第2話
文字数 3,145文字
第一章『記憶のスケッチブック』
「何か、暖かい飲み物、ありますか」
八神さんに連れて来られた孫娘のような少女。それが和子だった。
一九八九年の春の事だ。
マスターが作ったカンパリの御湯割りを子供がミルクでも飲むように両手で持っていた和子。三十年前のあどけない笑顔が蘇る。二十歳の春、彼女に恋をした。あの頃、俺はほとばしる想いをどうする事も出来なかった。
☆
一九八九年。
みすじ通りにある老舗天麩羅屋の角を右に曲がると砂利の路地がある。路地の右には黒塗りの塀に囲まれた割烹料理店。左側には大衆酒場と小料理屋がある。正面突き当りのビルの二階。ここが俺の勤めるバーだ。
けたたましい騒音を逃れて重厚な扉を開く。紫煙とウイスキーの香り。軽快なジャズの調べを縫うように会話が流れては消えていく。
☆
あれから三十年。一九八九年の音は止んだ。
あの頃、街は見えない不安と理由の無い高揚感に溢れていた。
二十一世紀になっても世界は何も変わらない。テレビからインターネットに変わっても流れてくるニュースは同じだ。今も世界の何処かで人間同士が争い、血を流し、自由が理不尽に奪われる。
ノストラダムスが予言した終末の世界も、少年雑誌で描かれていた輝かしい未来も来なかった。
俺は、あの頃と何も変わらずに今も、もがいている。
ニュースを観て、最近、やっと年号が変わった事を認識し始めた。
平成が終わったという実感がない。あの時とは違うな。昭和が終わった、あの歳。
あれから三十年の歳月が過ぎていた。
俺は今年、五十歳になる。髪が白くなり、新聞を読む時には眼鏡を外す。
二〇一九年。
新しい時代の始まり。令和元年の東京の街。
西の空がオレンヂ色から赤紫に変わる。
久しぶりに訪れた赤坂の街。
電子マネーで自動改札を出ると、エスカレーターを上がる。家電量販店の広告を横目に通りへ出る。チェーン店が増えたな。あの頃のように、ワサワサとした人間達の活気を感じない。
次々と新しいビルが建つ街並み。三十年前の路地はなくなり、道が分からない。
ここだ。ホテルの一階部分はオープンカフェになっている。スポーツ中継が店内のスクリーンで放映されていた。
大きなスーツケースを持った外国人観光客で賑わう通り。しばらく立ち尽くしてホテルの外観を見渡す。
右側の搬入口のあたりだ。あそこに彼女がいた。二十歳の和子。眩しい笑顔が色あせてゆく。
それは一九八九年。テレビからコマーシャルが消え、元号が昭和から平成になった年の事だ。
今から思うと、世界は激動の時代だった。金権政治、政界激変、天安門事件、東欧民主化、そして、残虐な事件が相次いだ。暴走する無秩序な若者たち。子供達が虐殺されてゆく。
その頃の俺は何をどうしたら良いのかも知らず、不安や焦りを感じながら、自分の将来像や、今やるべき事が何かも考えられない日々だった。
大勢の中の独り。根拠の無い未来像。日常に流されるままの毎日。ただ、漂うように赤坂の街に通っていた。
☆
一九八九年。
丸ノ内線と銀座線が同時にホームに入構する。一気に改札口へ押し寄せる人の濁流。乗車駅が印字された回数券を握りしめ、清算窓口に並ぶ。
「三十円です」
乗り越し料金を支払い改札口を出ると、人の波の一部になる。エスカレーターを上がる。駅ビルの向かいのパチンコ店の音。
ジャッ、ジャッ、バァリィ、バァリィ。
入口付近に立ち並ぶ出玉の山。
街の喧騒が押し寄せる。
街角のタバコ屋で小銭の両替をする近隣の店員たち。みすじ通りに燈るネオンの灯かり。赤坂の街が活気づく夕刻。
