第11話 唯我独尊

文字数 3,341文字

 順調にトレーニングを重ねたタクは、若い頃世話になった知人に頼み込んで、開幕前の3月に鈴鹿で行われる二輪の合同テストに参加することになった。
「どんな事情か知らないけど、青木拓也が乗ってくれるなら、どこのチームも喜んでオファーするよ」と彼は言ってくれた。
 優香に同行を頼んだが、泊まりがけの旅を躊躇され、タクは一人で鈴鹿に向かった。

 2003年の加藤大治郎の死亡事故以来、MotoGPクラスのレースは鈴鹿では行われていない。テストは全日本ロードレース選手権の参加マシンによるもので、ヨーロッパでレースをスタートしたタクにとっては勝手が違うことばかりだった。
 そんな影響もあってか、久しぶりに走った鈴鹿ではコーナーを攻められずに凡庸なタイムに沈む。
 こんな時に優香が隣にいてくれたら……と心細い思いを抱きながら、タクはタイムシートを眺めた。時には大袈裟に感じることがあっても、優香がいつも褒めちぎってくれることで、折れそうになる自分の気持ちをなんとか保てていたのかもしれない。
「今はまだまだ本調子じゃないんだろう? ウチのマシンに乗りながらレースの勘を取り戻してくれてもいいんだよ」とオーナーは言ってくれた。しかし、情けを掛けられて国内のレースに出場することは、世界でトップを争っていたタクのプライドが許さなかった。

 鈴鹿のテストに参加した翌週のこと。ホンダの協力のもと、パーソナルスポンサーの計らいでタクがMoto2チャンピオンを取ったカレックスのマシンを用意するという連絡を受けた。優香も婚約者との約束をキャンセルしてサーキットに同行してくれることになり、二人は再びツインリンクもてぎに向かった。
 共に世界を転戦したマシンがパドックでタクの到着を待ち構えていた。再会を果たしたタクは、愛馬を愛でるジョッキーのようにマシンを撫で回す。その姿を優香はじっと眺めていた。
 しかし、危惧していたとおり、タクは左回りのコーナーでティルト・アングルがキープ出来ず、思い切ったハングオフの姿勢が取れない。かつては手足の延長のように自在にコントロールしていたマシンが、タクには冷淡になってしまった昔の恋人のようによそよそしく感じられた。
 その朝はコースを1時間借り切っていたが、タイムシートとデータログを眺めながら、タクは予定より早く打ち切ることを決断する。
 関係者に深々と頭を下げ、礼を言うと、タクは無言でロッカールームに向かった。

 カフェテリアで優香と向かい合ったまま、タクはひと言も口をきかない。
「お腹すいたでしょ? 何食べる?」
「今は何もいらない」
「そう言わずにちゃんと食事しないと。それもトレーニングの一環でしょ?」
「今さらトレーニングなんて……。もう自分の身体じゃないよ」
「ホンダの人たちがタイムを見て、さすがって言ってたのに。一度か二度のチャレンジで諦めるの?」
「諦めるとかそういうレベルじゃない。世界のトップと戦える身体じゃないことは自分が一番よくわかってる。あのタイムは国内なら通用するかもしれないけど、自分のコースレコードより3秒近く遅いんだよ?」
 そう言うとタクは瞼を閉じた。
「とにかく何か食べよう。パスタで良いよね?」

 その日の午後、タクは国内のスーパーGT選手権で活躍するカート時代のライバルと偶然再会した。
 彼はタクに近づいて脇腹を小突きながら耳打ちする。
「ちょっとちょっと。いい女連れて。まったく隅に置けないね」
 タクは敢えて優香を名字で紹介した。
「こちらは青山さん。僕のパーソナルトレーナー」
「鈴木です。よろしく! 拓也の彼女じゃないんですね。僕にもチャンスがあるかな?」
「鈴木(かける)ね。カート時代のライバルだったんだ」とタクは紹介した。
「ライバルって言うのはお世辞。こいつが二輪に専念してくれたおかげで、僕は四輪で成功出来たんですよ。とにかくカートでは敵わなかったから」
 しかし、ひとたびマシンを降りてしまえば、タクは鈴木翔には敵わない。
「そう言えば、何があったんだ? MotoGP走らないって?」
「まぁね」
「この間ここでカート荒らしやったって? もしかして四輪に転向するの?」
「カート荒らしってなんだよ?」
「いきなり来て、黙って歴代3位のタイム出したんだろ」
 そう言うと、今度は優香に向かって翔は言う。
「俺より速いんだよ。知ってた?」
「現役レーサーで俺より遅いヤツがいたとは驚いた」とタクは翔に返す。
「相変わらず唯我独尊だな。そうだ。どう? 拓也、ウチのクルマ乗ってみる?」
「そんなことできるのか?」
「オーナーに頼んでみるよ。ライバルチームに行かれたら俺たちも不利だからさ」
 その旧友の軽いノリが、タクの人生を切り拓くきっかけになる。

