第5話

文字数 5,660文字

 一九九七年八月三日、日曜日。
 山口恵から連絡があった。
 過去の重荷を身にまとって、待ち合わせのカフェに着くと、笑顔の山口恵が手を振って待っていた。綺麗だ。
 山口恵は五歳になる娘の弥生ちゃんを連れていた。弥生ちゃんは、ちょっと大人びてみせるように、気取って俺に挨拶をした。
「こんにちは。母が、お世話になっています」
 俺は、ほころんだ顔で弥生ちゃんに答えた。
「お母さん、そっくりだね。美人になるよ」
 弥生ちゃんは、はにかんだ笑顔をみせ、すました顔でクリームソーダを飲みながら絵本を読みだした。メグちゃんは静かに微笑んでいる。
 俺とメグちゃんは冷えたビールを一杯、飲み干し、三人で晴れた渋谷の街に出た。
 太陽の薫りが漂う街には若いカップルが楽しそうに歩いている。その笑顔に影はなく、その瞳には明るい未来が写っている。自分が何者かを分かっていて未来を信じていた、あの頃の俺達のようだ。
 何処までも高く、青く映える空が眩しく光り輝いている。
 二度とない、今、という瞬間。俺は隣にいる山口恵をしっかりと観た。

  ☆

 山口恵と毎週会うようになって、二年後、俺達は結婚した。幸せだった。
 結婚当初、生活もバーの仕事も順調だった。
 一九九七年九月。青山墓地近くでバーを新規開店。新しい御客様も増えていった。役者風、ミュージシャン風、役人風、職人風、青年実業家、スナックのママ、様々な人が出入りしていた。充実感もあり、バーテンダーとしての自信もついていく。
 一九九九年九月。恵と結婚。私生活も一人前の人間として歩き出した気になっていた。
 恵と弥生との生活も楽しかった。クリスマスや正月。年に一度の家族旅行。学校行事に、街の御祭り。そんなイベントも心地好かった。
 俺達は確かに家族だった。今でも、俺にとっての家族は恵と弥生だ。
 二〇〇八年頃から俺の店の売り上げが半減した。
 気難しくなっていく娘の弥生とは、上手くいっている方だと思っていたがギクシャクしだした。妻の恵とは毎日、口論が絶えなかった。
 二〇〇九年に妻の申し出を受け入れて離婚が成立した。今、恵と弥生は近くの公団住宅に住んでいる。半年に一度は三人で食事をする。
 結婚していた頃より、気楽に話せて仲が良いとさえ感じる。ただ、恵に二度の離婚を経験させてしまった事が後悔でならない。

 二〇〇九年十二月二十九日、火曜日。
 冬の空気が冷たかった。静まりかえった街。
 カァラァッ、コッロァッ。
 扉が開き、派手ないでたちの女性が入って来た。歳は三十歳手前。女性客のコートの下にある小枝みたいな肢体から甘い女の薫りが匂いたつ。
「マスター。一杯だけイイかしら」
「どうぞ。アミさん、こんな時間に珍しいね」
「うん。何かぁ、あたし、自分が嫌になっちゃって」
「どうしたの」
 俺の問いに女性客は黙って下唇をかみしめ、何かに耐えるように表情を歪めた。
「外、寒かったでしょう。何に致しますか」
「何か、暖かい飲み物、ありますか」
 遠慮がちな声が忘れていた面影を呼び覚ます。
 俺は白髪も増え、新聞を読む時には眼鏡を外す歳になった。
 店内のBGMはフランク・シナトラの『セプテンバー・オブ・マイ・イヤーズ』だった。
 グラスの上を白秋の風が通り過ぎる。
 その日の営業終了後、俺は誰も居ないカウンターで一人、カンパリの御湯割りを飲んだ。
 店を出ると漆黒の夜空が紫色から白みがかった。朝の光は冷たい空気にキラキラと輝く。東京にまだ、スズメが居る事に気づいた。
 交差点の窪地に霧が立ち込めていた。
 冬の明け方、消えていった時間が浮かんでは消える。

 二〇一〇年一月七日、木曜日。
 押し入れの整理をしている時、懐かしいアルバムが出てきた。恵と結婚した当初、娘の弥生と三人で撮った写真。
 去年と同じに、街は流れて日常が過ぎていく。毎日の繰り返し。仕事があるのは有り難かった。淡々と月日が過ぎていく。

  ☆

 そんな生活が十年続いた。俺は今年、五十歳になる。店は何とか食べていけるぐらいの経営状態だ。
 なんとなく老後の不安を感じながらも独り暮らしを続けている。自由と引き換えに、時々、空虚な時間が訪れる。
 先日、家の電球を交換する時、椅子から落ちてしまった。真っ暗な部屋で自分が今、独りなんだと初めて知った。
 二〇一八年。
 去年の秋に娘の弥生が結婚した。気を使った弥生から結婚式に出席してくれと頼まれたが俺は断った。

