第6話 思いがあれば

文字数 4,594文字

「ねえ、どこ行くの!」
 教室から連れ出されたわたしは、またしても全力で自転車を漕いでいた。前を行くのはもちろん誰彼くんだ。…も、もちろん? そういえば昨日から、彼と自転車をすっ飛ばしてばかりいるような…。
 動揺しつつ、街なかの道を右へ左へ縫っていくと…
「…ついたぞ!」
 その声と共に彼が自転車を止めたのは、郵便局の前だった。彼はわたしが追いつくなり、自転車を建物の壁に立てかけ、建物脇の配達自転車置き場をのぞいた。
「速達の自転車は…まだ、戻ってないな」
 大輪で黒いフレームの自転車は、速達配達のアイコンだった。
「キミ、何考えてるの?」
 ついさっき、放送室で蜂起した誰彼くんのことを知っているから、わたしは慌てて後を追った。はちゃめちゃな彼だから、ここでも一暴れする気なのだと思った。
 誰彼くんは、答えなかった。そして後ろポケットからメモ帳を出すと、壁に凭れ、なにかを書き始めた。わたしが気になって覗こうとすると、ギロリと睨まれた。
 程なくして。
 シャーッ!とタイヤの音が聞こえてきて、誰彼くんはメモ帳をポケットに戻し、配達から戻ってきた速達王子の行く手に立ち塞がった。
「…キミは」
 王子は、突然現れた誰彼くんに驚いている。当然だ。朝方、胸ぐらを掴んできた相手が待ち伏せしていたのだから。その一味に、わたしが混じっているのを見て、王子は爽やかに手のひらを見せた。
「二人して、どうしたんだい?」
「ふ、ふたり!?」わたしは焦った。「こ、これは同じクラスってだけで付き合わされているだけで…」
 慌てるわたしの言葉を遮って、誰彼くんが王子の前にずいと迫った。
「男らしいところ、見せてもらおうと思ってね」
「え?」
「もし、あんたに度胸があるのなら、川を飛び越えて向こうの街まで行ってもらえないかな」
「川を…飛び越えて…?」
「恋人と、赤ん坊のために」
「……!」
 王子の顔から笑みが消えた。誰彼くんの目は挑発的だった。わたしはオロオロするばかりだった。どうして誰彼くんが、ほとんど初対面の彼に、そこまでして絡んでいくのか理解できない。垂れ幕にあるように、応援マニアでお節介焼きということ…なのか。
 誰彼くんは、黒板に書いたことを口で説明した。
 王子は黙って聞いていたけれど、驚きの声も上げなければあきれた顔もしなかった。
 説明が一段落したとき、王子は言った。
「でもキミ、どうして僕にそこまでのことをしてくれるんだい?」
「そう、それ!」わたしは思わず声を上げて口を押さえた。
 誰彼くんは、チラッとわたしを見てから、王子に言った。
「お礼だと思ってくれよ。うちのクラスの姫が、あんたにだいぶ鍛えられたみたいだから、さ」
「鍛えられた?」
「コイツ、自転車だけはすげえんだ」
 その言葉に王子は心当たりがあったようで、ようやく笑みを取り戻した。
「なるほど。…でもそれで、キミにお礼をされる理由は?」
「姫と知り合えるきっかけになった。そのお礼さ」
 誰彼くんは、わたしのことを目の端に捉えながら言った。
 わたしは、訳もわからず赤くなりながら、口を膨らませてにらみ返していた。

 速達王子は、誰彼くんと握手をした。ジャンプに挑戦すると約束してくれたのだ。
「ところで今、何時だい?」
 握手を済ますと、誰彼くんが聞いた。
 速達王子は袖口に隠れていた腕時計を見、十一時三十分だと言った。
「よし、次いくぞ!」
「えっ、次?」
 わたしは慌てた。今度は一体、どこへ行くというのか…。
「大工さんのところ?」
 思い浮かんだのは、材木が運び込まれた橋の工事現場だった。ジャンプするためのスロープを作るには、材料と人夫が必要だったからだ。
「いいからついてこい…! 昼の鐘までに間に合わせる!」
 彼は、今頃になって少し緊張しているようだった。
 そして壁に立てかけた自転車を起こすとまたがり、わたしの先を走りだした。

