第一節 悪夢 1

文字数 2,100文字

 暗闇の中、くぐもった呻き声が聞こえてきてイーサンは目を醒ました。寝台に身体を横たえたまま目を開き、素早く周囲の状況を確認する。
 カオスの荒野で寝起きしながら独りフィールドワークに勤しんでいた経験と、特殊部隊の兵士になるために受けてきた訓練から、イーサンの身体は周囲で異変を感じるとすぐに覚醒できるようになっている。
 彼がいるのはカオス世界の先住民居住区にある宿の一室だった。水獣輸送での移動を終え、馬で陸路から交易都市カラルへ向かうイーサンとエドガルドは、昨夜遅くにこの町に着いた。この宿で一宿一飯にあずかることにした二人は、軽い夕食を摂ったあと、風呂を浴びてすぐに寝台に横になったのである。
 呻き声は、隣の寝台で休んでいるエドガルドのものだ。イーサンはそっと身体を起こし、足音を忍ばせてエドガルドの枕元に立った。
 エドガルドはひどい寝汗をかいていた。顔には苦悶の表情が浮かんでいる。
 悪夢を見ているのだな、とイーサンは思った。
 エドガルドが夜中に(うな)されるのはこれが初めてのことではない。ティエラ山を発って以来、彼は時折り夜中に苦痛の声を上げた。
 都市人記者のポーリーン・ターナーは、去り際に繰り返しエドガルドのことを心配する素振りを見せていた。あの時は彼女の振る舞いに少しだけ違和感を覚えたが、今は彼女の言動の理由が分かる。ポーリーンはマラデータ王国からティエラ山までエドガルドと旅路を共にしていた。夜中に魘されるエドガルドの声を聞いたこともあっただろう。彼の過去に起こったことを知らなかったとしても、彼がかつて味わった過酷な経験を薄々は察していたに違いない。
 イーサンはポーリーンと異なり、エドガルドの過去に何が起こったのかを知っている。エドガルドがどんな悪夢に苦しめられているのかは想像に難くない。
「う、う。あ、うあ」
「エドガルド、大丈夫か」
 苦しげな声を漏らすエドガルドの肩を優しく揺すり、イーサンが声を掛ける。エドガルドははっと目を見開き、恐怖が滲む榛色の瞳でイーサンを見上げた。
「イーサン」
 ほっとしたようにエドガルドがイーサンの名を呼ぶ。イーサンは大きな手で安心させるようにエドガルドの頬を撫でた。
「ひどい汗だ、もう一度風呂に入った方が良い」
 言い置いて、イーサンは返事も聞かずに浴槽に湯を溜めに行く。蛇口をひねり、荷物の中から鎮静効果のある香油を取り出して湯舟に垂らす。
 エドガルドはゆっくり身体を起こし、薄明かりの中、イーサンの後ろ姿をぼんやり眺めた。彼のこの面倒見の良さにエドガルドはこれまでも幾度か救われてきていた。
「すまない」
 短く礼を告げて、エドガルドはイーサンと入れ替わりに湯舟の方へ向かう。汗を吸った着衣を脱ぎ捨てて湯に浸かると、昂ぶった神経を鎮める香りが鼻腔をくすぐる。エドガルドは強張りを解いて湯舟の中で身体を伸ばした。
 客室の隅に湯舟が置いてあるだけの簡易的な造りだったが、イーサンが決して自分の身体を見ないことが分かっているので、彼は落ち着いて湯に入ることが出来た。
 寝台の方へ戻ったイーサンは、エドガルドが使っていたシーツがぐっしょりと濡れていることに気付き、眉を(ひそ)める。
 悪夢から目覚めた後のエドガルドの寝付きは、当然ながら悪い。いつも何度か寝返り打った後に、自分の気配がイーサンの眠りを妨げることを気にしてじっと丸まってしまう。眠れていないのは、不規則な呼吸から明らかだった。
 イーサンはそんなエドガルドの様子を気に掛けつつ、隣の寝台で浅い眠りに就く。
 翌朝、エドガルドは平常通りの表情で起き出してくる。日中もエドガルドの様子に変わったところはない。だが顔色は薄らと青ざめ、どこか張り詰めた雰囲気を醸し出している。
 旅を始めた最初の頃は、エドガルドが無理をしているのではないかと考え、あれこれ気遣って声を掛けもした。だが、そのうちにエドガルドが自分の疲労や緊張を自覚していないことに気付き、イーサンは余計なことを言わなくなった。凄惨な過去を乗り越えるため、立ち直っているように

ことがエドガルドには必要なのかもしれないと考えたからだ。
 浴槽の方から音がして、乾いた服に着替えたエドガルドが戻って来る。
 寝台に腰掛けたイーサンは、エドガルドの顔を見つめながら、明日この顔が青ざめているのを見たくはないな、と思う。寝台の奥へ身体をずらし、エドガルドに声を掛ける。
「そっちは濡れそぼってる。風邪を引くからこっちに来い」
「え」
 エドガルドは驚いて、自分のために空けられたイーサンの隣のスペースに目を遣った。安宿に置かれた寝台は、大柄な二人が横になるには小さすぎる代物だ。躊躇(ためら)って立ち尽くしていると、イーサンがぞんざいな口調で急かしてくる。
「早くしろ。せっかく風呂で温めた身体が冷めてしまうぞ」
 素っ気ない物言いの裏で、イーサンが悪夢に魘される自分のことを心配してくれているのだとエドガルドはよく分かっていた。戸惑いつつも、言われた通り大人しくイーサンの隣に身を横たえる。どうしたら良いのか分からないので、イーサンの方へ背中を向け、なるべくベッドの端に寄る。
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