第3話 引き立てこびとの悲劇
文字数 4,009文字
翌日。中学校。お昼時。
「では、垂れ幕のお披露目だ!」
三階の、教室の窓を開け放って、誰彼くんが興奮気味に言う。
校庭にはお昼休みの生徒たち、こちら岸の土手にも人だかり、川を挟んだ向こうの土手にも人が集まっている。ラジオの投書が効いたのか、案外に人が集まっている。
(娯楽の少ない町だからとしても、こんなことで集まってくるなんて、めでたい人たちね…)
わたしは、他のクラスメイトと一緒になって、巻物にした幕を掴んで支えながら、心の中で悪態をつく。
誰彼くんが窓辺から身を乗り出してギャラリーに大声で告げた!
「お集まりの皆さん! 僕らが心を込めて作った応援メッセージを披露します!
カウントダウン、ご唱和ください!」
手伝っているこちらが恥ずかしくなるほどのノリだ。ギャラリーの反応が気になる。…と、わたしの目は、たまたま《彼》の姿を捉えた。
速達王子…。
彼が、土手の道で、自転車を止めていた。
そして、誰もが垂れ幕のお披露目に注目してこちらを向いている中、彼だけが背を向けて反対の方を向いていた。彼は、遠く、向こう岸に集まったギャラリーに目を凝らしているようだった。
(自転車姫を…探してるのね)
わたしも思わず目を凝らした。
けれど、それらしい人物はいない。白い自転車、白いワンピース、百メートルの距離なんて問題にならないくらい目立つはずだ。
「それではみなさん! サン! ニ! イチ! ヤアッ!」
ババッ!
ググッ!
「えっ…、キャアッ!」
わたしは悲鳴を上げていた!
余計なことを考えていて、かけ声を聞き逃していた。
みんながパッと一斉に垂れ幕を手放す中、わたしだけが垂れ幕を握りしめていた。しかも落ちるものを落とすまいとする条件反射で逆に握りしめてしまっていた! 何枚ものカーテンを縫い合わせて長尺にした布は想像以上に重い!
あっと思ったときには上半身が窓の外に引っ張られ、窓枠でくの字になった! 勢いで床から足が浮き、こらえる間もなくつま先が床を滑った!
ダメ、落ちる!
……。
何が起こるのかは明白だ。
わたしは垂れ幕に引きずられて三階の窓から落っこちるのだ。
ああ。短い人生だった。成し遂げたのは失恋だけ…と涙する間もなく、ガツン!と体が引き留められた! しかも足と頭が逆さまで…! 直後、ふぁさあ!と目の前が真っ暗になった! それが、逆さまにひっくり返った自分のスカートだと理解するのに、無限の時間が必要だった…!
頭の下で湧き上がる悲鳴とどよめき…。
わたしは、誰かに片足を握られて、逆さ吊りにされていた!
「わっ!」
我に返って慌てふためき、もがいて、反射的にスカートの前を押さえる! バルバル!と垂れ幕が落ちていく音、そしてまぶしい光が戻って来るのは同時だった。
真っ逆さまの世界…。
わたしは赤い顔から青い顔になった!
そのとき、聞こえてきた。
「んヌヌヌ!」
足のほう、つまり上の方で踏ん張る声がする。顎を引いて見ると、誰彼くんがわたしの片足のくるぶしを両手で掴んで歯を食いしばっていた。さらに、その彼に男子たちが群がって支えに回っていた。誰もが「見てはダメだ!」と言わんばかり、ギュギュッ!と目をつむっている。わたしは青い顔から赤い顔になり、…この羞恥をどこの誰に訴えれば良いのかと………脱力した。
写真で見たことがある。釣り上げられたマグロは、港で逆さ吊りにされる。今のわたしは、きっと、そんな姿だ。
まぶたを下ろした誰彼くんたちが、よいしょ、よいしょ!と声を合わせながら、いかにも重そうにわたしのことを引き上げにかかった。その間、わたしは、逆さまの世界を、ぼんやりと見ていた。その世界の人々はわたしの姿に一点集中。なのに…。
………。
なのに、速達王子だけはこちらにせを向け、向こう岸のことばかり気にして、こちらを振り向こうともしなかった。
なるほど…と思った。
彼にとっては、目の前で起きる何事よりも、川向こうに残した婚約者のことの方が何万倍も気になるということなのだ。けれど、わたしには理解できない。そこまで人を好きなることが出来る理由、その原動力、意味、結果…。
結果。
そうだ、考えてみたら元より、わたしには理解する素養が無い。
騒動が収まって、午後の授業は針のむしろ。
とにかく誰もの視線が気になるし、小さな会話一つ気になる。
元々わたしは目立つ方じゃなかったし、積極性もなかったし、だから、おかしなことで注目を浴びたのは、全くの事故で……と、心の中の誰かにいいわけをし続ける時間が、じりじりと過ぎた。
もうすぐ…。
もうすぐ…!
