友人の話

文字数 1,208文字

「俺、そろそろ死のうと思うんだ」
 カップを口に運びかけていた手を止めて、僕は友人を見た。
 ぼさぼさの髪に、色褪せたセーター、どういう仕様になっているのか目元の見えない瓶底眼鏡。
 少なくとも外見からは特別変わった様子は見受けられない。今し方運ばれてきたオレンジジュースにぶくぶくと泡を立てる姿も昔のままだ。
 僕はゆっくりと動作を再開して、
「なるほど」
そっとカップに唇を付けた。


 彼とは長い付き合いになる。知り合ったのは中学生の頃だ。当時の僕にとってはただ一人の友人で、親友といっても過言ではない存在だったが、高校を卒業してからは僕が遠方の大学に進学したこともあり、何かと疎遠になりつつあった。
 そんな彼から唐突に連絡が入ったのは、つい二、三時間前のことだ。僕の都合も考えずに押しかけてくるのも、口を開けば死にたいと繰り返すのも、珍しいことではなく、慣れたものだった。


「居場所がなくなった」
 ジュースを啜る途中で彼がぽつりと呟いた。
「あぁ、そっか」
 僕は受け皿に戻していたカップを再び口元まで運んだ。猫舌の僕にとって、湯気を立てるコーヒーはまだ熱い。それでも一口ずつ飲み込んで
「二人でいろいろなところに行ったね」
言葉と共に息を吐き出した。
「そうだな」
 手元のジュースに視線を落としたまま、彼が答える。ストローを銜えている割には飲んでいないのか、オレンジ色は未だグラスの半分を満たしていた。
「山にある寂れた神社とか、土手の近くの墓場とか。目的もなく歩き回るものだから、毎回帰り道がわからなくなって、迷子になったよね」
「お前、よく覚えてるな」
 そこで初めて、彼は僕を見た。
 不思議な眼鏡のせいで目元の様子はあまりわからないが、それを含めて、中学生の頃と何一つ変わらない顔に、僕は安堵すると共に少しだけ寂しさを覚えた。
「なあ」
 彼は再び視線をグラスに落とし、噛み痕のついたストローで、からん、からんと氷をかき混ぜた。
「俺が死んだら、お前は寂しい?」
「それは、まあ」
「そうか」
 からん、と再び氷が音を立てる。
「そろそろ行くわ」
 彼はそう言って席を立つと、ポケットに手を突っ込み、すり切れて底の薄くなったサンダルをひきずるように歩いて行った。その丸まった背中を見送る途中で、僕は一つ言い忘れたことを思い出し、彼を呼び止めた。
 彼は気だるげに振り返り、「何を?」と問うように首を傾げる。
「僕は君と二人で出掛けるの、嫌いじゃなかったよ」
 彼はしばらく僕を見つめた後、何事もなかったように背を向けて歩き出した。
 その背中が見えなくなったころに、僕はゆっくりとコーヒーを啜った。程よい温かさになっていたそれを一気に飲み干して、受け皿にカップを置く。
 友人が空にしたグラスの中で、四角い氷が少しずつ溶けてゆく。


 僕は、彼が最後に眼鏡の下で微かに笑ったような気がしたのを思い出しながら、今ではもうずいぶんと薄くなった手首の傷をそっと撫でた。

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