第10話

文字数 23,849文字

折原 琴音

 二〇一二年十一月


「やっぱり教えない方が良かったのかな」
 琴音は部屋の椅子にもたれながら、見慣れた無地の天井をぼんやりと眺めながら呟いた。翔には交換ノートで涼太と出会ってから交際するまでのエピソードを伝えた。涼太と交際するまでの話を伝えるにあたり、友也の話はどうしても切っては切り離せない。まだ十歳の息子に話すには重荷となる話だったのかもしれない。
 けれども、これで良かった気もする。翔にはもっと自分達のこと、自分達の友人のことを知ってほしいと思ったのは嘘ではないから。
 琴音は先週涼太と共に婚姻届を提出した。これで晴れて涼太とは名実共に夫婦となった。苗字も折原に変わり、氏名を書く度に嬉しさで頬が緩む。辛い過去もあったけど、自分は幸せ者だと、彼女はひしひしと感じていた。
 そんな思いに耽っていると、ノートがまた光出した。
 琴音はノートの続きのページを捲る。
『お母さん、お話を聞かせてくれてありがとう。正直すごく驚いてる。お母さんとお父さんの気持ちを思うとすごく胸が痛むんだ。友也さんが亡くなって、二人ともすごく辛い思いをしてたんだって。でも聞けて嬉しかった。僕も来月友也さんの命日の日にお墓参り行こうと思う。そしてお礼を言いたいんだ。今のお父さん、お母さんがあるのは友也さんのおかげだと思うから』
 琴音は目頭が熱くなった。取り越し苦労だったのかもしれない。翔は立派に成長してる。自分の息子をとても誇らしく思えた。 
 その後、琴音は涼太にプロポーズされるまでの日々を翔に伝えた。

 涼太と五年近く付き合ったあと、二人はディズニーランドに行った。ここに来るのは大学の時、友也と奈央を含めた四人で行った時以来だった。この場所で見る景色一つ一つが琴音にあの日の光景を明瞭に脳裏に映し出してしまう。それは涼太もきっと同じなんだろうと思った。それでもやっぱり大好きな涼太と過ごすのは本当に幸せで場所がどこであれ、本当に楽しかった。
 夜のエレクトリカルパレードを沿道で見てる時、涼太が琴音に声をかけた。
「なんかこの場所って特別な場所だなって思うんだ」
「……どうして?」
「だって、俺が琴音を初めて見つけて一目惚れしたのもディズニーランドだし、これはまだ琴音に言ってなかったけど、琴音に告白しようと思ったのもここなんだ」
「そ、そうなんだ」
 琴音は自分が涼太と友也の話を盗み聞きしていたことを思い出して、少し慌てた。
「ここは俺の想いの分岐点なんだと思う。今ままでも、そしてこれからも」
 涼太は徐にポケットにからあるものを取り出して琴音に見せた。指輪だった。
「一生幸せにします。俺と結婚してください」
 琴音の心臓は波打ち、跳ねた。喜びと驚きが同時に襲いかかってくる。
 当然答えは決まっていた。琴音は優しく微笑む。
「涼ちゃんは私がいないとダメダメ君だもんね。私が涼ちゃんを一生支えるよ。こちらこそよろしくお願いします」
 琴音は人目も憚らず、涼太と熱く抱擁を交わした。
 夜の夢の国に燦然と輝くパレードの光、魅惑的なメロディ、それらが全て二人を祝福するかの如く、二人を包み込んでいた。

 ノートに全てを書き終えて、琴音はほっと一息入れた時、部屋のドアがコンコンと鳴った。琴音は慌ててノートを机の中に仕舞い込んで、ドアの方を向いた。
「琴音、ちょっと買い物行くけど一緒に来てくれない? ズボン破けちゃってさ、一緒に服見て欲しいんだ……ほら、俺私服のセンスあんまりないだろ?」
 涼太の困った顔を見て琴音は朗らかに微笑んだ。
「しょうがない、付き合ってあげよう」
「ありがとう、じゃあ行こう……あれ?」
「どうしたの?」
「なんか楽しそうだなって思って、なんか良いことあった?」
「え、そう? でも……内緒ッ」
「えぇ良いじゃんか。少しくらい教えてよ」
「ちょっと涼ちゃんと出会った頃思い出してただけだよ」
「あ、それでまた惚れ直したとか?」
「さあねぇ」

