第26話 F3の頂点
文字数 3,995文字
マカオ・グランプリのメインイベントであるFIA・F3ワールドカップでは、世界のF3チャンピオンシップを戦った勇者達が4日間に亘って競い合う。
初日の木曜日にフリー走行1回目と予選の1回目、2日目の金曜日に2回目のフリー走行と予選2回目が行われ、その2回の予選のベストタイムで予選レースのスターティング・グリッドが決定される。そして土曜日の予選レースの結果に基づいて、日曜日の決勝レースが行われる仕組みだ。
タクが急遽ドライブすることになったモトパークのマシンは絶好調で、タクはマシンをどんどん自分好みにセットアップしていく。事前にドイツに渡ってシミュレーターや実車テストで感触を掴んではいたが、それ以上にメカニックとジョークを言い合えるほど親しくなったコミュニケーション能力がタクの強みでもあった。
初日のフリー走行1回目こそ12番手だったが、初めて走るコースながらタクは確かな手応えを感じていた。
午後から開始された予選1回目では、わずか40分の間にアクシデントが多発する。2度もレッドフラッグによる中断となり、漸く再開したセッションも終了間際に3度目の赤旗となり、予選はそのまま終了した。荒れた予選のトップは、モトパークで前年の覇者となったダニエルだったが、タクはミハエルの息子でヨーロッパF3チャンピオンのミックに次ぐ4番手で終える。その一方で、トムスをはじめとする全日本F3のドライバーたちはマシンの安定性に手を焼いて苦戦していた。
モナコよりもさらにコース幅の狭い公道サーキット故、予選で上位のポジションを得られなければ、決勝での追い抜きは難しい。
金曜日の早朝、タクはホテルの部屋を出る準備をしていた。物音に気づいた優香が目を擦りながら訊ねる。
「タク、どこ行くの?」
「ちょっとコースの下見」
「私も行く」と言うと、優香は手早く準備を整え、タクの後を追った。
日の出と共にギア・サーキットと呼ばれる約6kmの公道サーキットを足で歩いて、路面の荒れ、特にマシンが接近するガードレール付近の起伏やひび割れ、コーナーに設けられた縁石の状態を確認していく。
すでに初日に走っていたから、走行中に気になったポイントを目視することで、コースの攻略法を詰めていく。それは、二輪時代からのタクの習わしだった。
2日目に行われたフリー走行2回目でタクは3位に着けた。
予選2回目は1回目と同様に荒れたセッションとなり、多くのドライバーが黄旗(イエローフラッグ=追い越し禁止)や赤旗中断で翻弄される。タクは絶妙のタイミングでタイムを刻み、コースレコードを更新したダニエルに迫るほどの勢いで予選を終える。予選のベストタイムはダニエルに次ぐ全体の2番手だった。
その一方で、国内では他を寄せ付けない走りをしていたトムスのマシンは防戦一方の展開になってしまったうえに、クラッシュや赤旗の影響を受け、全日本F3チャンピオンの坪口翔は22位で2回目の予選を終えていた。
「タク、このチームで走って大正解だったね」と言う優香に、フェイスマスクを脱ぎながら、タクは力強く頷いた。
「あの時、優香が幸運の女神の前に立ちはだかってくれなかったら、今日は20番前後であたふたしてたかもね」
開催3日めの午前中に予選レースが行われた。
前夜の雨でまだコース上は濡れていたが、他のドライバー達が嫌がる難しいコンディションは、むしろタクの得意とするところ。
ポールポジションからスタートしたダニエル、2位スタートのタクに、ライバルチームのカラムの3人が三つ巴の闘いとなり、目まぐるしくトップが入れ変わる。ところが、トップを奪い返したダニエルが3周目に差し掛かった時のこと。コース内に突然犬が侵入し、フルコースイエロー(全面追い越し禁止)からセーフティーカーが導入される。
再スタートが切られた5周目、タクはダニエルの背後にピタリと食らいつく。激しく追い上げて3位につけていた同じチームのジョエルから何度も背後を脅かされるが、タクは動じない。本命ダニエルの真後ろの2位でタクは予選レースをフィニッシュした。
4位、3位、2位とセッションの度に一つずつ順位を上げていたタクが予選レースで1位となることを期待した優香は、予めタクに黙ってお祝いを用意していた。予選レースを終えた夜、ホテルの部屋で優香はプレゼントをタクに渡す。
「本当は予選レース1位のお祝いのつもりだったけど、明日の決勝前に渡しておいたほうが良いと思って。優勝の前祝い」と優香が言うと、タクは苦笑いした。
マカオの家電量販店で入手したというプレゼントは、ブルートゥースで接続出来るドイツ製の密閉型ヘッドフォンだった。包みを開きながらタクは優香に語る。
