第1話 速達王子

文字数 3,461文字

『おはようございます! 今日もかわらず朝が来ましたよ!』
 パーソナリティーの明るい声で目が覚める。爽やかな朝に似合う、憎たらしくも凜とした声…。
 隣の食卓で鳴っているラジオから、扉越しに聞こえてくる。
 もう少し丸くなっていたいけど、仕方ない、わたしは起きた。

 ツンツンに足首が出たパジャマでスリッパを履き、ラジオの声を頼りに食卓へ行った。わたしが成長したせいで、パジャマはパツンパツンで、背伸びをしただけでおへそがのぞいてしまう。
 食卓では、窓から入ったまぶしい朝の光の中で、パンにバターの朝食がわたしを待っていた。これは、わたしがこんなに成長する前から、いつものこと。

 朝食。
 話し相手は、いないけど、向かいの席にはラジオが置かれている。
 パーソナリティーは、凜とした声の、やっかみたくなるような声の持ち主…。
『今日から七月ですね。遠く東の国では、ミルキーウェイを挟んで恋人達が向き合う月だそうです! タナとバターの恋…だとか。うらやましいなぁ…!』
「……くだらないこと言わないで」
 わたしはパンを飲み込むと悪態をついて、ラジオを切ると身支度に立った。

 制服に着替えて、鍵を締め、自転車にまたがる。
 緩い坂道を降りていく。石畳のガタガタした感じが、わたしの頭をいくらか覚醒させる。
 学校まで二十分ほどのサイクリング。庭先の花に水をやるおばさんや、荷馬車に野菜を積み込んでいるおじさん、小さなラジオ局のガラス越しにマイクと向き合う女性、いつもと大して変わらない光景。大きなカーブを曲がり、大きな川が朝日に輝いているのが見えてくると、あとは土手を走って学校だ。
 いつもの通学路だけれど、最近、大きく変わったことがある。学校の前から向こう岸まで架かっていた橋が、柱だけを残して無くなってしまったこと。上流の、遠くの国で降った大雨で川が増水して、確か十日くらい前に流されてしまった。
 わたしの国の、西と東を結んでいる橋だから、困っている人も多いらしい…けど、わたしには関係ない。なぜって、わたしの生活には、何にも関係が無かったから。
 おなかがすいたままになるわけでもないし、学校に行かなくていいようになるわけでもない。だからどっちでもいいことだ。
 橋のたもとには、役所の人や大工さんが来ているけれど、百メートルもある橋だから、そんな簡単にはなおらないんだろう。河原は半分くらい見えてきているけど、向こう岸に近いところはまだまだ濁流だ。どうしようもないことを、どうしよう、どうしようと頭を掻いたり腕組みしたり…。結局のところ人間は、時間を無駄遣いしないと気がすまない生き物なんだよね。つまり、基本的に暇だってこと。
 わたしは、土手の上を突っ走り、他の生徒達に混じって校門を入っていった。

 訂正します。
 橋が流されて、わたしにはなんの関係もないっていうのは、間違いになりました。
 クラスのメンバーが半分くらいになって休み時間も静かだし、嫌味な数学の先生と、歌ばかり歌わせる担任が川を渡ってこられなくて自習になるので、わたしにとっては過ごしやすくなってありがたい。…なんて思っていたのが災いしたのかな、橋が落ちて委員長不在になった教室で、委員長代理に名乗り出た放送委員の………誰彼くんが、とんでもないことを言い出した。
「橋がなおるのには、まだまだ時間がかかるみたいだ。水かさも高いから船もダメだし、電話線も橋と一緒に流されて通信手段はない! だから、川の向こうで学校に来れないみんなのために校舎に垂れ幕を掲げよう! メッセージを贈るんだ!」
 いきなり。
 おかしくない?
 せっかくゆっくり出来るときに、なにかやろう!って。
「作ってる途中で臨時休校になったらどうするのですか?」と、わたしは問い詰めてやろうかと思った。けれど、わたしに反論する気力は無く…。
 満場一致だったかはともかく、懸垂幕作りは学校を上げての臨時行事になった。

