第16話

文字数 18,945文字

折原 翔
 
 二〇二四年八月上旬


「翔、こっちだ!」
 翔は前線でパスを待つ大吾を一瞥し、迫り来る相手ディフェンダーをフェイントで引き剥がしてから、利き足ではない左足で大吾目掛けてアーリークロスをあげた。大吾はペナルティエリアに勢いよく飛び込み、ダイビングヘッドでボールに合わせ、ボールは右下隅に吸い込まれた。それと同時に主審が試合終了のホイッスルを吹いた。
 翔達は歓喜し、グラウンドの中で喜びを分かち合った。これでリーグ戦負けなし。残り一試合を残した状態で、土浦ユナイテッドFCは初の県大会出場を決めた。
「よくやったぞ、お前ら。本当にすごいぞ!」
 監督の永森は嬉しさを爆発させて、少しだけ目が潤んでいた。
「ちょっと監督、まだ県大会出場決めただけですよ。全国まではまだ先なんですから泣かないでくださいよ」和
 人が少し揶揄うように永森に言った。チームメイトもそれに釣られて笑い声を上げた。
「すまん、そうだよな。でもなんか嬉しくなっちゃってよ」永森は腕で目を擦った。
「監督は熱い男なのに涙脆いっっすもんね」大吾も続けて言った。
「でも和人の言う通り、お前らまだ浮かれ切るのは早いからな! 目指すは全国大会! それは忘れるなよ! お前らならいける!」
 永森の鼓舞を受けて、チームメイトの「はい!」という声がグラウンドに木霊した。
 翔は顔を綻ばせた。翔も永森と全く同じ気持ちだった。全国大会はもはや夢ではなく明確な目標として捉えられるほどチームは成熟していた。どのチームにも負ける気がしなかった。翔にとって県大会は通過点に過ぎず、彼の眼には全国大会への道しか見えていなかった。
 今日の試合会場は翔達が普段通学する土浦小学校だった。土浦小学校には学校の中と外を繋ぐテラスがあり、土浦ユナイテッドFCの選手達は試合中や練習中は自分達の荷物をよくそこに置いている。試合後のミーティングを終えて、翔はテラスの方へ歩を進めると、後方から馴染みの声が聞こえてきた。
「よ! 翔、大吾! 見てたよ」
「美織!」翔が言った。
 美織が翔たちのそばに寄ってきた。美織は所属している土浦小学校バスケクラブの赤色のチームジャージを着ていて、彼女の後ろにはチームメイトであろう同じジャージ姿の女の子たちがたくさんいた。美織のジャージ姿を久々に見たせいか、翔は少しだけドキッとした。不覚にも可愛いと思ってしまった。
 普段ジャージとか学校の制服を着ているところしか見たことがない人の私服姿を見てドキッとしてしまうというのは聞いたことがあったが、逆に普段私服姿ばっかり見ている人のジャージ姿を見てもドキッとすることがあるのかと翔は密かに自身の新たな発見に感嘆した。
「美織! ちゃんと俺のシュート見てたか?」
「見てたよ。コケながら頭に当ててたね」
「ばか! あれはダイビングヘッドっていう、れっきとしたヘディングシュートだよ! こけたわけじゃない!」
「冗談だって。それくらい私にもわかるし」
「なんだ冗談か」大吾は口を尖らせながら言った。
「さて、二人が帰る準備出来たら……行きますか?」
「うん」と言って翔は頷いた。「ちょっと待ってて」
 美織と今日遭遇したことは偶然ではなかった。翔と大吾と美織の三人はこの後の予定を決めていて、試合終わりに学校のテラスで落ち合う約束をしていた。
「え〜美織一緒に帰らないの?」
 美織の後ろにいる美織とチームメイトの女の子の一人がさみしそうに言った。
「朋花ごめんね。今日この後予定あるの。また明日ね」美織は女の子達に手を振った。
 帰りの支度を終えた翔と大吾は美織と共に校門を出た。そして学校から徒歩五分くらいのところにある全国チェーンのファミリーレストランに入店した。
「よく来るところだけど、子供だけで入るの初めてだからなんか緊張するな」
 大吾は周りをキョロキョロしながら言う。
「僕も。お父さんとしか来たことないよ」
「え、そうなの? 私頻繁にバスケの練習終わりにみんなでパフェ食べたりしてるけどな」
「マセガキだな。小学生の分際で」
「うるさいな」美織は大吾を睨んだ。
「言いたいことはわかるけど、口が悪いよ大吾」
「翔、それフォローしているようでフォローしてないんですけど」
 入店後のレジ前で三人が普段通りのやりとりをしているとウエイトレスがやってきた。おそらく大学生のアルバイトかと思わせる見た目の若い清楚風な女性だった。
「いらっしゃいま……あら、美織ちゃん。いらっしゃい。今日はいつもの子達とじゃないのね」
「アミさん、こんにちわ。今日はむさ苦しい男友達と来ました」
「おい」翔と大吾は同時にツッコミを入れた。
「ふふ。全然むさ苦しくなんかないじゃない。席に案内するね。こっちにどうぞ」
 翔達はアミという女性について行った。案内された席は窓側で大通りに面した日当たりの良い場所だ。
「ご注文は? すぐ何か頼む?」
「ちょっと長居しそうだから、ドリンクバーにしようかな。後はとりあえず良いです。何か他に頼みたくなったら呼びますね」
「わかった。じゃあごゆっくりね」
 アミは笑顔でそう言うと踵を返して、来た通路を戻っていった。
「誰なんだよあの人」大吾は小声で訊いた。
「私の従姉妹のアミさん。筑波大学の学生さんなんだけど、ここでアルバイトしてるって知ってから、よく来るようになったの」
「だから頻繁に来てるんだね」翔が言う。
「そう言うこと」
「美織と違って、優しそうな人だ──」
 大吾がそう言うとドスっと鈍い音がテーブルの下から聞こえた。
「いったッ」
「私と似て優しそうな人、でしょ?」
 美織の口元には笑みが張り付いていたが、眉間には皺が寄っていた。
 さっきの音はおそらくテーブルの下で美織が大吾の脛を蹴った音だろう。真夏にも関わらず、翔は一瞬寒気を感じた。店内のよく効いたエアコンのせいなのか悪寒なのかは考えないことにした。