「確かレッドブルのF1チームがこのメーカーのヘッドセット使ってるはずだよ」
「じゃ、ちょうど良かった」
「もしかして、これで?」とタクは訊ねる。
「そう。全日本では余裕がなくてかけられなかったでしょ」
タクが広げたヘッドフォンを頭に被せると、優香はiPhoneを操作した。
「右側にあるボタンを押してみて」
優香に言われたとおり手探りで小さなボタンをプッシュすると、タクの頭の中にイントロのギターとグロッケンシュピールが響き始める。
「『リトル・ウィング』だ」とタクが呟いた。
曲が終わるまでの2分26秒間、優香はじっと待っていた。
ヘッドフォンを外しながらタクは嬉しそうに礼を言う。
「ありがとう! これ最高だよ」
「良かった。これならタクの一番良いタイミングでiPhoneの曲を再生出来るでしょ? ブルートゥースだとあまり遠くに行けないけど」
「なるほど。じゃ、この曲が終わるまで優香は近くにいてもらわないとね」
開催4日目、日曜日の午後にF3の決勝レースは行われる。
過去に死亡事故も起きているマカオグランプリだったが、65回目となる2018年も予選から荒れていた。
タクにとっては四輪による初めての公道レースだったが、二輪では経験を重ねたレース巧者だ。一方で、若く血気盛んなライバル達は決勝レースでクラッシュする可能性も高い。15周の短いレースであっても、黄旗、赤旗で再スタートとなれば、スタート時の混乱やクラッシュのリスクはその度に高まる。万一大きなクラッシュに巻き込まれたら一瞬で全ての努力が水の泡になる。それ以上に、上位スタートのタク自身がアクシデントの原因を作り出すようなことは決して許されない。
優香にプレゼントされたヘッドフォンを被り、タクは『リトル・ウィング』の世界に浸って気持ちをリラックスさせる。外したヘッドフォンを優香に渡すと、タクは視線の揺れを安定させるトレーニングに続けて、頭を前後左右に動かしながら、目眩の症状があらわれていないか再度チェックした。
「今日はイケる気がする」
タクはそう呟くと、ゆっくりとヘルメットを被った。
いよいよ決勝の火蓋が切られる。
予選2位のポジションからスタートしたタクは、スタート直後にポールポジションのダニエルに並びかけるが、リスボアコーナーでインを守り抜いたダニエルに逃げられる。その直後に後続車の多重クラッシュが発生し、なんと1周目からセーフティーカーの導入となった。
コースがクリアとなり、レースが再開された4周目にそれは起きた。
再スタート直後、注目されていた17歳の女性ドライバー、ソフィアが前を行くユアンのマシンに接触。その直後にイン側の縁石に乗り上げて時速270キロを超えるスピードで宙を舞った。ソフィアのマシンは後ろ向きにトムスの坪口翔のマシンに乗り上げ、まるで翔のマシンをカタパルトにするようにさらに勢いを増して鉄製フェンスを突き破り、コース外の仮設スタンドに激突した。
その事故は各国のテレビニュースで放映されるほど衝撃的なものだったため、当然レースは赤旗中断となった。
ソフィア、坪口翔、カメラマンやコースマーシャルの計5人が負傷する大事故だったうえに、コースの修復で中断時間は長引いた。
「翔君はどうだった?」と、タクは優香に訊ねた。
「彼は大丈夫そうだけど、ソフィアは病院で手術を受けるみたい……」
パドックで映像を見たばかりのタクは、目を閉じてショックを振り払うように頭を振った。
「一昨日、ソフィアと話したんだ。MotoGPの僕の走りを見てくれてた。助かると良いけど……」
セーフティカー先導によって残り9周の決勝レースが再開されたのは夕方5時近くのことだった。
タクは慎重にダニエルの後に着いていく。しかし、後続で再度クラッシュが発生し、3度目のセーフティーカー・ランとなった。
その再スタートでタクは再びダニエルに並びかけ、リスボアコーナーでダニエルを抜き去った。誰もがダニエルの2年連続優勝を疑っていなかったから、報道席も観客席もざわめいた。二輪時代からタクを応援していた一部の観客は、自分の旧友がトップを奪ったかのような感激に胸を震わせながら「タク! タク!」と歓声を上げ、腕を突き上げた。
チームのスタッフは想像を超えたタクの走りを驚きをもって見つめていた。
「タク、落ち着いていけ。ダニエルと必要以上に争わないでくれ」というチームの無線に、タクは「わかってるよ」と応えると、『リトル・ウィング』を口ずさみ始める。
そのまま逃げ切ったタクは、ダニエルを従えたままトップでレースをフィニッシュした。
青木拓也は、日本人3人目のマカオグランプリF3の覇者となった。
表彰台から降りたタクは、待ち構えていた優香の頬にキスをする。
