第8話

文字数 5,666文字

 一九九二年一月七日、火曜日。
 健一さんに何も言わずに、八神さんが用意してくれた神楽坂の部屋へ引っ越したの。
 私の病状は落ち着いていた。でも、母の記憶は日に日に消えてゆく。
 八神さんも退院したけれど、しばらくは自宅療養。
 そんな時に赤坂の開発プロジェクトが本格的に動き出したの。分からない事だらけの会合。八神さんの息子さん、浩一さんに助けてもらっていたのよ。
 浩一さんはイベント会社の社長。私より十六歳年上で中学生の御子さんも居るの。頼りがいがある叔父さん。お兄さんかな。顔は八神さんに似ているところもあるけど、性格は全然違う。色黒でスポーツマンタイプ。自信家でエネルギッシュ。私には親切で何でも教えてくれる。
 だけど、浩一さんは私の母と八神さんの事をどう考えていたのかしら。時々、気になってしまう。
 
 一九九二年三月五日、木曜日。
「お疲れ様。今日の会合も長引いたね。和子ちゃんも自分の意見、言いなよ。フォローするから」
「はい。有難う御座います」
「今日は六本木に行こう。イイ店があるんだ」
 開発プロジェクトの会合の後に、色々な所に連れて行ってくれる浩一さん。
 今日は六本木の生演奏の御店。私の知らない煌びやかな世界。
 ヴゥワァッ。ヴゥワァッ。ヴゥワァッ。ズゥワァヴァバッ。ヴゥワッ、プゥァー。ドゥォッ。ドゥォッ。ドゥォッ。
 ベースの利いたリズミカルなジャズ。バスドラムの音が胎内で鼓動のように響いている。
「ライブの音は細胞に響くんだ。既製品の音じゃなく魂の鼓動なんだよ」
 嬉しそうに興奮する浩一さん。大人の世界に浸り、私の気持ちも高揚していく。
 ビールを二杯ぐらい飲んだ後、高級そうな御寿司屋さんに連れて行ってもらったの。
「好きなもの、頼んでいいよ」
「私、あまり知らなくて。前に八神さんに銀座の御寿司屋さんに連れて行ってもらった時も分からなくて、お任せだったの」
「あぁ。親父に。そう。大将っ、僕のいつものコースで二人前握って」
 えっ。浩一さんの表情が少し変わったような。もしかしたら、八神さんと浩一さんは、そんなに上手くいっていないのかも。
 浩一さんは普段通りに楽しい話を沢山して、私を笑わしてくれたわ。
「和子ちゃん、今夜は、もう一軒、付き合ってよ」
「えっ。はい」
 御酒を飲み過ぎて、疲れていたけど断れなかったわ。
 連れて来られたのは、中庭にプールの見えるホテルのバー。
 カクテルを二杯ぐらい飲む頃に日付が変わったの。眠くてウトウトしてしまった。
「大丈夫。眠くなっちゃった」
「あぁ、スミマセン」
「明日は何があるの」
「はい。昼前には母の所に行かないと」
「そう。じゃ、ここに泊まっていけば。朝ビュッフェ食べて、ゆっくりして行きなよ。僕も明日は早朝会議だから、直ぐに寝て、朝一番で出るから」
「でも」
「大丈夫。心配ないから」
 そう言って、浩一さんが席を立った。私は不安を抱えながらも、浩一さんについて行くしかなかった。
 ホテルの部屋に入ると、浩一さんが突然、振り向き私を抱きしめた。私がうつむくと、髪を優しくなでてくる。私の顔をあげ、口づけをする浩一さん。優しく唇を合わせ、浩一さんが笑顔を造る。
「あぁ、大丈夫。緊張してる。心配ないから」
「でも、私。浩一さん、奥さん、いるでしょ」
「それは関係ないでしょう。大丈夫。心配ないから」
 私をベットに座らせる。キスをされた。浩一さんの手が私の胸を触る。浩一さんの舌が私の口の中へ押し込まれる。私は歯を食いしばる。
「大丈夫だから。和子、力抜いて」
 ブラウスのボタンに手をかけ、私の服を脱がそうとする浩一さん。
「ダメ」
 私が手を払うと、浩一さんは自分の服を脱いだ。上半身裸の浩一さんが私に覆いかぶさる。強引にキスをして、浩一さんの舌を私の舌に絡めてくる。浩一さんの手が私の局部に入ってくる。
「濡れてるよ、和子。脱がないと汚れちゃうよ」
 抵抗できなくなった私は、服を脱がされ、全裸の浩一さんが私の身体を愛撫する。浩一さんの指が私の膣の中で(うごめ)き、クリトリスを刺激する。御腹の奥で針が動き、蜜の波が流れる。
「嫌っ」
 私は強く抵抗しそうになり、一瞬ためらったの。我慢しなきゃいけないと思ってしまった。そして、力を抜き、受け入れる。待っていたかのように浩一さんが体制を変えてきた。
「待って。私。避妊、」
「分かった。大丈夫、任せて。外に出すよ」
 浩一さんの熱いペニスが私の膣の中に侵入してくる。痛っ。そこじゃない。嫌っ。私の身体に力が入る。浩一さんは強引に挿入してきた。
「ダメっ」
 大きく声をあげたけど私は我慢をした。
 浩一さんが私の上半身を持ち上げ、首筋から乳房、脇を愛撫する。痛みは和らいだ。浩一さんの男臭い汗が肌にまとわりつく。私は自分から腰を動かした。そうしなきゃいけないんじゃないかと思ってしまった。
 クゥチィャッ、クゥチィャッ、クゥチィャッ。蜜液の音がする事さえ不思議に感じる。
 私と浩一さんの、こすれた体臭や愛液の薫りが匂いたつ。浩一さんは激しく腰を動かす。大きく熱い肉の塊が私の奥深くを圧迫する。
「はぁ、はぁ、はぁ」
 浩一さんの荒い息遣い。私の身体も火照ってくる。
 浩一さんがペニスを抜いた。生温かい(うごめ)く露の塊が、私の御腹の上に落ち、腐葉土の臭いを放つ。
 浩一さんが私の身体をふき、抱き寄せる。私は浩一さんの、されるがままに身を任せた。
 
