第4話 自転車姫は遠い夢

文字数 4,598文字

 次の日、わたしははじめて、学校をずる休みした。
 だからといって家にいるわけにはいかない。
 いつも通り支度をして、自転車で家を出た。昨日、息を切らして上った坂道を下り、土手の道まで出ると、河原の側の斜面に自転車を転がし、街のほうからは見えないようにして膝を抱えた。

 何にも考えない。
 失恋に失敗に、散々なことが続いた。
 一日くらい、サボタージュしたって、罰は当たらないと思う…けど。 
 ぼんやりと、ちぎれ雲が空を流れるのを見ながら、それでも時々、向こうの土手が気になってしまう。
 百メートルも離れると、人の顔なんてわからないけど、彼は、彼女のことはわかると言った。白い自転車に白いワンピースという、目立つ姿を割り引いても、恋人の表情ならわかるのだと。
 わたしみたいに、ただ憧れているだけではなく、恋人という立場なら、婚約者という立場なら、わかるというのだろうか。わたしは向こうをゆく人々に注目してみたが、せいぜい顔がどこに向いているかくらいがわかる程度のことだ。とてもじゃないけど、彼の言うことを信じる気にはなれない。つまりわたしが言ったとおり、彼は妄想していたんだろう。
「何をしてるんだい?」
 突然、声をかけられた。びくりして振り返ると、速達王子が通りがかりに自転車を止めて、わたしのことを見おろしていた。
「王子…、なんで?」
「王子?」
「あ……いいえ、その、まだ、朝なのに」
 わたしはばつ悪く言う。
「速達の配達は午前と午後の二回。今は午前の配達に向かうところさ」
「そうなのですね……」
「ただ、今日も開店休業さ。速達は、一通もない」
「………」
 彼は苦笑する。けれどわたしは、先日までのような胸のときめきを感じていなかった。彼に婚約者がいるということだけで、彼に感じるものが変わってしまったらしい。今は、どちらかというと、近所のお兄さんだ。それでも、緊張しないかと言えば、するに決まっている…のだけど。
 黙っていると、彼は自転車のスタンドを立ててわたしの横に腰を下ろしてきた。
 わたしは思わず腰をよけてしまう。彼は気にする様子がなかった。
「僕もサボタージュしようかな」
「わ…わたしは別にサボっているわけじゃ…」
 言い訳をしようとして、でも、どう説明しても良くは聞こえないと理解して、わたしは結局、膝を抱え直した。
 盗み見ると、速達王子は気楽に、けれどどこかに憂いを秘めて、向こう岸のことを眺めていた。
 わたしの胸の中で疑問が…鎌首をもたげた。
「郵便配達さん、今日も自転車姫のことを妄想してるのですか?」
「妄想…。まぁ、そうだね」
「ケンカでもしたのですか?」
「え?」
「相手の人、郵便配達さんが、毎日ここを通るのを知ってるのじゃないですか? だったら、手を振りに出てきてもいいのじゃないですか? だって、橋が落ちて会うこともできないのでしょう? 普通は、そうじゃないのですか?」
「…うん、実は…」彼は苦笑いすると、少し歯切れ悪く言った。「昨日の話には、続きがあってね」
「続き?」
「今月、たぶんそろそろ、子どもが生まれる予定なんだ」
「え…」わたしは固まった。「こ…ども? 赤ちゃん?」
 想定していなかったことが連続してしまって、もう、ぽかんとなった。
 彼は、向こうの景色に、なにかを想像するように目を細めて語った。
