第5話 放送委員は空想家

文字数 4,500文字

 誰彼くんの自転車は、昨日よりずいぶん速く感じた。彼は飛ばしに飛ばす。なんとかついて行って校門から滑り込んだとき、わたしは初めて垂れ幕を見上げた。
《ともだちなんだ、頑張ろう!》
 ……。
 そういえば、取り残された向こう岸の生徒へのメッセージだとか言っていた。
 わたしはこの時始めて、誰彼くんの一端を理解した。

 誰彼くんの背中を追って階段を駆け上がり、教室に駆け込んだ。
 ガラッ!と扉を開けると授業は自習、誰彼くんはズカズカと教壇に上がると、戸口で伏し目がちのわたしを指さした!
「みんな! この通り、姫は無事だ!」
「姫!?
 わたしはギョッとして目を上げる。
「身を投げたとか、さらわれたとか、そんな心配をよそに、コイツは土手に座って友人の悩みを聞いていたんだ!」
 パンクの話は!?
 慌てるわたしのことは完全無視で、誰彼くんの声はヒートアップした。
「姫の友人は悩んでた。川向こうに恋人がいるが、橋が落ちてから会うことが出来ない。しかもその恋人は今、一人で大きくなったおなかをさすってる。もうすぐ子どもが生まれるんだ! なのに、橋が落ちて会いに行けない! 電話で励ますことも出来ない! つまり!」誰彼くんが、もう一度、グイッ!とわたしを指さした。「姫は、濁流に身を投じて向こう岸に行こうとしていた友人を思いとどまらせるために遅刻したんだ!」
 教室中が目を点にする。
 わたしはめまいを起こしそうになった。
 静寂の後、おお…と、誰かがうめいた。
 そのせいで、大嘘だ!と言いそびれた。
「その友人って、どんな男性なの?」
 女子から声が上がった。誰彼くんは、しつこくわたしを指さした。わたしは、エッとさせられながら、けれど誰彼くんは答えるつもりはないらしい。仕方なく言った。
「彼はこっちの街の郵便局の、速達配達人で…」
「ええっ! その人、知ってる!」
「もしかして、あの人!? 最近、笑顔がないって思ってたのよ!」
 次々に黄色い声が上がる。驚きと無念の声だ。
「彼、恋人がいたの!?
「当然でしょ! かっこいいもの!」
 どことなく胸に刺さる声もある。けれど、わたしは耐えて、踏ん切りつけて割り切って、キッと誰彼くんを睨みつけてから、…深呼吸一つ、きっぱりと言い切った。
「そのとおり、彼には恋人がいるの。その恋人は、川向こうの街の女性で、先月、こっちで彼との結婚式を挙げる予定だったの。でも、橋が落ちて彼女は向こうに置いてけぼりで、しかも今月には赤ちゃんが産まれる予定で…、だから彼は恋人の無事を心配してるし、産まれてくる赤ちゃんに、誰よりも早く会いたがっているの! 川向こうに姿を見せないから、赤ちゃんはまだ産まれてはないのだろう…とは思うけどッ!」
 それだけの話よ!と言わんばかりに言い切ったが、少しばかり、訴えかけるような口調になったのは、誰彼くんの影響だったかもしれない。けれど遅刻の理由も事情説明もこれでおしまい。さあ、席に着かせてもらうわよと、わたしは誰彼くんに視線で伝えて一歩を踏み出そうと…
「そこで、だ!」
 誰彼くんが、大声でわたしの足を止めた。
「俺らで彼を、川向こうに届けてやろうじゃないか!」
 えっ!?
 一体何を言い出すの?
 クラス中がそんな顔をした。
 わたしは慌てていった。
「話聞いてた? 橋が落ちて会いに行けないから困ってるんでしょ!」
 勢い、クラスを代表して疑問をぶつけてしまった。すると誰彼くんは、見てろと言わんばかりの視線をわたしにくれて、それから黒板と向き合った。
