ゆきどけ

文字数 1,589文字

 ふっと、冷たい息を項に吹きかけられた気がして、ゆきは目を覚ました。
夢の名残にまどろむよりも早く、首から背筋にかけて鈍い痛みが響く。身体の節々がぎこちなく軋む音で、ゆきは自分が布団の傍らでうたた寝していたことを悟った。
 痺れの残る腕に力を込めて上半身を起こすと、肩から何かがずれ落ちた。半纏である。そこで初めてゆきは、隣の寝具がもぬけの殻となっていることに気付いた。
 咄嗟に振り返り、縁側に面した障子の元へにじり寄る。腕を伸ばし指先を取っ手にかけて開け放つと、見慣れた背中がそこにあった。

「また、庭を眺めていたのですか」
 ゆきの顔に安堵と苦笑が滲む。雨戸の縁にもたれていた老爺が俄にゆきを振り向いて、いささか目を丸くした。
「すまない、起こしたか」
 詫びの言葉に首を横に振り、老爺の傍らに膝を折る。この冬でまた細くなった肩に、そっと半纏を返した。
「松も梅も、すっかり雪に覆われてしまいましたね」
 老爺の視線を辿った先で、鈍色の空から降り来る雪の狭間に時折花の色を見つけては、一層際立つその鮮やかさに、ゆきは愛おしげな眼差しを注いだ。
「俺は、この時期に見える景色が一等好きだ」
「この降る雪さえ?」
「ああ」
 頷きながら、老爺はごろりと縁側に身を横たえた。すかさず、ゆきが揃えた太腿を枕代わりに差し出すと、老爺は満足げに頬を緩めた。
「俺の目は、もう半分盲いているが、それでも花の赤や降る雪の白さはわかる。お前の、」
 息を継ぐ合間に、老爺はゆきの長い髪を一房、手に取った。
「昔と変わらず美しい黒髪も」
 枯れ枝のように萎びた指先が毛先を弄ぶ。その様を、ゆきはしばし何も言わず見守っていたが、背後から緩く吹き抜けた風につられて、再び外へと視線を戻した。
 一際大きく伸びる太い枝から、積もった雪が音を立てて落ちる。空気を求めるが如く顔を出したその枝に、まだ蕾がないのを知り、ゆきは目を細めた。
「……桜を見るのは、まだ先になりそうですね」
 感嘆とも落胆ともつかない息をつくゆきの視界へ、不意に老爺の手が映り込んだ。
「桜なら、もう咲いているぞ」
 雨戸の外へ伸ばされた彼の掌に、降る雪が気紛れに落ちる。桜の花弁にも似たそれは、老爺の熱にすぐには溶けず、徐々に、徐々にと水へ還っていった。
「少し早いが、花見だ。今年もお前と桜を見ることができて、よかった」
 したり、と笑って老爺がゆきを見上げる。
 その皺だらけの顔をしばし呆然と眺めていたゆきだったが、やがて糸が切れたように、穏やかな哀愁を湛えて微笑みを返した。
「きれいな桜ですねえ」
「ゆき」
 空へと伸びていた手が、ゆきの頬に触れる。その氷の如き掌に自分の掌を重ねつつ、ゆきは老爺の顔をそっと覗き込む。
「なんでしょう」
 もうだいぶ色の濁った瞳が、それでもゆきに焦点を絞った。伸ばした腕がわななく。老爺はゆきを一心に見つめたまま、口元を綻ばせた。
「ずっと傍にいてくれてありがとう」
 俄に、ゆきは老爺の手を強く握りしめた。その唇が僅かに震える。
 ゆきは老爺を抱きしめるように背を丸めると、愛おしげに彼の額を撫でた。
「これからも、ずっと傍にいますよ」
 老爺はもう、返事をしなかった。

 長く降り続いた雪は、何もかもを白く染め上げて冬の中に閉じ込めてしまった。梅も松も、桜さえ、今はまだ眠りの底にある。
「……あなたの見る、曖昧な世界に、私はどう映っていたのでしょう?」
 もうじき終わる冬の景色を一人眺めながら、膝の上で眠る彼の皺の一つひとつを指で辿る。
「あなたと同じだけ年を重ねた老婆? それとも、ずっと昔、あなたを雪山に迷い込ませた化け物?」
 語りながら、どちらでもいいと思った。
 どうせ春になれば全て溶けて消えるのだ。
「あなたを、」
 ふっと一つ、息を吐く。
「凍らせてしまえばよかった」

 鈍色の雲の隙間から、眩い光が差し込む。
 庭先の雪は、もう溶け始めていた。

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