轍
文字数 2,056文字
彼女には右手の小指がない。正確に言えば、欠けている。他の指と同様白く華奢なその指は、第二関節の辺りで、ぶつりと途切れてしまっている。
生まれつきだというその指が、私には何故か、自ら切り落とした痕のように見えて仕方なかった。
建付けの悪い引き戸を力任せに開け放つと、途端に西日が視界を焼いた。思わず手をかざし、目を細める。窓から射し込む斜陽は八畳ほどの室内を赤々と染めて、立ち上る埃さえも、その熱でちりちりと焦がしている。
「すまない、村崎。遅れた」
瞼を伏せ、後ろ手に戸を閉める。床を覆い尽くさんばかりに散乱した書類や荷物の山に、半ば埋もれるようにして椅子に腰かけていた影が、
「こんにちは、先生」
ひらりと、小指の欠けた右手を振った。
「珍しいですね、先生が遅刻なんて」
「臨時の職員会議が入ったんだ」
ああ、それはお疲れ様です、と手元の本に視線を落としたまま労いの言葉を口にした彼女に礼を述べ、パイプ椅子に腰を下ろす。錆びた鉄の結合部が、悲鳴を上げるように軋んだ。
西校舎三階の右の突き当り。忘れ去られたようにひっそりと存在するこの部屋は、元は教材室であった。無造作に積み上げられた資料や色褪せた世界地図、本棚で埃を被ったままの参考書はその名残である。現在は埃と虫の巣窟と化しているが、私が顧問を務める歴史研究部の部室でもある。とはいえ三年生が引退した今、部員は二年生の村崎のみで、来年は廃部が決定している。
それでも毎週木曜日の放課後、西日の照る間だけ、彼女と二人思い思いに過ごす時間が嫌いではなった。
「江戸時代には、心中が多かったそうですね」
何の脈絡もなく切り出した村崎に、私は床から拾った本を開く手を止めた。彼女との会話はいつも、唐突に始まる。
「急にどうした」
苦笑を交えて問いかけると、彼女は徐に読んでいた本を持ち上げ、表紙を見せてきた。なるほど、遊女と商人の心中を描いた有名な浄瑠璃の題目が記されている。
「珍しいな。古典や芸能の類には興味がないと思っていたが」
「この前先生が話してくれた遊郭の話が面白かったので」
「ああ、吉原についてか」
確か先週のことだったはずだ。丁度授業内で江戸文化に触れたこともあり、読書の片手間に遊郭のしきたりや遊女について話した覚えがある。
「遊女を題材にした面白い民俗学ミステリーがあるんだが、今度持って来たら読むか」
村崎は歴史好きというより本好きなところがある。今までにも何度か本の貸し借りをしてきたので、今回も例に漏れず提案してみると「ちょっと考えておきます」と彼女にしては珍しく即諾を控えた。
「……来世は、同じ蓮の上に生まれ変われるように」
暫くの沈黙の後、またぽつりと言葉を発した彼女に、ページをめくる手を止めた。ちらりと、彼女へ視線を向ける。依然本を見つめたままの姿に、浄瑠璃の一節をなぞったのだと気づいた。
「生きて添い遂げることができない男女が、そう誓って祈って共に命を絶ったことを、先生は知っていますか」
「ああ。……彼らは変わらぬ愛の証明に、髪を削ぎ爪を剥ぎ、果てには指を切った。心中立てと呼ばれるこれらの行為は、江戸時代の遊女を中心に広まりを見せていた」
「……馬鹿ですよねえ」
嘲るように鼻を鳴らし、無造作に本を閉じたその仕草に、思わず口を噤んだ。俯いた顔は前髪に隠れて表情が読み取れないが、声色に棘が滲んでいる。
「指を切ってしまえば、赤い糸なんて結べない。例え同じ蓮の上に生まれ変わることができたとしても、決して結ばれない。愛しては、もらえないのに」
彼女は白く細い左の五指で、右の小指を撫でた。自ら切り落としたかのように短い、その指を。
「先生」
細い声が、微かに震えたのは気のせいだろうか。顔を上げた彼女は、口角を緩く上げたまま、私を見つめ、長い息を吐き出すように告げた。
「来月、結婚するんでしょう」
色素の薄い瞳が僅かに揺れる。その目尻から零れた雫が夕日に反射して、赤く光った。
「私、もう、ここには来ません」
「村崎、」
咄嗟に伸ばした私の腕を振り払い、黄ばんだ地図を踏み越えて、彼女は戸を引いた。古びた扉が軋み、その背を飲み込む。
色褪せた静寂の中に、私は一人取り残された。
ぎしり、と、パイプ椅子が音を立てる。
まだ限られた相手にしか告げていないことを、何故彼女が知っていたのか。脳裏を過った疑問はすぐにどうでもよくなり、ただもう、がらくたと埃まみれのこの部屋に、彼女は二度と戻って来ないのだという確信が、胸の奥でずきりと疼いた。
彼女には右手の小指がない。その理由を、私はとうの昔に知っていた。
彼女に振り払われた右手を、窓の向こうの残照にかざす。透ける血管よりなお濃く、赤く刻まれた痣がある。小指の付け根をぐるりと巡るそれは、指輪のようにも、指を切り落とした痕のようにも見える。
どちらにしても同じことだ。誓ったのだ、永遠を。
右手の小指に絡みついて解けないこの呪いが。ほつれ切れては結び直した赤い糸の残滓が。
揃いの約束にしては、あまりに虚しい。