「俺の考えた計画は、こうだ!」
 カッ! カカッ!
 チョークが火花を散らす。
「まず、ここが俺らの学校、ここが川で、ここに向こうの土手がある。そして、この教室の窓から…向こう岸の土手まで、こうやって…こうして…、こうする!」
 エエッ!とどよめきが上がる。
 クラスを振り返った彼は、自信満々に言った。
「長い長い垂れ幕を作って、向こう岸まで滑り台を作るんだ!」
 わたしは思考停止してぽかんとなった。みんなも同じだったと思う。ここから向こう岸まで、一体何枚の布を縫い合わせれば、すべり台が作れるというのか…。
 ぜったい無理!と声を上げようとした、そのとき、やはり誰彼くんが口を開いた。
「カーテンならまだある。縫って運べば繋がる。俺たちでもできる!」
 そう言って窓辺を指さす。開けっぱなしの窓の向こうには、垂れ幕が下がっている。……確かに地道な作業で垂れ幕はできたけど……。誰もが自信なげに誰彼くんを振り返った。
 すると彼は、困ったように首を振った。
「けど、これには無理がある。なぜなら、この教室から向こう岸までは百二十メートルもある。手前の土手まで二十メートル、川幅が百メートル。カーテンを、そんなに長くつなげたら、自分自身の重さで布が裂けてしまう。重さに耐えられるように作っても風の影響で引きちぎられてしまう可能性がある。帆船って知ってるだろ、あの帆の布はものすごく丈夫なんだ。だから風をはらんでも破けずに大きな船を動かす。だがここに帆布はない。それ以前に、垂れ幕の端っこを誰が川向こうまで持って行くかという根本問題もある。橋もないし、川はまだ濁流だ」
 無理とわかってるなら、言う必要なんて無いじゃないか。誰もがそう思っただろう。わたしもそう思った。
 ところが、誰彼くんの案は、さらに飛躍した。
「そこでそこで!」
 彼は再びチョークを握ると黒板に向かい、校舎の三階から滑り台にした垂れ幕に何本か足をつけ、土手の先の河原の部分にも足をつけ、その先は消して描き直して上りのスロープを作った。
「土手と土手の間、川幅は百メートルもあるが、今は水が引いてきて、水が流れているのは二十メートルくらいだ。言ってしまえば、その二十メートルをなんとかすればいいんだ。一番手っ取り早いのは、ジャンプして飛び越えてしまうことだ。速達配達人に、自転車で飛び越えてもらうんだ。これなら布が破ける心配もないし、誰が向こう岸に端っこを持って行くかという問題も発生しない。難しそうだが簡単だろ?」
 言いながら、川の流れの上に、空中を飛ぶ自転車と人間の絵を描き加えた。
 簡単? みんなで顔を見合わせる。
 彼は押し込んできた。
「みんな。知ってんだろ? 速達配達人の走りを。郵便局の中でも一番の俊足でないと速達配達人にはなれないんだぞ。
 不安か? なら、冷静に考えてみようか。
 速達配達人なら、走る速度は、五、六〇キロはあるだろう。それだけだと少し速度が足りないような気がする。だが、こうやって下り坂を作れば速度が稼げる。つまり、そこの窓から下りスロープを作り、自転車で駆け下って、河原の部分に作った助走路で勢いをつけたら、流れの手前の上りスロープで空中に飛び出す。そうすれば加速した自転車は彼を乗せて放物線を描いて上昇、水の流れ二十メートルを飛び越えて向こうの土手に着地する!」
 彼は、どうだ!という顔をして、平然とチョークを置いた。
 そして、教壇に手をついて構えると、全員を見渡して言った。
「問題は、このスロープやら何やらを、誰が作るかということだ」
 これにはさすがに、誰もがポカンとなった。