 それぞれドリンクバーで好みのジュースも持ち寄ってから美織が口を開く。
「さぁ今日で完成させるくらいの気持ちでやるよ!」と言って鞄から大量の折り紙を出す。
「あと何機くらいだ?」大吾が訊くと翔が「三百くらいだね」と答えた。
「じゃあ気合い入れてやりますか」
 大吾は上半身のジャージを脱いで軽く指をポキポキと鳴らした。
「喧嘩前のガキ大将みたいね」
 美織がニヤニヤしなが言う。すかさず大吾が「うるせぇな」と口を尖らせた。
「美織、ガキは余計だよ」翔がすかさず大吾をフォローするも「せめて大将も否定してくれ」と大吾は呟いた。
 翔達はこれまで互いの家を行き来して紙飛行機を折り続けてきたが、ここらで心機一転環境を変えてみようと言うことで、美織の発案でファミレスで続きをすることを先週あたりに決めていた。
 美奈子は脳梗塞の手術が成功したが、下半身の麻痺という後遺症が続いており、今はリハビリテーション病院で長期入院の真っ只中だと大吾から聞いていた。車椅子での生活になってしまうのかは今後のリハビリ結果次第だという。苦しいリハビリ生活を送る彼女に少しでも元気になってもらいたいという思いから、翔は早くこの紙飛行機を完成させたかった。
 それともう一つの理由が、がんと懸命に戦っている琴音を勇気づけたいということ。千の紙飛行機と翔が一緒に写る写真を過去に送る。自分達のやろうとしていることがどれだけの力となりうるかは正直わからない。けれども、黙ったまま神に祈ることだけはしたくなかった。大吾と美緒も言わずもがな同じ気持ちだろうと思った。クラブ活動もあり、それなりに忙しい生活だが、空いた時間を利用しなんとか残り三百体というところまで漕ぎ着けたのである。
 しばらく翔達が黙々と折り紙を折ってると、コンコンと彼らのテーブル席に面している窓ガラスから音が聞こえた。翔は窓の方を向くと驚きのあまり「え!」と声を上げてしまった。
 そこには和人と夏樹が立ってこちらを覗いていた。ガラス越しのため声は聞こえないが、和人がジャスチャーで翔達のテーブルと和人自身を交互に指すことから、おそらく俺たちもそっちに行っていいか? という意味だと翔は理解した。大吾と美織は翔を見て頷く仕草を見せたため、翔は和人と夏樹に向けて、親指と人差し指で円を作り、オッケーというジャスチャーをした。和人と夏樹はそれを見ると店の入り口に向かって歩き出した。
「和人君、夏樹君! こっちこっち!」
 翔が店内に入ってきた二人を手招きして迎入れた。五人は同じテーブルを囲んで座った。
「ごめん、邪魔だったかな?」夏樹は申し訳なさそうに言った。
「そんなことないですよ。でもびっくりしちゃいました。帰り道でした?」翔が訊いた。
「どっか寄ってから帰りたいなとか二人で話していたら、ファミレスの店内に知っている顔がいたらからついついちょっかい出しちまったんだ」
 和人が柔和な笑顔で言った。
「美織ちゃんだよね? ごめんね急に押しかけちゃって」夏樹が美織を見て言った。
「え、全然ですよ。大勢の方が楽しいじゃないですか。というか私のこと知ってくれているんですか?」美織が目を輝かせて言った。
「翔と大吾が美織ちゃんの話しているのをよく聞いていたから、知ってたよ」
「え、この二人私のなんか変な風に言ってませんでしたか?」
「あぁすごい可愛い女友達だけど、まるでジャイ──」
 和人が喋る言葉を途中で止め、若干苦悶の表情を浮かべながら夏樹を見て首を振っていた。すかさず夏樹が笑顔で言葉を繋ぐ。
「美織ちゃんのこと、すごい可愛くて、優しくて自慢の友達だっていつも言ってたよ」
「本当ですか? あんた達ちゃんと裏では私のこと褒めてくれているんじゃない。もう照れるなぁ」
 美織は頬に手を当てて、ぶりっ子っぽい仕草をみせた。
 翔は大吾とアイコンタクトをしてホッと肩を撫で下ろした。夏樹の機転に救われた。翔は夏樹がテーブルの下で和人の足を踏んで言葉を制してくれたことが見えていた。裏で顔が可愛い自慢の友達だけど性格はジャイアンだ、と陰口を叩いていたことが美織にバレたらと思うと翔はひどくゾッとした。
 翔は美織に和人と夏樹を簡単に紹介した。過去に美織に対して同じチームに大好きな先輩達がいると二人のことを話題に出したことがあったが実際に会うのは初めてだったから、改めて紹介した形だ。
「ちなみにみんなはなんだってこんなに紙飛行機を折ってるんだ?」
 和人はテーブルに置いてある無数の紙飛行機たちを見て訊いてきた。翔はことの経緯を説明した。だが、琴音のことは話題に上げず、大吾の母にこの千の紙飛行機を届けたいというその趣旨を伝えた。
「お前ら、すごいな。普通に感動するわ。最高だと思う。でもよ、ちょっと薄情過ぎやしないか?」
「え……」と言葉を漏らし翔は和人の言葉に困惑する。
「なんで俺たちも誘ってくれないんだよ。面識こそないけど俺たちだって大吾の母ちゃんに早く良くなってもらいたいと思っているんだ。俺たちの想いも乗っけさせてくれよ」
「もしかして手伝ってくれるんですか?」大吾が驚きの表情で訊いた。
「当たり前だろ。むしろ手伝わせてくれよ」和人は微笑みながら言った。
「ありがとうございます」大吾の声は微かに震えていた。さらに大吾は「あの……」と言って、翔をチラッと一瞥してから口を開いた。
「ちょっと訳あって、詳しくは言えないんですけど、翔にもこの千の紙飛行機を届けたい人がいます。だから俺だけじゃなくて翔のためにもお願いします」
「そうか。わかった」
 和人は優しい笑顔で言った。深くは聞かないでくれる和人の優しさが翔は有難かった。もちろん二人に『時を越えるノート』のことを言っても良いとは思ったが、翔は思い留まった。ノートのことを誰かに告げることを当たり前のことのようにしたくなかった。和人と夏樹には無事に過去を変えることが出来た時に伝えようと思った。
