第7話

文字数 5,106文字

 ☆

 一九八三年六月十七日、金曜日。
 不安になり手のひらを見詰める。私は血まみれの卵を抱いていた。
「いやぁっ」
 夢だった。下着を取り換える。月蝕の月のように赤黒い色をした経血の塊が獣の臭いを放つ。ここのところ、重い生理に悩まされていたの。
 硬い乳房が割れるように痛い。早熟の同級生の大きな胸を羨ましがる子も居たけど、自分の身体つきが女性らしくなっていくのは怖かった。女という生々しい肉体に、思考まで支配され、逆らえない世界に引き込まれてしまいそうだったの。
 その日の午後。母の声は慌てていたわ。
「和子。喪服と香典袋を出しといて。八神さんの奥さんが亡くなったって」
「えっ。御病気だったの」
「分からない。心筋梗塞だって」
「そう。御母さん、落ち着いて。お通夜はいつなの」
「明日だって」
「そう。どうするの。今夜は御店開けるの」
「そうね。そうね。あたしが今夜、駈けつけても迷惑よね。御店も開けなきゃね」
 落ち着きを取り戻した母は開店準備を始めた。

 一九八三年六月十八日、土曜日。
 母は、お通夜には行かず、御店も閉めていたの。
 その日は一晩中、小雨が降っていた。

 一九八三年六月十九日、日曜日。
 雨上がりの街に現れた木漏れ日がリズムよく煌めきだす。
 母は喪服を着て、告別式の会場に向かった。私も中学の制服を着て母について行ったわ。
 高校の運動部員達が無縁坂を全力で駆け上がり、母と私を追い抜いていく。
 告別式の会場に着くと、母は受付に香典を置いて引き返した。
「御母さん、焼香とかしていかないと」
「いいのよ。行くわよ」
 あの日の母の後姿。中学生だった私は、母と八神さんに関係があったかも知れないと想像した。

  ☆

 一九九一年十月二十六日、土曜日。
 ニィャァ、ニィャァ、ニィャァ。
「あっ。また来た来ちゃたのっ。困ったわねぇ」
 飼い猫のトミヲに餌をあげていたら、若い雌の白猫が二階の窓から入って来たの。トミヲは、もう歳だし去勢手術も済ませているから安心していたけど。
「あらっ」
 白猫の御腹が大きいかも。もしかしたら。

 一九九一年十一月三日、日曜日。
 気づいたら遅かったの。二階の軒下で一晩中、鳴いている白猫を部屋に入れてしまった。翌朝、三匹の子猫が増えていたわ。トミヲは知らんぷりでマイペース。
 どうしよう。こんな事まで八神さんに頼めないわ。私は近くのペットショップに電話して里親探しを頼んだの。期待出来そうにはなかったわ。
 健一さんに連絡したの。とにかく、子猫達をどうにかしないと。
 健一さんは熱心に里親探しをしてくれたわ。それがキッカケになり、二人で会うようになったのよ。いつも、青山墓地近くのカフェで健一さんは待っていたわ。
 カンパリの苦い香りが懐かしい。
 母の介護、御店の準備、私の通院と、ストレスが溜まっていく。そして、小料理キクの立ち退き問題。赤坂の開発計画が本格的になって来たの。
 私は健一さんに子猫の事を押し付けて、文句まで言うようになってしまったわ。何故か、健一さんにだけワガママになってしまう。それなのに優しく全てを受け止めようとしている。そんな健一さんが返って嫌だった。
 今想うと、私が産まれて初めて甘えた相手は健一さんだったのかも。

 一九九一年十一月二十三日、土曜日。
 子猫の里親が決まった日。私は自分の病気の事を健一さんに話したの。
「体調は大丈夫なの」
 言葉を探し、やっと見付けたような健一さん。
「うん。今、症状は落ち着いているの。私は大丈夫だから。もう、ありがとう」
「イヤ。傍に居たい」
「ダメヨ。健一さん。沢山、色々な所に行ったね」
「そんな事ないよ。ぜんぜん。まだ、行っていない」

