心中立て

文字数 1,068文字

 月の光も届かぬ夜の底で、僧形の男は俄に足を止めた。目深に被った菅笠を指先で僅かに持ち上げ、鬱蒼と犇めく闇へと目を向ける。どこへ繋がっているやもしれぬ暗がりの中に、半ば埋もれるようにして、女が一人、木の幹に凭れていた。

「もし、そこなお嬢さん。そのような処で、どうされた」
 無風の中で錫杖が鳴る。女はゆるゆると瞼を開けて視線だけで僧侶を見上げると、その口元に、じわりと笑みを滲ませた。
「僧形の人がここを行くなんて、珍しい」
 そこだけ朱を垂らしたかのように紅い唇から、ひび割れた声が漏れる。女の濁った瞳が僧侶の姿を上から下へと舐った。
「ここは徳を積まれた方が通るような道ではないが、はて、坊さまはいったい、どのような悪行を為されたのか」
「なに、末法の世に於いては、息をすることさえ罪深いという。地獄へ往く理由を挙げては、きりがない」
「可笑しなことを云う」
 くつくつと喉を震わせる女に、僧侶は腰を屈めて目線を合わせた。
「見るに貴殿は道に迷われたようだ。ここで遇ったのも何かの縁。拙僧が黄泉路を案内してやろう」
 その申し出に、女は唇を一層歪めて、
「まるで何度も通ったかのような口ぶりよな」
 笑い疲れたかのように、幹に頭を預けた。ほつれた髪に残っていた簪の一つが抜けて、足元に溜まる闇へと沈む。
 僧侶は投げ出された女の脚へと視線を落とした。膝から下は既に無い。まだ辛うじて原形を留める太腿には木の根が巡り、肉の内側にまで入り込んでいた。
「もう何年、此処におるのだ」
 女の身体の至る所に結ばれた、くすんだ赤い糸の先を見遣って、僧侶は目を伏せた。
「おぬし、救われぬぞ」
 途端に、女はつんざくような笑い声を上げた。肩を揺らし、喉を震わせる度、肉の欠片がぱらぱらと落ちて、ぼろ切れと成り果てた女の着物の上に積もる。
 ひとしきり笑い終えた女は、ゆっくりと顔を上げ、僧侶に焦点を合わせた。その瞳が鮮烈な色を宿す。女は血のように赤い唇の端を吊り上げて、艶やかに嗤った。
「それでもいいから、ここにいる」
 頬の肉さえ削げ落ちた美しい女の、右の手は、小指だけが欠けている。此岸と彼岸の境の闇に崩れ落ちたのか、はたまた自ら切り落としたのか。
「貴殿の冥福は、拙僧が仏に言づけておこう」
 立ち上がり、錫杖を鳴らして、僧侶は深い夜に紛れて消えた。


 この世の果て、あの世に通ずる澱みの底で、崩れた女の残骸を前に佇む男が一人。
「だから待つなと言ったのに」
 灰となった女の身体を愛おしげにすくい上げた、その右手の小指には、解れ切れては結び直した、赤い糸が幾重にも絡みついていた。

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