第5話 歴史上、一番売れた本は?

文字数 2,155文字

忠臣蔵という歴史を扱った本に取り組みながら、わたしはどうにもならない問題に直面していました。
「誰かに読んでもらわないと……。このままじゃ出せない……」
モノが歴史ですから、誰かにチェックを受けなければいけません。
もしかしたら歴史的事実を間違えているかもしれないし、年代や名称を間違えているかもしれないし、何か一つでもミスがあれば大変です。もちろん、自分では何度も見直しましたが、自分一人の判断では当てになりません。
商業出版が決まる前、「本を出すことになったら、編集者というプロが一緒に考えてくれるに違いない」と、わたしは考えていたのですが、もう彼らは当てにならないことが分かりました。

「時代考証どころか、誤字チェックすらしてくれないし……。著作権の問題もわたしに丸投げで、表紙も作ってくれなくて、編集もしてくれなくて……」
編集者は何もしてくれない。助けてくれない。それでも、わたしは何とか一人でやってきたけれど、今度ばかりはどうにもならない!自分一人のチェックで「歴史」を判断して出版するなんて、そんな無責任な真似はできない!

ここに至って、わたしは完全に一歩も動けない状態になっていました。そしてもう一つ……。大きな問題が、わたしの精神を追い詰めていました。

「わたしの作品は面白いのだろうか……?歴史初心者向けに書いた作品だけど、これは読みやすい……?読んでいて楽しい?分かりやすい?分からない……」

感想が一切ない。作家の協力者であるはずの編集者が、何も言わない。このことは日を追うごとに、文章の手直しを加えれば加えるほどに、わたしを追い詰めました。ゆっくりと首を絞められるような、呼吸の機能を止められるような感覚に陥っていきました。

無論わたしにも家族や友人がいますが、14万字の作品を、しかも歴史に興味がないのに、全部綴じていないプリントの状態で、「読んで感想を聞かせてほしい」なんて、とても頼めません。

「誰からも面白いって言われないまま、本を出すの……?いいものかどうか、何も分からないまま、本出していいの……?」

このあたりの記憶はどうも曖昧なのですが、気が付いたらわたしは著作権問題で一度相談をしたN氏に電話をかけていました。

「あの、前に困ったことがあったら相談に乗って下さるとおっしゃっていたので……」

うまく説明できたかどうか分かりませんが、原稿のチェックを誰もしてくれないこと、間違いがないかどうか分からないまま出版できないこと、それから感想がなくて辛いことなどを伝えました。すると……

「いいよ」

とN氏。

「俺は忠臣蔵専門の研究者なんだからさ。原稿見てあげるよ。すぐに送ってよ。住所言うね、メモ大丈夫?」
「は、はい!いいんですか?」

こういうのを、地獄に仏というのでしょう。すぐにお礼の品と原稿を送付すると、一週間ほどで分厚い封筒が返ってきました。

開くと、ぎっしりと赤ペンで書き込みのしてあるわたしの原稿が……。
「この名称は、正しくはこれ」「この人物の剣術の腕はこうだった記録がある」「赤穂藩のこの頃の状況は……」
挙げればキリがないほど添削がしてあります。原稿の余白に書ききれないことは、別に長文の手紙が入っていました。そして、「この本は上げます。参考にしてほしい」と史料の本まで。

お礼の電話をすると、にこやかな声でこう言って下さいました。
「面白かったよ。読みやすいね。中学生でも読めるよ。お互い、歴史の本を書いてる人間なんだからさ、こういう時は助け合おうよ」

N氏は何の義理もないわたしのために、まったくの無償で、ここまでやって下さったのでした。もしN氏が添削してくださらなかったら、わたしは契約違反をしてでも、本を出すことはなかったでしょう。それから続けて、N氏はこうおっしゃったのです。

「俺もさ、若い頃からこの年まで、忠臣蔵の本をいくつも出したけど、最近はダメだね。出してくれる出版社が軒並み潰れちゃってさ。いいところほど潰れちゃうんだよ。誠意のあるところがさ。
今の出版社が出す歴史の本はさ、忠臣蔵が戦ったのは就職活動の為だった!みたいなのばっかりだよ。妙に変わった、話題性だけの本を出すんだよ。それにばっかり金をかけるんだよ。
でもさ……、坂口さん、歴史上で一番売れた本は何か知ってる?」
「あ、もしかして……聖書ですか?」
「そうだよ、さすが先生は良く知ってるね。
いいかい、話題性だけの本なんて、その時はもうかるかもしれないけど、一年もたてば消えるよ。でも王道の真面目な本は、ヒットは出さないけど、少しずつしか売れないけど、ずっと残るよ。読者は分かってるよ。何が一番価値があるのかって……。そういう本を書いていこうよ」

この時の会話を、わたしは忘れる事は出来ません。書く人間の使命というものを、わたしはN氏から教えられた気がします。

編集者がどれほどいいかげんでも、わたしの害になる事しかしなくても、自分の作品には少しの傷もつけてはいけない。自分の力の及ぶ限り、一字一句妥協のない作品を書かないと……。
この時、そう決めたのでした。

この数か月後に、記念すべきデビュー作「忠臣蔵より熱を込めて」は販売されたのですが、わたしはこの作品を待っていた、あまりにも無惨な運命に驚愕することになります。それはまた次回……。
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