第6話

文字数 6,700文字

  第二章『花火』

 一九八九年。その年は世界中が騒然としていたわ。その年の初めには東京の女子高生が惨い殺された方する事件が起きた。
 その頃、私はアルバイトをしながら絵の勉強をしていたの。

 一九八九年三月二十七日、月曜日。
 ジリィリ―、ジリィリ―、、、。
 私の住む江古田のアパートに電話のベルが鳴り響いたの。御母さんが階段から落ちて、入院したらしい。
 病院に着くと、八神のおじさんが待っていたわ。
「あぁ、和子ちゃん。御店を開けようとして、二階から降りる時に階段で落ちたらしいんだ。後で御医者さんから説明があるけど、どうやら御母さん、脳梗塞らしいね」
 その時の私は、これから何が起こるのか分からなかったの。

 一九八九年三月二十八日、火曜日。
 私が産まれ育った赤坂の街。
 カウンター五席の小さな小料理屋の二階。六畳一間の部屋に、二年前まで母と二人で暮らしていたの。
 隣のビルの二階にあるバー。八神のおじさんに連れて来られて、初めて訪れる空間。
 カラッ、コロッ。
 重そうな扉を開けると、煙草の煙と高級そうなウイスキーの香りに包まれたわ。薄暗い店内に流れるジャズの音。同伴出勤前のホステスさんたちの笑い声。サラリーマンの人達の会話。私の知らない世界。
「こんばんは。八神さん。お二人ですか」
「やぁ、マスター。この子、キクさんの娘さんだよ。和子ちゃん」
「あぁっ、そうですか。大変でしたネ。どうぞ、こちらへ」
 カウンターの奥の席を案内されたの。
「何に致しましょう。和子さんは御酒は大丈夫なの」
「キクさんの娘だから御酒は強いでしょう。和子ちゃんは今年二十歳だね。バーは初めてでしょう。マスターに言えば何でも作ってくれるよ」
「何か、暖かい飲み物、ありますか」
「はい。そうですね、少し苦みのある御酒は大丈夫ですか」
「はい。お願いします」
 バーのマスターが作ってくれた御酒が目の前のカウンターに置かれたの。御店の灯かりでキラキラと輝く真っ赤な御酒。それは少し苦みのあるカンパリだったわ。
「和子ちゃん、御母さんの病院とリハビリの手配はしといたから。問題は御店の事なんだけど」 
 私は何をすればいいか分からず、返事が出来なかったの。マスターが心配そうに訊ねてきたわ。
「キクさん、仕事中に倒れたらしいですね。脳梗塞って聞きましたけど、後遺症は大丈夫なんですか」
「んっ。リハビリして良くても車椅子だろうな。店は無理だろう。それでな、和子ちゃん。御店を引き継ぐ気はないかい」
「えっ。私が。無理です。バイトもあるし」
「和子ちゃんは絵の勉強しているんだっけ。芸大を目指しているのかな。とにかく、勉強は続ければいい。まずは御母さんの事もあるし、生活を優先する事。悪いようにはしないから。小料理キクを続けていれば大丈夫。必ず、良い事があるから」
  
 とにかく、目の前の事を一つ一つ解決していくしかなかったわ。私はすぐに江古田のアパートを引き払い、アルバイトを辞めたの。
 掃除に仕込み。御店の手伝いは小学生の頃からやっていたけど、分からない事だらけ。救いだったのは開店直後に、いらっしゃる御客様は八神さんはじめ、みんなが私の事を子供の頃から知っている方ばかり。失敗を許してもらって、仕事も教えてもらったの。

 一九八九年五月七日、日曜日。
「やぁ。和子ちゃんだっけ。俺、そこのバーの」
「えぇ。はいっ」
 声をかけてきたのは、隣のビルので働いている人だったの。
「俺、沢村っていいます。沢村健一。大変だね、御店。ここの二階に住んでるの」
「はい。取りあえず節約しないと。贅沢できないので」
「ふーん。そう。今度さ。飯でも食おうよ。御馳走するよ。あっ、そうだぁ。花やしきって行った事ある。浅草の。チケット二枚あるんだけど行ってみない」
 えっ。何っ。どうしよう。いきなり困ったなぁ。でも、同じ年ぐらいの人と話すのが何だか久しぶりな感じで新鮮だったの。
「えっ。あっはぁ。花やしき。行った事ない」
「そうっ。行ってみよう。今度の日曜日は。神谷バーって知ってるぅ。そこで一時半に」
 うわぁっ。強引。まぁ、一回ぐらいイイかな。

