第31話 2020 開幕前(パンデミックのなかった世界)

文字数 2,698文字

 2020年は、SNSによる情報発信とそれを広く世界に知らしめた迅速な情報公開が、感染症から世界を救った歴史に残る年明けとなった。

 前年の暮れ、中国の数名の医師が「SARSに似た新型ウイルス」の診断例に気付き、インターネット上で情報共有した。2002年のSARS流行の際に情報を隠蔽したことで世界の信頼を失った中国政府は、同じ轍を踏まないように速やかに情報を開示し、WHOは世界に向けて「新型コロナウィルスの存在とパンデミックに至る危険性」をアナウンスした。
 中国政府はWHOの協力の下、各国に呼びかけ、年末から国境や地域を越える人の往来を大幅に制限し、感染の拡大が見られていた湖北省武漢市をいち早く封鎖することで感染拡大を抑え込むことに成功した。
 もしも、中国政府が医師たちの情報共有を抑え込み、それを公開することもなく隠蔽していたら、多くの命を奪う世界的なパンデミックに繋がったかもしれなかった。世界中の人々が、中国の医師たちの勇気を褒め称え、中国政府の迅速な行動を高く評価した。

 テレビで新型ウイルスの特集番組を見ていた時に優香がタクに話しかけた。
「SNSの力ってすごいね。個人の情報発信が世界を動かすんだから」
「そうだね。でも中国政府がよく公開したね。レースで上海に行く度に、まるで未来都市みたいになった進化に驚かされるけど、まだまだ僕たちの考える自由とは違う気がしていたんだ。これで中国も民主化や近代化が進むのかな?」

 タクと優香は正月に帰国し、数日を倫子のもとで過ごした後、タクの誕生日を前に東京に移動した。
 新たな拠点として、以前に短期間契約していた代々木のサービスアパートメントを事務所兼住居として長期契約した。ボローニャのアパートはそのままに、テストドライバーの仕事から解放されたことで、日本で過ごす機会が増える見込みだった。

 タクの29歳の誕生日は都内の居酒屋で祝った。18歳でヨーロッパに渡ったタクは、日本の居酒屋に入った経験が殆どなく、同世代の日本人と同じ体験をしてみたいというのが誕生日のささやかなリクエストだった。
 その後、二人はカラオケで2時間ほど歌って部屋に帰った。
 優香はタクに訊ねる。
「ほんとに何もいらないの?」
「こっちで足にするクルマがあると良いとは思うけど、誕生祝いと言うより、仕事の道具として経費で落とせる方が良いと思うんだ」
「わかった。じゃ、せめて車種だけでもタクが乗りたいと思うのを選んで。あとは私がリース契約の手続きするから」
「優香が車幅を気にしないならBMWのi8がいいかな? ここの地下駐車場で充電コーナーが使えたら便利だし」
「OK。この間試乗した時に、きっと気に入るだろうと思ってた。色は?」
「紺が良いかな。もしあれば紺と白の2トーン。今年のマシンのカラーリングに合わせてね」


 濃紺と白に塗り分けられAT01と名付けられた真新しいマシンが、ウォームアップランを終えてストレートに戻ってきた。
 タクはレースを模してスターティング・グリッドにマシンを停め、スタート専用のボタンでエンジンの回転数を合わせ、ステアリング裏のクラッチパドルを操作する。クラッチをリリースし、タイヤが路面を掴んだ直後に右足でペダルを踏み込みフルスロットルを与えた。ホンダRA620Hパワーユニットはその持てる力を後輪に伝え、ピレリ製のリアタイヤが激しい軋み音を上げながら猛然と加速していく。
 ストレートは軽い下り勾配になっている。1コーナー「エルフ」に向けて左足でブレーキペダルを力いっぱい蹴り飛ばすように踏み込む。タクの脳髄は激しく前後に揺すられるが、ヘルメットと共にカーボンコンポジットのマシンに固定された身体はミシリとも動かない。1コーナーから「ルノー」と名付けられた高速コーナーへ続く間、身体は左右に激しく揺すられ、想像を絶する力で、左に、そして右にと押さえつけられる。まだ本来のスピードに乗っていないスタート直後でも横方向の加速度は4Gを超える。

 2019年の合同テストで、タクはまだテストドライバーだった。それから1年。タクは、トロ・ロッソからのチーム名変更と共にカラーリングも新たに生まれ変わったスクーデリア・アルファ・タウリのレギュラードライバーとして、バルセロナのカタロニアサーキットに帰ってきた。
 毎年F1開幕前の合同テストに使用されるこのサーキットで、タクは過去に3度優勝している。それは、125ccクラス、Moto2、そしてMotoGPのロードレースだ。
 タクにとってMotoGP最後の年になった2016年、このサーキットで行われたカタルーニャGPで、Moto2クラスのフリー走行中に死亡事故があり、そのために予選と決勝は事故現場を避けて急遽F1用のコースレイアウトで行われた。その週末のことをタクはまだよく覚えている。亡くなったライダーはタクと1歳違いだった。
 テストの前日、サーキットに着いたタクと優香は、24歳で命を落としたマヨルカ島出身のライダー、ルイス・サロムの事故現場に花を供えた。

 5日間のインターバルを挟んで、合計6日間行われた合同テストで、タクはチームメイトのピエールと3日間ずつドライブを任された。タクは初日に5番手、3日目に3番手、5日目にはトップタイムを記録する。
 しかし、多くのドライバーがタクが出走しない最終日にタイムを更新したため、5日目に記録した1分16秒830のベストタイムは6日間の総合では全体の9位になっていた。もし、自分が6日目のドライブを任されていたらもっと上位に食い込めたはずと、タクは悔しさを押し殺しながらバルセロナを後にした。

 開幕前のテストはチーム毎に走行時の条件が異なるため、タイムだけを比較することにあまり意味はない。しかし、テストを通じてはっきりしたのは、メルセデスの圧倒的な速さで、3日目にバルテリが記録したタイムは、6日目の最速タイムより優に1秒以上速いものだった。
 その後、車載カメラの映像でスイッチを操作しながらステアリングを前後に動かしていたことが明らかになる。それは、フロントタイヤのホイールアライメント(路面に対する角度)をいくつかの設定値に走行中コントロールできるVAS(バリアブル・アクシス・ステアリング)と呼ばれるシステムだった。メルセデスはFIAに承認された範囲内と主張していたが、明らかにアドバンテージを得られるその画期的なシステムが、果たして合法的なものと言えるのか物議を醸していた。


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