を言ってたかどうか。例えば、教師やなんかに締め上げられて、本当は、どうってことないし、たいして悪かったなんて思っちゃいないのに、「深く反省しました」とかなんとか、言った覚えはない?彼女にしたって、いつもいつもってわけじゃないだろうけど、他の人たちに比べれば、「いつも」だと思うんだ。
 ボクは、ポケットからつぶれたラークマイルドの袋を出し、一本抜いて、口にくわえた。ポケットの中のマッチをさがす。ボクのポケットはさ、ガキみたいに色んなものが入っているんだ。袋から飛び出した、煙草やそいつから飛び出した葉っぱ、くしゃくしゃのハンカチや、映画館の入場券の半券。キセルした切符や、定期入れ、財布や剝き出しの小銭なんかがさ。の中からマッチを探りだすのは、なかなか骨の折れる仕事さ。でも、ボクは、他に仕事らしい仕事をしてないからね。
 鼻先で突然火が点いて、ボクはもう少しで飛び上がるとこだった。イヨがライターで火をつけて、差し出してたんだ。
「どうも。」
 ボクは、火をつけてからあわてて「ありがとう。」と、付け足した。あんまりあわてたんで咳き込んじゃったけどね。「どうも。」って嫌いなんだ。みんな、これだけで済ましちゃうけどさ。これだけじゃ、「どうも、すみません。」なのか、「どうも、ありがとう。」なのか、さっぱりわかんないじゃないか。言われたほうは、どっちだったところで、「どういたしまして。」で済むけどね。ま、一言ですべてが済んじゃう便利な言葉ではあるけどね。言葉がなんのためにあるか考えてみてくれよ。
 イヨはくすりと笑った。
「何がおかしいの?」
「なんてことないの。あなたが、『どうも』でやめたら、『どうも、なんなの?』って、聞こうと思ったから。」
 感動もんだね。ボクは感動しやすいんだ。特に女の子が相手だとね。悪いクセだよ。
 それからイヨは自分の煙草に火をつけた。サムタイムなんだな。深く吸い込んで、いかにもうまそうに煙を吐いた。それからショルダーバックの中にライターをしまった。この小さな斜めにかけたショルダーバッグは、マリオ・ヴァレンチノなんだ。ファスナーのとこに、YKKなんて入ってるなくてさ。そういえば、イヨの着てる服もセリーヌファンの女の子が着てるみたいな奴なんだ。前に話した山下愛子ってのは、ブランドキチガイでさ、誕生日のプレゼントに、グッチのバッグか、クレージュのポーチが欲しいなんてぬかしやがった。買い物にもよくつきあわされたっけ。渋谷の西武デパートかなんかでさ。何時間でも鏡とにらめっこしてるんだ。何時間でもだぜ。嘘じゃないよ。で、イヴ・サンローランだの、クリスチャン・ディオールだの、はたまた、シャネルだのの、服をとっかえひっかえ着てみるんだ。そいでもってボクに見せるのさ。自分がどんなに可愛く見えるかちゃんとわかってんだな。実際すごく可愛かったけどさ。この愛子にさ、「その靴、フェラガモだね。」とか、「それ、エルメスのスカーフだろ?」とか言うと、すごく喜ぶんだな。「そう」とか、気のない素振りして見せるんだけど、その実、すごく気にしてるのがこっちにもわかるんだ。
 で、イヨにも聞いてみることにしたんだ。反応が試してみたくなってね。イヨだって、山下愛子と同じかもしれないじゃないか。ボクには見えないだけでさ。実際、ボクは一度素敵だなと思っちゃうと、欠点があまり見えなくなっちゃうって厄介なクセがあるんだ。
「そのバッグ、ヴァレンチノだね。」
 イヨは自分のバッグをまじまじと見た。
「本当だ。そう書いてある。詳しいのね。『なんとなくクリスタル』を読んだクチ?」
「知らずに買ったの?」
 どうも、ポーズじゃなくて、本当に知らなかったっていうか、どうでも良かったみたいなんだな。それどころか、こんなことに気付くボクを少なくとも尊敬はしていないみたいなんだな。
「もらったのよ。」
「誰に?」って聞きそうになったけど、やめた。まだ、そんなに親しいってわけじゃないからね。ボクは生まれた時からの知り合いみたいな気になっちゃってるけどさ。相手もそうとは限らないじゃない。