 サーカス級の大ジャンプ、スロープやら助走路やら、わたしたちでどうにか出来る物ではない。それは明白だったけど、彼には策があった。
「俺は毎日、橋の工事を見てたからな、今がチャンスだってわかる」
 わたしは、思わず聞き返した。
「どういうこと?」
「昨日、橋の修理のために、土手に木材が運び込まれた。だが、まだ工事ははじまってない。わかるだろ、スロープの材料はすぐそこにあるんだ。つまり、今なら…!」
「大工さんたちに手伝ってもらおうってこと? 中学生なんかを相手にしてくれる?」
 頭の中に自転車王子の苦笑いが浮かんだ。初めて話した日も、今日も、彼はわたしを子ども扱いしていたと思う。…事実、彼から見たら子どもなのだろうけど。
 わたしは誰彼くんの言うことが不可能に聞こえてならなかった。大人たちが話を聞いてくれるような気がしなかったからだ。けれど彼は、ニッ!と小ずるく笑った。
「みんな困ってるのは同じだろ。その気持ちを集めるんだよ。そうすれば必ず協力してくれるし、うまくいく。けどよ、周りに頼ってばかりじゃダメだ。やるならまず、自分たちからだぞ!」
 彼は言い残すと、なにを思ったか教室を飛び出していった。
 教壇の脇に、ぽつんと取り残されたわたしは、クラス中の視線を浴びることになった。残念なことに、親しい子はいない。誰も助け船はくれない。なので、ペコリと頭を下げて、自分の席へ着こうと…
 キィィイイン!
 突然だった! 頭の上のスピーカーから盛大なハウリングが響き渡ったかと思うと、咳払い一つ、誰彼くんの声が聞こえてきた。
『全校生徒に告ぐ! 全校生徒に告ぐ! 我が校はこれから数日間の臨時活動を行う! 川向こうに残してきた恋人と、もうすぐ生まれてくる子どもに、パパを届けるのだ! それも、超速達で!』
 先生が全員そろっていたらすぐに押さえつけられて絶対にできないことだ…とか、思う前に、わたしの頭の中には、スピーカーを見上げる全校生徒の、あんぐりと口を開けた顔が駆け巡っていた。
『案ずるな! こちらには姫がいる! 町のみんなも協力してくれる! だがまず、我々の準備だ! 女子は毛糸を集めて欲しい! 男子は机を校庭へ運ぶんだ! 急げ! 赤子はいつ出てくるかわからないぞッ!』
 クーデター? これが世に言うクーデタなの? たった一人で蜂起した彼の声は全校に響き渡るどころか、敷地を飛び出して土手を行く人の足も止めている。その直後、先生の怒鳴る声がマイクに入ってきて、ブツン!と放送が切れた。
 静寂の中で、最前列の男子がぽつりと言った。
「あいつらしいなぁ」
「えっ?」
「まだ放課後じゃないけどな」
 わたしは男子に食いついた。
「どいういうこと?」
 相手はエッと言う顔をして、今更なのかという顔をしていった。
「放課後は放送委員の独壇場。しょっちゅうハチャメチャな放送してるだろ?」
「………」
 知らなかった、そんな危険人物だったとは…。わたしが自転車王子のために飛び出していったあと、彼はどうやら、放送室でやりたい放題だったらしい。
 唖然としていると、廊下をドタバタと走ってくる足音…。不安に駆られて廊下に顔を出すと、走ってくる誰彼くんの姿が。その手には、コードを引きちぎったスタンドマイクが握られていて…
「ちょっと! やり過ぎよ!」わたしは目をつり上げた。「それに、姫ってのもやめて!」
 思わず拳を握って腕を突っ張った。
 誰彼くんはわたしには目もくれず、教室をのぞき込むと笑いながら言った。
「放送聞こえただろ、自習なんかよりよっぽど良いぞ! 後は頼んだからな!」
 …と、強引に押しつけたかと思うと、彼は唐突にわたしの手首を握り、ぐいっと引っ張って駆け出した!
「きゃっ…!」
 わたしがよろけて悲鳴を上げると、彼の手首を握る手が少し緩んだ。その時、振り返った彼の顔は、ちょっとばかり申し訳なさそうに笑っていた。

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