第2話 自転車姫

文字数 2,920文字

 そのとき。
 奇跡が起こった…!
 今まで一度だってペダルを緩めたことのない彼が、なんと、まさか、ゆっくりと減速して自転車を停めたのだ!
 わたしは慌てブレーキを掛けた。視線を意識してうつむき加減に停車する。
 わたしに声をかけるつもりかしら?
 わたし、なんて返事すればいい?
 しおらしく沈黙しようと思った…が無理だった! 全力疾走で息がはぁはぁしてて…。でも、こらえて! 耐えないと!……と己を叱咤しながら、結局は肩で息をしつつ上目遣いで相手のことを確かめた。
「……!」
 わたしは正直にがっかりした。
 彼が、私のことではなく、川の向こうの景色を見ていたからだ。その横顔は憂えていて、わたしは落胆すると同時に、胸を締めつけられた。
「…どうして、そんな顔を…?」
 詰めた息を吐き出す勢いで、口が勝手に言った。
 彼は、ようやくわたしの存在に気づいた。
 わたしは緊張しているのです。だから声も固いし表情もきついのです。そう言い訳をしたかった…けど、できなかった。初めてまっすぐに見る彼の瞳が、綺麗すぎたからだった。……ほんとうに、綺麗な瞳……
「………」
「………あ。失礼」
 じろじろ見すぎて、相手が振り向いたことにも意識がいかなかった。慌てて目を泳がせて向こう岸に目をやる。それから抗いがたく目の端で様子を確かめると、相手は大して不審がる様子もなく、ちょっとごまかすようにニコリとすると、あるいは子どもをごまかすようにニコリとすると!…また対岸へと目を戻してしまった。
 彼の横顔は、意気消沈というのか、もの悲しげだった。わたしは目を向こうの景色に戻すと、我慢できずに疑問を口にしていた。
「速達…じゃない、郵便屋さん。何を見てたのですか?」
「………」
 返事がない。わたしを子ども扱いしているのね。
 だんだん腹が立ってきながら、横目を振ると、彼は困った顔で振り向いていた。
「……言いにくいことなら、いいんですよ。ただ、何をサボっているのかと思っただけですから」
「サボってる?」
「突っ走ってるところしか、見たことがありませんので」
 困り顔が苦笑いに変わる。
 そして、唇が開いた。
「飛行場は水没、橋も落ちたせいで、速達郵便が減ってね、今日は開店休業なんだ」
「そうですか。じゃあ、あなたは困っている人じゃないですね」
「え?」
「楽してる。困ってる人には入りませんね」
 彼はますます苦笑いして言った。
「心外だ」
「心外?」
 どうやら言い訳をしたいらしい。わたしはじっと目を向けて待った。
 すると。
「自転車姫を見てたんだよ」
「自転車姫?」
「白いフレームの自転車に、白のワンピース姿。そしてのんびりと、ゆっくりと走って行く。気持ちよさそうな笑顔で…ね。でも、今は、その姿はないんだけどね」
「今は、ない? 郵便屋さん、妄想家ですか?」
「妄想じゃないよ。彼女は、現実の人さ」
 わたしは改めて向こう岸を見た。
 彼が見ている先を追うと、対岸の土手にはこちらと同じように、数台の自転車が走っていた。のんびり走っている人もいれば、飛ばしている人もいる。彼の目は、そこになにかを見ているように見えた。走っている人の中に、白い自転車の人はいないし、白いワンピースの人なんてなおさらいない。ワンピースなんて、自転車に乗ろうと思ったら面倒なだけだ。制服のスカートでさえ邪魔なのに。でも、現実の人だという。
 わたしは、納得がいかなくて聞き返した。
「気持ちよさそうな笑顔ですって? この距離じゃ、顔なんて見えないでしょう?」
「そうだね。だから、想像してる」
「やっぱり妄想じゃないですか」
「半分は、そうかもしれないね」
「……変態ですか?」
「いやいや…」彼はびっくりしたような目をしてから顔を赤くした。「距離があっても、わかるんだよ。僕の、婚約者なんでね」
「婚約者…」
 わたしの胸のどこかで悲鳴が上がった。わけもなく。
 彼は向こう岸を見て目を細めた。
「もう、一年くらい前さ。ここを走っているときに、向こう岸を走る彼女を見かけてね、どうしても会ってみたくなって橋を渡っていったんだ。そしたら…」
「…そしたら?」
「一目惚れしてしまった」
「………」
 のろけ? これが世に言う惚気ですか? わたしは半目になって心の耳を押さえようとしたが、それは無駄な抵抗だった。
「恋に落ちて結婚の約束もした。結婚式も決めていた。だけどね、橋が流れたせいで結婚式はお流れになってしまった。彼女はこちらに渡ってこられなかった。この六月に挙げる予定だったんだけどね」
「う…、ううう、…運が悪かったのですね。で…も、結婚が取りやめになったわけじゃないでしょう? 橋が直れば…、いやってほど毎日…、顔を合わすのじゃなくって?」
「まあね。でも…いや、ただ、今頃は、この道を、一緒に散歩していたと思うと…ね」
「散歩? 自転車じゃなくて?……あ、ああ、王子のスピードじゃ相手に迷惑ね」
「王子?」
「あ……いえ」
 わたしは赤くなってそっぽを向く。同時に、心のどこかでシクシクしている誰かの頭を、捨て猫でもなだめるようになでて、気を紛らせた。
「…さて、と。配達の続きをしなくちゃ。…といっても、町を一周して局に帰るだけなんだけどね。でも、無駄でも無意味でも一周してこないと、それこそ町中の人が、僕がサボっていると思ってしまうだろうから」
 彼はにこりと会釈をしてペダルを踏み込み、颯爽と、まさにその言葉が似合う仕草で片手を上げると、わたしを取り残して土手の道を走っていった。今日の今日まで、あれほど輝いて見えた彼の背中は、今はとても遠く恨めしく見えた。


 失恋しても、帰巣本能は発揮される。
 わたしは呆然としながらも家にたどり着き、鍵を開け、洗濯物を取り込んで、暗くなる前までに片付けて、まるで一日の終わりの蓋を開けるかのようにブレッドボックスを開けた。中には、チーズのサンドイッチが用意されていた。
 皿ごと食卓に出してラジオのスイッチをひねり、静かに椅子に掛ける。しばらくすると、ラジオが温まっていつもの声が聞こえてくる。
 空虚な心に響く彼女の声は、いつもにも増してはつらつとしていた。
「……今日、夕方になって投書がありました!」
 驚いたような嬉しいような、そんな声。
 投書と聞いて、わたしは、放送局の玄関脇に掛けられた、ブリキ製の投書箱のことを、ぼんやりと思い出した。
「リバーサイド中学の生徒が、川向こうに取り残されて通学できない生徒に向けて、応援メッセージの垂れ幕を作りました! 明日のお昼、十二時三十分にお披露目です! 川向こうの生徒全員に見て欲しいそうです! いや~、あったかい話ですね~!」
「……あったかい話なんていらないわ、もうすぐ夏だってのに」
 わたしは毒を吐く。けれど、ラジオの向こうの女性は興奮醒めやらずの様子だ。
「明日、生徒の皆さんでなくても土手に上がって見てみたらいかがでしょう? わたしもスタジオ抜け出して見に行ってこようかしら。あやかるみたいで申し訳ないけど、温かい気持ちになりたいわ♪」
「………」
 本当に、わたしの気持ちは伝わらない。
 わたしはラジオを切ると、その手でサンドイッチに手を出して、これ見よがしにかぶりついた。

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