第1部 18

文字数 2,758文字

 女子トイレは、ひっそりとしていた。戸塚エマには、そう感じられていた。
 会場内に鳴り響く裂帛の気合と激しい踏み込みが、トイレのガラスをビリビリと震わせていた。
 トイレには誰もいない、外とは別世界、自分だけの領域、エマはそう思いたい……。
「これを飲めば」
 効果はほんとに短い、たぶん一分も続かない、だから、試合が始まるほんとに直前に飲まないと意味がないから。
 頼み込んで頼み込んで、やっと一粒、佐藤カイにもらうことができた。
 ここで口に含んで、エマは先鋒だ、一礼して蹲踞のときに飲み込めばいい、そうすれば。
 この市大会、チームは準決勝まできた、あと一つ勝って決勝までいけば県大会に出れる、決勝までいければまだ先輩たちと剣道ができる。
 別れのときはくる、でもそれは今日じゃない、県大会までいくんだ。
「うん」
 掌に載せた小さなカプセル、手を持ち上げる、顔を手に近づける、口に含んでも飲み込んだらダメだから、飲み込んだらダメだから、ダメだから……。
「あ!」
 カプセルを口に入れる直前、手首をつかまれた、カプセルが落ちた、希望が、未来が、掌からこぼれ落ちた……。
「ああ」
 エマは、手首をつかんだ人間のほうではなく、カプセルを追っていた、トイレの床に落ちたカプセルを拾い上げようと。
「ちょっと、離して」
 体が動かない、さがらない、手が届かない、いってしまう……。
「離して!」
「戸塚さん!」
 凄い力だと思った。中学二年生の女子に体が引っ張られそうだった。山田タクヤは、驚いた、焦った。
 そして、慄(おのの)いた。自分より遥かに小さい女の子の視線を受けて、思いの激しさ、鋭さ、純粋さに、山田タクヤは慄いた。
「試合が、始まる」
 一回り以上歳上の男を慄かせた表情のまま、戸塚エマはトイレを出ていった。

 もちろん、試合は負ける。一勝三分一敗。総本数の差だった。
 エマは泣いた。エマがなんとか引き分けにもっていけてれば、勝っていた。エマは、いつまでも泣いていた。

 エマが出ていった女子トイレ、ヤマタクは、ヤマタクもまた、出ていったエマではなく床に落ちた小さなカプセルに視線を、意識を注いでいた。拾い上げる。
「え?」
 背後で声がする、もちろん女性の声。
「あ、あった、よかった、薬、落としたら転がってきちゃって、はは、いやー、すいません」
 薬を女性にみせつつ、トイレを出た。
「でももう飲めないかな、はは、はは」
 背中をつつく女性の視線は一先ずないことにして。ヤマタクは、カプセルをそっと握った、掌の中に隠すように。
 体に害のあるものではないだろう。葛藤はあった。
 しかし、それでも、自分の行動は間違っていないと信じている、たとえエマに一生恨まれたとしても(恐らく理解されることはあるまい)。
 まずはこのカプセルを持ち帰って調べてみないことには。
 一つ、すぐに拭いきれない懸念があるとすればそれは、
 ――頼むから通報とかしないでくれ。
 この日の出来事に対する身内からの呼び出しは、ついになかった。

 エマの様子がおかしかった。情緒不安定というか。試合も勝ったり負けたり。
 抱えていたのは大会のプレッシャーだけではなかった。この小さなカプセルに、中学二年生の女の子は翻弄されたといっていい。
「安全だよ」
「そうか」
 一緒にいるのは大学病院にいる同級生だった。
 この男は信頼できる。大会から四日ほど経っていた。
「安全すぎるくらいにな」
「安全すぎる?」
「風邪薬ほどの薬剤成分も入ってない。細菌のつまったカプセルだ。タクが欲しいものとは別物じゃないのか」
 山田は少し考える。同級生の言葉を半分受け流して。
「それでパフォーマンスがあがるのか」
「効果があるといえるほどの効果があるのか、はっきりいって疑問だ」
 山田が上体をディスプレイに近付けた、同級生は体をパソコンの正面からずらす、山田が画面と正対する。
 そんな微妙なもののがエマを狂わせた。怒りとも虚しさともつかない。僅かな罪悪感と。
「組成比はわかったか」
「ああ。どちらかといえば痩せ型だろうが。ここになんか意味があるのか」
 山田はじっと画面をみつめていた。

 蝉がうるさいほどに鳴いている。梢の隙間から漏れ落ちる陽光は、細くても夏のそれであるが、コンクリートやアスファルトや人を焦げ付かせるような凶暴さはない、薄暗い林の底に熱と光を届ける、夏の太陽に恨みを抱く愚かものはここにはいない。
 そこにいる人間も含めて。
 一人の大人と二人の少年が向かい合っている、立っている男を、腰を下ろした少年二人が見上げている。
 木々の間からのぞくその三人、自然の中でそれぞれが人一人としての領分を越えない、控え目で小さな存在、一匹の蝉と一匹の鳥と同等、一人が一人の人間としてそこにいる。
 逞しい背中だ、タイトなスポーツシャツだとよくわかる。
 背中から肩周り腕、引き締まったウエスト、胸板の盛り上がり、無駄がなくメリハリがきいている、これは科学者の肉体ではない、立派なアスリートだ、銀色の仮面!

 建物脇の草むらで虫が鳴いている。蛙の合唱は少し離れた田圃から。
 家を出た小林アユムが自転車に跨った。時刻は夜十時を過ぎていた。
 これから、友だちの家にいくか、そのまま街まで自転車で下りてしまうか。
 こんなとき、大概は友だちの家にいくが、時々自転車で下りたくなりもする。
 空の高いところに月が出ていた、特にこんな月夜は。
 それでも結局、友だちの家にいくのだが。

 父親の事件があってから、学校にいかないまま夏休みになった。
 親を恨む気持ちはある。
 でもなぜだろう、父親と目が合うとき、アユムは父親に恨まれているような気になる。
 父親の表情、視線、態度、息子は責められているようだった。そんな家に、いられるわけがない。
 自転車が滑り出した、直後にブレーキ、ギギギィと嫌な音が響いた、闇に、悲鳴のように。
 街灯の向こうに人影、それをよけようと自転車を動かす、人影も動いた、気味が悪い、腹が立つ。
 見張られているのだ、ずっと、父親のせいで。人影が灯りの中に入った、
「小林アユムくん、だよね」
「……」
「人生を変えたいって、思わないかい」
 影は、灯りの下でも影だった。黒尽くめ、なによりも、仮面、黒い仮面!
 
 黒仮面の渡したものを、アユムはさっさと口に放り込んだ、瞬間、体が破裂するようだった。
「自爆テロ」を思ったのは、少し後、我に返ったときだった。
 自爆テロ、破裂、悲鳴、一緒に浮かんだ男の顔があった。佐藤カイの顔だった。
 悔しさ、そんな感情の開放、復活。小林アユムは泣いていた。

 クスリを飲んで後のことはよく覚えていない 黒仮面が夜の闇に消えるのをなにもいわず、なにも思わず眺めていた、手に持っていた小さなケースと。
 涙はすぐに止まっていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み