キーンコーン…!
ガタンッ!
わたしはチャイムと同時に教室を飛び出した!
誰かが声をかけてきたような気がしたけど、聞く耳なんてない。
自転車置き場に駆け込んで引っ張りだし、ガシャッ!とスタンドを上げてまたがる! そして一気に…、というより一目散に走り出した! 土手に駆け上がり、方向転換して、横顔に垂れ幕の光を感じながら無視して、ググッ!とペダルを踏み込む! 前輪が、人生で最高の浮き上がりを見せた。
前方には、橋の工事現場が見える。ちょうど修理のための板やら柱やら、木材を大勢で運んでいる。長い板が大工さんたちの肩と肩の間に渡されて、リンボーダンスの棒のように行く手を遮っている。このままだと衝突だ。…が、わたしは減速なんてしない。心のない表情で突っ走り、気づいた誰かが怒鳴るのを右から左に聞き流して身をかがめ、顎をハンドルの真ん中に押しつけて木材の下を一気にくぐり抜けた。だって止まれば、わたしが吊られたマグロだと誰もが気づくじゃない? それに、そんなとこで止まったら、速達王子より先に土手の道を走りきれないじゃない?
わたしは一瞬だって学校にいたくなかったし、立ち止まって人々の注目を集めたくなかったし、もちろん速達王子にも合わせる顔がなかったし、とにかく、とにかくとにかく急いで、速達王子に追いつかれる前に土手の道を駆け抜けてしまう必要があった…のよ!
ジャーッ! ジャーッ! ジャーッ!
わたしはずっと立ちこぎでめちゃくちゃに飛ばす。
風が耳元で騒いで、あたりの音は聞こえない。
それが逆に不安を誘う。
もしかして。
もしかして王子が。
もう、後ろに迫っていたら…?
気になって、ほんの一瞬だけ、後ろを振り返った。
「……!」
えっ?
自転車が一台、わたしのことを追いかけてきていた。
速達王子じゃない。通学自転車だ。
顔を確かめて、わたしは混乱した。
誰彼くんだった。
彼が、目をつり上げた顔で、わたしのことを追っていた。
もちろん、わたしが猛スピードなのだから、彼も猛スピードだ。
なんで?
まさか、お披露目のこと、慰めるつもり?
わたしの脳裏に、なにかを見まいとしてギュギュッ!と目をつむった彼の顔がフラッシュバックした…。
「冗談じゃない…!」
わたしは前に向き直ると叫び、ペダルをさらに踏み込んだ!
ジャァーッ! ジャァーッ! ジャァーッ!
だんだん息が上がってくる。だけど、見ちゃってごめんねなんて言われたら、一生のトラウマになる!