 翔……私、涼ちゃんと結婚できて良かったよ。
 だってそのおかげで将来、翔に出会えるんだから。
 未来であなたが待っているんだから。早く会いたいな、翔。




 折原 翔

 二〇二三年十一月


「翔、ちょっと良いか?」
「あ、はい?」
 翔はホームルーム終わりに担任の永森先生から声をかけられた。永森先生は翔が所属していたサッカーチーム、土浦ユナイテッドFCの監督を務めている。その件での相談かと思って、少し居心地が悪くなる思いがした。
「明後日の授業参観なんだけど、お父さん来れそうかい?」
「え、授業参観⁉︎」
「あぁ、先週渡した学級だよりに書いていただろ? 先週から朝の回とかでも言っていたじゃないか」
 翔ははっとした。完全に忘れていたのだ。
「先生ごめんなさい! お父さんに伝え忘れてました。今日の夜必ず言います」
「そうか……じゃあよろしくな。翔は知らないと思うが、先生、実は翔のお父さんと知り合いでさ。うちの小学校って家庭訪問がないだろ? だから中々会う機会なかったんだけど、久々に会いたいなと思ってな」
「そ、そうなんですか。帰ったらすぐお父さんに聞いてみます」
 涼太と永森先生が知り合いだと翔は全く知らなかったため、内心とても驚いた。
 涼太が仕事から帰宅すると、翔は早速授業参観のことを伝えた。
「明後日か……。急だけど、授業参観は六時間目の最後の授業だもんな? その日なら午後仕事を休めそうだ。わかった、行くよ」
「ほんと? よかったぁ」
 涼太が翔の授業参観に出席するのは実に二年ぶりだった。ここ数年は忙しい部署に配属されていたこともあって、中々休みを取れなかったからだ。気恥ずかしい気持ちも大きいけれど、やっぱり父に自分の普段の姿を見てほしいという気持ちはあった。
「お父さんが来てるからって、ビビるなよ翔。わからない問題でもガンガン手をあげろよ」
「今時そんな積極的な小学生あんまいないよ」
「え、そうなの?」
「そうだよ。お父さんの時代とは違うんだから」
「そういうもんか。奥手で恥ずかしがりなのは日本人の悪しき風習だな」
「しょうがないよ、僕たち根っからの日本人なんだから」
 涼太はやれやれといった仕草を見せていたが、翔は言葉を続ける。
「ところでさ、お父さん。担任の永森先生と知り合いなの?」
「え、永森先生? 誰だろ。下の名前は?」
「んーんと、あれ? なんだったけ? いつも永森先生って呼んでるだけだから下の名前忘れちゃった」
「おいおい、先生の下の名前くらい覚えてあげなきゃ可哀そうだろ?」
「ちょっと待ってて」
 翔は部屋にあるクラスの緊急連絡網に先生のフルネームがあると思い、確認しに向かった。名前を確認して翔は少しドキッとした。
 あれ、この名前……どこかで聞いたことがあるような……。
 翔は居間にいる涼太の元へ戻った。
「お父さん、先生の名前ね『雄星』だったよ」
 翔が言ったその瞬間、涼太は意表を突かれたように目を丸くして、急に声を上げた。
「ゆ、雄星⁉︎」
「知ってるの?」
「知ってるも何も、雄星君はお父さんの尊敬する先輩だ。小学校の先生になったのは知ってたけど、最近会っていなかったから。そうか翔の担任だったのか。すごい偶然だ。そうかそうか」
 涼太は頷きながら感慨深い表情をしていた。
 そして翔もこの瞬間、永森先生が琴音との交換ノートで知った涼太の高校、大学時代のサッカー部の先輩である『永森雄星』であることがわかった。むしろなぜ今まで気づかなかったのか自分の鈍感さに溜息がもれる。
 翔はこの時、涼太に対して色々と話を聞きたい気持ちに駆られた。琴音から聞いた二人の馴れ初め。衝撃的な話がたくさんあり過ぎて整理して呑み込むのに数日を要したほどだった。友也と出会った時のこと、友也と喧嘩した時の想い、どうしたらかつての親友と仲直りが出来るのか、涼太の口からも色々と話を聞きたかった。
 だが、聞けない。友也との話は今この世界にはいない琴音から聞いたこと。自分が知っているはさすがにおかしい。それに涼太にそのことを訊くのは辛かった昔のことを思い出させてしまう。翔は開きかけた口を噤み、トボトボと自分の部屋に戻った。
 部屋に戻った翔は机に閉まっている『時を越えるノート』を取り出した。
 琴音からの質問を、翔は丸一日、返事が出来ていなかった。それは翔にとって交換ノートを始めてから初のことだった。琴音からの質問はこういったものだった。
『翔は小学校楽しい? お友達とは仲良く過ごせている? サッカーが好きなら小学校のサッカーチームとかには入っているのかな?』
 なんてことはない些細な質問。
 だが、翔にとってはそう簡単には答えられないものだった。琴音はきっと息子の楽しい学校生活は期待しているのではないか。だとしたら今のもどかしい状況を説明すると琴音を悲しませてしまうかもしれない。そう思うとどうしてもペンが進まなかった
 結局何も琴音に返事を書くことが出来ず、参観日当日を迎えた。参観日の授業はこの日最後の六時間目の授業で他の生徒の親たちも仕事を休みやすかったのか、いつもの参観日より参列する親の人数が多い気がした。無邪気に我が子へ手を振る親たち。
 よく見るとほとんどの参列者は母親で父親は二、三人いる程度だった。わかってはいたことだが、翔にとってこの光景は堪えるものだった。自分に母親がいないことを如実に突きつけられるこの瞬間は、たまらなく居たたまれない気持ちになる。
 涼太は少し遅れてやってきた。教室のドア側の隅の方で肩をすぼませながら涼太は翔を見るや否や軽く手を振ってくれた。翔も気恥ずかしい気もしつつ、無下にするのも憚られたため軽く手を振り返した。
 少しして永森先生が入室してきた。今日の授業は社会だった。永森先生の授業は面白くて生徒は勿論親御さん方にも非常に人気が高い。大きな声と大きな動作ですべてがダイナミック。話す内容もそうだし、その一挙手一投足が面白かった。今日の永森先生は戦国武将のモノマネをしたりなど、親達からも多くの笑いをかっさらい絶好調なように見えた。
 授業終了後、帰りのホームルームまで終えると、生徒の親達が続々と教室を出て行く。翔は後ろを振り向くと、すでに涼太の姿はなかった。