天麩羅屋を右に曲がると五メートル程の砂利道が続く。左奥に黄色い横看板。小料理キク。カウンター五席の小さな店はいつも満席。と、いっても毎日同じ席に座る五人のオッサン達でいっぱいだ。
四六時中、ハンカチを巻いているハゲのオッサンは大病院の院長。活舌の悪いメガネのオッサンは家電メーカーの会長。筋肉質で色黒のオッサンは広告代理店の局長。大きな声のお喋りは飲料メーカー創業者一族の二代目。一番奥の席に座るシワだらけの爺さんは老舗商社の会長だという。
カウンターの中の和子は二十歳。着物に割烹着姿で五席の小料理屋を切り盛りしている。
小料理キクは和子の母親が営む店だった。女手一つで和子を育てたらしい。二か月前に四十五歳の母親が脳梗塞で倒れ、二十歳の和子は店を引き継いだ。
常連客五人のうちの誰かが和子の父親だと、近所で陰口を言う奴もいる。
愛人の娘。レッテルを張られた和子は、この街で懸命に生きていた。
二か月前。老舗商社の会長だという八神の爺さんに連れられて和子がバーを訪れた。
カラッ、コロッ。
「こんばんは。八神さん。お二人ですか」
「やぁ、マスター。この子、キクさんの娘さんだよ。和子ちゃん」
「あぁっ、そうですか。大変でしたネ。どうぞ、こちらへ」
マスターに誘 われて、八神の爺さんと和子がカウンターの奥の席に着いた。
「何に致しましょう。和子さんは御酒は大丈夫なの」
「キクさんの娘だから御酒は強いでしょう。和子ちゃんは今年二十歳だね。バーは初めてでしょう。マスターに言えば何でも作ってくれるよ」
「何か、暖かい飲み物、ありますか」
遠慮しがちな和子の声はホステスの笑い声とオヤジ達の大声が飛び交う店内には新鮮な響きだった。
「和子ちゃん、御母さんの病院とリハビリの手配はしといたから。問題は御店の事なんだけど」
八神の爺さんは淡々と慣れた口調で話を進めた。和子は今、自分が置かれている状況を把握しようとしているようだ。頭の中を整理するように黙っていた。これからの生活を想像しているのだろうか。
マスターが心配そうに会話に加わった。
「キクさん、仕事中に倒れたらしいですね。脳梗塞って聞きましたけど、後遺症は大丈夫なんですか」
「んっ。リハビリして良くても車椅子だろうな。店は無理だろう。それでな、和子ちゃん。御店を引き継ぐ気はないかい」
「えっ。私が。無理です。バイトもあるし」
困惑した様子の和子。そりゃそうだ。いくら小さい店とはいえ、いきなり店をやれといわれても無理に決まっている。だが、八神の爺さんは既に決まっている事のように強引だった。
「和子ちゃんは絵の勉強しているんだっけ。芸大を目指しているのかな。とにかく、勉強は続ければいい。まずは御母さんの事もあるし、生活を優先する事。悪いようにはしないから。小料理キクを続けていれば大丈夫。必ず、良い事があるから」
和子の不安そうな表情。だが、現実問題として、八神の爺さんの言うとおりだった。小料理キクを他人に貸す事も出来ず、閉店も出来ない。
まるで、大人達が作ったレールに乗せられ、トロッコ列車が走るように和子の人生が転がってゆく。
近所の人達の中には、あれこれと言う奴もいる。だが、二十歳の和子は経営者として店を切り盛りしている。
その頃の俺はバーテンダーを目指して、バーで働きだし一年になる。俺と同い歳の奴等は大学に行くか働くかだった。いずれにしても、皆が俺より先に進んでいるように感じた。俺は、この一年間、掃除と片付けだけの毎日。一度も御客に商品を作った事はない。同級生で飲食の仕事をしている奴は、俺を残して一人前になっていく。
焦っていた。将来が不安だった。平成という薄暗い道を歩いていた。陽炎を観るように夢見ていた。遠い先の未来という灯かり。