ちらっと見ると、彼はわたしとの距離を少し詰めていた。
やめて! わたしは胸で悲鳴を上げながら、土手の道から街へと下りた。ゴトトト!と石畳の振動が、わたしの思考を支離滅裂にする。
振り返ると、彼も同じ側道から土手の道を下りてきた。こっちはいつもの通学コース、だから逃げてるわけじゃないけど、なんで追っかけてくるの!とパニックになった。
街に入ると上り坂だ。夏のはじめの日差しを浴びながら意地になって漕ぐ。
振り返ると、彼も意地になって追ってくる。
わたしは無我夢中でこぎ続け、なんとか彼より先に坂道を登り切った!…が。
ゼーハー…
ゼーハー…
気づけば顔中汗だくだった。
足もパンパンで、ペダルを漕ぐのは体重だけが頼りだった。
でも、あと数分で家に逃げ込める。
それだけを希望にこぎ続けていた。
なのに。
ギィーコ、ギィーコ…
ジリジリと、ろくに油も差していないような音を立てながら、横に自転車が並んだ。
ギョッとして振り向くと、誰彼くんが追いついていた。汗だくの顔で肩で息をしながら、それでもハンドルを握りしめ、緩い上り坂を前傾姿勢で、まっすぐに前をにらみ据えていた。そして、わたしには目を振る様子もなく、やっとなんとか漕ぎ抜いて、数軒先の玄関先で自転車を止めた。
わたしは、力尽きたように自転車を止めた。そして彼が、わたしを振り返るのを待った。
ここまで追いかけてきたのだから、なにか言いたいことがあるのだろう。…でも、謝るのはやめて…。惨めになるから。
そう思う気持ちが通じたのか、彼はわたしを振り向かなかった。それより、斜めがけにした鞄を開けると、封筒を取り出して、目の前の建物のブリキのポストに、願うようにそっと入れた。
「あ……」
わたしはようやく思いが巡った。彼が封筒を入れたのは、街の小さなラジオ局の投書箱だった。同時に、理解した。おそらく昨日、垂れ幕の投書をしたのも彼で、今日はその顛末を投書しに来たのだろう。
「………」
投書には、どんな文章が書いてあるのか…。
わたしは、ますますいい気分じゃなくなった。
勢い、睨みつけると、用事を終えた彼が下ってきて、わたしとすれ違うところで自転車を止めた。
わたしは睨んでいたけれど、泣きそうな顔になっていたのかもしれない。
彼は、口をとがらせていった。
「…おまえのこと、ラジオで言わないでくれって、書いた」
そして、わたしの視線を躱すように前を向くと、ペダルを踏んだ。そのとき、言い残した。
「おまえ、ドジだけど、自転車だけはスゲェのな」
一瞬、何を言われたのかわからない。
ギッと振り返ったとき、彼は石畳の坂道をカーブしながら消えるところだった。
「では、垂れ幕のお披露目だ!」
三階の、教室の窓を開け放って、誰彼くんが興奮気味に言う。
校庭にはお昼休みの生徒たち、こちら岸の土手にも人だかり、川を挟んだ向こうの土手にも人が集まっている。ラジオの投書が効いたのか、案外に人が集まっている。
(娯楽の少ない町だからとしても、こんなことで集まってくるなんて、めでたい人たちね…)
わたしは、他のクラスメイトと一緒になって、巻物にした幕を掴んで支えながら、心の中で悪態をつく。
誰彼くんが窓辺から身を乗り出してギャラリーに大声で告げた!
「お集まりの皆さん! 僕らが心を込めて作った応援メッセージを披露します!
カウントダウン、ご唱和ください!」
手伝っているこちらが恥ずかしくなるほどのノリだ。ギャラリーの反応が気になる。…と、わたしの目は、たまたま《彼》の姿を捉えた。
速達王子…。
彼が、土手の道で、自転車を止めていた。
そして、誰もが垂れ幕のお披露目に注目してこちらを向いている中、彼だけが背を向けて反対の方を向いていた。彼は、遠く、向こう岸に集まったギャラリーに目を凝らしているようだった。
(自転車姫を…探してるのね)
わたしも思わず目を凝らした。
けれど、それらしい人物はいない。白い自転車、白いワンピース、百メートルの距離なんて問題にならないくらい目立つはずだ。
「それではみなさん! サン! ニ! イチ! ヤアッ!」
ババッ!
ググッ!
「えっ…、キャアッ!」
わたしは悲鳴を上げていた!
余計なことを考えていて、かけ声を聞き逃していた。
みんながパッと一斉に垂れ幕を手放す中、わたしだけが垂れ幕を握りしめていた。しかも落ちるものを落とすまいとする条件反射で逆に握りしめてしまっていた! 何枚ものカーテンを縫い合わせて長尺にした布は想像以上に重い!