「じゃあ一つだけ教えてほしい」夏樹が言った。「翔はその大切な人にどんな想いをこの紙飛行機に込めてる?」
 翔は夏樹が言った言葉の真意を噛み締めて、口を開いた。
「一緒に生きよう、そういう想いを込めています」
「わかった。じゃあ僕も同じ想いを込めさせてもらうね。教えてくれてありがとう」
 夏樹の口元で優しい笑みが溶けていった。
 早速翔達五人は紙飛行機作りに取り掛かった。五人となると作成速度がこれまでと比べ物にならないほど大きく上昇した。テーブルの上にはどんどんと色んな色の紙飛行機が積まれていく。そしてついに紙飛行機の数が千まで残り三十機となった。
「ついにここまで来たね」美織が感嘆した。
「あぁ。これも和人君と夏樹君が手伝ってくれたおかげです。ほんとありがとうございます」
「微力だけど手伝わせてもらえて僕たちも嬉しかったよ」
 夏樹が和人を見て「ね?」と言う。
「あぁ。こちらこそありがとうって気持ちだわ。なんか良いパワーもらえた気がする」
「じゃあ早速残りも折り進めますか」と大吾が言ったところで、翔は「ちょっと待って」と言った。
「どうした、翔?」大吾がポカンと口を開けて訊いた。
 翔はこの時、ある一つの突拍子もないアイデアが頭に浮かんでいた。そのアイディアを思いついた発端は和人や夏樹の言葉だった。彼らのように自分たち以外にも大吾の母を勇気付けたい、早く元気になってほしいと思っている人が他にも大勢いるのではないかと思ったのだ。
 しかし、このアイディアは色んな人の協力が必要不可欠だった。実現可能かどうかはわからない。それでも翔は自分の考え、想いをみんなに打ち明けることにした。
「出来るかはわかんないんですけど、僕に一つ提案があります。訊いてくれますか?」




 折原 翔

 二〇二四年八月下旬


 相も変わらず夏の強い日差しで肌がジリジリと焼けるようだったが、優しく頬を撫でる風が心地良く、八月にしては過ごしやすい天候だと言えた。
 翔の足取りは心無しか軽かった。それは今日の天候は翔の考えたアイディアを具現化する上でうってつけの天候だったからだ。
「いよいよだな」
 車の二列目の後部座席に座る大吾が言った。その表情は自信に満ち溢れていた。
「喜んでくれるかな?」大吾の前に座る翔が言う。
「きっと大丈夫だよ。翔と大吾のナイスアイディアもあったし。ちょっと準備は大変だったけどね」翔の隣に座る美織も満足げな表情だった。
「みんな本当にすごいよ。ありがとう。美奈子もきっと驚くぞ。なんたってサプライズだもんな」
 大吾の父、浩志は運転席でハンドルを握りながら、フロントミラー越しに後部座席に座る三人へ興奮冷めやらぬ様子で言った。美奈子には今日大吾、翔、美織の三人が病院にお見舞いに来るということしか伝えていなかった。
 翔たちは浩志の運転で美奈子が入院する霞ヶ浦総合病院に向かっていた。後部座席二列目に座る大吾の側には大きな黒いビニール袋が三袋あった。この中に翔達の想いが詰まった紙飛行機が所狭しと入っているが、袋が黒いため、外からは目視出来なくなっている。大吾は袋が座席から落ちないように手で袋を押さえながら座っていた。
 病院に到着すると、翔達は車から降りた。紙飛行機が入ったビニール袋は三人がそれぞれ一袋ずつ手分けして持つ。大吾は運転席に座ったままの浩志に言った。
「じゃあ父ちゃん、あっちの方はよろしくね。準備できたら連絡ちょうだい」
「あぁ任せといて。そっちもよろしくな」
 そう言うと浩志は車をまた走らせて、先ほど通った道と反対方向に進んでいった。
 翔たちは病院の正面玄関から入り、受付前のロビーに向かう。ロビーのベンチには和人と夏樹がすでに座って話をしながら待っていた。和人は翔達に気付き、こちらに手を振る。そして三人が持つビニール袋をまじまじと見つめた。
「改めて見ると結構な迫力だな。この紙飛行機たちは」
 和人が腕を組みながら感嘆する。
「お待たせしました。二人とも早いっすね」大吾が言う。
「おう。ちょっとワクワクしちゃって、早く来ちまった。なんたって翔の作戦だと俺たちもだいぶと責任重大だからな」和人が賑やかすように言う。
「すいません。でもこんな大事な役目は二人にしか頼めなくて」
 翔が少し申し訳ない気持ちで言った。
「逆だよ。こんなにも重大な役目を担わせてくれて、むしろお礼を言いたいくらいだ」
 夏樹が優しい笑顔で言った。
「本当にありがとうございます。うちの母ちゃんのために」そう言う大吾の肩に和人が手を回して言う。「俺たちの仲だろ。水臭いこと言うなよ、大吾。絶対成功させような」
 大吾は笑顔で「はい」と言い頷いた。
「翔、例の人はここに来るの?」美織が訊く。
「うん、もう時間なんだけど……あ!」
 翔が周囲に目をやると、視線の先で小走りにこちらに向かってくる白衣の男性の姿が映った。
「翔君、すまん、待ったかい?」
「全然ですよ。史也さん。むしろ忙しのにこんなこと引き受けてくれてありがとうございます」
「翔君の頼みならどんなことでも引き受けるさ」
 史也は翔の後方に目をやる。
「君たちが翔君のお友達と先輩たちだね。今日はよろしく。翔君の知人で医者の南野史也です」
 大吾達は史也とは今日が初対面だったためそれぞれ手短に挨拶をする。その後、一同は史也の先導で、ある場所に向かった。紙飛行機が入った袋は大きくて目立つためか院内の人々から多くの視線を集めた。
 翔たちを先導する史也は白衣をたなびかせながら振り向いて、翔にこう告げた。
「今日は良い風が吹いているね。今日のサプライズをするには絶好の日和じゃないかな。日頃の行いが良い証拠だね」