 二〇一九年八月二十五日、日曜日。
 元号が平成から令和に変わった。令和元年。平成の時とは随分、違うな。
 雲一つない天気。青い空に誘われて、あてもなく街に出た。気づいたら赤坂の街を歩いていた。
 ここだ。ホテルの一階部分はオープンカフェになっている。スポーツ中継が店内のスクリーンで放映されていた。
 大きなスーツケースを持った外国人観光客で賑わう通り。しばらく、立ち尽くしてホテルの外観を見渡す。ホテルのロビーに入ってみる。フロントの従業員が笑顔で会釈をした。俺は軽く頭を下げ、気の無い素振りで窓際へ歩き出す。白い壁に飾られた小さな水彩画が飾られている。淡い水色の江戸風鈴の絵。バックにはオレンヂ色の打ち上げ花火が彩られている。懐かしい風景。構図だけではない。色遣い、線の筆運びまでが懐かしく感じる。
 そんな筈ないのにな。俺は絵なんて鑑賞する習慣はない。誰が描いたか知らないが、たまたま、俺の若い時の記憶とリンクして感傷に浸ってしまったのだろう。
「健一君。健一君だね」
 不意に声をかけられた。振り向くと、色黒の御老人が立っている。
「あっ。あぁ。お久しぶりです」
 小料理キクの常連客だった広告代理店の元局長だ。
「懐かしいなぁ。健一君、今、どうしているの」
「はい。ここを立ち退きになって、今は青山墓地近くでバーをやっています」
「そう。良かった。健一君は幾つになったの」
「はい。五十歳になりました」
「あぁ、若いね。私は今年で八十五だよ。みんな亡くなっちゃてね。キクさん所の常連客で、私が一番若手だったから。御茶でも飲もうよ。時間あるでしょ」
 元局長が手をあげると、ホテルのスタッフがやって来てラウンジに案内された。
「赤坂も変わったねぇ。あの頃は元気だったなぁ。みんな」
 八十五歳にしては色気のある元局長が懐かしそうに笑った。
 俺は和子の事を聞いてみたかったが言葉にする勇気がない。
 俺は沢山のものを見失ってきた。独り言のように呟いた。
「過去は変えられませんからね」
「えっ。どうしたの。何かあったの」
 我に返って、笑顔でごまかす俺。一瞬の沈黙。元局長が口を開いた。
「健一君。過去って変えられるんだよ。過去という世界は存在しないんだよ。過去っていうのはね、記憶でしかないんだ。あの時、ああしていれば、こんな筈じゃなかった。って思うか。あの時、失敗した御蔭で頑張ったから今は幸せだと思うか。過去の景色を変えるのは今の生き方なんだよ」
 元局長は真顔で遠くを観ながら答えた。俺の中を一気に過去の記憶が駆け巡り、今の俺が呼吸を始めた。
「そういえば、健一君、今日はどうしたの。和子ちゃんと待ち合わせかい」
「えっ。まさかっ」
 心臓が止まりそうになった。
「和子ちゃん来るよ。もうそろそろ来るんじゃないかな。毎月、ホテルの絵の交換に来るんだよ。今時分にね」
「えっ。和子さん、画家になったんですか」
「はっはっはぁ。時々、絵は描いてるみたいだけど、趣味の延長じゃない。自分で買い付けた絵を飾ってるみたいだよ。今じゃ、このホテルのオーナーみたいなもんだからね」
「えぇ、そうなんですかっ。何でぇ。あぁ、八神さんの遺産ですか」
「そうねぇ。八神さん、罪滅ぼしだったのかねぇ」
「はぁっ。どういう事ですか」
「健一君、知らなかったのぉ。和子ちゃんの子供、八神さんの息子さんの子なんだよ」
 俺の全ての細胞が固まった。息をするのを忘れ、考える事が出来ない。目の前が暗くなっていく。あの時、何があったというのだ。
「ここの開発が始まった時、和子ちゃんも地権者だから相談にも乗ってたんだけど、八神さん、体調、崩してて。息子の浩一君に任せてたんだ。その頃、キクさんの認知症も進行して、和子ちゃんも病気したらしいじゃない。精神的にも体力的にも限界だったんじゃないの。結局、気付いたら浩一君と、そういう関係になったらしくて。子供が産まれた時に浩一君が四十歳かな。奥さんとの子は中学生だったんだけど、大モメしてね。和子ちゃんの子、認知しなかったんだよ。それで、八神さんが激怒して。家裁で強制認知するの、どうのって話までいって。何ていったて、キクさん時もそうだったから。和子ちゃんの父親、八神さんの部下だったでしょう。八神さんからしたら、息子を勘当してでも和子ちゃんと子供を守りたかったんじゃない」
 知らなかった。和子の人生に、俺は何も関わっていなかった。
「それで結局、子供は認知されたんですか」
「それが浩一君が一年後に交通事故で亡くなってしまってね。八神さんからしたら本妻の子も、和子ちゃんの子も孫だから。家庭裁判所で死後認知する方法もあるらしいけどね。八神さんも歳だし。早く、何とかしてやりたいって思ったんじゃないの。それにしても、戸籍上だけとはいえ入籍するとはね。子供も八神さんが認知したんだよ。御蔭で八神さんの遺産の四分の三は和子ちゃんと子供に渡たんじゃない」
「そうだったんですか」
 どんな気持ちで子育てをしていたんだろう。俺は和子の気持ちを想像してみた。
「健一君。じゃ、そろそろ行くから」
 伝票を持って、元局長が立ち上がった。
「あ、はい。有難う御座います。御馳走さまでした」
 元局長の去った後、俺もホテルを出た。