「その服はセリーヌかい?」
「これは、わたしが作ったの。」
「君が!?そいつはすごいや。」
「ミシンと暇があればだれでも出来るわよ。」
 こいつはいいや。誰でも作れる服に六万も七万も払ってる、暇をもてあましてる女の子たちのことを考えてみろよ。
「デザインも君が?」
「そうよ。でも、デザインってほどの代物じゃありませんけどね。」
 似合ってるんだな。彼女にさ。自分で作ったんだから、当然と言えば、当然だけどさ。
「なぜ、それを仕事にしないんだい?」
「え?」
「そんなに素敵な服が作れるんだったら、それを売ればいいじゃないか。アルバイトなんかしないでさ。」
「バカね。商売ができるほどの出来栄えじゃないわ。それに、自分のために作るのが好きなだけよ。」
「そういうもんかなあ。でもボクは、イヨにパブでバイトしてほしくないんだ。余計なお世話だけどね。」
 ウエイターが灰皿を取り換えに来た。吸い殻でいっぱいなんだ。ほとんどがボクのだけど。ボクには吸いかけの煙草を忘れて、すぐ次のを吸い始めるクセがあってね。酷い時は、四本も火のついた奴が灰皿に入っているんだ。本当だよ。
 イヨの吸い殻は気持ち良かったな。口紅やなんかで汚れてなくてさ。ボクは女の人が煙草を吸うのは、嫌いじゃないけど、吸い殻にべったりと口紅がついたりなんかするのは大嫌いなんだ。まあ、大きなお世話なんだけどさ。
 イヨは窓の外の車の流れを見ていた。なんだかそのまま消えちゃいそうにも見えた。
「ヨースケも車の運転するの?」
「いや、ボクは二輪専門なんだ。免許は持ってるけどね。」
「わたし、車ってあんまり好きじゃないんだな。」
 ボクもさ。
「どうして?」
「人格を感じないからかな。怖いのかもしれない。」
「人格!?」
「そう。走ってる車ってさ、機械が自分の意志で動いているみたいで、中に血の通った人間が乗ってるってこと、よく忘れちゃうんだ。だからかな、恐怖。」
 驚いた。ボクと同じこと考えてるんだ。女の子って、たいてい車が好きなんだけどね。いや、車に乗ってる男が好きなんだ。前に付き合ってた近藤洋子なんか、ボクに十八歳になったら普通免許を取るって約束してくれってごねたもんさ。結局、約束を守っちゃう自分が情けないけどね。彼女は、びっくりするほど、たくさん、車の名前やなんかを知ってたな。それもただ単に知識として持ってんじゃないんだ。乗ってる車で、持ち主の男の大部分を判断しちゃうんだな。例えば、洋子が道を歩いてて―彼女はしょっちゅう、六本木あたりの道を歩いてるんだ。とっても可愛いカッコしてさ―スカイラインなんかが停まって、中の男が声をかけてきたとするだろ。「彼女ぉ、どこまで行くの?乗ってかない?」とかなんとか言っちゃってさ。六本木なんて歩いたほうがずっと早いのにさ。すると彼女は多分、いや、きっとこういうだろうね。「わたし、BMW以外の車には乗らないの。」ってね。もちろん、車の男がすごくイカした奴だったら別だけどさ。ナンパしてるスカイラインにイカす男なんか乗ってるわけないじゃないか。イカした男はみんな峠攻めに出かけてるさ。で、そいつは、そのナンパ男はさ、自分のスカイラインをかなり自慢に思ってたりするわけだな。その車に乗ってるだけで、自分には特権があるみたいにさ。洋子に会ってからは、BMWに乗ってるやつに敵意を抱くかもしれないね。まったく、洋子っていうのは、そういう子だったよ。えらく懐疑的でさ。ボクが何を言っても、「うっそぉ」「ホントウ?」って言うんだ。しまいには頭に来ちゃったよ。すごく可愛かったりもするんだけどさ。ナイス・ルッキングってやつさ。
「今度、どこかに行こうよ。バイクでさ。その・・・・嫌じゃなかったらだけどさ。オレ、安全運転だから大丈夫だよ。」
 何が大丈夫なんだろうね。まったく。ボクは感じのいい女の子の前だと、あがっちゃうんだ。嘘じゃないよ。
「そうね。考えてみるわ。」
 本当に、考えてみるつもりだってのがわかるんだな。女の子って、『考えてみる』とか言って、いつも何も考えてないのにさ。本当だよ。