 朝。浩一さんは何事も無かったかのように、いつもと変わらず、明るく接してきた。
「僕、早朝会議だから、先に出るよ。和子ちゃんは朝ブュッフェ食べて、ゆっくり行きなよ。帰り、タクシー使いなよ。これ」
 一万円札を手渡された。独り、音のないホテルの部屋に残された。私は浩一さんが好きなんだと自分に言い聞かせた。実際、嫌じゃないし。だけど、一人になった時に罪悪感が湧いてきた。
 最低。私は熱いシャワーを浴びて帰宅したの。
 自分で流れを変える事は出来なかった。
 開発プロジェクトの会合の後に、必ず食事に誘われる。一度、断ったけど、強い口調で誘ってくると逆らえなかった。
 ホテルでのセックスは、毎週のように三ヶ月続いた。
 生理じゃないのに、私の膣から血が流れ出る。子供の頃から粘膜が弱くて、直ぐに鼻血を出していたの。元々、生理不順もあって、気付かなかった。体調は悪くなる一方。妊娠しているかもと思った時には四ヶ月目に入っていた。
 私の部屋で浩一さんに話したの。
「えー、いつからだよ。病院は行ったの」
「お盆だから、明日、予約したの。一緒に行ってくれますか」
「うっ。んー。だけど、分かるだろ。とにかく早く確かめて、取りあえず、これっ」
 十万円を渡された。
 浩一さんへの気持ちが冷めていく。彼は何も無かった事にして家庭に帰っていく。
 自分が情けなかった。
 浩一さんが帰ろうとした時、玄関に八神さんが立っていたの。私は目に涙が溢れ、声にならない声を漏らしたの。
「八神さっ。あっ、のぉ。わたっし」
 八神さんが、浩一さんを掴んで怒鳴ったの。
「お前ぇ―」
 浩一さんは、八神さんの手を払いのけ出て行ってしまった。
「ごめんなさい」
 私は、その場にしゃがみ込み。声を出して泣いた。八神さんが私の肩を抱き寄せる。
「和子ちゃん、大丈夫。ごめんね」
「八神さんが謝る事は一つもないですから。やめてください」
 いつか聞いた事のある台詞だった。八神さんが苦しそうな表情で涙を流した。
 私は八神さんに全ての事情を話した。翌日、八神さんに付き添われて病院に行ったの。

 一九九二年八月十九日、火曜日。
 二十一週、もしくは二十二週に入っているだろうと言われたの。ギリギリ堕胎の手術が出来るかも知れないが大掛かりな手術で、かなり危険があるらしい。妊娠二十一週の中絶は死産扱いで、二十二週に入った人工中絶は罪に問われる事もあるらしいの。
 エコー写真に写る赤ちゃんはハッキリとした人間のカタチだった。堕胎の手術をする決心が鈍る。時間が無かった。待合室で八神さんが隣に座った。
「和子さん、産むかい。私が全責任を持つよ」
「そんな。八神さんに、そんな事。でも正直、どちらも不安で」
「和子さん、一人で抱え込まないで」
 心配そうな八神さん。
 私は中絶を考えていたの。でも、エコー写真に写る赤ちゃんの残像が頭から離れない。
『和子には母親になってほしかったって思って』何故。今更、去年の暮れ、健一さんに言われた言葉が蘇ってくる。だけど、一人で育てる自信がない。取りあえず、その日は帰宅したの。

 一九九二年八月二十日、水曜日。
「いやぁっ」
 目覚めると暗い部屋に独りだった。中学生の頃に観た血まみれの卵の夢。不安が一層募る。大きくなり始めた御腹に手を置く。
 私は予約時間より早めに病院へ向かった。
 私の癌治療の主治医と産婦人科医に相談してみた。今の状態なら出産は出来るけど、子供に障害の可能性があるかも知れないと言われたの。
 決断できないままの私に寄り添ってくれる八神さん。
「産もう。私の責任で浩一にも筋を通させる」
 私は心を決めた。御腹の中に居る赤ちゃんの命を守る。
 体調も気持ちも不安定になっていく私。八神さんは毎日のように顔を出して気遣ってくれる。浩一さんは一度も姿を見せなかったわ。

