寒緋桜

文字数 3,034文字

 山陽の山は晴れない。常に薄らと霞がかり、輪郭がぼやけている。
 その理由を、かつて山間に死んでいった者たちのせいだと言ったのは誰だったか。今は亡き祖父の言葉だった気もするが、誰と言わず古くから村に伝わっているものにも感じる。
 洗濯物を干す手を止めて、ふゆは畑の脇を通る街道の先へと目を向けた。南は瀬戸内海、北は中国山脈を越えて山陰まで続くこの道は、江戸の昔から人の往来が盛んであり、舗装されて車が走るようになった現在でも、十分に交通路として機能している。
 真っ直ぐに伸びた街道の果て、色の落ちた山の緑の中に、一滴だけ朱を垂らしたように鮮やかな色が揺れているのを見て、ふゆは目を細めた。
 ――ああ、来た。
 何もかもが不明確なこの山陽の山に紛れて、幽鬼のような影が纏う緋色の衣だけが、鮮明に浮かんでいた。


「遠くからよう来られたなあ」
 玄関口から響いてくる、普段より幾ばくか高い母の声を聞きながら、空になった洗濯籠を縁側へと下ろす。
「人がおいでんさったんか」
 日向ぼっこがてら縁側で蜜柑をむいていた祖母に、ふゆは頷いた。
「芝居の人。建部の方からじゃないん」
「へえ、建部から。この度はここへいつまでおられるん」
「さあ。一週間くらいおるんじゃろう」
 ふゆはちらりと玄関へと視線を投げた。おそらく七、八人ほどだろう。障子の向こうで、座長と思しき壮年の男が母と話しているのが見える。
 なんとなく、男の隣に立つ人物へと目が行った。白の着流しに、緋色の羽織を肩掛けにしている。外で見たあの鮮やかな衣だと、ふゆは気付いた。
「あ、」
 目が合った。
 きれいな人だ。遠目からでも、人形のように顔が整っているのがわかる。女にも見えるが、おそらく男だろう。
「ふゆ」
「なあに、おばあちゃん」
 思わず見入ってしまっていた視線を引きはがして、祖母へと戻す。
「おえんよ」
 皮をむき終えた蜜柑の一房を口へ運びながら、祖母は諭すように言った。
「関わりすぎてはおえんよ。知ろうとしすぎてはおえんよ。囚われるからなあ」
 そんなわかりきったことを、祖母は今更口にした。


 交通の要所を有するこの地域は、古くから多くの人々が行き交う。そのほとんどが商人や僧侶、芸人など、各地を流転する生業の旅人たちである。彼らの主な交通路たる街道の脇、村の公会堂の真向いにあるふゆの家は、ずっと昔から、往来する旅の者の世話、商売や説法、舞台として場を提供する役割を請け負っている。
 日が山間に沈み、東の空が俄に夜と冷気を運んでくると、それにつられたように、村中から一日の勤めを終えた人々がふゆの家に集まり始めた。
 昼は絶えず肥料の臭気が寒風と共に流れ込んでくる家屋の中には、集まった人々の汗と酒の匂いが充満し、その熱気たるや煮炊きの番をするふゆが汗だくになるほどだ。
 十分に観客が集まり、厨にまで人が溢れだした頃、家中を揺らしていた喧騒が、一つのまとまった歓声へと変わった。ふゆは焦げぬようにかき混ぜていた甘酒から目を離して、襖を取り払い一続きの舞台とした座敷の方へと目を向けた。人の背に覆われ良く見えないが、芝居が始まったのだろう。
「ふゆ、ここはもうええけん、あんたも姉ちゃんたちと一緒に見られ。今度来たのは、なかなかええ顔をしとるよ」
 傍らで肴の用意をする母が肘でふゆの背中を小突く。
 ふゆは再び鍋に目を戻し、手を動かし始めた。
「ええよ、あんまり興味ないし。うるさいのも酒臭いのも、好きじゃないけん」
 掬い上げた甘酒を椀に移して味見をすれば、母が「母さんも、味ききしたいわあ」とふゆの頭を撫でながら口を開けた。