時間は無限にあると思っていた。
「何か、暖かい飲み物、ありますか」
八神さんに連れて来られた孫娘のような少女。それが和子だった。
一九八九年の春の事だ。
マスターが作ったカンパリの御湯割りを子供がミルクでも飲むように両手で持っていた和子。三十年前のあどけない笑顔が蘇る。二十歳の春、彼女に恋をした。あの頃、俺はほとばしる想いをどうする事も出来なかった。
☆
一九八九年。
みすじ通りにある老舗天麩羅屋の角を右に曲がると砂利の路地がある。路地の右には黒塗りの塀に囲まれた割烹料理店。左側には大衆酒場と小料理屋がある。正面突き当りのビルの二階。ここが俺の勤めるバーだ。
けたたましい騒音を逃れて重厚な扉を開く。紫煙とウイスキーの香り。軽快なジャズの調べを縫うように会話が流れては消えていく。
☆
あれから三十年。一九八九年の音は止んだ。
あの頃、街は見えない不安と理由の無い高揚感に溢れていた。
二十一世紀になっても世界は何も変わらない。テレビからインターネットに変わっても流れてくるニュースは同じだ。今も世界の何処かで人間同士が争い、血を流し、自由が理不尽に奪われる。
ノストラダムスが予言した終末の世界も、少年雑誌で描かれていた輝かしい未来も来なかった。
俺は、あの頃と何も変わらずに今も、もがいている。
ニュースを観て、最近、やっと年号が変わった事を認識し始めた。
平成が終わったという実感がない。あの時とは違うな。昭和が終わった、あの歳。
あれから三十年の歳月が過ぎていた。
俺は今年、五十歳になる。髪が白くなり、新聞を読む時には眼鏡を外す。
二〇一九年。
新しい時代の始まり。令和元年の東京の街。
西の空がオレンヂ色から赤紫に変わる。
久しぶりに訪れた赤坂の街。
電子マネーで自動改札を出ると、エスカレーターを上がる。家電量販店の広告を横目に通りへ出る。チェーン店が増えたな。あの頃のように、ワサワサとした人間達の活気を感じない。
次々と新しいビルが建つ街並み。三十年前の路地はなくなり、道が分からない。
ここだ。ホテルの一階部分はオープンカフェになっている。スポーツ中継が店内のスクリーンで放映されていた。
大きなスーツケースを持った外国人観光客で賑わう通り。しばらく立ち尽くしてホテルの外観を見渡す。
右側の搬入口のあたりだ。あそこに彼女がいた。二十歳の和子。眩しい笑顔が色あせてゆく。
それは一九八九年。テレビからコマーシャルが消え、元号が昭和から平成になった年の事だ。
今から思うと、世界は激動の時代だった。金権政治、政界激変、天安門事件、東欧民主化、そして、残虐な事件が相次いだ。暴走する無秩序な若者たち。子供達が虐殺されてゆく。
その頃の俺は何をどうしたら良いのかも知らず、不安や焦りを感じながら、自分の将来像や、今やるべき事が何かも考えられない日々だった。
大勢の中の独り。根拠の無い未来像。日常に流されるままの毎日。ただ、漂うように赤坂の街に通っていた。
☆
一九八九年。
丸ノ内線と銀座線が同時にホームに入構する。一気に改札口へ押し寄せる人の濁流。乗車駅が印字された回数券を握りしめ、清算窓口に並ぶ。
「三十円です」
乗り越し料金を支払い改札口を出ると、人の波の一部になる。エスカレーターを上がる。駅ビルの向かいのパチンコ店の音。
ジャッ、ジャッ、バァリィ、バァリィ。
入口付近に立ち並ぶ出玉の山。
街の喧騒が押し寄せる。
街角のタバコ屋で小銭の両替をする近隣の店員たち。みすじ通りに燈るネオンの灯かり。赤坂の街が活気づく夕刻。