 二〇一九年八月二十五日、日曜日。夕刻。
 平成という時代が終わった歳の晩夏。西の空がオレンヂ色から赤紫に変わる。薄暮の空に吹く風が秋の薫りを運んで来た。
 かつて、小料理キクがあった場所に白髪交じりの女性の姿。シワの数が遠く過ぎていった歳月を蘇らせる。その女性は真っ直ぐに俺を見ている。
 五十歳になった和子だった。
「あっあぁ」
 言の葉を失った俺に、和子が無言で御辞儀をした。よそよそしい他人のように。
「やぁ、久しぶり」
 俺は新人俳優のように棒読みの台詞を言った。他の言葉が見つからない。
「お久しぶりです」
 少し、トーンの低くなった和子の声。花の蜜のような香りは、もうしない。歳相応になった年輪を重ねた女性がそこに居た。
 上下が黒のパンツ姿。動きやすそうで身軽。背筋の伸びた姿は昔のままだ。俺は少し落ち着きを取り戻した。
「そういえば、今は八神和子さんだっけ。御子さんも居るんだよね」
「そう。もう、二十六歳なの」
「えぇ。そうなんだぁ。凄いなぁ。二十六歳の子の母親なんだ。男の子だっけ。名前は」
「佳伸。母の両親から一文字づつ取ったの」
 自然な笑顔で日常会話をする和子。俺も重い荷物をおろしたかのように身体が軽くなっていく。楽に話せた。
「そういえば、障害があるって聞いたんだけど」
「うん。ダウン症」
「今、どうしているの」
「週に四日ぐらい働いているわよ。食堂の洗い場で」
「へぇ。会いたいな。会ってみたいよ」
「うん。来ているわよ。車の中に」
 和子が玄関に停めてある車に目をやる。後部座席に人影が見えた。和子が産んだ子供がそこにいる。
 和子が車の扉を開け、佳伸君を連れてくる。大きい。和子より大きい佳伸君。大人だった。トレーナーにズボン。マジックテープの靴を履いている。和子が小さな声で佳伸君に話しかける。
「沢村さんよ。御母さんの御友達」
「さっさわぁむぅらさっ。こんにちわっ」
 姿勢が定まらず、俺と目線が合う事はないが考えていたより、しっかりした挨拶だった。
「はい。こんにちは。有難う。うん。私は御母さんに御世話になった沢村です。宜しく御願いします」
「おっおねがいしぁす」
 優しい母親の顔をした和子が佳伸君を見守っている。
「凄いね。しっかりしているね」
 和子が気遣うような表情で俺に尋ねた。
「沢村さんは、どうしているんですか。今」
「あぁ。青山墓地の近くでバーをやっているよ。食べるのがやっと」
「ご結婚は」
「うん。中学の同級生と結婚したんだ。十年前に離婚したけどね」
 俺は笑ってみせたが和子は真顔だった。
「ふーん。でも、御店、続けているんですね。凄いですね」
「いや。ぜんぜん。何とかやっている程度。今度、飲みに来なよ。一杯ぐらい御馳走するよ。佳伸君は御酒は飲めないの」
「飲むのよ。カンパリの御湯割りが好きなの」
 そう言って和子は笑った。佳伸君も和子を見て笑う。二人を見ていて、俺の過去が変わっていくのに気付いた。
 ふと、ホテルのロビーに飾ってあった水彩画を思い出す。
「そういえば、ロビーにあった水彩画。もしかしたら、和子さんが、」
 その時、俺の携帯電話が鳴った。
 プルルッ、プルルッ。電話は娘の弥生からだった。
「御父さん。元気」
「あぁ、どうしたんだよ。何かあったのか」
「うん。あたし、子供が出来たの。今年の十二月が予定日だから。御父さん、絶対に会いに来てよね」
「あぁ、分かったよ」
 どうやら気づいたら、俺に孫が出来たらしい。 
「どうしたの。健一さん、何だか嬉しそう」
「えぇ、そうかぁ」
 オレンヂ色になった太陽の光が和子の笑顔を照らす。あの頃の面影が蘇る。
「また会いたいな」
「健一さん、私なんかじゃなくて、もっと若い()の方が良いでしょう」
「俺、もう孫が居るんだぜぇ。あはっはぁ。先の事は分からないよ。今は、また会いたいんだ。いいかな」
「はい。私で良ければ」
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