 一九八九年五月十四日、日曜日。
 母の病院に行ったら、八神さんが居たの。左半身が不自由になり、ある程度の介護が必要な母。いつもより少し遅れて病院に着いた時、母の昼食の用意がしてあった。
「スミマセン。八神さん、私がやりますから」
 八神さんは私が子供の頃から、何かと気にかけてくれたの。
 私が九歳の時、父が失踪した。その翌日からは毎日、母の御店に通い、私にも優しくしてくれる。あの頃、八神さんを御父さんのように感じていたのかも。
 こんな事を考えたら失礼かもしれないけど、八神さんは母の事が好きだったのかもと考えてしまう時がある。母に、その事を聞いた事はないけど。母を見る八神さんの表情が忘れられない。

 左手が動かず不器用に食事をする母。母を見守る八神さん。大きな窓から差し込む午後の明かりが二人を包んでいたの。

 一九八九年五月十四日、日曜日。浅草。
 待ち合わせの時間を随分と過ぎてしまったの。正直、脚が重かった。出来れば待ち合わせ場所に健一さんが居なければいいと思ったわ。
 約束の時間を一時間半も過ぎてしまったのに彼は、そこに居た。少し驚いたけど気が重い。私より素直で明るい子を誘えばいいのに。彼は帰ろうとせずに待っていたの。
「ごめんなさい。もう、居ないかと思った。道が分からなくて」
「あぁ、どうしたかと思ったよ。ちょっと神谷バーで一杯飲んでいこう」
 何で怒らないの。怒って帰ってもいいのに。
 健一さんはマイペースで、神谷バーに入っていき、ビールを飲みながら話し始めたの。
「花やしきに日本最古の木造ジェットコースターがあるんだって。俺、実はジェットコースターって苦手なんだよね」
「はぁ。私はジェットコースター大好きなの」
 二十分もすると健一さんは、さっさとビールを飲んでしまったの。
「大丈夫。全部、飲める。残してもイイよ。そろそろ行かないと時間が無いかな」
「大丈夫です」
 神谷バーを出ると、速足で前を歩く健一さん。
 初めて入った花やしき。健一さんは苦手だと言っていたジェットコースターに真っ先に向かったの。
 ガタッ、ゴォッ、グゥォ―。
「ヴッギャァー」
 ジェットコースターが動き出して直ぐに、信じられない叫び声を出し、私の手を力いっぱい握る健一さん。
「ヴッギャァー」
 ジェットコースターが止まると、気持ち悪そうに、真っ青な顔でフラフラしている。本当に怖かったみたい。ちよっと、面白い。

「似顔絵はいかかですか」
 似顔絵かきの人が声をかけてきたの。
「おっ。やろう。二人で描いてもらおう」
「いい。いいです」
「やろうよ」
「いやっ。駄目っ」
「えぇー。じゃぁ、一人づつ描いてもらおう。似顔絵、一人づつ描いてください」
 強引な健一さんは二人分の代金を支払ってしまったの。うーん、困ったなぁ。
 いくつかのアトラクションに乗り、花やしきを出た時には、もう日が沈んでいたわ。
 仲見世通り。
 チィリィッ―。
「あっ、江戸風鈴。綺麗」
「んっ。何っ。風鈴。小料理キクの窓に飾れば。買ってあげるよ」
「いいです」
「いいからっ」
 チィリィッ―。
 水色の江戸風鈴を持って、水上バスで浜松町に向かったの。すっかり夜になっていた。隅田川に吹く風が気持ちいい。なんか、デートみたい。意外と楽しかったな。
 浜松町の駅に着くと、ソワソワと落ち着かない健一さん。
「これから、どうするの」
「あっ。私、仕込みもありますから、もう帰ります」
「あぁ、そうだね。えっと、どったちだっけ」
「大丈夫です。私、こっちなんで。有難う御座いました」
「あぁ、じゃ、また」
 駅の改札口で振り向くと、健一さんは、まだ手を振っていたの。