 薄情だなぁと思い、教室を出た矢先、廊下の奥の方で涼太と思われる後ろ姿が見えた。妙に気になって後をつけると、永森先生と話をしているところだった。翔は会話が聞こえるくらいのところまで近づくと柱の陰に隠れて聞き耳を立てた。
「久しぶりだな、涼太。まさかこういう形で再会できるとは思っていなかったよ」
「俺もです。雄星君も昔と変わらずで安心しました。授業めちゃめちゃ面白かったですよ」
「お前が来るっていうからいつも以上に気合入れたぞ。まさか涼太の息子が翔だとは……何の因果かな」
「そうですね、こんなことあるんですね。あと……すいません。全然連絡出来なくて」
「仕方ないさ。お前も大変だっただろ。琴音ちゃんを亡くしてから男手一つで翔を育ててきたんだ。簡単なことじゃない」
「ありがとうございます。そう言ってもらえると嬉しいです」
「なぁ、涼太。翔のことなんだが、うちのサッカーチームに戻るつもりはないのかな?」
 翔はドキッとして声が出そうになったのを手で口を覆い、必死で抑えた。
「戻りたいとは思っていると思います。翔はサッカーが大好きなので。でも、仲の良買った友達と喧嘩してしまったようで。その子との関係が今のままだと難しいと思います」
「大吾のことだろうな。あいつらは当時いつも一緒にいたから。俺は去年の春にこの学校に転任してきたから、まだそれから一年半くらいしか経っていない。でもうちの小学校のサッカークラブの監督になって、翔のプレーを初めて見た時、鳥肌が立った。かつて俺が涼太のプレーを初めて見た時と同じ感覚だった。まさか二人が親子だったなんてな。でもその後、翔はすぐにクラブをやめてしまった。翔は将来有望な選手になる。それこそお前を超える逸材になるかもしれない。どうしようもないのはわかっているけど、でも……俺は翔のプレーがもう一度見たいんだ」
「雄星君の気持ちもすごくわかります。でもこの問題に大人が立ち入ってはいけないと思うんです。きっと大丈夫です。俺も昔、友也と大きい喧嘩をしてしばらく口も聞かなかった。でも仲直り出来たんです。翔と大吾君が深い絆で結ばれているなら、またいつか二人は元の間柄に戻れるはずです」
「そうだな。すまん。今のは聞かなかったことにしてくれ。今度一緒に飲みにでも行こう。貴弘もお前に会いたがっている」
「えぇ。必ず。貴弘君とは俺も会いたいです」
「じゃあ、また連絡する。またな」
 翔は柱の陰で膝を抱えながら、床を一点見つめて考え込んでいた。
 永森先生が自分にそんなにも期待をかけてくれていたこと。涼太が自分と大吾をかつての父と友也に重ね合わせて案じてくれていたこと。どちらも全く知らなかった。
 このままじゃいけないと思った。自分が一体今後どうしたいのか、何をすべきなのか、逃げちゃいけない、考えなきゃいけない。
 そんなことを思案していると翔は後ろから声をかけられた。
「翔? そんなところで何してるんだ?」
「お、お父さん⁉︎」
 翔は飛び上がって驚いた。
 考え事をしていて涼太が来ていたことに全く気が付かなかった。
「お、お父さんを探してたんだよ。一緒に帰ろうかなって思って」
「あ、ごめんごめん。ちょっと永森先生と思い出話をしてたんだ。翔がもう学校に用がないなら一緒に帰るか」
「うん。ちょっと待って用意してくるから」
 翔は教室で帰る支度をしてから涼太と一緒に校門を出た。
 道中、父と与太話を繰り広げていた時、前方に見知った二人組が歩いていた。その片方が翔と涼太の存在に気付き、声をかけてきた。
「あ! おーい翔! と……翔パパ!」
 美織だった。美織は笑みを浮かべながら駆け足でこっちに近づいてきた。
「美織ちゃん久しぶりだね。しばらく見ない内に大きくなったな。どんどん可愛らしくなっていくじゃないか」
「翔パパもお久しぶりです。あと翔パパ。女の子に大きくなったは誉め言葉じゃないですよ。でも可愛いは素直に受け取ります」
「ははは、ごめんごめん」涼太は耳の上を掻いた。
 翔は美織といたもう一人を見た、一目で誰だかわかった。
「ちょっと大吾、あんたも来なさいよ。翔パパにはお世話になったでしょ」
 大吾は涼太を一瞥すると、軽く会釈をするのみで近づいては来なかった。
「ほんとガキなんだから、大吾も翔も」
「僕もかよ」翔はツッコミを入れる。
「同じようなもんでしょ。男同士なんだからそんなねちっこい喧嘩しないで堂々と言い合いなさいよ」
 翔も大吾も一定の距離を保ったまま、腕を組んでふんぞり返っていた。
「はぁ、あきれた……」
「ま、まぁ美織ちゃん、落ち着いて。気持ちは有難いけど、男ってのは案外めんどくさい生き物なんだ。大目に見てよ」
「そういうもんなんですか?」
「そうそう、きっと時間が解決してくれるよ」
 そんな簡単な問題じゃないよと翔は思った。自分が大吾とどうしてこんな関係性になってしまったのか知りもしないくせに余計なことを言わないでほしい。
 翔は黙って歩き始めた。スタスタ歩いて大吾とすれ違う時、お互いが一瞥し合って目が合うと、翔は大吾とは逆方向に顔を背けて大吾を横切っていった。
 大吾の「おい」という声が聞こえる。その更に後ろの方から「翔、ちょっと待てって!」と涼太の声が聞こえたが、翔は振り返らず歩き続けた。
 家に着くと、涼太の「ごめんな」という謝罪に対して、翔は「別にいいよ」と言葉を投げ捨て、部屋に入った。
 机の上には開きっぱなしの『時を越えるノート』が置いてあった。引き出しにしまうのを忘れていたようだ。ノートに刻まれている琴音の文字をもう一度翔は見返した。そしてまた考え込んだ。
 母に話を聞いてほしいと思った。
 自分の抱えている苦悩、どうして自分が大好きだったサッカークラブを去ったのか、どうして親友とギクシャクする関係になってしまったのか。
 だが、この話をするには琴音に将来病気で亡くなるという事実を告げることにも繋がってしまう。それはしたくなかった。
 翔は考えた末、ペンを手に取った。翔は琴音が亡くなるというエピソードを伏せた上で、数年前に起こった出来事を母に告げることにした。翔はぼんやりと虚空を見つめて過去の出来事を反芻し始めた。