「最後に会ったときには、もうすっかりおなかが大きくなっていて、触ると、赤ちゃんがおなかを蹴ってくるのがわかって、僕は彼女とふたりで、その子を抱き上げるんだと思って疑わなかった。でも、橋が落ちて、それもどうやら難しそうだ」
「………」
「結婚式も出来なかったし、電話もダメ、手紙もダメ、会いに行くことも出来ない。彼女の不安を慰めることもできない。そして、彼女と僕の子どもを抱き上げることも出来ない」
 わたしは、胸の中に疼きを感じた。その気持ちが、問い詰めるような言葉になった。
「そんなに、子どもが楽しみ?」
「え?」
「生むのは女。男の人にとって、子どもなんて関係ないじゃない?」
 睨みつけていた。
 彼は、なにかを感じたようで戸惑っていた。けれど、何もわからずに、苦笑いをした。
「そういえば、言ったよね。橋が直って結婚すれば、毎日、嫌ってほど会えるって。たぶんそうなるんだと思う。だけど、どう言ったらいいのかな、その一瞬が大切というか…。うまく言えないのだけど、僕は、一秒だって速く、その子に会いたいって思ってるんだ」
「…どうして?」
「どうして?…って、それは、よくわからないけど、この辺が、そう訴えるんだよ」
 彼は拳を作ると喉元に当てて苦笑いした。そして、「みんな、そうじゃないかな」と突きつけた。
 わたしは表情がこわばって、どうにも出来なかった。ただ、完全に夢から覚めた気分でいた。
 そのときだった。
 ガシャン!
 後ろで自転車が倒れる音がした。振り返ると、斜面に自転車を放り出して、怖い顔をした誰彼くんが斜面を大股で下ってきた。
 え。
 なんで?
 そうだ、サボってたんだった。
 だからって彼に怒られる理由は無いと思いつつも、怒られるのを予感して目をそらした。
 ところが。
 ザッ!と斜面の草が踏みつけられたと思うと、罵声が上がった。
「てめぇ、うちの生徒に何してんだよ!」
 エッと顔を上げると、誰彼くんが速達王子の胸ぐらを掴んで無理矢理立たせていた。
 誰彼くんは牙を剥いた獣の顔。
 王子は面食らっている。
 わたしは慌てて言い放った!
「いきなり何よ! キミは関係ないでしょ!」
 その言葉に、誰彼くんの目がわたしに向いた。見たこともない怖い目で、わたしは首をすぼめてしまった。けれどこのままだと、彼が王子に殴りかかると思って、必死に声を上げた。
「その人は郵便配達の人! 見ればわかるでしょ! 通りがかりにわたしのことを心配して下りてきてくれたの!」
 誰彼くんが真偽を確かめるために王子を睨む。
 王子は冷や汗と苦笑いで言った。
「どっちかというと、僕の悩みを聴いてもらってたんだけどね…」
 悪意のない言葉に誰彼くんの拳が緩む。
 解放された王子は、誤解にはいちいち腹を立てない様子で、わたしに言った。
「僕も、そろそろ配達にも戻ろうかな。配るものは無いんだけどね」
 そう言うと、最後に一度、誰彼くんに笑みかけてから土手を上がっていった。
 彼の自転車の音が遠ざかっていく中で、わたしはずっと誰彼くんの視線を受け続けていた。だんだん我慢できなくなって、逃げだそうとしたとき、彼が口を開いた。
「行くぞ」
「え?」
「学校」
「………」
 わたしが黙っていると、彼は叱っていった。
「パンクしたことにすればいいだろ。とにかく、行くぞ!」


