第3話

文字数 7,044文字

    ☆

 もう、終わったと思っていた。忘れた過去の筈だった。
 俺が和子の噂を聞いたのは一九九七年の初夏だ。

    ☆

 一九九七年年五月二十三日、金曜日、午後。
 俺の目の前に居る女性の話題が誰の話をしているのかが分からない。
 それは、俺の知る高橋和子とは、あまりにも、かけ離れたイメージの女性の噂話だった。
「うっそぉ。ケンちゃん、何も知らないのぉ。和子ちゃんねぇ、子供、産んだんだよ。五年前に。シングルマザーで」
「えぇー。何でぇ。いつです」
「五年前よ。何でも、帝王切開で産んだんだけど、障害がある子供らしいのよ」
「えっ。あぁ。そうなんだ。一人で育てているのかぁ」
 確かに。彼女だったら、ありのままの現実を受け入れて。独りで。あり得る話だな。強いな。現実と向き合って、一人で障害のある子供を育てているんだ。不安だったろうな。何も知らずに、俺。何をやっていたんだろう。まいったなぁ。もう、五年か。
 でも、そうか。母親になったんだ。会いたい。和子の子供に会いたい。連絡先も分からないしな。電話番号ならあったかな。いきなり電話して、会いたいなんて言ったら迷惑だろうな。
 和子はこの何年もの間、現実と向き合って、子供の為に必死で頑張っているんだろう。
 ただ、二度と会う事が出来ないかと思うと、会いたいという衝動を抑える事が出来なかった。五年前に使っていた財布の中からメモを見つけ出し和子に電話をした。
 五回のベルの音は和子に届く事は無かった。
 やっぱり、迷惑だったかな。オメデトウだけでも言いたいな。
 女の子かな。男の子かな。子供の名前が知りたい。いつ、どうやって産まれたんだろう。

 俺は数年前に和子と一緒に、よく行っていた青山墓地近くのカフェに顔を出した。
 昔の常連客の姿は無かった。カフェの定員達も大半は知らない顔だ。
 俺はカウンター席でカンパリの御湯割りを注文した。懐かしい酒。

『私、今、放射線治療をしているから子供は諦めているの』
 五年前の和子との会話が頭をよぎる。
 カンパリの苦い香りが切ない想い出を蒸し返した。
 だが、一九八九年に吹いた風は、もう二度と吹く事はなかった。

 一九九七年五月二十三日、金曜日、夜。
「先輩、オメデトウございます。無事に産まれて良かったですね。健康で何よりです」
「あぁ。ありがとう。んー。何て言うかな。うち、ずっと不妊治療してて、俺達夫婦の年齢の事もあってね、子供の障害も覚悟してくれって言われてて、だけどね。生まれた瞬間に何でもイイって思ったんだよね。生きていてくれて、ありがとうって。何でもイイから。男でも、女でも、オカマでも。手がくっついてても、変な形でも何でもイイから生きていてくれって。分かんないかな」
「ふーん。あっ。将来は、どうなって欲しいんですか」
「何でもイイ。生きていてくれれば」
 テーブル席のサラリーマン達の会話が俺に突き刺さる。

 その日の晩、俺は呼吸が苦しくなって酸欠状態が続いた。結局、全く一睡も出来ずに胃も調子が悪くなり、お腹が空いて物を食べても胃液が逆流して、もどしそうになった。
 大丈夫だ。と、思っても、長い年月、高橋和子に抱いてきたイメージと空想してきた未来が重荷になり、和子の表情や仕草が頭から離れなくなってしまった。
 過去が追いかけて来て、俺を押しつぶそうとする。もう、現実ではない、幻影だと分かっているのに苦しい。