「ありがとう。今日勝てたのは、優香と『リトル・ウィング』のおかげだよ」
初日の木曜日にフリー走行1回目と予選の1回目、2日目の金曜日に2回目のフリー走行と予選2回目が行われ、その2回の予選のベストタイムで予選レースのスターティング・グリッドが決定される。そして土曜日の予選レースの結果に基づいて、日曜日の決勝レースが行われる仕組みだ。
タクが急遽ドライブすることになったモトパークのマシンは絶好調で、タクはマシンをどんどん自分好みにセットアップしていく。事前にドイツに渡ってシミュレーターや実車テストで感触を掴んではいたが、それ以上にメカニックとジョークを言い合えるほど親しくなったコミュニケーション能力がタクの強みでもあった。
初日のフリー走行1回目こそ12番手だったが、初めて走るコースながらタクは確かな手応えを感じていた。
午後から開始された予選1回目では、わずか40分の間にアクシデントが多発する。2度もレッドフラッグによる中断となり、漸く再開したセッションも終了間際に3度目の赤旗となり、予選はそのまま終了した。荒れた予選のトップは、モトパークで前年の覇者となったダニエルだったが、タクはミハエルの息子でヨーロッパF3チャンピオンのミックに次ぐ4番手で終える。その一方で、トムスをはじめとする全日本F3のドライバーたちはマシンの安定性に手を焼いて苦戦していた。
モナコよりもさらにコース幅の狭い公道サーキット故、予選で上位のポジションを得られなければ、決勝での追い抜きは難しい。
金曜日の早朝、タクはホテルの部屋を出る準備をしていた。物音に気づいた優香が目を擦りながら訊ねる。
「タク、どこ行くの?」
「ちょっとコースの下見」
「私も行く」と言うと、優香は手早く準備を整え、タクの後を追った。
日の出と共にギア・サーキットと呼ばれる約6kmの公道サーキットを足で歩いて、路面の荒れ、特にマシンが接近するガードレール付近の起伏やひび割れ、コーナーに設けられた縁石の状態を確認していく。
すでに初日に走っていたから、走行中に気になったポイントを目視することで、コースの攻略法を詰めていく。それは、二輪時代からのタクの習わしだった。
2日目に行われたフリー走行2回目でタクは3位に着けた。
予選2回目は1回目と同様に荒れたセッションとなり、多くのドライバーが黄旗(イエローフラッグ=追い越し禁止)や赤旗中断で翻弄される。タクは絶妙のタイミングでタイムを刻み、コースレコードを更新したダニエルに迫るほどの勢いで予選を終える。予選のベストタイムはダニエルに次ぐ全体の2番手だった。
その一方で、国内では他を寄せ付けない走りをしていたトムスのマシンは防戦一方の展開になってしまったうえに、クラッシュや赤旗の影響を受け、全日本F3チャンピオンの坪口翔は22位で2回目の予選を終えていた。
「タク、このチームで走って大正解だったね」と言う優香に、フェイスマスクを脱ぎながら、タクは力強く頷いた。
「あの時、優香が幸運の女神の前に立ちはだかってくれなかったら、今日は20番前後であたふたしてたかもね」
開催3日めの午前中に予選レースが行われた。
前夜の雨でまだコース上は濡れていたが、他のドライバー達が嫌がる難しいコンディションは、むしろタクの得意とするところ。
ポールポジションからスタートしたダニエル、2位スタートのタクに、ライバルチームのカラムの3人が三つ巴の闘いとなり、目まぐるしくトップが入れ変わる。ところが、トップを奪い返したダニエルが3周目に差し掛かった時のこと。コース内に突然犬が侵入し、フルコースイエロー(全面追い越し禁止)からセーフティーカーが導入される。
再スタートが切られた5周目、タクはダニエルの背後にピタリと食らいつく。激しく追い上げて3位につけていた同じチームのジョエルから何度も背後を脅かされるが、タクは動じない。本命ダニエルの真後ろの2位でタクは予選レースをフィニッシュした。
4位、3位、2位とセッションの度に一つずつ順位を上げていたタクが予選レースで1位となることを期待した優香は、予めタクに黙ってお祝いを用意していた。予選レースを終えた夜、ホテルの部屋で優香はプレゼントをタクに渡す。
「本当は予選レース1位のお祝いのつもりだったけど、明日の決勝前に渡しておいたほうが良いと思って。優勝の前祝い」と優香が言うと、タクは苦笑いした。
マカオの家電量販店で入手したというプレゼントは、ブルートゥースで接続出来るドイツ製の密閉型ヘッドフォンだった。包みを開きながらタクは優香に語る。
「確かレッドブルのF1チームがこのメーカーのヘッドセット使ってるはずだよ」