 石畳の長い坂道を息を切らして登り、やってきたのは、小さなラジオ局の前だった。通りに向いた窓から、スタンドマイクに向かってパーソナリティーがおしゃべりしている様子が見える。そしてスタジオの入り口には、ブリキの投書箱があった。
 彼は戸口の脇に自転車を立てかけた。一方、わたしは近寄りきれずにいた。
 扉のそばまで行ってしまうと、窓越しに目が合ってしまうと思った。その窓は、いつもは行きも帰りも、完全無視しているものだった。
 誰彼くんは、わたしの様子に気づくと、ジッと黙って見つめてきた。
 なんで、そんな目をしているのか、わたしには心当たりがなかった。
 はぁはぁと上がった息の合間に、スタジオから漏れるラジオの音が聞こえていた。
『さて、もうすぐお待ちかね、お昼の鐘です! みなさん、もうおなかがグウグウじゃないですか?』
 からかうような明るい声。恨めしいほど凜とした声。わたしは知らず知らずに険しい目になって、それを誰彼くんに向けていた。
『それじゃあ、お昼の前に一曲! ギリギリのおなかにグリグリくる歌ですよ。いいですか~? それじゃ、行きますよ~。はい、今日のお昼は~、…泳げ!フライドフィッシュ!』
 パーソナリティーは言い切ると、レコードに針を落とした。流れだすのんきな音楽…。
 彼女がマイクのスイッチを切ったとおぼしき、その時。
 誰彼くんはポケットからメモ帳を取り出し、一枚破くと、投書箱にそっと入れた。
 そして。
 ドンドン! ドンドン!
 拳でスタジオの扉を叩いた!
 わたしは飛び上がった。そんなことをしたら、中の人が出てきてしまう!
 誰彼くんが淡々と言った。
「ドンドンダッシュ」
 そして、立てかけた自転車に飛び乗ると、硬直したわたしの脇を抜け、来た道を下っていった!
「まま、まってッ!」
 わたしも慌てて自転車を方向転換、大急ぎでまたがると立ちこぎでペダルを踏んだ!
 そのとき、背後で扉の開く音がしたような気がした。
 けれどわたしは、振り返りそうになるのをグッとこらえて、誰彼くんの背中を追って坂道を下っていった。
 カーブを曲がると、誰彼くんは坂道に任せた。
 ジャーッ!と自転車は勝手に走っていく。
 わたしはもう少しだけペダルを漕いで彼に並んだ。
「ねえ!」風の音を圧して呼びかける。「何を投書したの!」
 誰彼くんは、チラッとこちらを見たが、答えない。
 そのまま土手の道に合流したとき、街にお昼の鐘が響き渡った。
 橋の工事現場から大工たちが、土手を越えて街の定食屋に向かう。
 わたしと誰彼くんは、熊たちが羊の群れのように行進して過ぎるのを、自転車を止めて待った。わたしはそれとなく顔を背けていたが、もう誰も、垂れ幕のハプニングを覚えている人はいないようだった。
 やがて道が開き、学校の前まで来ると、彼は何を思ったのか土手にとどまった。
 校舎の前には五十台ほどの机が集められていた。そこにあぐらを掻いて、何人もの男子が給食のパンをかじっていた。数人が手を振る。誰彼くんも振り返す。垂れ幕の下がる三階の窓辺には女子の姿があった。窓枠から身を乗り出して手を振っている。誰彼くんは黙って手を振り返す。それを見て、わたしは不思議な気分になった。
「キミ、人気者なんだね」
「……お節介だからな」
「…自分でわかってるんだ」
「……毒舌だねぇ」
 ほんの少し、口角が上がる。
 そのとき、わたしのおなかがグゥゥと鳴った。
「行けよ。給食、無くなるぞ」
「………」
「おまえの役目はもう終わり。あいつもその気になったし、ラジオも今頃は投書を…」
 ラジオと聞いて、わたしはドキッとした。
 彼は、王子のために? それとも、ラジオのために? どっちのために、わたしを引っ張り回したのだろう。…いや、王子のために決まってる。王子はわたしが一緒にいなかったら、知らない中学生の挑発になんて乗ったりはしなかっただろう。大人なんだから。
