第2話

文字数 672文字

 俺が大人になって恋をしたのもこれが最初で最後になった。しかし、この恋慕は一度きりに相応しい。愛した彼女との輝かしい記憶が最期に蘇る。
 出会いは、仕事の休憩時間に居た、職場の隣の喫茶店だった。俺が仕事の忙しさを紛らわす憩いの場であり、店主とはすっかり顔馴染みだった。店主の趣味の、お洒落だが暗い灯りの下で、彼女はよくコーヒーをお供にパソコンと対面していた。始めは特段気になっていなかったが、こじんまりとした小さな店では、必然的に興味を唆られた。店長曰く、どうやら俺がここに来る前からの常連らしかった。時折見せる眉間のしわが幼気の残る顔から少し浮いてみえた。
 ある時、彼女が床にコーヒーをこぼした。いつもの通りパソコンの作業中だった。顔を真っ青にし、慌てて席から立ち上がった。いつかやらかすのではないかと思うほど彼女は常に忙しく動いていたので、俺は大して驚かなかった。店主が急いで其処へ駆け寄り、掃除をしようと道具を取りに行った。俺も腰を上げ席を離れ、彼女のもとへ駆け寄り、横のペーパーナプキンをとり、コーヒーを拭き取ろうとした。
「すみません。本当に。ごめんなさい。」
彼女は捲し立てるかの如く謝り倒した。だが、柔らかく暖かい声だった。
「ああ。気にしないでください。服が汚れていませんか。」
「はい。ありがとうございます。」
彼女の顔色と声色から少々安堵が伺えた。店主が戻ってきて三人で掃除をしていたが、会社の休憩時間も残りわずかとなっていたから、そのまま店主に託し店を出た。その日はそれだけだったが、俺は何か得体のしれない昂揚感を感じて仕事に戻った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

喫茶店の店主

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み