「じゃ、ちょうど良かった」
「もしかして、これで?」とタクは訊ねる。
「そう。全日本では余裕がなくてかけられなかったでしょ」
タクが広げたヘッドフォンを頭に被せると、優香はiPhoneを操作した。
「右側にあるボタンを押してみて」
優香に言われたとおり手探りで小さなボタンをプッシュすると、タクの頭の中にイントロのギターとグロッケンシュピールが響き始める。
「『リトル・ウィング』だ」とタクが呟いた。
曲が終わるまでの2分26秒間、優香はじっと待っていた。
ヘッドフォンを外しながらタクは嬉しそうに礼を言う。
「ありがとう! これ最高だよ」
「良かった。これならタクの一番良いタイミングでiPhoneの曲を再生出来るでしょ? ブルートゥースだとあまり遠くに行けないけど」
「なるほど。じゃ、この曲が終わるまで優香は近くにいてもらわないとね」
開催4日目、日曜日の午後にF3の決勝レースは行われる。
過去に死亡事故も起きているマカオグランプリだったが、65回目となる2018年も予選から荒れていた。
タクにとっては四輪による初めての公道レースだったが、二輪では経験を重ねたレース巧者だ。一方で、若く血気盛んなライバル達は決勝レースでクラッシュする可能性も高い。15周の短いレースであっても、黄旗、赤旗で再スタートとなれば、スタート時の混乱やクラッシュのリスクはその度に高まる。万一大きなクラッシュに巻き込まれたら一瞬で全ての努力が水の泡になる。それ以上に、上位スタートのタク自身がアクシデントの原因を作り出すようなことは決して許されない。
優香にプレゼントされたヘッドフォンを被り、タクは『リトル・ウィング』の世界に浸って気持ちをリラックスさせる。外したヘッドフォンを優香に渡すと、タクは視線の揺れを安定させるトレーニングに続けて、頭を前後左右に動かしながら、目眩の症状があらわれていないか再度チェックした。
「今日はイケる気がする」
タクはそう呟くと、ゆっくりとヘルメットを被った。
いよいよ決勝の火蓋が切られる。
予選2位のポジションからスタートしたタクは、スタート直後にポールポジションのダニエルに並びかけるが、リスボアコーナーでインを守り抜いたダニエルに逃げられる。その直後に後続車の多重クラッシュが発生し、なんと1周目からセーフティーカーの導入となった。
コースがクリアとなり、レースが再開された4周目にそれは起きた。
再スタート直後、注目されていた17歳の女性ドライバー、ソフィアが前を行くユアンのマシンに接触。その直後にイン側の縁石に乗り上げて時速270キロを超えるスピードで宙を舞った。ソフィアのマシンは後ろ向きにトムスの坪口翔のマシンに乗り上げ、まるで翔のマシンをカタパルトにするようにさらに勢いを増して鉄製フェンスを突き破り、コース外の仮設スタンドに激突した。
その事故は各国のテレビニュースで放映されるほど衝撃的なものだったため、当然レースは赤旗中断となった。
ソフィア、坪口翔、カメラマンやコースマーシャルの計5人が負傷する大事故だったうえに、コースの修復で中断時間は長引いた。
「翔君はどうだった?」と、タクは優香に訊ねた。
「彼は大丈夫そうだけど、ソフィアは病院で手術を受けるみたい……」
パドックで映像を見たばかりのタクは、目を閉じてショックを振り払うように頭を振った。
「一昨日、ソフィアと話したんだ。MotoGPの僕の走りを見てくれてた。助かると良いけど……」
セーフティカー先導によって残り9周の決勝レースが再開されたのは夕方5時近くのことだった。
タクは慎重にダニエルの後に着いていく。しかし、後続で再度クラッシュが発生し、3度目のセーフティーカー・ランとなった。
その再スタートでタクは再びダニエルに並びかけ、リスボアコーナーでダニエルを抜き去った。誰もがダニエルの2年連続優勝を疑っていなかったから、報道席も観客席もざわめいた。二輪時代からタクを応援していた一部の観客は、自分の旧友がトップを奪ったかのような感激に胸を震わせながら「タク! タク!」と歓声を上げ、腕を突き上げた。
チームのスタッフは想像を超えたタクの走りを驚きをもって見つめていた。
「タク、落ち着いていけ。ダニエルと必要以上に争わないでくれ」というチームの無線に、タクは「わかってるよ」と応えると、『リトル・ウィング』を口ずさみ始める。
そのまま逃げ切ったタクは、ダニエルを従えたままトップでレースをフィニッシュした。
青木拓也は、日本人3人目のマカオグランプリF3の覇者となった。
表彰台から降りたタクは、待ち構えていた優香の頬にキスをする。
「ありがとう。今日勝てたのは、優香と『リトル・ウィング』のおかげだよ」