帰路

文字数 2,120文字

 緩やかに蛇行しながら山へと延びる坂道を、浴衣を着た子供がぱたぱたと駆け上がって行く。普段は人通りの少ない寂れた小道だが、今日ばかりは賑やかな声に溢れ華やいで見えた。
 重みで腕までずれ落ちていた買い物袋を肩にかけ直し、足を止めて汗を拭う。傍らを走り抜けた二人の少年の楽しげな声を耳で追いながら坂を見上げた。
 祖母と弟はもう坂の上にいるのだろう。朝、僕が家を出る際に、夕方から祭りに行くと言っていた。
「あまり遅くならなければいいけど」
 夏は日が長いとはいえ、太陽はすでに山間に隠れつつある。近所の神社で行われる小さな祭りではあるが、御年八十を迎える祖母と、小学校に上がったばかりの弟の二人だけで夜遅くまで出歩くとなれば心配は残る。
 昨年まで弟の手を引いて坂道を上るのは僕の仕事だった。しかし今年は、高校三年生となり何かと忙しくなった僕の身を慮ってくれたのだろう、毎年留守番役だった祖母が「久しぶりに祭りに行ってみたい」と進んで保護者役を引き受けてくれたのだった。
 手を繋いで歩く親子の背を見送りつつ、日が暮れてしばらくしたら祖母と弟の様子を見に行こうと決めて、僕は家路を辿った。

 居間に上がると、覚えのある大きな背中が座布団の上に胡坐をかいていた。
 僕が驚いた拍子に、買い物袋を床に落とすと、背中を向けていた彼は気が付いたように振り返って「よっ」と片手を上げた。
「久しぶりだな、元気にしてたか」
 そう歯を見せて笑った父に、僕はしばし言葉を失った後、一言「うん」と頷いた。
「帰ってきてたんだね」
「さっきな。……それより、お前なあ」
 呆れを混ぜた声色で、父は戸の開け放たれた縁側の方を力びしっと力強く指差した。
「戸締りはしっかりすること。いつ泥棒が入ってくるかわからないだろ?」
「いやそれは、ばあちゃんに言ってもらわないと……」
 帰ってきて早々に言うことが戸締りの心配であるという点に、僕はどうしてか頬が緩んでしまった。跳ね上がった心拍数も、次第に落ち着いて
「……あー、何か食べる?」
 僕はおもむろに買い物袋に手を伸ばした。明日用にと揃えた食料を適当に漁ろうとすると
「気にするな。それよりこっちに来い」
 父が自分の隣を、早く早くと言わんばかりに掌で叩く。
 呼ばれるがまま傍らに腰を下ろした僕を、父は上から下までしげしげと眺めて、唸った。
「お前、また背が伸びたなあ」
「そりゃあ、もう十八ですから。父さんの身長を越える日も近いと思うよ」
「口も達者になりやがって」
 乱暴な言葉づかいとは裏腹に、心底嬉しそうな表情を浮かべた父は、そのまま庭へと視線を移した。僕もつられて、外へと目を向ける。

 朝干した洗濯物は、祖母が取り込んでいってくれたのだろう。それなりに広さがある庭では、祖母の育てる花々の他に、弟愛用のおもちゃ、昔飼っていた犬の小屋などが沈みかけの西日に照らされて橙色に染まっていた。
「……進学、しないんだってな。ばあちゃんに聞いたぞ」
「ばあちゃん、何でも父さんに報告するからね。箪笥の角に足の小指ぶつけたこととかまで伝えてるでしょ?」
「ああ。ちなみに昨日お前がチョコレートを食べすぎて鼻血出したことなんかも知ってるぞ」
「ばあちゃん、何故それを……」
 ため息を零した僕を父は短く笑ったが、その声は次第に小さくなり、消えていってしまった。
 訪れた沈黙の間を生暖かい風が吹き抜ける。それは忘れていた暑さを不意に思い出させた。
「……ごめんな」
 隣に座る父を見る。項垂れたその色の黒い首筋には、汗の一つも浮かんでいなかった。
 僕は、そっとまた視線を逸らした。
「どうして父さんが謝るの。僕がこの家を離れたくなかっただけだよ」

 祖母が育てる花は父が好きだった花。弟のおもちゃは僕が昔父に買ってもらったお古。今では崩れかけてしまっている犬小屋を作ったのは父で、一か所だけ色の違う縁側の板は、父が酔って転んだ時に踏み抜いたもの。
 僕は十八にもなって、逐一そんなことを覚えている。

 名前を呼ばれ、僕は今度こそしっかりと父の顔を見た。僕が小学生だったころと比べても、皺の一つさえ増えていない顔。
「頑張れよ」
 僕を真っ直ぐに見つめて微笑んだ父は、僕の頭を、昔よくそうしてくれたように優しく撫でた。だがその手の温もりを感じることは、僕にはもうできなかった。
「じゃあ、そろそろ帰るわ。お前の顔も見れたことだし」
「……次は、二人がいる時に来てよ。喜ぶよ」
「ああ、そうだな。考えておく」
 ひらりと手を振って、
「また、来年」
 父は見慣れた景色の中へと消えた。

 遠くから祭囃子が聞こえる。
 どうやら本格的に祭りが始まったらしい。すっかり日も暮れて辺りは薄暗い。
 僕は立ち上がり、少し痺れの残る足を引きずりながら縁側へ向かった。しっかりと戸を閉めて、鍵をかける。床に放置していた買い物袋を拾い上げ、中の食材を冷蔵庫へと押し込む。
 不意に背後から、かたりと音がした。
 振り返ると、祖母たちが出かける前に立てていたものだろうか、燃え尽きそうな線香の煙が、暗がりの中で揺らめいていた。
「……どうせなら持って行けばよかったのに」
 色とりどりの果物や菓子を残したまま、茄子の牛だけが消えていた。
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