「……わかった」
 わたしは、うながされて土手を下り、教室へ戻るとパンを手にして、ふと窓から外を見た。
 誰彼くんはまだ土手にいて、橋のほうを気にしていた。
 投書は、たぶん、協力してくれる大工を募るものだったのだろう。想像がついた。
 けれど、今度は垂れ幕のお披露目とはわけがちがう。眺めるだけじゃなく、材料と労働がいる。
 わたしは、もう一個、パンを握り、彼の元へと戻った。
「はい。キミの分」
 パンを差し出すと、彼は意外そうな目をした。そして、無言でパンを受け取った。
 その目はまた、橋のほうを見る。
「誰も、来ないね」
 わたしは言う。
「けなしてるわけじゃないよ。あらかじめ、なぐさめてるの」
「…そうかい」
 彼は、横顔で笑った。
 まだ負けを認めないぞというような横顔だった。
 わたしは、小さくパンをかじりながら、チラッと垂れ幕を見た。
《ともだちなんだ、頑張ろう!》
 その応援メッセージは、彼が考えたに違いなかった。何しろ、言い出しっぺなのだ。
 わたしは、たずねた。
「キミの、ともだちの概念って、すごく広大なのね」
「広大?」
「困っている人を見たら、誰でも助けてしまいそう」
「………」
 誰彼くんは黙り込んだあとに言った。
「買いかぶりだな。誰でもってわけじゃない」
「……そうなの?」
 意外だった。まじまじと見る誰彼くんの横顔は、よく見れば、思いつきばかりで行動するような、人気取りだけではない、なにかがあった。それは、真剣さ…だろうか。
「でも、たまたまなんでしょう?」
「たまたま?」
「王子…じゃなかった、速達配達さんの事情を知ったのは、たまたまだったでしょう?」
 わたしの口が、試すようなことを言った。
 彼は、顎を引いた。
「ああ、確かにな。おまえを探してて、たまたま…な。けど、あいつを応援したいって思ったのは、思いつきなんかじゃない。運命だ。そう思った」
「運命?」
「ああ」
「どういうこと?」
「親父が…」彼は言いかけて、珍しく言いよどんだ。そして、声を低くしていった。「俺の親父が言ってたんだ。俺が生まれたとき、母ちゃんが死んで、その場にいられなかったことを一生…悔やむってね」
「………」
「俺が生きてただけでも、嬉しかったとは言ってくれた…けどよ」
 子どもが無事に生まれてこないことだってあるし、母親が死んでしまうことだってあるんだ。
 わたしは、彼の言葉を思い出した。
 そして彼の横顔には、深い後悔があるように見えた。
「……そうなんだ」わたしは力なく言った。「万が一でも、彼に、同じ後悔をさせたくないんだね」
「…ああ。けど、それよりも…」
「それよりも?」
「赤ん坊を抱き上げる男の笑顔ってものを、見てみたいと思った。まあ、あいつと一緒に飛んでく訳じゃないから、空想でしか見れないけど…な。でも、空想でも、ほんとうだったら俺も見たはずの笑顔を、見てみたい」
「それ、わたしも見てみたい…」
 心で、箱の蓋の番をしている誰かが、言った。
 時々、わたしの口を勝手に動かしている誰かだ。
 誰彼くんは、驚いた目をした。
「男には関係ないとか、言ってたよな」
「言ったよ。でも、見たくなった」
「………」
 わたしはそのとき、真剣な目をしていたと思う。
 誰彼くんの目に映る自分が、そんな顔をしていた。
「確かめたいの。ほんとうに、そんなことがあるのかどうか」
 わたしは言って、目を先に戻した。
 土手の先、橋の工事現場に戻ってきた大工たちが、一人、また一人と、こちらへ足を向けるのが見えていた。

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