あっと思ったときには上半身が窓の外に引っ張られ、窓枠でくの字になった! 勢いで床から足が浮き、こらえる間もなくつま先が床を滑った!
ダメ、落ちる!
……。
何が起こるのかは明白だ。
わたしは垂れ幕に引きずられて三階の窓から落っこちるのだ。
ああ。短い人生だった。成し遂げたのは失恋だけ…と涙する間もなく、ガツン!と体が引き留められた! しかも足と頭が逆さまで…! 直後、ふぁさあ!と目の前が真っ暗になった! それが、逆さまにひっくり返った自分のスカートだと理解するのに、無限の時間が必要だった…!
頭の下で湧き上がる悲鳴とどよめき…。
わたしは、誰かに片足を握られて、逆さ吊りにされていた!
「わっ!」
我に返って慌てふためき、もがいて、反射的にスカートの前を押さえる! バルバル!と垂れ幕が落ちていく音、そしてまぶしい光が戻って来るのは同時だった。
真っ逆さまの世界…。
わたしは赤い顔から青い顔になった!
そのとき、聞こえてきた。
「んヌヌヌ!」
足のほう、つまり上の方で踏ん張る声がする。顎を引いて見ると、誰彼くんがわたしの片足のくるぶしを両手で掴んで歯を食いしばっていた。さらに、その彼に男子たちが群がって支えに回っていた。誰もが「見てはダメだ!」と言わんばかり、ギュギュッ!と目をつむっている。わたしは青い顔から赤い顔になり、…この羞恥をどこの誰に訴えれば良いのかと………脱力した。
写真で見たことがある。釣り上げられたマグロは、港で逆さ吊りにされる。今のわたしは、きっと、そんな姿だ。
まぶたを下ろした誰彼くんたちが、よいしょ、よいしょ!と声を合わせながら、いかにも重そうにわたしのことを引き上げにかかった。その間、わたしは、逆さまの世界を、ぼんやりと見ていた。その世界の人々はわたしの姿に一点集中。なのに…。
………。
なのに、速達王子だけはこちらにせを向け、向こう岸のことばかり気にして、こちらを振り向こうともしなかった。
なるほど…と思った。
彼にとっては、目の前で起きる何事よりも、川向こうに残した婚約者のことの方が何万倍も気になるということなのだ。けれど、わたしには理解できない。そこまで人を好きなることが出来る理由、その原動力、意味、結果…。
結果。
そうだ、考えてみたら元より、わたしには理解する素養が無い。
騒動が収まって、午後の授業は針のむしろ。
とにかく誰もの視線が気になるし、小さな会話一つ気になる。
元々わたしは目立つ方じゃなかったし、積極性もなかったし、だから、おかしなことで注目を浴びたのは、全くの事故で……と、心の中の誰かにいいわけをし続ける時間が、じりじりと過ぎた。
もうすぐ…。
もうすぐ…!
キーンコーン…!
ガタンッ!
わたしはチャイムと同時に教室を飛び出した!
誰かが声をかけてきたような気がしたけど、聞く耳なんてない。
自転車置き場に駆け込んで引っ張りだし、ガシャッ!とスタンドを上げてまたがる! そして一気に…、というより一目散に走り出した! 土手に駆け上がり、方向転換して、横顔に垂れ幕の光を感じながら無視して、ググッ!とペダルを踏み込む! 前輪が、人生で最高の浮き上がりを見せた。
前方には、橋の工事現場が見える。ちょうど修理のための板やら柱やら、木材を大勢で運んでいる。長い板が大工さんたちの肩と肩の間に渡されて、リンボーダンスの棒のように行く手を遮っている。このままだと衝突だ。…が、わたしは減速なんてしない。心のない表情で突っ走り、気づいた誰かが怒鳴るのを右から左に聞き流して身をかがめ、顎をハンドルの真ん中に押しつけて木材の下を一気にくぐり抜けた。だって止まれば、わたしが吊られたマグロだと誰もが気づくじゃない? それに、そんなとこで止まったら、速達王子より先に土手の道を走りきれないじゃない?
わたしは一瞬だって学校にいたくなかったし、立ち止まって人々の注目を集めたくなかったし、もちろん速達王子にも合わせる顔がなかったし、とにかく、とにかくとにかく急いで、速達王子に追いつかれる前に土手の道を駆け抜けてしまう必要があった…のよ!