 一九九一年十二月十六日、月曜日。
 小料理キクの開店準備をしていたの。
 御店の外に立っていたのは四十歳くらいの背が高く、筋肉質の男の人だったわ。マジマジと御店を見回していたの。
「あのー。何か御用ですか」
「あぁ。君が高橋和子さん」
「はい、そうですけど。どなたですか」
「そう。僕、八神浩一です」
「えっ、八神さんの」
「あぁそう。息子です。親父が入院して」
「えっ。どうなさったんですか」
「取りあえず検査入院。ここのところ微熱が続いててね。今日は昼まで起きれなくて、無理やり、入院させたんだ。親父が高橋さんに会いに行くって聞かないもんで。僕が代わりに。あっ、これっ。開発計画の書類」
 浩一さんは御父様が入院したのに落ち着いていた。ずっと、小料理キクの外観をキョロキョロ見回しながら書類を差し出したの。
「有難う御座います。御父様には色々と御世話になってスミマセン。とても優しい御父様ですね」
「ふーん。さぁ。いつも忙しくしてて。僕は子供の時から一緒に遊んだ記憶も無いんですよ。夜中に帰って来て、朝早く出て行って。家で、くつろいでいる姿を見た事もない。家族旅行もした事無いんですよ」
「はぁ、そうなんですか」
 私は申し訳ない気持ちで浩一さんに引け目を感じ、目を伏せたの。
「じゃ、僕、行きますから」
「はい。有難う御座います。あの、御父様の病院は何処ですか」
「あぁ。大した事無いからイイですよ。これからは僕が。また来ますから」
 浩一さんは、そのまま行ってしまったわ。

 一九九一年十二月二十三日、月曜日。
 健一さんは毎日のように私の所に寄って気遣ってくれる。
「白猫が出て行ったんだって」
「うん。だけど、トミオが調子悪くて。夕べから何も食べないの」
「えっ。どうしよう」
「もう、駄目かも。健一さん、上がって。トミヲ、上で寝てるの」
 初めて家族以外の人を部屋に招いたの。健一さんに心を開いていたのかも。だけど来月には、この部屋を出て行く事は言えなかった。
 歳が明けたら、八神さんが用意してくれた神楽坂の部屋に引っ越し。
 都市開発。母の介護。私の病気。いっぱいいっぱいだった私は、ひとまず御店を休む事にしたの。そんな時、八神さんまで体調を崩してしまい入院したの。
「何にもない部屋でしょう」
「絵、まだ、()いてるんだ」
 健一さんは、私のスケッチブックを見付けたみたい。
「スケッチだけ、時間も無いし」
「体調は大丈夫なの。このへんの開発も進んでいるみたいだし」
「うん。八神さんも相談に乗ってくれるし。でも、八神さん、体調崩して、先週、入院して。今、八神さんの息子さんに色々教えてもらってるの」
 しばらく沈黙していた健一さんが私を抱きしめて言った。
「でも、俺の事、好きだろ」
「ぜんぜん」
 健一さんが私にキスをした。私は目を閉じて身を預けたの。
 健一さんが強く私を抱きしめる。
「私、今、放射線治療をしているから子供は諦めているの」
「そんなぁ。和子は、まだ若いんだからさっ。うんっ。ん。そうっかぁ。ゴメン。ただ何ていうか、和子は小さい頃から家族の愛情に恵まれなかったから、和子には母親になってほしかったって思って。ゴメン。無責任な事を言って。俺と一緒になって」
「駄目。駄目よ」
「子供は要らない。和子と一緒に居たい。もしも子供が出来ても。障害のある子が産まれても。和子に万が一の事があっても俺が育てる」
 日が暮れ、部屋が暗くなる。
 ニィャァ。
 トミヲが力無く鳴いたの。
「トミヲ」
 私は健一さんから離れて、トミヲに添い寝をした。
 冬の空気が冷たかった。健一さんが呟くように言ったの。
「寒いね。温泉でも行きたいね」
「いいね」
「よし。行こう。年明けの日曜日。予約するよ」
 私は黙って頷いたの。
 その日の晩、トミヲが亡くなった。

 一九九二年一月五日、日曜日。
 駅のホームで健一さんは待っていたわ。なんだか信じられない。そんなつもり無かったのに。不思議。何で、こんな事になっちゃたんだろう。健一さんは頼りないし、私とは考え方も趣向も違う。しかも、子供をつくる気のない私は健一さんとの結婚はあり得ない。
 健一さんは明るく接してくれる。いつも、私の不安を打ち消すように笑わそうとしてくれるの。それに甘えてしまったのかも。
 電車を待つ家族連れ。五歳くらいの女の子と二歳ぐらいの男の子が楽しそうにはしゃいでいる。健一さんと目が合って笑う子供達。健一さんも嬉しそうに表情を変え、子供達を喜ばしている。
「健一さん、子供、好きだもんね」
「えっ。うーん。どうかな」