 翔は照れながら頷いた。
 翔は今回の美奈子へのサプライズ決行にあたり、その作戦の詳細を史也に事細かに説明していた。なぜなら翔の案は病院側の協力者がいないと実現不可能だったからだ。涼太から史也の連絡先を聞いて、翔は史也と直接連絡を取り合いながら、今日に至っていた。史也は翔の考えを聞くと大いに賛同してくれた。さらに作戦を実現させるにあたり、全力でサポートをすると言ってくれたのだ。
 だが、この作戦を成功させるには運も味方につけなければならなかった。雨の日には決行が不可能。さらに言うならば、程よい風が吹いている天候がベストだった。その条件でいうと、今日の天候はまさに翔の理想通りと言えた。
 翔は前を歩く史也の背中を眺めながら、史也との今日までのやり取りを反芻した。
 翔は史也とメールでのやり取りを始めてすぐに、以前翔の家に来訪した際に話してくれた、琴音と田中医師との確執、琴音を救えなかった後悔について改めて訊いたみた。すると史也の記憶は以前と変わらずそのままで、その後悔は史也の心に残り続けていた。それは涼太も同じだった。
 翔がそれらを確認したのには理由があった。それは過去の改編は未来にどのような影響を与えるのかを確かめるためであった。史也の記憶が変わらず残り続けているということは現時点で過去の改編があったにも関わらず未来は何も変わっていないこととなる。琴音の話では田中医師はすでに病院を辞めているはずだから間違いなく過去は変わっているはずなのだ。
 どうすれば未来が変わるのか明確な方法がわかっているわけじゃないが、今のままでは過去をいくら変えても今の翔たちが生きるこの未来の世界には何も影響を与えないとことになってしまう。
 希望が潰える可能性、自分がやろうとしていることが何にも意味を成さない可能性、翔はそれらの可能性から無理やり目を背けようとした。今は希望だけを感じて前に進みたい。ネガティブな考えは極力排除したかった。
 何にせよ、まずは確証が欲しかった。過去を変えることで未来は変わるのか。どんなことでもいい、その事実を確認したかった。そうすれば未来を変えることが出来る条件がわかるかもしれない──。
「どうした翔、難しい顔をして。なんか考えごとか?」
 大吾が心配そうに翔の顔を覗き込んできいた。
 翔はハッとして、我に帰り、首を横に振った。
「ううん。なんでもないよ。行こう」
 翔は自身の頬を軽く叩いた。今は余計なことは考えず、大吾の母に喜んでもらうことだけを考えるんだ、と気を引き締め直した。
 霞ヶ浦総合病院には主要な科が多くある本棟とは別に、リハビリ専門のリハビリテーション病棟がある。翔達がまず向かったのは、そのリハビリテーション病棟内にあるリハビリ施設だった。そこには様々な器具が多くあり、一人一人の患者に理学療法士がついて献身的にサポートをしていた。その患者の中に美奈子はいた。横に伸びたポールに捕まりながら歩行訓練をしている最中だった。
「おっと、大吾の母ちゃんにこの紙飛行機見つかったら、サプライズも何もないな。それ俺達に回してくれ」和人が翔たちに言う。
 翔、大吾、美織の三人は持っていた紙飛行機が入ったビニール袋を和人と夏樹に手渡した。
「じゃあ、僕たちは例の場所に行っているね。準備出来たらLINEで連絡するから」
「よろしくお願いします」三人は口を揃えて言った。
「それじゃあ、和人君、夏樹君、行こうか。翔君、また後で」
 史也はそう言うと、二人を連れてエレベーターに向かった。
「よし、じゃあ俺たちも行くか」
 大吾がそう言うと、美奈子のいるリハビリ施設内に三人は足を踏み入れた。
「母ちゃん!」
 大吾が声をかけ美奈子の傍に近づいた。美奈子は大吾を見て顔が綻んだ。
「あら、大吾。それにみんなも。わざわざこんなところにまで来ないで病室で良かったのに」
「母ちゃんがどれだけ頑張っているか見たくてさ。でも無理はしないでよ」
「ありがとね。けど早くまた歩けるようになりたいからさ、多少の無理は勘弁してよね。翔君も美織ちゃんもまた来てくれてありがとね。もう今日のリハビリメニューは終わったから、一緒に病室に戻りましょう」
「はい。でも無理に急がないでいいですからね。ゆっくりで」翔が言う。
「ありがとね」
 美奈子は担当の理学療法士と少し話をした後、病院の車椅子に乗ってから、四人で美奈子の病室に向かった。リハビリ施設は二階に位置しており、美奈子の病室は四階にあった。美奈子の車椅子は美織が後ろの取手を持って進めた。
「美織ちゃんありがとね。なんだか会う度に可愛くなっていくわね」
「えへへ。そうですか?」
 美織はまんざらでもないように言う。
 翔は心の中で、この小娘は絶対に謙遜しないな、とツッコミを入れた。
 美奈子の病室は四人部屋で、彼女のベッドは廊下側に位置している。同室には他に年配の女性患者が一人いた。実はこの人にも史也を通じて、これから行われるサプライズの内容を伝えていた。無論それは当日のシナリオに狂いを生まないための布石だ。その辺りも抜かりはない。
 数分の間、みんなで雑談をしていると、翔の携帯に夏樹からLINEで連絡が入った。そこには『準備万端、いつでも行けるよ。合図ちょうだいね』と書いていた。翔は『後でゴーサイン出しますね』と返信した。
 その数十秒後、大吾の携帯が鳴る。大吾はそれに目を通してから、翔に目線を合わせてこくんと頷いた。美織の口元に笑みが灯る。
「大吾ママ、実は私たちから大吾ママにプレゼントがあります」
「え、プレゼント? 本当に⁉︎ なんだか気使わせちゃってごめんね。でもすごく嬉しいわ。何かしら?」