「イヨは、出身はどこの高校?」
「どこでもないわ。」
「行ってないの?」
「少しだけ行ってたけど、卒業はしてないの。」
「どこに行ってたの?」
「跡無学園」
 知ってるかな?多少、そういう方面に興味がある人は知ってると思うけど、跡無学園てのは、名門のお嬢さん学校ってことになってるんだ。中学と高校がエスカレータでつながってて、同じ敷地に短大もある。その短大の卒業生ってのは、いわゆる一流企業にはもてるんだ。特に中高も跡無で過ごした生粋の跡無娘がね。埼玉県に四年生の女子大もあるけど、そっちは屁みたいなもんさ。企業のお偉方にはさ、この学校の子はみんなつつましく、女らしく、素直なよい子に見えるわけ。実際、彼らの前ではそうなんだ。まあ、中産階級以上じゃないと払えない授業料だし、入学試験の方も、結構難しかったりするから、育ちも成績もある程度良い子が入学するわけだけど、人間ていうのは六年もたてば変わるからね。よちよち歩きの赤ん坊も、漢字が書けるようになるくらいにさ。
 ボクの妹は、妹はヨーコっていうんだ。あとで紹介するけど、絶対にこの学校にだけは、入ってほしくないね。まあ、彼女が行きたいって言うなら、反対はしないけどさ。ボクだって教育の機会均等にたてつきゃしないさ。
 この跡無学園高校の子と三週間ばかし、付き合ったんだけどさ、上条朋子っていうんだけどね。なんかのパーティーで会ってね。とっても純情可憐な子だと思ったんだよ。ボクも、まだまだ女の子を見る目がない頃だったし。ところが、こいつがとんだくわせもんでさ。少なくとも十回は男と寝てるくせに、キスさえしたことないみたいな顔してるんだ。まったく女なんて外見だけじゃわかんないね。彼女には、つまり朋子だけどさ、少なくとも五人は深い付き合いのオトコがいたね。十六歳だったりなんかするのにさ。ボクが彼女の正体を見抜くのに三週間もかかっちまったのは、彼女がすごく美人だったからなんだ。はじめの一週間は手さえ握れなかったよ。ボクも十六歳の頃は純情だったからね。少なくとも今よりは。
「君、上条朋子って知ってる?」
「ええ。もと同級生で、今はいっしょにバイトしてるわ。バイト先ではわたしたちは、アケミって呼んでるのよ。」
 ボクは心臓が破裂するかと思った。聞かなきゃ良かったよ、こんなこと。
「ヨースケ、知ってるの?」
「ちょっとだけね。」
「さてはあなたも、アケミコレクションだったのね。」
「アケミコレクション?」
「そう、豚にたかるハエみたいにアケミに寄って来る男の子たちを、わたしたちはそう呼んでるの。」
「イヨ、彼女にオレのこと聞いたことあるのかい?」
 いやあ、これは馬鹿な質問だったな。
「バカね、そんなことアケミがするわけないじゃない。そんなに口が軽い子じゃないし、あなたが思ってるほどバカじゃないわよ。」
 日本はせまいんだからね。確かに朋子って、ボクが考えてたより、ずっと利口だったのかもしれない。ボクにはすぐ相手を必要以上に馬鹿にするクセがあるんだ。まいっちゃうよ。
「アケミとは親しいのよ。いい加減に見えるところがあるかもしれないけど、それはそれでアケミの魅力でもあるんだな。賢いし、わたしはかなり好きよ。」
「今は彼女どうしてるの?高校卒業してからはさ。」
「そうね、相変わらずよ。女子大に行ってる。大学生になってから一段と綺麗になったわよ。」
「イヨはなぜ高校をやめたの?」
 彼女はちょっと考え込むふりをした。聞いちゃまずかったかな。まだ、そんなに親しいってわけでもないのにさ。
「我慢が足りなかったのね。」
「我慢って?何に?」
「いろいろあるインチキにかな?」
「インチキ?」
「うん。他に適当な言葉がみつからないな。もっと国語の勉強しなきゃね。例えばね、校則にヘア・ダイの禁止ってのがあるの。」
「ヘア・ダイ?」
「髪を染めることよ。それはそれで構わないんだ。でもね、担任はわたしにこう言ったの。『髪を黒く染めてこい』ってさ。禁止しているヘア・ダイを強制するのよ。なんだか、それって、すごくインチキだと思って。それだけが理由じゃないんだけどね。」