 結局、彼に引きずられる形で、土手の道に上がった。
 ふたりで自転車を押して歩く。 
 自転車に乗らないのは、パンクを直したという嘘のための時間調整だった。
 けれど、そのせいで、居心地の悪い時間が続いた。
「あの…」わたしはおずおずと言った。「キミは先に戻ってもいいよ」
「………」
「ちゃんと学校に行くから」
 彼はむすっとしている。仕方なく、看守に捕まった脱獄囚の気持ちでとぼとぼとついていく。
それをどう思ったのか、彼は背中で言った。
「みんな、心配してたぞ」
「え? みんな?」
「特に女子が」
「………」
 それを聞いて、さすがにわたしも罪悪感を感じた。クラスの女子の顔は思い出せても、フルネームを思い出せない子も多い。そのことが罪悪感に拍車をかけた。
「ごめん…なさい」
 ぽつりと言うと、
「俺に言うな。俺は、責任を感じているだけだ」
 彼は吐き捨てるように返した。
 わたしはわからなくて横顔をのぞき込んだ。
「垂れ幕の言い出しっぺは、俺だからな」
 彼は、少し赤くなっているように見えた。
 そのせいで、わたしは悪夢を思い出した。
「………」
「………」
 沈黙は重たい。
 そんな中、彼が言った。
「それより、あの郵便屋、おまえに何を相談してたんだよ?」
「え?」
「知り合いなんだろ? 近所なのか?」
「そういうわけじゃないけど…、ただ、よくこの道で一緒になるから」
「…なるほど。おまえの足は、あいつが鍛えたってことか」
「足?」あ…、昨日の追いかけっこのこと…。「違うわ。それに、わたし、そんなに体力無い」
「………」
 誰彼くんは目を細めて険しい横顔になった。もしかして、彼のプライドを傷つけたのではないかな…? 焦った途端、口が勝手にしゃべり出した。
「相談って言うのは、橋が落ちて速達郵便がなくて、でもサボるにサボれないし…」
「サボってたじゃないか」
「それだけじゃなくて悩んでることもあって…!」
「だから、ふたりでサボることになったのか?」
 慌てて言いつくろうわたしに、彼はどこか冷ややかに流し目をした。まさか、王子と逢い引きしてたとでも思っているのか?…と思ったわたしは、自分から理性の糸をぷつりと切ってしまった。
「あのね、勝手に勘違いとかされると、困るんだけど。あの人には恋人がいるし、婚約してるし、結婚式は延期になったけど、もうすぐ子どもが生まれるし! なのに橋が落ちて会いに行けなくて、それでたまたまわたしに話しかけただけで、ほんっとにわたしは彼に何にも思ってないし! わたしにとったら彼のことなんて関係ないし、婚約とか結婚とか子どもとか、そんなことだって最近知ったばかりだし! 全然、全く関係ないんだから!」
「………それで?」
「それで?」
「あいつ、悩んでたんだろ? なんて言ってやったんだ?」
「生むのは女なんだし、男には子どもなんて関係ない」
 わたしは勢い余って言った。彼にそこまで言う必要なんて無かったと、言ってしまってから思ったが、遅かった。
 彼の目は冷ややかだった。
 わたしは、これ以上、何も言うもんか!と口をつぐんで前を向いた。
 それに対して、彼の言った一言は、わたしになにかを突きつけた。
「生むのは女だけど、男だって無関係じゃないだろ。子どもが無事に生まれてこないことだってあるし、母親が死んでしまうことだってあるんだ。自分の子どもだし、好きになった相手のことなんだから、気になって、仕事も手につかなくなることだってあるはずだ」
「………」
 わたしは驚いた。誰彼くんが、そんな風に言うとは思っていなかった。そして、胸から湧いた疑問を口にしていた。
「キミ、誰かに恋したことがあるの?」
「ないね」即答だった。「だけど、そんくらい、わかる」
 わかる?
 ほんとに?
 わたしは強く疑った。
 同時に…
 妄想家、偽善者、ペテン師……
 心の中に押し込めていたいろいろな思いが、まるで箱の蓋を開けたかのように胸にあふれてきた。けれど、誰彼くんの口のほうが、ほんの一瞬だけ早く開いて、わたしのすべてを、再び箱に押し込めた。
「手伝え」
「…?」
「相談受けたんだろ。手伝えよ」
「手伝うって…なにを?」
 問い返したとき、彼はもう自転車にまたがっていた。そして、戸惑うわたしをジッと見ていった。
「悩みを聞かされたんだだろ。ともだちってことじゃないのか?」
「ともだち?」
「違うのか? じゃあ、なんだ?」
「それは…」
 もしかしたら、見透かされてたのかも…。
「いいからついてこい!」
 思わず上目遣いになったわたしに、彼ははっきりと言った。そしてペダルを踏み込むと、一気に自転車を走らせた。言い負かされたわたしは、黙ってついていくしか出来なかった…。

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