 美織は自身のリュックからあるものを取り出した。それを見ると美奈子は目を剥いて驚く表情を見せた。それは三十機の紙飛行機をそれぞれ紐で綺麗につなぎ合わせたものだった。それぞれの紙飛行機の上部には美奈子にゆかりのある人たちからのメッセージが三十人分綴ってあり、その中には翔、大吾、美織のメッセージもあった。美奈子は潤んだ瞳で一つ一つのメッセージに目を通していく。
「みんながこの人たちのメッセージを集めてくれたの?」
 美奈子は肩を震わせながら訊く。
「うん、色んな人に手伝ってもらったけどね」大吾が少し気恥ずかしげに答える。
 美奈子はまた紙飛行機のメッセージに目を移す。
 メッセージの宛名には学生時代の友人、職場の同僚、ママ友達など、美奈子のゆかりの人々が勢揃いしていた。主に浩志が孤軍奮闘してくれた賜だった。前向きになれる数々のメッセージを目にして、美奈子は目頭を指で抑えていた。
「ありがとう。最高のプレゼントだよ。でも、どうして紙飛行機だったのかしら?」
 三人は目を合わせ、翔が口を開いた。
「飛行機って人だったり、物だったり何かを乗せて目的地まで届けますよね? その紙飛行機には大吾のお母さんを心から慕っている人々の想いが乗っかっています。その想いを紙飛行機に乗せて大吾のお母さんに届けたい、そんな願いを込めたくて紙飛行機にしました」
「翔が考えたんだぜ! すごいだろ?」
「翔にしては中々やるわよね」
 美織が揶揄うような笑みを浮かべた。
「そう。翔君、美織ちゃん、それから大吾も。本当にありがとう。私こんなに嬉しい気持ちになったの子供が生まれた時以来かもしれない」
「驚くのはまだ早いぜ?」
「え?」大吾の言葉に美奈子は若干当惑する。
「母ちゃん、窓の外を見てごらん」
 大吾は美奈子を車椅子に乗せて、窓側まで連れていった。美奈子はそこから外を覗き見る。その瞬間、美奈子は目を瞬いて口を手で覆った。あまりの光景に言葉を失ったようだった。
 大吾は窓を開ける。すると心地良い風と共にたくさんの声援が病室に入ってきた。
「あ、美奈子さんだ! おーい! 早く良くなってまたみんなで集まろうね〜!」
「美奈ちゃん! ずっと待っているからねー! 病気になんて負けるなよー!」
「中住さん! あんたがいないと職場はずっと静かなんよ! はよ元気になって戻っといで〜」
 眼下には広い芝生の敷地があり、そこに二十人を超えるの人たちが集まって美奈子に声援を送っていた。
 さらに人々の後方には『共に生きよう! 病気になんて負けるな!』と書かれた大きな横断幕が風にたなびいている。
 彼らは先ほどの紙飛行機に美奈子に向けたメッセージを書いてくれた人たちだった。当初はメッセージのみ書いてもらう予定だったが、このサプライズの話を聞いた彼らは、ぜひ自分たちも現地で美奈子を驚かせたい、喜ばせたいと言ってくれて、こんなにも大勢の人々が集まってくれた。横断幕は美奈子の職場の人々が書いてくれた。群衆の中には浩志と小春と小夏の姿もあった。彼らをここまで案内することが浩志の今日の一番大きなミッションだった。
 翔はこのタイミングでLINEで夏樹にメッセージを送った。『今です!』と。
 次の瞬間、上空からあるものが大量に風に乗って降ってきた。美奈子は突然の出来事に「えぇ⁉︎」と驚嘆の声を上げた。翔も実際の光景を目の当たりにして息を呑んだ。
 上空から降ってきたものは翔たちが大量に折った紙飛行機だった。目まぐるしい量の紙飛行機が風に乗って地面に向かい滑空してくる。眼下の群衆も異様な光景にテンションが上がっているのか物凄い盛り上がりを見せていた。小春と小夏は風に靡く紙飛行機をきゃっきゃきゃっきゃと追いかけていた。
 美奈子は呆気に取られたまま動けずにいた。色んなことが立て続きに起きて頭がパニックに陥っているのかもしれない。翔の携帯に夏樹からLINEが届いた。
『上手くいったかな?』翔はすぐに返事をした。
『完璧です! ありがとうございました』
 上空から降り注ぐ紙飛行機を演出してくれたのは和人と夏樹だった。このリハビリテーション病棟の屋上は関係者以外立ち入り禁止なのだが、史也がいてくれたおかげで屋上に登ることができた。史也には屋上のどの位置から紙飛行機を落とせば美奈子のいる病室から降り注ぐ紙飛行機を一番綺麗に眺めることができるのかを事前に確認してもらっていた。もちろんその日の天候や風の具合も左右する事案であるため、一筋縄ではいかないものであったが、さすが史也といったところ。上手くやってくれたようだった。
「母ちゃん、驚いた? これがみんなの想いだよ。早く病気治してまたバカやらかす俺を叱ってくれよ。俺母ちゃんがいないとダメなんだから」
 美奈子はゆっくりと腰を上げて、大吾を抱擁した。
「ありがとう。私は最高の息子を持ったよ。絶対に病気完治させるから。もう少し待っててね」美奈子は翔と美織を見た。
「二人にはなんと言って良いかわからないくらい、感謝でいっぱいだよ。本当にありがとうね。大吾は本当に良い友達を持ったね。翔君、美織ちゃん、これからも大吾をよろしくね」
「こちらこそです。ね? 翔」
 美織の問いかけに翔は口元を綻ばせて頷いた。
 その後、翔は「あ」と声を漏らして、同室の患者のもとに駆け寄り、「お騒がせしました」と頭を下げた。するとその患者さんは優しい笑みを浮かべながら口を開いた。
「いやいや、この年になって素晴らしいものを見せてもらったよ。中住さん。あんた幸せもんだな」
「ほんとに。そう思います」美奈子は涙を拭いながら言った。
「よし、じゃあ母ちゃん。みんながいる下の広場に行くよ」
「え? 今から⁉」
「今行かないでいつ行くんだよ。ほら!」
「え、ちょっと──」大吾は美奈子を車イスに乗せて病室を出た。その後を翔と美織もついていく。
 広場に出ると、美奈子のもとに大勢の人だかりが出来た。美奈子にゆかりある人々はみんな、彼女へ暖かい言葉をかけていた。その光景を翔、大吾、美織の三人は後ろから眺めていた。頑張って良かったと翔は感慨深い気持ちだった。