「子供の頃の写真とか見せて証明すれば良かったじゃない。茶色い髪は生まれつきだって。」
「もちろん、そんなこととっくにしてたわ。でもね、生まれつきだろうが、なんだろうが、彼らには関係ないのよ。彼らは生徒が黒い髪をしてれば満足なんだから。それに、それだけじゃないのよ。そう言ったでしょう。あそこじゃ、わたしの知りたいことは、何一つ教えてくれないんだ。そんなところに通うのに一日に何時間もつぶすのは無駄だと思って。だから辞めたの。」
 知りたいことを教えてくれないから―一体、知りたいことがわかってる高校生なんているんだろうか?「知らなくちゃいけない」と思われていることを教えてるのが高校なんだよ。じゃあ、誰が「知らなくちゃいけない」って決めるんだろう。本当に、一体高校ってなんなんだろう。大学の予備校じゃいけないはずだってことは確かなんだけどね。でも、人によっては、そうあるべきかもしれない。とりあえず「高卒」っていう免許みたいなものをくれるところだってのが正直なところかな。
「イヨの知りたいことって、どんなこと?」
「そうね。例えば.......ヨースケ、うさぎと亀の話しってる?」
「うさぎと亀?あの、山の頂上まで駆けっこするてやつ?」
 君もしってるだろ?うさぎがのろまな亀をばかにしてさ。亀は怒ったね。それで、うさぎに挑戦したわけだ。山の頂上まで駆け比べをして、もし亀が勝ったら二度と馬鹿にしないと、うさぎに約束させてさ。で、たくさんの動物を立会人にして、レースは始まるわけだけど、もちろん、亀なんてうさぎの敵じゃないさ。うさぎは圧倒的優勢でゴール近くに着く。でも、気負いすぎて若干疲れたんだな。それで亀を振り返ると、まだスタートからいくらも進んでいない。で、ゴールの手前の木陰でひと眠りを決め込んだわけだ。ひと眠りのつもりがぐっすり寝込んじまったんだな。目が覚めた時に、うさぎが見たのは、勝ち誇った顔でゴールに立っている亀だった。って、話。怠けず、焦らず、コツコツ努力すればきっと報われますよって、説話なんだ。
「そう、あのうさぎと亀の話よ。あの亀がね、どうして、うさぎを起こしてやらなかったのか?フェアな競争なら起こすべきでしょ。わたしは、そういことが知りたいの。亀はうさぎを起こしてやるべきだった。そして一緒にゴールに向かえば良かったのよ。そのほうが、うさぎは気持ちよくその後の亀と付き合えたと思うわ。それをしなかった亀の性格は問題だし、そっちをより取り上げるべき話なんじゃないかしら。」
 参ったね。こんなこと、思いつきもしなかったよ。イヨに比べたら、ボクなんてまだまださ。
「それはさ、日本は競争社会だっていう大前提があるからさ。勝者がすなわち、美しいとする根本的意識のせいさ。」
「そうね。資本主義の影響かもしれない。でも、あのお話はもっとずっと古いんじゃないかしら。それとも途中で形を変えてしまったのかな。わたしは、あの亀が嫌いだわ。」
「そうだな、みんなが君のように感じられたら、もっと素敵な世の中になるかもしれない。ボクもそういう意味では、あの亀は好きじゃない。でも、亀の肉体的欠陥を、特徴というべきだね、
 バカにしたうさぎはもっと嫌なんだ。だから、うさぎが負けて、ざまあみろと思ったよ。」
「わからない。勝つってことがそんなに大事なことに思えないわ。それに何が勝利で何が敗北なのか。結局、亀は最後に笑う者だったのかな。わからない。」
 彼女はかなり興奮してるんだな。と、言うより一生懸命なんだ。声は低いんだけど、情熱みたいな、なにかものすごいエネルギーが伝わってくるんだ。
「わからないから教えて欲しかったわけだ。ただ、イヨよりもオレの方がずっと現代社会に毒されているってことだけは確かだな。恥ずかしいよ。」
「でも、それが大人になるってことかもしれないね。」
 イヨはとっても淋しそうだった。あんまり淋しそうで、ボクはこの子とずっといっしょにいて抱きしめていたいって思っちゃったんだ。