天麩羅屋を右に曲がると五メートル程の砂利道が続く。左奥に黄色い横看板。小料理キク。カウンター五席の小さな店はいつも満席。と、いっても毎日同じ席に座る五人のオッサン達でいっぱいだ。
四六時中、ハンカチを巻いているハゲのオッサンは大病院の院長。活舌の悪いメガネのオッサンは家電メーカーの会長。筋肉質で色黒のオッサンは広告代理店の局長。大きな声のお喋りは飲料メーカー創業者一族の二代目。一番奥の席に座るシワだらけの爺さんは老舗商社の会長だという。
カウンターの中の和子は二十歳。着物に割烹着姿で五席の小料理屋を切り盛りしている。
小料理キクは和子の母親が営む店だった。女手一つで和子を育てたらしい。二か月前に四十五歳の母親が脳梗塞で倒れ、二十歳の和子は店を引き継いだ。
常連客五人のうちの誰かが和子の父親だと、近所で陰口を言う奴もいる。
愛人の娘。レッテルを張られた和子は、この街で懸命に生きていた。
二か月前。老舗商社の会長だという八神の爺さんに連れられて和子がバーを訪れた。
カラッ、コロッ。
「こんばんは。八神さん。お二人ですか」
「やぁ、マスター。この子、キクさんの娘さんだよ。和子ちゃん」
「あぁっ、そうですか。大変でしたネ。どうぞ、こちらへ」
マスターに
「何に致しましょう。和子さんは御酒は大丈夫なの」
「キクさんの娘だから御酒は強いでしょう。和子ちゃんは今年二十歳だね。バーは初めてでしょう。マスターに言えば何でも作ってくれるよ」
「何か、暖かい飲み物、ありますか」
遠慮しがちな和子の声はホステスの笑い声とオヤジ達の大声が飛び交う店内には新鮮な響きだった。
「和子ちゃん、御母さんの病院とリハビリの手配はしといたから。問題は御店の事なんだけど」
八神の爺さんは淡々と慣れた口調で話を進めた。和子は今、自分が置かれている状況を把握しようとしているようだ。頭の中を整理するように黙っていた。これからの生活を想像しているのだろうか。
マスターが心配そうに会話に加わった。
「キクさん、仕事中に倒れたらしいですね。脳梗塞って聞きましたけど、後遺症は大丈夫なんですか」
「んっ。リハビリして良くても車椅子だろうな。店は無理だろう。それでな、和子ちゃん。御店を引き継ぐ気はないかい」
「えっ。私が。無理です。バイトもあるし」
困惑した様子の和子。そりゃそうだ。いくら小さい店とはいえ、いきなり店をやれといわれても無理に決まっている。だが、八神の爺さんは既に決まっている事のように強引だった。
「和子ちゃんは絵の勉強しているんだっけ。芸大を目指しているのかな。とにかく、勉強は続ければいい。まずは御母さんの事もあるし、生活を優先する事。悪いようにはしないから。小料理キクを続けていれば大丈夫。必ず、良い事があるから」
和子の不安そうな表情。だが、現実問題として、八神の爺さんの言うとおりだった。小料理キクを他人に貸す事も出来ず、閉店も出来ない。
まるで、大人達が作ったレールに乗せられ、トロッコ列車が走るように和子の人生が転がってゆく。
近所の人達の中には、あれこれと言う奴もいる。だが、二十歳の和子は経営者として店を切り盛りしている。
その頃の俺はバーテンダーを目指して、バーで働きだし一年になる。俺と同い歳の奴等は大学に行くか働くかだった。いずれにしても、皆が俺より先に進んでいるように感じた。俺は、この一年間、掃除と片付けだけの毎日。一度も御客に商品を作った事はない。同級生で飲食の仕事をしている奴は、俺を残して一人前になっていく。
焦っていた。将来が不安だった。平成という薄暗い道を歩いていた。陽炎を観るように夢見ていた。遠い先の未来という灯かり。
時間は無限にあると思っていた。