「おおい、そこの三人! 感傷に浸っている場合か! お前らも風で流された紙飛行機を拾うのを手伝ってくれよ!」
 広場の奥で和人がこちらに向かって叫んでいる。浩志や夏樹、史也もせっせと片づけを始めていた。
「いっけね。ごめん和人君! 今行きます!」大吾が広場に走り出す。「あ、大吾、待ってよ」それに翔と美織も付いて行った。
 病院の屋上から降り注いだ紙飛行機は至るところに散らばっており、数も多く回収するのは想像以上に大変だったが、美奈子の友人、知人たちも手伝ってくれて、時間はさほどかからなかった。集めた紙飛行機は後日翔たちが千羽鶴と同じようにすだれ状につなぎ合わせ、家で飾れるよう整えてから美奈子に渡す予定だ。
「そうだ翔!」美織が翔に声をかけた。
「どうしたの?」
「写真撮ろうよ! 翔ママに送る写真!」
「あ」一番肝心な目的を忘れていたと翔は思った。
「カメラは大吾パパに頼もうか」
「俺父ちゃんに頼んでくるわ!」大吾は浩志のもとに走った。
「どういう感じに撮る? どうせならとびっきりの写真を撮りたいじゃない」
「うーん」翔が考えている時にすぐ後ろから声がした。
「何々、記念写真? 撮ろう撮ろう!」和人が明瞭な声色で翔の肩に手を回した。
「確かに思い出にみんなで撮っておきたいね。僕たちも写って良いかな?」夏樹が訊いた。
「もちろんですよ! 二人は今日のサプライズの立役者なんですから」
「立役者は翔、お前だっつうの。こんなすごいことを普通思いつかないからな」
 和人は翔の髪をくしゃくしゃと揺すった。
「お? 写真? いいねぇ! みんな集まれ!」
 美奈子の友人達も駆けつけてあっという間に翔の周りに人だかりが出来た。今日のサプライズで携わってくれた人たち全員で記念写真を撮る流れになった。美奈子を中心に人がどんどん集まっていく。
「この横断幕をバックに写真撮りたいよな? どうしようか」
 浩志がそう呟いた。横断幕を背景に写真を撮るには、この横断幕が人々に隠れてしまわないように高い位置で固定する必要があるが、外では難易度は高かった。みんながうーんと唸っていると史也が何か閃いたように顔を上げて「ちょっと待っててください!」と言って、病院の中に消えた。
 数分後、史也は他の男性医師二名と大きな脚立二脚を持って現れた。一人の男性医師は史也の同期だろうか、若めの真面目そうな男性で、高橋と名乗った。もう一人の男性医師は四十代くらいの渋さを纏わせつつ、茶髪のパーマヘアーで髪を遊ばせ、顎髭も携えたワイルドで格好良い見た目の医師で、平木と名乗った。平木という名前はどこかで聞いた名前だと翔は思ったが、すぐには思い出せなかったため、一旦は気にしないことにした。
 史也と平木は横断幕の両端を持って少し距離を離した脚立に登った。すると脚立の上空で横断幕が見事に広がった。そこに人たちは「おぉ!」と感嘆の声をあげる。
「さぁみんなさん、この横断幕の下に入ってください!」
 史也の声を受けて、車椅子に乗った美奈子を中心にゾロゾロとみんなが横断幕の下に集まってくる。
 写真は高橋医師が浩志愛用の一眼レフを借りてシャッターを押す構えを取る。
「はい、ポーズ」という合図と共に、一眼レフは眩い光彩を放った。
 写真を撮り終わり、一同は拍手と共に盛り上がった。一眼レフを高橋から受け取った浩志に翔の隣にいた大吾が近づいて言う。
「父ちゃん、ちょっと俺たち五人でも写真撮ってくれない?」
「そうだな、今日のサプライズの立役者達も写真撮っておくか」
 翔を中心に大吾、美織、和人、夏樹が集まった。
 その時、翔が後方をちらっと見ると、史也が何やら平木医師と話をしていた。なぜか史也が驚く仕草をしており、方や平木医師は脚立を一脚抱えており、顔はなにやらニヤついているように見えて、何の話をしているのかと少しばかり気になった。
 浩志がシャッターを押す瞬間、翔の後ろで何やら物音がした。その瞬間「わぁ!」と大きな歓声が湧くのが聞こえた。何事かと思い、後ろを振り向くと、先ほどビニール袋に戻したばかりの紙飛行機がまた芝生の上に散らばっていた。
 翔は、なんで⁉︎ という思いと共にがっくしと肩を落とした。また拾わなきゃいけないのかと落胆してしまう。
 翔がチラッと上方を見上げると平木医師は脚立の一番上の踏み台に腰を下ろしており、空のビニール袋を持っていた。
「平木先生! 本当にそれで上手くいったんですか⁉︎」
 史也はたじろぎながら言う。
「大丈夫だって。写真見てみ」
 平木医師が得意げな顔で浩志が持つカメラを指差した。
 二人のやりとりを聞いて翔達は浩志の撮った写真を見た。それを見た瞬間、翔は目を輝かせた。それは五人の最高の笑顔の後ろで、まるで桜が舞い散るかの如く紙飛行機がひらひらと降り注いでおり、とても幻想的な写真となっていた。
「な? 言っただろ? 最高の演出だったでしょ?」
 平木医師はピースサインをしながら翔たちに言う。
「素敵! こんな写真狙って撮れるものじゃないよ」
 美織はぱっと表情を明るくして言った。
 大吾も和人も夏樹も興奮した様子で写真を眺めていた。
 平木医師はおそらく脚立の上からビニール袋に入れた紙飛行機を落とすことで、この写真に写る幻想的な演出を実現させたのだろう。翔はまた紙飛行機を拾わなきゃいけない億劫さはありつつも、この素晴らしい演出をしてくれたことに対する平木医師への感謝の方が大きかった。
 翔はこの写真を早く琴音に見せたいと心底思った。
 その時、翔は強い視線を感じ、その感じる方向に顔を向けた。平木医師が先ほどとは打って変わって真剣な面持ちで翔の顔をまじまじと眺めていた。
 翔は平木医師に「色々と手伝っていただいてありがとうございました」と頭を下げた。
