第1部 1

文字数 1,961文字

 鳥が鳴いた。
 明日で春休みが終わる、そんな日の日がもうすぐ暮れる。
 空はまだ明るく青さを残しているが、雲は影に染まっていた、杉の木立に囲まれたこの場所も、影の中だった。寒い、かもしれない。
 鳥が鳴いた。近いようで遠い。
 距離の遠近ではない。鳥の発した音は、ずれていた。
 この場にいる人とは無関係に(当たり前のようだが)声は飛んでいった。存在する人間を避けるように、無視するように。
 風が吹いた。山がザワザワと鳴いた。どこかで鶯も鳴いている。
「虚ろ、だな」
 その声が、ずれていた少年を引き戻した。引き戻された少年はすぐに振り向かず。
「虚ろ……」
 漢字がすぐに浮かんだ。
 確かに自分は「虚ろ」だったと、自分の顔に「虚」の字を被せる。
 振り向いた、
「あなたは、誰?」
 などとすぐに出てこないのは、少年が終わりかけの中学一年生だということもあるだろうが、だけではなく。
 驚いたのは、むしろ相手も背中だったこと。声が少し遠回り気味だと思ったら。
 声をかけておきながら、先に相手を見たのは声をかけられたほうだったなんて……。
 ただ、結果的にはそれでよかったのかもしれない。
 背中、ゆっくり振り向く、影の中、頭(顔)のほうが僅かに光を浴びている、振り返る、少年の視線がその人の動きに巻き取られていくように、面と向かった、まさしく面と。
 少年、振り返った先にその面があったら、きっと一歩引いていたに違いない。
「仮面」
 思わず口に出してた。思春期の恥じらいはその言葉を押し止めることはできない。
 そう、振り返った男(きっと男)は、鼻から上、目を覆う仮面を被っていた。
 鳥が鳴いた。その声はずれていなかった。

「少年、変わりたいのだろう」
「え?」
「変わりたいと思っているのだろう」
 男の口調はいたって落ち着いていた。
 それでいて、迫る、鬼気迫る、そんな圧迫感を少年は感じないではない。
 危機感か。
 ちらっと後ろをみたかった、無論、逃げるために。幸い、帰り道は自分の背後にある。すぐに逃げなかったのは……。
 男は少し俯いているようにみえる。少年より背が高いから当然のようだが、視線がみえないのは怖い。得体が知れない。
 少年の体がぶるっと一つ震えた。だいぶ闇が巻いていた。寒くなってきてもいる。
「きみは時々この場所にきている。浮かない顔をして」
 サッ! 逃げ出した。堪らず。
「おい」
 そんなに慌てた風ではない男の声を背中に聞いて、少年は走った。

 走り去る少年の、みるみる遠ざかっていく背中をみて、男は一つ嘆息した。当たり前か、と口の端で小さく笑った。
 相変わらず俯き加減のまま、右手で抑えるように仮面を触っていた。

 そう、「僕」は何度もここにきている、小学生のころから、何度も。
 男のいった「時々」とはそういうことではないだろう。
「僕」が「浮かない顔」をしてここにきているのは、中学生になってからだ。
 ことに、春休みに入ってからは二日とあけずに「ここ」にきていた。
「ここ」は地元では「城山」と呼ばれている。戦国時代の山城の跡だった。建物などはなく、二の丸、三の丸、本丸などの「跡」があるだけだった。
「跡」は、草っぱらだったりベンチのある休憩所だったり、あるいは井戸の跡やなにやらの石碑があるくらい。
 砂利道を、足元をとられながら数十メートル、追ってくる足音はなかった。「僕」はただ前だけをみて走った、前だけを。
 急ブレーキ!
 空から降ってきた。三メートルほど先に着地、少年はまた男の背中をみる。
「当然だ、誰だって逃げたくなる。こんな時間に突然声をかけられて、見ず知らずの人間から」
 ゆっくりと振り返った、仮面を手で抑えながら、少し笑っている。
「安心したまえ、少年にとってわたしが『見ず知らず』であることは間違いない」
 そんなとこ心配してない……。コートの中が暑くなった、頭から湯気が立つようだ。
「走るのが速くて、少々面食らった」
 洒落ではない、と付け加える。少年、それどころではない。
 むしろ面食らったのは「僕」のほうだ。まさか、人が空から降ってくるとは。
 男が砂利を踏みしめ近づいてくる、ゆっくりと。
「逃げても無駄なことは理解できただろう。いや、もう一度逃げてみるか。今度はみせてやろう」
 殺される。頭の中に吹き出しが閃いた。
「逃げろ!」
 その吹き出しに押されるように、体が動いた。
「ほう、そうきたか」
 男の呟きは、少年の耳には届かない。
 少年は、砂利道をまた戻ることをしなかった。
 右手は二の丸跡の広場になっている。少年が弾かれたように走ったのは、その広場ではなく、左手側だった。
 背丈ほどの土手を駆け上がると、その先は下草の生い茂る急な斜面になっている。少年が飛び込んだ、雑草の生い茂る黒い海に、ゆっくりと、落ちていく、「僕」は息を止めた。
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