第2部 7

文字数 2,316文字

 土曜の夜が日曜になった、深夜一時半を過ぎている、一週間溜め込んだ憂さを晴らし次の一週間の活力を蓄える、救いを求める迷える子羊たち。
 一〇人はいないだろうという男たち、一人か二人づつ、どのテーブルも割りと大人しい。
 別々のテーブルに座っていた三人の男たちが立ち上がった。薄暗い店内でもあり、「非日常」或いは「脱日常」がこの手の店のコンセプトでもある、故に、
「おい!」
 ボーイが三人に強く言葉をかけたのは、三人が一つのテーブルに集まってからだった。男三人、一つのテーブルの前をふさぐように立っていた。
「キャ!」
 男二人女二人で飲んでいたテーブル、男に挟まれていない女の子が悲鳴を上げてテーブルを逃げた、三人の男たちはそれぞれにナイフを持っていた。
 一人は逃げた、残った三人は、逃げようとしない。
 怖くて逃げられない、という雰囲気、ではなさそうだ。真ん中の女の子は男たちをじっと見上げていた。
 女の子の右、男たちから向かって左側の男。
 ガタイのよさが座っていてもわかる。ガツガツ食っていた、カレーライス、いやカツカレー、大盛り、既に四分の三はなくなっている、ポニーテールが飯を食うときのスタイルだ、まるで戦ってでもいるかのようだ。
 女の子の左側、男たちから向かって右側、テーブルには黄緑色の液体の入ったグラスと小皿にほうれん草のおひたし。
 背もたれに体を預けて、この男、本を、文庫本を読んでいる、見上げた、眼鏡の片方のレンズが店の灯りで白く光る、
「我々に、なにか用ですか」
 三本のナイフを前にして、微塵も動じるところがなかった。
「用があんのはアヤちゃんだけや、おめぇら早くどけ、怪我したくなかったら」
 最初に口を開いたのは、ぱっと見「そっち系」の方、カタギではない世界の方、若い、坊主頭、細くて、鉄砲玉といった感じだろうか。ナイフの切っ先を眼鏡に向けてゆらゆら揺らしている。
 他の二人は、スーツ、ネクタイはさすがに外しているが一見してサラリーマン三〇代、もう一人は六〇代町工場社長風、といった面子だった、二人はまだ大人しく、鉄砲玉の様子を黙ってみている。
 ただし、制止するといった感じでもない。
 鉄砲玉が続けていう、苛立ちが独りでに高まっているようで、
「はやくどけっつってんのがわかんねぇのか、このぼけが!」
 ナイフを前のテーブルに突き立てる、ガン!
 ダン!!
 突き立ったナイフの隣に、坊主頭が落ちてきた、グラスとおひたしは素早く引かれている。
 坊主頭が気を失って前のめりにテーブルに倒れた、ガタイのいいティーシャツの男が入れ替わり立ち上がっていた、振り下ろされた豪腕に鉄砲玉は気付いていまい、己が殴られたことに、気付いていまい。
 ポニーテールはもちろんジュンペイだ。文庫本に眼鏡はもちろん。
「ふー、豪傑君は眠ってしまった、そちらの君はなるほど洋学紳士か、となると一番年嵩のあなたが南海先生ということですね、我ながらいいチョイスだったな」
 真下が文庫本を閉じてジャケットの内ポケットに、中江兆民『三酔人経綸問答』をしまった。
 真下が座ったまま、前のめりになる、ソファが鳴った。
「帰って二度とアヤちゃんの前に顔をみせないというなら、あなたたち二人は見逃そう、人の鼻先にナイフをちらつかせたこのバカは無理だけど」
 町工場社長風が口を開いた、力なく。
「俺はその子に全財産貢いだ」
「話は手短にお願いします、じきに警察がくるんで」
 真下は腕時計にちらっと目をやり。
「老後の蓄えもなんもかも渡しちまった、もう生きていけねぇ」
「その金でアヤちゃんは暫く楽しく暮らしていける。残りの人生を彼女に捧げるとは、これぞまさしく、本物の愛でしょう。さすが南海先生、しかしこれは、いささか軽挙妄動です」
 町工場社長がその場に膝から崩れ落ちる。
 思いつめた顔にさらに思いを詰め込んだ、サラリーマン風の男は思いの嵩で今にも窒息死しそうだった。青ざめていた。
 真下は腕時計をみ、入り口をみる。
「洋学紳士、なにか最後にいっておきたいことはありますか。あなたも相当貢いだのですか」
「シモさん、そろそろ」
 外が騒がしくなるころだろう、わかっている。
「割り切り難かろうがしかし、割り切るしかない。あなたに相応しい女性はきっといる、きっとみつかります」
「シモさん、マジ早くしねぇと」
「わかってる、少し落ち着け、大事なところだ、二人の今後にとって」
「どうでもいいっすよ、どうせ聞いてねぇっす」
「そんなことはない、この南海先生など感激して涙に咽び」
 !
 ジュンペイはリーマンの腕をつかみ、真下は社長の腕にグラスを投げつけた、二人が同時に首にナイフあてがう、寸でのところでそれを阻んだ、二人の自殺を、ジュンペイと真下は許さなかった。
「人生を狂わせた女の前での自害、悪い判断じゃない、復讐としては成し遂げた部類に入るだろうな、だけに、それをさせたら俺らの負けになる、わざわざ出向いた甲斐がなくなっちまうんでね」
 入り口ドアの外がだいぶ騒がしい、警察のご到着だ。
「アヤちゃん、きみもほどほどにね、次はこうはいかないかもしれないし。刺されると、痛いから」
 ジュンペイは先行して歩き出している、先に逃げるというより露払いのつもりだろう、真下もジュンペイの後を追う、歩き出しかけたその手を取られた、
「シモさん」
「ん?」
 真下が振り返る、唇とその内側のベロが溶けるかと思うほど、吸われた、舐められた、舐め回された。「アイスとはこういう気分だろうか」などと思いながら。
「なにやってんすか! シモ!」
 慌てて真下、ジュンペイを追いかけてバックヤードから裏口に抜けた、さりげなくお絞りを一本掠め取って。
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