 高橋和子は子供の父親に病気の事を話し、避妊を強く言っていたのだと思う。だが、妊娠してしまった。
 幼少の時から、フォン・ヴィレプランド病という血友病に似た病に悩んでいた和子は生理不順もあって、妊娠に気付くのが遅かった。帝王切開で障害のある子供を産んだ。
 一人で障害のある子供を産む事を決めた和子。
 自身が幼少の頃に虐待を受けたせいか、他人とのコミュニケーションや関わりを避け、話し合う事なく一人で生きてきた和子。
 だが今は、この世界に未来永劫、唯一の命と出会い、母親になった和子。そうなんだ。和子は母親になったんだ。世界一、大切な愛する家族が出来たんだね。おめでとう。
 でも、彼女の不安や苦労を何も知らずに、気軽に無責任にオメデトウ何て、気を悪くするのかな。俺は何にも知らないで。何もしてあげられなくて。言葉の一つも、かけてあげられなくて。ゴメン。和子。お母さんになったんだね。
 俺は子供に会って、抱きしめたい衝動になった。この世に未来永劫、唯一の命。『産まれてきてくれて、ありがとう』『和子を母親にしてくれて、ありがとう』
 和子の事だから、きっと、しっかり者のお母さんなんでしょう。俺は、この何年もの間、何をやっていたのだろう。
 幸せになってください。と真剣に思いつつ。結果的に和子は俺以外の男と何度も裸になり、セックスをして妊娠したのだ。そんな過去に囚われた俺。汚い男の俺は過去の和子の姿と見知らぬ男に抱かれる和子の姿が頭から離れない。
 過去に憑りつかれた俺とは違い、今頃、和子は現実と向き合い、子供の為に全神経と一生を賭けて生きている筈なのにだ。
 俺は過去をもう二度と想い出さない。だが、心の置き所の無い俺は闇に堕ちていく。所詮、俺は体裁だけの偽善者なのか。
 俺の子供でもない障害者の子供と、その母親を安全で安心した環境を用意して、守ってあげる事も出来ず、その勇気も決断も出来ない。情けない、汚い、自分が嫌になる。
 昼間に街中で見た母親に連れられた小児麻痺の子供は身体が、くの字に曲がり、目の焦点はあっていなかった。
 俺は和子の子供を心から無条件に抱きしめる事が出来るだろうか。和子のお腹の中に十ヶ月も居た子だ。どんな子供だとしても俺にとって(いと)おしいに決まっているではないか。
 現実に、その子供の人生を俺が受けとめる決断なんか、出来ないくせに。『会いたい』何て言う資格がない。くだらない俺。

 五年前。和子が俺の前から姿を消した。
 俺は空き家になった小料理キクの前を通り過ぎて、毎日、バーに通い続けた。
 小料理キクの出窓で割れた江戸風鈴が風にさらされている。

 一九九五年。マスターが心筋梗塞で倒れ、一か月後に意識が戻る事なく亡くなった。マスターの奥さんから、バーの経営を引き継いだのは一九九五年の暮れの事だ。店の保証金を奥さんから借り入れるかたちで、俺はバーのマスターになった。
 独立して二年。やっと、仕事と生活のリズムが整ったと思い始めた頃。一九九七年五月二十三日。そんな時、大衆酒場の女将さんから、和子の噂話を聞いた。和子が母親になった。

 紅く高揚した和子の肌。荒々しい息で、苦しそうな表情は汗でびっしょりと濡れている。ドゥッザァッ。生々しい湯気が立ち昇り、胎盤の肉片が落ちる。肉感的な生臭い匂いのする夢だった。