 平木医師は少し照れて頭を掻いた。そして翔の元に近づくと地面に片膝を落とし、翔の肩に手を置いた。
「君が折原翔君……だね。本当に大きくなったな」
 平木は優しい笑みを浮かべた。
 翔は少し首を傾げながら「ありがとうございます」と言った。翔は胸の中の引っかかりが拭えなかった。
 この先生は自分のことを知っている──。
 だが、先生の名前をどこで聞いたのかどうしても思い出すことが出来なかった。平木医師は立ち上がり、翔の頭に手を置いて「元気でな」と口元に笑みを残したまま、踵を返して病棟の正面玄関に歩いていった。
 翔は彼の背中を茫然と眺めた。彼の言葉は翔の頭の中でしばらくの間、反響し続けていた。
 
 翌日、翔は学校終わりに大吾と美織を家に呼んだ。これからすることを見届けてもらうためだ。翔の手元には、彼が琴音への想いを綴った白い折り紙の紙飛行機が一機、さらに昨日の浩志の一眼レフで撮った集合写真と五人の写真、そして過去から送られてきた紫苑の花の栞があった。写真は昨日の時点ですぐに大吾からデータをもらって現像したおいたのだ。
「さぁやるよ」翔が言う。
「行ってくれよ」大吾が懇願する。
「お願い」美織が祈りのポーズをとる。
 翔は『時を越えるノート』のページの間に紙飛行機と写真二枚を挟んで思い切りノートを閉じた。
 届け、届け──。
 翔は心で強く念じた。
 数秒ほどの静寂。その数秒は異常なほど永遠に感じた。
 ダメなのかと思った次の瞬間、ノートは翔が待ち望んでいた眩い光を放った。その光はいつにも増して眩しく感じられた。光が収まった数秒後、翔が恐る恐るノートを開くと先ほど挟んだはずの紙飛行機と写真と栞は跡形もなく無くなっていた。
 翔は後方にいた大吾と美織の方を振り向く。
「やったよ、二人とも」翔は肩を震わせながら言った。三人は恥ずかしげもなく抱擁し喜びを爆発させた。
 三人で盛り上がる最中、翔は部屋に飾るカレンダーを一瞥した。今日は八月二十九日。明後日が翔の誕生日だった。




 折原 琴音

 二〇一三年八月下旬

 
『お母さんに贈り物です。今の僕の想いを紙飛行機に乗せて届けるね。受け取ってくれると嬉しいな』
 琴音は病室のベッドの上で翔からのメッセージを見た。そしてこの『時を越えるノート』に何かが挟まっていることに気付く。ゆっくりとノートの次のページを開くと確かにそれらはあった。白色の紙飛行機と二枚の写真。それと最近まで無くしていたと思っていた、かつて涼太からプレゼントしてもらった紫苑の花の栞。
 栞を見て琴音はつい顔が綻んだ。涼太からもらったこの栞が時を越えて未来の翔の手に渡っていたのかと思うと、胸が熱くなる想いだった。
 綺麗に折られた紙飛行機の上部には翔の字で『一緒に生きよう。未来で待っている』というメッセージが綴られていた。
 未来──。
 がんになる前は、それは当然のごとく当たり前にやってくる出来事のように感じていた。けれども、がんになってからそれが決して当たり前ではない、何よりも尊いものだとわかった。その有り難みを一心で感じ、未来の翔が抱いてくれた自分と一緒に生きたいと願う心の叫びを聞いてから、家族三人が生きる未来を絶対に手に入れたいと思った。その未来は遠く細く険しい道かもしれないけど、確実にその道の先には翔が待っている。一歩一歩、ゆっくりでも着実に、その道を歩んで行くんだ──。
 琴音は手のひらを胸に添えて、決意を胸に刻んだ。
 翔の紙飛行機に乗せた想いは確実に琴音の心に届いていた。
 次に琴音は写真に目を向けた。三十人近くが集合して写っている写真。人々の背後には『共に生きよう! 病気になんて負けるな!』と書かれている。横断幕を手で支えている人はその前方にいる人たちに隠れて見えなかった。
 翔からは親友の母がくも膜下出血の病気で入院しているって話は聞いていた。そして友達たちととあるサプライズを考えていることも。写真に写る大勢の人たちはみんな良い笑顔だったため、今回のサプライズは無事成功したのだと思った。琴音は写真の真ん中に写っている車椅子に乗った女性に目を向けた。翔の親友のお母さんなのだから、もし自分が未来で生きられたらママ友になる人なのかもしれない。そう思うと他人事とは一切思えなかった。自分とは違う病気だとはいえ、同じく病気と闘う戦友として、彼女の無事を琴音は切に願った。
 次に琴音はもう一つの五人の子供達が写っている写真に目を移した。写っている子供達はみんなとても良い笑顔で、見ているこちらが幸せな気分にさせてもらえる気がした。
 翔たちの後ろでは紙飛行機がひらひらと舞っていて、とても神秘的だった。どんな写真コンクールでも受賞してしまうんじゃないかと思わせる圧倒的な魅力を放っていた。
 すると琴音は何かに引き寄せられるように中央に写る子供に目がいった。その瞬間、琴音の頬を一筋の涙が滴った。突然の出来事に琴音は当惑する。
 誰に教えられたわけではない。それでも彼女の直感が揺らぎ、騒いだ。心臓が激しく波打つのを感じた。琴音は真ん中に写る男の子が紛れもなく自分と涼太の息子で今お腹の中にいる翔だと確信した。
 翔……あなたはこんなにも立派に成長してくれるんだね──。
 琴音は口元に笑みを浮かべながらも両目から止めどなく流れる涙を抑えられなかった。流れてくる涙を琴音は必死に指先で拭った。
 どこが似ているとか面影があるとかそういう類のものではない。もはや細胞レベルでの警鐘だった。まだ見ぬ十歳の自分の息子を目にして琴音は未来で立派に育ってくれていることへの安堵と喜び、そしてこんなにも立派な男の子に育ててくれた涼太への感謝が胸いっぱいに溢れていた。この子を早く抱きしめたい。未来への切望は深まるばかりだった。