ジャーッ! ジャーッ! ジャーッ!
わたしはずっと立ちこぎでめちゃくちゃに飛ばす。
風が耳元で騒いで、あたりの音は聞こえない。
それが逆に不安を誘う。
もしかして。
もしかして王子が。
もう、後ろに迫っていたら…?
気になって、ほんの一瞬だけ、後ろを振り返った。
「……!」
えっ?
自転車が一台、わたしのことを追いかけてきていた。
速達王子じゃない。通学自転車だ。
顔を確かめて、わたしは混乱した。
誰彼くんだった。
彼が、目をつり上げた顔で、わたしのことを追っていた。
もちろん、わたしが猛スピードなのだから、彼も猛スピードだ。
なんで?
まさか、お披露目のこと、慰めるつもり?
わたしの脳裏に、なにかを見まいとしてギュギュッ!と目をつむった彼の顔がフラッシュバックした…。
「冗談じゃない…!」
わたしは前に向き直ると叫び、ペダルをさらに踏み込んだ!
ジャァーッ! ジャァーッ! ジャァーッ!
だんだん息が上がってくる。だけど、見ちゃってごめんねなんて言われたら、一生のトラウマになる!
ちらっと見ると、彼はわたしとの距離を少し詰めていた。
やめて! わたしは胸で悲鳴を上げながら、土手の道から街へと下りた。ゴトトト!と石畳の振動が、わたしの思考を支離滅裂にする。
振り返ると、彼も同じ側道から土手の道を下りてきた。こっちはいつもの通学コース、だから逃げてるわけじゃないけど、なんで追っかけてくるの!とパニックになった。
街に入ると上り坂だ。夏のはじめの日差しを浴びながら意地になって漕ぐ。
振り返ると、彼も意地になって追ってくる。
わたしは無我夢中でこぎ続け、なんとか彼より先に坂道を登り切った!…が。
ゼーハー…
ゼーハー…
気づけば顔中汗だくだった。
足もパンパンで、ペダルを漕ぐのは体重だけが頼りだった。
でも、あと数分で家に逃げ込める。
それだけを希望にこぎ続けていた。
なのに。
ギィーコ、ギィーコ…
ジリジリと、ろくに油も差していないような音を立てながら、横に自転車が並んだ。
ギョッとして振り向くと、誰彼くんが追いついていた。汗だくの顔で肩で息をしながら、それでもハンドルを握りしめ、緩い上り坂を前傾姿勢で、まっすぐに前をにらみ据えていた。そして、わたしには目を振る様子もなく、やっとなんとか漕ぎ抜いて、数軒先の玄関先で自転車を止めた。
わたしは、力尽きたように自転車を止めた。そして彼が、わたしを振り返るのを待った。
ここまで追いかけてきたのだから、なにか言いたいことがあるのだろう。…でも、謝るのはやめて…。惨めになるから。
そう思う気持ちが通じたのか、彼はわたしを振り向かなかった。それより、斜めがけにした鞄を開けると、封筒を取り出して、目の前の建物のブリキのポストに、願うようにそっと入れた。
「あ……」
わたしはようやく思いが巡った。彼が封筒を入れたのは、街の小さなラジオ局の投書箱だった。同時に、理解した。おそらく昨日、垂れ幕の投書をしたのも彼で、今日はその顛末を投書しに来たのだろう。
「………」
投書には、どんな文章が書いてあるのか…。
わたしは、ますますいい気分じゃなくなった。
勢い、睨みつけると、用事を終えた彼が下ってきて、わたしとすれ違うところで自転車を止めた。
わたしは睨んでいたけれど、泣きそうな顔になっていたのかもしれない。
彼は、口をとがらせていった。
「…おまえのこと、ラジオで言わないでくれって、書いた」
そして、わたしの視線を躱すように前を向くと、ペダルを踏んだ。そのとき、言い残した。
「おまえ、ドジだけど、自転車だけはスゲェのな」
一瞬、何を言われたのかわからない。
ギッと振り返ったとき、彼は石畳の坂道をカーブしながら消えるところだった。