 一九九七年五月二十四日、土曜日。
 俺は目的も無く、夜の街を徘徊した。街から流れてくる懐かしのラブソングを聴いても陳腐に感じてしまう。狂乱の夜の街中で絡み合う女と男。夜の(うたげ)に酔いしれる若者たち。乱痴気騒ぎに(うごめ)く東京の夜。今まで、気にもしなかった街の風景なのに。酔いに任せた女と男の色恋沙汰の絡み合いを目にすると、胸の奥から重苦しい闇が広がり、嫌悪感が込み上がってくる。性を弄ぶ女達と男達に吐き気をもよおす。
 聖職たちが子供を造る以外の目的の性交渉を禁じた気持ちが少しだけ分かった気がした。だが、俺は聖職者になれず、自ら吐き気をもよおすクズ野郎に堕ちていく。
 人通りの少なくなった深夜の街を俺は歩いていた。
「ネェ、オニイサン、ドコ。デンシャ、マダ。マッサージ。スペシャル。ダイジョウブ」
 毒々しい色彩の化粧をした中国人女性の客引きが近寄ってきた。まるでジャングルで出逢った狩りをする戦士の様な化粧をした女に嫌悪感さえ抱いた俺なのに、今夜は、このまま一人で、冷たく暗い部屋に帰る気がしなかった。
 ただ、人の体温を感じたいと思っただけだった。女の柔かい肌が俺を誘った。
「マッサージ、本当に出来るの。スペシャルは無しだよ」
「ダイジョウブ。コッチ」
 馬鹿な行為だと知っていても、一人では居られない夜がある。
 女に連れて来られた店は嫌な湿気臭い匂いがした。服も脱ぎたくなかった俺はサッサと退散しようと腹を決めた。
「足だけでイイよ。三十分だけね」
「ダイジョウブ。ダイジョウブ」
「ねぇ。一つお願いがあるんだけど、その化粧を落としてみてよ」
「エッ、ナニ、イッテルノ。ダメヨ」
「一時間分のマッサージ代を払うからさ。スッピンでね」
 言って、俺は後悔した。何を期待したのか。どうせ、荒れた肌と醜い素顔に幻滅するだけだ。
「スペシャル、スル」
「しないよ。やっぱり、帰るかな」
「ダメ、モウ、ダメヨ。ケショウ、ナイノ、ミタイノ」
 女は奥で化粧を落とし始め、服まで脱ぎ始めた。
「スペシャルは無しだよ。金は無いからね」
「ダイジョウブ」
 女は不器用に足を揉みながら、俺の目を見て熱い息を吐いた。
 ウンザリしながらも、女の胸元に視線がいってしまう俺がいた。女は上目遣いで微笑んだ。似ても似つかない女の顔と和子の笑顔が重なった。
 子供のように無邪気な笑顔をみせる中国人女性を観ていて、会った事も無いその女性の両親の事を想い浮べてしまった。きっと、御両親にとって、世界一、可愛い大切な娘なのだろうなぁ。
 数分前まで、いわれのない嫌悪感を持って彼女の事を物扱いしていた俺を恥ずかしく思った。
 俺は二十分もすると帰ろうとした。しつこく、まとわりつく女に強引に金を握らせ、俺は店を出た。
 街中を楽しそうに笑顔で行きかう人達が遠い別世界の人達に思えた。気を張って歩かないと崩れてしまいそうだった。
 俺は娑婆(しゃば)に巣食う醜い餓鬼(がき)(むしば)まれていった。
 ザッザッザッザザザサササササ、、、、
 西風が吹き、街路樹が鳴った。灰色の空から、涙が(こぼ)れ落ち、アスファルトの黒い染みが広がっていく。雷鳴と共に、世の中の全てを押し潰すような雨が落ちてきた。
 繁華街の煌びやかなネオンに照らされた路地に、人から忘れられた紙切れが落ちている。それは手紙だった。雨に()んだ蒼いインクが意味の無い模様になり、届かなかった言の葉の想いを現わしているようだ。
 激しい雨で煙る道路の向こう岸に狐の御面を被った老婆が般若信教の一節を繰り返し唱えている。
『しきそくぜくう。くうそくぜしき。ぎゃていぎゃてい。はらぎゃてい。はらそうぎゃてい。ぼじそわか』
 やがて、老婆は激しい雨にかき消された。

 俺は地下道を抜けて駅へ向かった。浮浪者の一人が段ボールを抱えて階段を昇る。地上から差し込む朝日が光明の階段を造り、その先には青空が広がっている。浮浪者は一歩一歩階段を上がっていく。その姿を俺は、ただ眺めていた。やがて、俺は仄暗い井戸から這い出るようにして地上に立った。

 一九九七年五月二十五日、日曜日。
 雨上がりの碧い空は何処までも高く、果てしなく広がり、太陽の光は音も無く地上に降り注いだ。
 落ち着きを取り戻した人達の笑顔が輝く。日曜日の公園には家族の笑顔が溢れる。

「ケンちゃん。ケンちゃんでしょう」
 聞き覚えのある声に振り向くと笑顔の女性が立っている。髙橋和子ではない。スラっとしたスラックスに胸元の開いたブラウスから大人の女の薫りが漂う女性だ。
「あぁ。ああっ。メグちゃん。あれっ。メグちゃんだよね」
 中学時代の同級生の山口恵だ。メグちゃんは中三の冬、バレンタインデーにチョコレートをくれたのに、俺が返事も御礼も言えなかった相手だ。
 中学を卒業した後、俺とメグちゃんは高校も同じ学校に進学した。俺とメグちゃんは学校の帰りに、たまに電車の中で会い、昔話をする程度の仲だった。
 高校二年の夏、休み明けの校内で広まった誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)は山口恵を孤立させてしまった。いわれの無い噂はエスカレートして『恵が中絶した』なんて話まで、でっち上げられた。いつの間にか校内で独りで居る山口恵を見かけるようになったのも、この頃だったと思う。俺は意識したつもりはないが、今思うと山口恵と目をそらした事があったかも知れない。
 何でだろう。戻る事の無い季節を後悔してしまう。

「やっぱり、ケンちゃんだ。元気。どうしているの、今」
「うん。まぁ。何とかやっているよ。メグちゃんはどうしてたの」
「私。まぁね。うんっ。今、私、実家に居るのよ。コブ付きで出戻りよ。去年、離婚しちゃった」
「あぁっ。そう。子供、いくつ。男の子。女の子」
「五歳。女の子よ。もう、うるさくて。写真、観る」
 写真の女の子の笑顔は一点の影も無く、俺を和ませてくれる。中学時代のメグちゃんの面影があった。
 大きな口を開けて大笑いしながら自分の離婚話をする山口恵は俺のイメージの中の高校時代のメグちゃんとは、かけ離れた違うものだった。
 今、俺の目の前にいる生きた山口恵はハツラツとした表情で俺を見詰めている。メグちゃんの笑顔が雨上がりの太陽の光でキラキラして観える。
「なぁ。メグちゃん、良かったらさぁ。今度、ビールでも飲みにいかない」
「そうねぇ。来月の夕方当たりなら、大丈夫」
 俺の今が明日にむかって動き出した。と、その時は思った。