 ついにここまで辿り着いたと琴音は思った。長かったような、短かったような。翔と共に生きると決めてから辛い抗がん剤治療をなんとか続けて、翔からのメッセージ、涼太の献身的な支え、平木医師をはじめ、奈央や史也も自分の命を繋ぎ止めるために必死に治療に当たってくれた。そのおかげもあって子宮頸がんの進行は抑えられて、CT上では他の臓器への転移は見られていない。ようやく翔との未来が現実味を帯びてきたように思えた。 
 琴音は自然と笑みが溢れた。
「琴音ちゃん、なんだか良い笑顔しているね。なんか良いことでもあったのかい」
 琴音は顔を上げた。そこには診察から戻ってきた、さゆりと里奈の姿があった。
「えぇ、とっても」琴音は笑顔でそう答えた。
「そうかい。それは何よりだね」
「琴音さん、私のウィッグ付け心地どうですか?」里奈が訊く。
「とても良いよ。里奈ちゃんありがとうね」
「いいえ。とても似合っていて、可愛いですよ」里奈が黄色い声で言う。
「私にはちょっと若々しすぎやしないかい?」
「そんなことないですよ。さゆりさんも抜群に似合っています」
「本当にお似合いですよ」琴音も言う。
 三人は抗がん剤治療の副作用で頭髪は抜け落ちてしまっていた。わかっていたこととはいえ、女性にとって髪はとても大事で抜けた髪をこの目で見ることはそれなりにショックは大きかった。そこで里奈が自分を含めた三人それぞれに似合うであろうウィッグをネットショッピングで買ってくれていたのだ。琴音はショコラカラーのショートボブ。さゆりにはダークブラウンの肩まで伸びて、毛先がカールしているナチュラルミディ。そして里奈は胸あたりまで伸びるロングカールのウィッグをそれぞれ身につけていた。
 そのおかげか、髪が抜け落ちてから若干重たく感じられた病室の空気がぱぁっと明るく華やいだ気がした。奈央を含め病院の関係者はみんな驚いた後にとても似合うと褒めてくれた。
「それにしても、また二人が来てくれて私は嬉しかったよ。本当は入院しに来ることを喜んじゃいけないんだろうけどね」さゆりは頬をかきながら言った。
 琴音と里奈は七月に一度退院していた。最初のがん治療のサイクルを終えたため、外来通院に切り替えたのだ。
 里奈は七月上旬に片方の卵巣を摘出手術は無事成功しており、一度退院し、外来通院に切り替えていたが、術後に若干残った腫瘍を取り除き、今後の再発を予防するために改めて抗がん剤治療のため八月上旬から入院していた。もちろんまだ転移の可能性は残っていながらも、治療経過は順調そのものだった。
 琴音も一回目の治療サイクルを終えたため、外来通院に切り替えていた。八月からは病気の状況によって、出産時期も変動する可能性があり即座に対応する必要があるため、出産までの間、入院を継続することとした。もっともこれは治療前に平木医師と話し合っていたことでもあったため特に不測の事態ではない。がん転移の状況の詳細は出産後に詳しい病理検査を行わないとわからないものの、今のところ琴音の病状も安定していると言えた。
 さゆりは子宮体がんの手術を七月に行い、無事成功をしたのだが、肺と骨への転移も発覚してしまい、治療状況はかなり厳しいものとなっていた。それでも彼女はめげずに病気と向き合い入院を続けながら治療を諦めなかった。琴音と里奈にも心配をかけないためか、いつも通り元気に振る舞い、自分が一番辛い状況にあるにも関わらず、二人を勇気づけてくれた。
 後に聞いた話だが、琴音と里奈がまたさゆりと同室になったは奈央による配慮だった。一人で入院中あまり元気がなかったさゆりを慮った奈央が、次回琴音と里奈が入院する時にはまた同室となるように裏で動いてくれていたのだという。親友の気の利いた気配りに琴音は密かに感嘆していた。
 琴音はチラッと病室のカレンダーを見た。今日は二〇一三年八月三十日だ。
「いよいよ来週だね。どんな心境だい?」
「期待と喜びと、あと少しの不安があります。この子に母親がいない人生を歩ませたくない。その思いは日に日に強くなっています」
 すると里奈が近づいてきて琴音の手を強く握りしめてくれた。
「病気はみんなで戦うもの。琴音さんは私にそう言ってくれました。私も琴音さんと一緒にがんと戦います。次は私が琴音さんを守りたいんです。琴音さんなら絶対病気に勝てます。絶対に赤ちゃんに会いましょう」
 里奈の力強い眼差しと言葉に琴音は圧倒された。そして何よりも嬉しかったし、心強かった。
「ありがとう、里奈ちゃん。私絶対に負けないから」
「私も琴音ちゃんの赤ちゃん抱くまではなんとしてでも死なないよ」
「抱っこしてからもずっと生きてくれないと困りますよ」
 琴音は眉尻を下げながら優しく言った。
 琴音は元々明日が妊娠して二十八週目であり、帝王切開の当初予定日だった。だが病気の状態を鑑み、平木医師からはもう一週伸ばそうという提案を受けたのだ。琴音は少し考えたが、平木医師の考えに同調した。少しでも長くお腹にいられた方がお腹の子が将来的に障害を負う可能性を狭められる。
「そういえば名前はもう決めたんですか?」里奈が訊いた。
「うん。この子の名前は翔。折原翔だよ」
「翔……君。良い名前ですね」
「ふふ。そうでしょ? 由来はね、力強く高く自由に羽ばたけるような子に、そして……困っている人がいたらすぐに駆け付けるような優しいヒーローになってほしい。そう言う意味を込めてるの」
「優しいヒーローか。琴音ちゃんの子だ。翔君はきっと良い男になるぞ。大きくなったうちの定食屋に連れてきてちょうだいね」
「えぇ。必ず」
 琴音はお腹を優しくさすった。
 翔──。みんなが翔を待ち望んでいるよ。待っててね。すぐに迎えにいくからね──。
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