「イヨとなら、うまくやってけそうだな。」
 これは嘘じゃないよ。ボクはすごい嘘つきなんだけどさ。本当だよ。ボクみたいな嘘つきに、君は今まで会ったことないんじゃないかな。例えば、ボクのイカレた友だちの一人が、友だちなんて呼びたくもないんだけどさ、とにかく、付き合いのあるやつが、ボクを合同コンパに誘ったとするだろ。女子校かなんかとのさ。ボクは大して行きたくもないのにさ、実際、合コンなんて嫌いなんだ。さも嬉しそうな顔で「喜んで参加するよ。」とかなんとか言うんだ。それで、その日に、しみったれたパブかなんかで、イカレた女の子たちと水割かなんかを飲むわけだ。面白くもない冗談に、死にそうなほど笑ってさ。それで、もう二度と来るもんかって思いながら、誘った奴には、「今日は楽しかったよ。また誘ってくれ。」とかなんとか言うんだよ。まったく、とんでもない嘘つきなんだ、ボクは。イヨなら絶対にそんな嘘はつかないんじゃないかな。
「それ、どういう意味?」
「つまりさ、ボクには本音で話し合える友だちがいないんだ、一人も。でも、イヨとならそういう友だちになれそうだってこと。」
「ヨースケ、それ本当?本当に誰とも本音で話さないの?」
「そうなんだ、今のところ」
「信じられない。わたしは友だちには、誰であろうと、本当に思ってることしか言わないわ。冗談とかはべつにしてよ。みんながそうだと思ってた。そのほうが楽しいのに。人を疑うのはいやだわ。」
「そうさ。まったく君の言うとおりだよ。みんなが君みたいなら、楽しいのにね。今よりずっと。」
「そう思うなら、ヨースケもそうすればいいじゃない。」
 イヨは、そんな簡単なこともわからないボクがおかしくてたまらないってふうに笑った。
「まったく君って子は・・・・・・誰かにだまされたり、裏切られたりしたことないわけ?」
「ないわ。人間てね、信用してる人を、つまり、自分のことを信用している相手を、そうそうたやすく裏切れるものじゃないの。だがらわたしが信じてる間は、誰もわたしのことだましたりできないのよ。だってね、世の中に、悪い人なんていないもの。」
「本当に、本当にそう思うわけ?」
「もちろんよ。そりゃ、時には喧嘩しちゃったり、言い争ったり、誤解することもあるわ。でもね、それはヒトが悪いんじゃないの。タイミングが悪いのよ。すれ違っちゃってるだけなの。そういう時には、ちょっとお休みして待ってれば大丈夫。」
 イヨはとびきりの笑顔をしてた。ボクはこの時のイヨの笑顔を今でもはっきりと思い出せるんだ。ボクに話せることが、嬉しくてしかたないみたいな。
「そうかな、本当にそうかな。ずっと長いこと悪いことしか出来なかった奴でも、素直になれる時がくる?」
「くるわ。」
 イヨは、まったく、きっぱりと言い切ってくれちゃった。
 ボクの直感は外れてなかったね。イヨとなら、一生だっていっしょにいたいもの。
「もう行かなくちゃ。バイトに遅れるわ。」
 イヨは立ち上がった。
「場所はどこ?」
 ボクも伝票を掴むと立ち上がった。
「神田よ。」
「神田ぁ!?ここ、高田馬場だよ。自転車で行くつもり?」
「そうよ。一時間くらいで着くわ。」
「正気の沙汰じゃないぜ。この炎天下にさ。」
「あら、わたし、日本橋の家からここまで、自転車で来たもの。神楽坂はちょっときつかったけど。来れたんだから、帰れないってことないでしょ。」
「そりゃそうだろうけど。日本橋からだったら、東西線で二十分足らずじゃない。なんでまた、わざわざ自転車なんかで。」
「自転車で来たかったからよ。」
 イヨはちょっとムクレて見せた。確かに、余計なお世話だよな。
「じゃ、ごちそうさま。」
 イヨはニッコリ笑うと、レジで足止めを食ってるボクを残して行っちまった。なんて間抜けなんだ、ボクは。まだ、電話番号はおろか、フルネームさえ聞いてないんだ。
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