 華やかなカクテルパーティーも今は色あせて観える。この世界に高橋和子はいない。
 人混みの中で孤独な俺の前に高橋和子が立っていた。何も変わっていない笑顔。伝わってくる空気感も髪の薫りも体温も昔のままだ。
 俺は、どう声をかけていいか分からず、ただ微笑んだ。
 目が覚めると現実が降りてきた。そこは和子の居ない世界だった。

 一九九七年六月八日、日曜日、午後。
 割烹料理店で働く友人から電話があった。
「なぁ、健一。知っているか。髙橋和子。五年前にシングルマザーで子供、産んだんだってよ」
「あぁ。つい先月に聞いたよ」
「それでよ、一昨年に結婚したんだってよ。あの老舗商社の元会長。七十三歳だってさ。信じられないよな。愛人の子じゃなくて愛人だったのかな」
「えっ、あぁ。知らないよ。それよりキクさんはどうしてるの」
「三年前の秋に亡くなったらしいよ」
「あっ。あぁ。そうかぁ」
 信じられない。俺の心は(ちゅう)に浮いたまま、置き場がなかった。

 一九九七年六月八日、日曜日、夕刻。
 乾杯のビールを一口飲む。まだ、陽の明るいうちから飲むビールの味は爽快な味わいだ。心地好い酔いのせいか、俺は俺という人間に蘇っていく気分になる。
 西の空がオレンヂ色から赤紫に変わる。薄暮の空に吹く風が初夏の薫りを運んでくる。
 山口恵は中学時代には想像もしなかった艶っぽい表情で遠くを見詰めている。
「私ね。ケンちゃんの事、好きだったんだよ。中学の時」
「えぇっ。んっん。今はどうなの。彼氏は」
「ぜんぜん。もう、結婚とか、いいっしっ。何で結婚したんだろう」
「結婚するのに理由が要るのかよ」
「ふっはっはっは。ケンちゃん、ロマンチストね」
 ロマンチストか。現実を見ろって事かなぁ。
 和子は理由を付けて結婚に踏み切ったのだろうか。

 俺は山口恵と、また会う約束をせずに別れた。
 翌日、東京が梅雨入りした。

 一九九七年七月二十七日、日曜日、午後。
 道端の蝉の死骸に無数の蟻が、たかっている。蟻に解体された、かつての蝉は音も無く静かに消えていく。
 その日は朝から夏の重力で全ての音がかき消され物音一つしなかった。灼熱の太陽が照り付け、アスファルトの焦げた匂いが立ち上がる。重い荷物を背負った俺の横を黒塗りの車が通り過ぎる。
 一九九七年七月二十七日、日曜日、夜。谷中から言問通りを下り、根津方面に歩いていた俺は、今夜が隅田川の花火大会の日だという事をすれ違う人達の浴衣姿と花火の音で知った。今頃、浅草周辺は数十万人の人で溢れているのだろう。
 和子も夜空に浮かぶ花火を見る時、想い出すのだろうか。あの頃を。

 あの日。遠い昔のあの日。和子に会ったのは偶然だった。
 一九八九年五月七日、日曜日。
 休日だったが俺は店の仕入れと片付けでバーに立ち寄った。
 平日と違い、静かに息を潜める赤坂の街。
 小料理キクの扉が開いていた。
「やぁ。和子ちゃんだっけ。俺、そこのバーの」
「えぇ。はいっ」
 あどけない笑顔でお辞儀をする和子。
「俺、沢村っていいます。沢村健一。大変だね、御店。ここの二階に住んでるの」
「はい。取りあえず節約しないと。贅沢できないので」
「ふーん。そう。今度さ。飯でも食おうよ。御馳走するよ。あっ、そうだぁ。花やしきって行った事ある。浅草の。チケット二枚あるんだけど行ってみない」
 精一杯の誘いだった。それにしても何でディズニーではなく、花やしきだったのか。今想うと、それが功を奏したのかも。和子は緊張が解けたかのように笑った。
「えっ。あっはぁ。花やしき。行った事ない」
「そうっ。行ってみよう。今度の日曜日は。神谷バーって知ってるぅ。そこで一時半に」
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