 一九八九年五月二十一日、日曜日。
 健一さんに駅近くの喫茶店へ呼び出されたの。
「これっ。誕生日プレゼント」
「あっ、ありがとう」
「俺と付き合ってくれよ」
「えっ」
 なぁにぃ。ヤメテよ。困ったなぁ。そんなつもりじゃなかったのに。浅草の時は楽しかったけど、付き合うとかじゃないし。
「和子が不倫しているって言う奴がいてさぁ」
 えっ。最低。何なの、この男。私は声を荒げた。
「誰がぁ。誰っ」
「いゃぁ。うっー」
「誰っ。誰よっ」
 もう、嫌っ。ここに居たくない。私は席を立った。
 その日以来、健一さんと二人で会う事はなかったわ。それなのに彼は時々、私を誘ってくる。彼と付き合う事はない。男性として見れない。

 一か月後、母が介護施設に入所したの。私は母の居る介護施設と御店を往復する毎日。
 二年近くの歳月が過ぎた頃、健一さんに隅田川の花火大会に誘われたの。正直、乗り気ではなかったんだけど、花火くらいイイかなって思ったの。
「凄い人混みなんでしょう」
「一度だけでイイから行こう」
「じゃ、今回だけ」

 一九九一年七月二十七日、土曜日。
 隅田川沿いは身動きが取れない程の人混みだったの。人の群れがゆっくりと流れていく。健一さんと、はぐれそうになる。遠ざかっていく私に気付き、健一さんが私の手を握ろうとしたの。私は反射的に手を引っ込めてしまったわ。私は人混みをかき分け、健一さんの背中にピタリと寄り添って歩き出したの。
「大丈夫。凄い人だね。そろそろ花火、始まっちゃうかな」
「うん。大丈夫。ここからでも観えるから」
 二人分の小さなスペースが空いた駐車場を見付けた。
 ヒシュー、ピィー、ドォッ、パァーン。パリッ、パリッ、パリッ、、、、。ヴヲァーン。
 花火が始まる。夏の夜風も気持ち好かったわ。
 私は心の垣根がなくなっていくように楽に話が出来たの。
 今まで誰にも話した事が無い、幼い頃の気持ちを話し出した。何故、健一さんに話したのだろう。本当の私を見ておいて欲しかったのかも。

  ☆

 小料理キクの二階。六畳一間の部屋で母と私は暮らしていたの。物心がついた時、私には優しい父親はいなかった。
『今日、御父さん、来るよ』月に一度、御母さんが、そう言う日が嫌だった。
 その日は御店を早く閉め、父は母を殴る。大きくなって分かったのだけど、私の背中の(あざ)は父がつけた火傷の痕だと知った。小学生になって、父には別の家族がいる事を理解し始めたの。
 母の背中が哀しかった。
 私が九歳の時、父が会社の御金を横領して失踪した。新聞の記事にもなったの。世間の冷たい眼は母に向けられたわ。何より辛かったのは、父の奥さんが母を訪ねて来た時だった。
 
 一九七八年五月八日、月曜日。
 風邪気味の母と私はグッスリ眠っていたの。午前六時。激しく戸を叩く音で目を覚ましたわ。
 ドォゴォッ、ドォゴォッ。ドォゴォッ、ドォゴォッ、。
「高橋さん。高橋キクさん」
 訪問者は三人の私服警官だったの。二階の部屋まで上がり、室内を見回していたわ。母は、そのまま警察署に連れていかれたの。二時間ほどで母は家に帰ってきた。
 後で聞かされた話では、父が失踪したらしいの。父は商社で働いていたの。元々、八神さんの部下だった父。八神さんに店へ連れて来られた時に母と知り合ったの。父の会社は五月末に株主総会を控えていた。その総会の準備責任者が父だったの。その父が会社の御金を横領し姿を消した。しかも、暴力団関係者との交流があったらしいわ。後日、分かった事だけど、多額の借金もあったらしいの。
 総会屋。サラ金。横領犯。その愛人。世間は母を犯罪者扱いした。

 一九七八年五月二十七日、土曜日。
 昼過ぎ。私は母と御店の掃除をしていたの。
 その女性は、母より十歳くらい年上かしら。気付いたら玄関に立っていたの。母は黙って、その女性に頭を下げた。いつまでも。いつまでも頭を下げ続けたの。私は訳が分からず、母の背中を見ていたわ。
 その女性は、私と目が合うと何も言わずに立ち去ったの。父の奥さんだと分かった。
 その十日後。父が遺体で発見された。父の遺体は解剖され、他殺、自殺、事故で調べられたけど、たいした捜査もせず、自殺で処理されたらしいわ。無くなった御金の使い道は分からずじまい。
 翌日から、私の家にまでサラ金業者が来るようになったの。その頃から、頻繁に八神さんが母の相談に乗っていたわ。
「大丈夫。もう心配ないから」
「申し訳ありません」
「いや。私こそ、すまない」
「八神さんが謝る事は一つもないですから。やめてください」
 母よりも、八神さんの苦しそうな表情が印象に残っている。