 倉庫に捨てる予定のカーテンがあったのだとか。
「女子はミシンでしっかり縫い合わせて! 男子は、文字の下書きをするんだ! 大きく、はっきり、向こう岸からも見えるように!」
 放送委員の誰彼くんは体育館で陣頭指揮を執っている。そのとき、男子の一人が声を上げた。
「下書きったって、なんて書くんだよ?」
 その言葉が響くと、ミシンの音もやんだ。
 そういえば、と皆が顔を見合わせる。
 誰彼くんが、注目を浴びながら、えへんと胸を張った。
「それは今から考えるんだ!」
 みんながあきれかえる。
「無計画! 思いつきでみんなを翻弄するなんて、あきれるわ!」と非難してやろうと思った。だけど、ヤジを飛ばすなんて無駄をする勇気があるわけもなく…。
 わたしは、黄ばんだカーテンを抱えてあきれかえっていた。

 下校時刻。
 有志は居残りして、誰彼くんの手伝いをすることになったようだけど、わたしはさっさと帰ることにした。急いで自転車に乗り、目の前の土手に上がったとき、誰かに呼ばれたような気がして、ふと校舎を振り返った。
 中学校三階建て、古い木造校舎、各学年に一クラスで全校生徒五十人…。そして川のこっちに半分、川の向こうに半分…。ふと考えてみたら、二十五人のために、二十五人が垂れ幕を作ろうとしている。なんだか馬鹿馬鹿しいと思った。もしかしたら二十五人は、川の向こうで楽しく遊んでいるかもしれないのに…。と、そんなことをしている場合じゃなかった。わたしはペダルを踏み込んだ。


 下校を急いだのには理由があった。土手の道の先に、一日のクライマックスがあったからだ。
 ちょうど下校時刻、街中から橋のたもとに上がる道を、一台の自転車が上がってくる。わたしのクライマックスは、その自転車と競争すること。ただし、よーいどん!で始める競争じゃない。追いかけてくる相手から逃げるのだ。そのためには、彼より先に土手の道を、橋の先まで行ってなければならない。わたしは橋の工事現場を横目に過ぎて、しばらく走ったところで自転車を停めた。
 一分と待たず…。
 町から土手に上がる道を、黒い制服を着た彼が上がってきた。自転車の色も黒、そして前後の大きな車輪が、速く走るための自転車であることを知らしめている。
 競争だなんて、相手にはそんなつもりはないだろう。わたしが勝手に競争しているだけなのだから。
 彼は、橋のところの人だかりには目もくれず、一気に土手の道へと上がりきるとこちらへ向かって加速をつけた。
 わたしはすぐさま前に向き直り、地面を蹴ってペダルの上に立ち上がると思いっきり踏み込んだ。自転車の前輪がフッと浮く。
 ゴトト、ゴトトトッ!
 路面の凸凹が立て続けにわたしのハンドルを揺らす。
 わたしは立ちこぎでぐんぐん加速する!
 勢いがついても立ちこぎをやめない!
 風が耳元で騒ぐ。
 スカートが邪魔…!
 その時、シャーッ、シャーッと鋭い音が背後に迫ってきた。
 振り向かなくてもわかる。彼だ。
 シャーッ、シャーッ、シャーァーァーァー!
 風を切り裂く大きな車輪が視界の端に見えたかと思うと、黒い制服と、詰め襟の喉元にチラリと覗く白いシャツ、短いつばと艶のあるシルクの制帽、そして、行く先をまっすぐに見つめるホッソリと端正な横顔が、わたしのすぐ隣を追い抜いていった。まるで、背後から吹き寄せた、そよ風のように……。
 シャーッ、シャー、シャー……
 わたしの全速力をものともせずに、彼は自転車をこいでいく。その制服の背中には、風を振り返った人のために《速達郵便》と、誇らしげに銀糸の刺繍がされている。それは、誰もをうっとりさせる後ろ姿。ホッソリとしていながら、制服の上からでも肩の骨の張りと筋肉が見えるような後ろ姿。わたしは、その姿に見とれながら立ちこぎを続けたが、ペダルをこぐ足はもう、夢とうつつを行き来するかのようにぼんやりとして気の抜けたものになっていた。
 わたしが全速力で走る理由は、彼に精一杯併走して、彼の横顔を一瞬でも長く見ていたいという欲望と、ほんの一瞬でも、同じ風の中にいたいという、淡い憧れに違いなかった。けれど、悲しいかな、彼は今まで一度だって、私のことを振り返ったことがない。
 無理もない。わたしはまだ中学生で、彼はもう、大人なんだから。
(また明日。わたしの速達王子さま)
 わたしはいつものように、胸で彼にさよならを言った。
 そのとき。
 奇跡が起こった…!
 今まで一度だってペダルを緩めたことのない彼が、なんと、まさか、ゆっくりと減速して自転車を停めたのだ!
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