 舞台から一夜明けてからというもの、ふゆの家の周辺は絶えず女性の声で賑わっていた。公会堂に寝泊まりする役者を一目見ようと、家事も畑仕事も放り出して昼間から騒いでいるのである。
「若いなあ」
 野良猫を膝に乗せ、隣で日向ぼっこをする祖母が、かしましい声に耳を傾けながら湯気の立つ茶を啜った。
「誰が一番ええん」
「あの緋色の羽織着とる人じゃないん」
 洗い物でかじかんだ指をすり合わせながら、ふゆは座敷と道を挟んで後方にある公会堂の方を見やった。振り返りざま、家全体に染み込んだ汗や酒の匂いが鼻をついて、思わず顔をしかめた。
「会う友達みんなあの人の話ばかりしとるよ。あの人に会わせてえって、知らない人にまで頼まれる」
 それは大変じゃなあ、と、膝の上の猫を撫でつつ常と変らぬ声色で祖母が穏やかに呟いた。


 役者たちが来てから七日目の夜。一際盛大に行われた最後の舞台も片づけが終わると、連日連夜のお祭り騒ぎが嘘のように静まって、しばらく忘れていた寒さを思い出させた。
 ふゆは常の如く、集まった人々が帰路につく頃には床に就いていたが、寒さのせいか寝つきが悪く、後から布団に入ってきた家族が寝息を立て始めても寝返りを繰り返していた。
 ふと、縁側のガラス戸の向こうに白いものがちらついた。
 もしや雪でも降ってきたのかと、ふゆは俄に布団から這い出て縁側ににじり寄り、そっと戸を開けて手を伸ばした。冷たいものが掌に触れる。月明かりの中、確かに雪が降っていた。
「寒くないのかい」
 しばし空を見上げていたふゆの耳へ、知らない男の声が突き刺さった。咄嗟に声の元へ顔を向けると、夜にも鮮やかな緋色が目に付いた。
「……何しとられるんですか」
 驚きと恐怖で跳ね上がった心臓を宥めながら口を開けば、役者の男は形のいい唇の端を上げ、顎をしゃくって家を示した。
「俺は君の家の風呂を借りた帰りだ。いつも遅くまですまないな」
 言われてみれば確かに髪が濡れている。その寒さを想像して、ふゆは一人身震いした。
 そんなふゆの気を知るはずもない男は、ああ、と頷いて空を仰ぎ、「雪を見てたのか」と一人納得したように呟いた。
「……そういえば、君はお姉さんの方と違って一度も観客にいなかったな。芝居は嫌いか?」
 思い出したようにそう切り出した男が、ふゆへと目を向けた。その顔を造形する一つ一つが、作り物に思えてしまうほど整っていて、ふゆは返事を忘れ、ただ男の顔を見つめていた。
 沈黙を肯定と受け取ったのか、男は飽きたようにふゆから視線を反らすと、口元に自嘲的な笑みを浮かべて再び空を見上げた。
「まあ、俺たちは座敷や風呂を汚すし、君らの眠りの妨げにもなるからな」
 早く寝ないと、風邪を引くぞ。
 それだけ言い残して羽織の裾を翻し、公会堂の方へと踵を返した男の背に、ふゆは慌てて叫んだ。
「芝居、別に嫌いなわけじゃねえです」
 男の足がぴたりと止まる。彼は流れるような所作で振り返った。
「そうか」
 満足げに答えたその顔には、艶やかな笑みが滲んでいた。


「よう気いつけて帰られえよ」
 普段より少しばかり高い母の声が、表の方から聞こえてくる。
 今し方干したばかりの手拭いの隙間から、ふゆは街道を覗き見た。ふゆと同い年ほどの少女たちが役者を取り囲み、また来てくれと男の袖を引いて泣いている。
「……ばかじゃなあ」
 約束など、流れ者にはなんの意味も持たぬというのに。
 深く関わってはいけない。期待してはいけない。情が移れば、辛い思いをするのは、どこにもいけない女の方だ。
 ふゆの母がそうであるように。


 彼らが歩き始めたのに従って、少女たちは一人、また一人と名残惜しそうに離れていく。
 もう二度と会うこともないであろう、名も知らぬ彼の背は、緋色の衣をひらひらとたなびかせながら、おぼろげな山間へと消えていった。

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