  ☆
 一九九一年七月二十七日、土曜日。
 パァーン。パリッ、パリッ、パリッ、、、、。ヴヲァーン。
 隅田川近くの駐車場が紅く染まった。花火を見上げる幸せそうな人たちの笑顔。
 私が幼い頃、家族団らんの幸せな風景はなかったわ。でも、九歳の夏。初めて訪れた、安らぎのひととき。



 一九七八年七月十六日、日曜日。
 サラ金業者は一切、来なくなったわ。
 八神さんや常連客の方は、毎日、小料理キクに通ってくれて生活も安定してきたの。
 八神さんは、いつも私に御土産を持ってきてくれたわ。
 その日は八神さんの誕生日。御母さんはケーキを用意して待っていたの。八神さんは花火を持ってきてくれたわ。
「和子ちゃん、今日は線香花火を持ってきたよ。キクさんも一緒にやろう。いいでしょう。玄関で」
「はーい。今、用意しますから」
 なんだか母も嬉しそうだった。まるで家族みたい。私にとって初めての花火。
 バァバァバッー、バァバァバッー。
「綺麗」
「和子ちゃん、まだ、あるよ。線香花火ってね。(つぼみ)、牡丹、松葉、散菊って、四つの段階で変化していくんだってよ」
「へぇー」
「まるで人の人生みたいですね」
 母が呟いた。
 バァバァバッー、バァバァバッー。
 線香花火の火花が煌めき、母の顔を照らす。黒色火薬の匂いが漂っては消えていく。火の玉の塊が地面に落ちる。夜の光に母の顔が浮かぶ。
 母は、いつまでも消えた線香花火を見詰めていたの。
 小料理キクの玄関から漏れる灯かりが、暗い砂利道を照らす。
 ニィャァ、ニィャァ、ニィャァ。
 野良猫が玄関先に座っていたの。
「あらっ。また来たのっ。困ったわねぇ」
「御母さんが追っ払っても戻ってきちゃうんです」
「ほう。招き猫かも知れないよ」
 その日以来、猫がうちに居ついてしまったのよ。常連客の人達は八神さんの名前からとって、猫の事をトミヲと呼ぶようになったわ。

  ☆

 一九九一年七月二十七日、土曜日。
 パァーン。パリッ、パリッ、パリッ、ヴヲァーン。バァバァバッー、バァバァバッー。
 打ち上げ花火の連打が浅草の夜空を白くする。
「これで最後かな」
「そうね」
「今日は話せて良かったよ」
「うん」
 駅に着いて電車に乗るまで、一時間近くもかかってしまったわ。駅のホームで手を振る健一さん。私は頭を下げた。
 ピィーッ。プィシュッゥ。 ドゥオッ。
 電車のドアが閉まり、プラットホームから走り出したの。

 一九九一年十月十三日、日曜日。
 先月まで、夏の薫りが残っていた大通り。もやがかかったように連なる灯かり。幻想的な万燈行列が通り過ぎてゆく。
 日に日に冷たくなっていく風に吹かれて、母の居る介護施設に向かったの。
 ベットで、うたた寝をする母。枕元に座り、母を見守る八神さん。
「御母さん、元気ぃ」
「そうねぇ。娘が来ないのぉ」
「私が娘だよ。和子よ」
「あんっ、うっ、ふぅ。そうだね」
 照れくさそうに泣きながら笑う母。春頃から若年性認知症の症状が進んでいたの。不自由な身体で、限られた空間の生活が認知症の症状を進行させたみたい。
 悪い事は重なるもの。私も息苦しさと咳が三ヶ月も続いていたの。検査の結果は肺癌。医師と相談して、放射線治療をする事になったの。誰にも言えなかった。でも、万が一の事を考えて、八神さんにだけは全てを話しておいたの。八神さんには心配ばかりかけてしまう。何も言わずに寄り添ってくれる八神さん。優しい父親のよう。
 でも、私は、あの日の母が忘れなれない。私の父親が亡くなって、五年くらいたった時だったわ。
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