 湯河原の駅を出ると、西の空が青から桃色のグラデーションに染まっていたわ。私と健一さんは無言で、その空へと続く一本の道を歩き出したの。オレンジ色から紫色になっていく空。やがて、海の香りが漂う。海岸沿いを歩く。潮の香りが私達を生き返らせる。海から吹く風に洗い流される。誰も居ない浜辺。波の音が健一さんと私の鼓動のように繰り返す。
 ズゥワァーバァ、ズゥワァーバァ、ズゥワァーバァ、ズゥワァーバァ、、、。
 海原に夕陽が反射して、遠くの水平線まで輝いている。健一さんが私の手を握る。私は黙ったまま、身を任せる。何も話さず海岸線を歩く。
 ズゥワァーバァ、ズゥワァーバァ、ズゥワァーバァ、ズゥワァーバァ、、、。
 二人は同じ波の音だけを感じていたの。砂と波と大空の世界に健一さんと私だけがいる。
 廃墟のような小屋があったの。
「さすがに海の家は、まだ、やっていないか。国道の方に行ってみよう」
 健一さんは私の手を引いて国道に出た。道路沿いの定食屋に入ったの。
「えーと。海鮮丼二つ。あと、ビール一本にグラスを二つで御願いします。大丈夫ですよ。二十歳、超えてますから。はっはっはぁ」
 笑顔の健一さんがビールグラスを私に勧める。
「飲めるんでしょう」
「じゃ、少しだけ」

 海岸から宿に向かう為、駅前に戻ったの。
「あっ。これ、食べた事ある」
 湯河原駅近くの御土産屋さんの前で私は立ち止まった。
「きび餅。へぇー。湯河原に来た事あるの」
「ううん。御土産で、もらったんだと思う」
 それは私が小学六年生の時。泊りの林間学校から帰宅した時だったの。家に、きび餅があった。その時は御客さんの御土産だと思ったの。だけど、もしかしたら御母さんは、ここに来た事があるのかも。何故か、そう感じたの。

 湯河原の温泉宿には部屋に小さな露天風呂があったわ。
 夕食後、大浴場から帰って来ると健一さんは窓の外を見ていた。彼の背中を見ながら、私は健一さんを幸せに出来ないと分かったの。
「あぁ、お風呂、気持ち好かった。この部屋、暑いわねぇ」
「あぁ、暖房、消そうかぁ」
「大丈夫」
 私は健一さんの背中にもたれかかった。健一さんが私を抱き寄せる。
「灯かり消して」
「あぁ」
「待って。避妊も御願い。もし赤ちゃんできたら」
「分かってるよ。コンドームあるから」
 健一さんが私の頭を撫でて口づけをする。健一さんの舌が激しく、強引に私の舌に絡まる。浴衣がはだけた私の乳房に健一さんの手が触れる。顔を背けると、私の左の乳房を愛撫する健一さん。健一さんの右手が、私の局部に延び、指を挿入された。えっー。いぃゃぁっ。あっ。自分が自分でなくなってしまう。
「待って、待って、待って。ちよっと」
 私は健一さんの手を跳ね除けてしまったの。
「あっ。イイよ。大丈夫。ゆっくりね」
「待って、待って、待って。ちよっと」
 同じ事を繰り返してしまう。健一さんは優しく私の局部を撫でた。健一さん自身が私の中に入ってくる。汗、びっしょりの健一さん。熱い。何だか不器用に、ぎこちない健一さん。
「うわぁ」
 私の中の健一さんが小さくなって消えていく。私から離れて汗を拭く健一さん。
「うわぁ。暑いね」
 一生懸命な健一さんを見てショックに思ったの。私が悪かったのかしら。
「ごめんなさい。満足させてあげられなくて」
「えっ。違うよ。違う」
 私に抱きつく健一さん。だけど、健一さんのペニスは大きくならなかった。
「私、お風呂、入る」
「あぁ、俺も」
 二人は部屋の露天風呂に入ってキスをした。
 結局、その日の晩、健一さんが私の中で満足する事はなかった。
 
 翌朝、私は、あらかじめ用意していたプレゼントを渡したの。
「あっ、カフス。ありがとう」
「仕事の時とかに使えるかしら」
「うん。使うよ」
 私は最後まで小料理キクを閉店する事が伝えられなかった。
 帰りの電車で、うたた寝をする健一さんをいつまでも見ていたの。

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