 近頃は活発になった胎動で赤ちゃんの動作が分かるの。
「あっ。また蹴った」
「そう。元気に育っているね。そろそろ名前つけたらどう。男の子でしょう」
「私、母の両親から一文字づつとって、佳伸にしようかと思って」
「佳伸。佳く伸びる子か。早く大きくなって、母さんに楽してもらわないとな。和子さん、今は無理しないようにね。キクさんの所へは私が行くから」
「八神さんも無理しないでください。もう少しで安定期に入りますから私も動かないと」

 一九九二年十二月二十三日、水曜日。
 一ヶ月近く前から入院していたの。出産予定日が近づいても陣痛はなかった。母体と子供の安全を考えて、当初の予定通りに帝王切開の準備に入る。主治医の判断で赤ちゃんの安全の為、早めに手術室に入った。それでも、準備が出来たのは夜中近くだったの。

 一九九二年十二月二十四日、木曜日。
 テレビで残虐なニュースが世界中に流れた。ヨーロッパの女性達が理不尽な理由で強姦、妊娠させられる。人生の苦しみを背負わされている現実。
 その年の暮れに佳伸は産まれたの。目覚めると激痛が走った。
「いったぁーっ。痛っ。いぃゃぁー。痛いっ」
 帝王切開の後に痛みがしばらく続いた。
 産着に包まれた佳伸を抱いた。しわくちゃの御猿さんを想像していたけど、しっかりとした人間だった。寝顔が可愛いと思ったけど、帝王切開後の痛みが続き、感激したとは言えなかった。落ち着いてから佳伸の寝顔を見た時に愛おしさが湧いてきた。

 毎日が長く一瞬で終わる。目覚めると昼と夜が分からなくなる。深夜の夜泣きが辛い。どうする事も出来ずに佳伸を抱き夜道を歩く。自分が悪いのかと思うと、このまま佳伸と死んでしまいたいと考えてしまう。入浴時の格闘。汚物の処理。いっぱいいっぱいだった。救いは昼間、八神さんが三時間くらい佳伸を見ていてくれる事だった。買い物を済ませ、家事や身の回りの整理。三十分だけ一人で休む時間を作れた。
 母の所へは月に二回、顔を出せる程度だった。八神さんは夕食時、毎日のように通っていた。

 一九九三年五月五日、水曜日。
 小料理キクの常連客だった広告代理店の局長さんが佳伸の初節句の御祝いを持って訪ねて来てくれたの。
「やぁ、局長。お久しぶり。あっ、局長じゃなくて取締役だったね」
「いやいや。もう引退ですよ。自分も来年で六十歳になりますから。ところで、八神さん、浩一君は。最近、イベントの仕事も減っているみたいだけど」
「はぁ。不景気もあるけど、嫁に、こっ酷く締め付けられて縮こまっているんでしょう。その前に浩一は人として、なっとらん。自分の責任を全う出来ない奴は仕事だって駄目になりますよ」
「そう。佳伸君の認知、まだなの。和子ちゃん、心配しないでね。何があっても子供の権利は守られるような法律じゃないとね」
「私は認知してくれなくても」
「和子ちゃんの問題ではなく、子供の権利の問題だから。キッチリしときな。これからは特にね」

 その一週間後。浩一さんの奥さんから私宛に内容証明で不倫の慰謝料の請求書が届いた。
「和子さん申し訳ない。浩一の嫁さんは、彼女なりに自分の息子を守りたいだけなんだ」
「八神さん、分かっています。悪いのは私ですから」
「とにかく、浩一には佳伸に会いに来るように、きつく言っておくよ」
 その後、浩一さんの奥さんと八神さんが弁護士を交えて話し合った。それ以降、慰謝料請求の連絡はなかった。

 一九九三年十月十日、日曜日。
 この日の夕方、佳伸を連れて八神さんと三人で母の居る施設を訪れた。
 寝たきりになっている母の枕元にベビーカーを近づける。
「御母さん、佳伸よ。大きくなったでしょう」
「えぇっ。和子。和子っ。お腹空いたの」
 佳伸に手を伸ばしながら、悲しそうに私の名前を呼ぶ母。
「和子は私よ。佳伸。御母さんの孫よ」
「和子」
 私を涙目で見る、不安そうな母。寂しい思いをさせてごめんね。
 八神さんが母の腕をさすりながら語りかける。
「キクさん、心配ないよ。大丈夫。ゆっくり休んでね。和子ちゃんも元気だよ」
 母は安心したように目を閉じる。
 元気な頃の母の面影と、今の母の姿が重なり、切なさで哀しくなる。
 母を見る八神さんの優しい眼差し。
 もし、母が今を幸せに感じていたら、それで良い。そう思う事が唯一の救いだった。

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