 ドライブしたのはメインカテゴリーのGT500ではなく、プライベートエントリーのGT300だったが、数周のウォームアップランを終え、タイムアタックに臨んだタクは、同じマシンで鈴木翔の0.8秒落ちのタイムを刻んだ。

 昼までのタクとは表情がまるで違った。
「翔とはコンマ8秒差だったけど、まだまだ詰められる気がする」と言うタクは、四輪に希望を見出していた。
「拓也さんがそう思うなら、私は応援する」

 翌週、富士スピードウェイで行われるGT300のテストには優香も同行するはずだった。
「ごめんなさい。明日行けなくなっちゃった」
「もしかして婚約者?」
「ほんとにごめんなさい。私が悪いの。ちょっと伝え方が悪かったから、この間一緒にもてぎに行ったことで彼を怒らせちゃって」
 優香はお詫びにと愛車を貸してくれた。

 臨んだテストでタクは全体のトップタイムを記録し、その走りはGT500のワークスチームからも注目を浴びる。
 翌日のスポーツ紙には『青木拓也MotoGPからSuperGTに』と見出しが躍った。
 エントリーシートはすでに契約ドライバーで埋まっていたが、タクはギリギリのところでリザーブドライバーとしての契約にこぎ着けた。

 スーパーGTの開幕戦が4月8日から始まると聞いてタクは懐かしさを感じていた。
 熊本の母の実家は浄土宗の仏教寺院で、毎年4月8日は灌仏会といってブッダの生誕を祝う花祭りが行われていた。タクの記憶にあるのは、幼い頃に母と一緒に小さな仏様に甘茶を注いだこと。誕生仏と呼ばれる仏様が荘厳された花御堂は、色とりどりの花で美しく飾られていた。
 み仏は誕生後すぐに七歩あゆまれ『天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)』と言われたことが『唯我独尊』と言う言葉の由来である——と住職だった祖父は教えてくれた。
 祖父母から一人っ子であることを心配され、わがままにならないようにと、タクは両親から厳しく育てられた。しかし、子供の頃から人一倍負けず嫌いで、どんな分野でも負けを認めない性格だったから、よく周りから「唯我独尊」と言われた。それは多分にネガティブな意味を含んでいたことにタクは大人になってから気づいたが、子供時代は寧ろそれを自らの誇りにしていた。
 三姉妹の長女だったタクの母は、妹たちより先に結婚した。しかし、叔母たちの誰も僧侶にはならず、養子を迎えることもなかったため、祖父が他界したあとは本山から派遣された僧侶が住職となって寺院を継いだという。大学入試に失敗したとき、祖父は余命3か月と言われていたことから、寺院の跡継ぎの話がタクの元に降って湧いた。その話から逃れることも、急いでイタリアに渡った理由の一つだったが、世話になった叔母も寺院を継ぐことを嫌がって、駆け落ち同然でイタリアに渡ったと聞いた。
 タクは花祭りの思い出と同時に、亡き祖父や母に対する申し訳なさから心の奥にチクリと痛みを感じた。

 結局、開幕戦でタクがステアリングを任されることはなかったが、何人かの記者から取材を受ける。
 真新しいレーシングスーツに身を包まれたタクは、逸る心を鎮めながら、今は焦らずにフィジカル・トレーニングに専念しましょう——と優香に言われた言葉をひとり噛みしめていた。

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