 折原 翔

 二〇二〇年四月


 空を見上げると清々しい青空がどこまでも広がっている。小鳥の囀り、道に咲く花の仄かな香り。ポカポカして気持ち良い小春日和。
 こんなにも素晴らしい日に恵まれたにも関わらず、黒いランドセルを背負いながら歩く翔の足取りは重かった。はぁとため息すら漏れるほどだった。とぼとぼ歩く翔に見かねて、その人は彼の背中にばしっと平手打ちを加えた。いてッと翔の声が漏れた。
「もぉ、朝っぱらから何死んだ魚みたいな顔してるの。こんなにも可愛い私の横を独占出来ることなんてそうそうないんだからもっと幸せそうな顔しなさい」
 小山内美織は新品の赤いランドセルを背負い、仏頂面で腕組みながら、小学一年生とは到底思えないようなボキャブラリーを巧みに操り、言ってみせた。
「死んだ魚ってどんな顔だよぉ。てか美織の隣歩くくらいでどっかに吹き飛ぶ程度の不安じゃないんだよぉ」
「もううじうじ言ってないでさっさと行くよ。いきなり遅刻するなんて嫌なんだから」
「せめて美織が同じクラスだったらなぁ」
「それだと翔、ほかに男友達とか増えないでしょ。だめだめもっと気合入れないと」
「うん……」
「さッ、行こう! 翔」
「あ、ちょっと待ってよ美織!」
 翔は小走りで進む、美織を追いかけた。
 この日、翔と美織は土浦小学校に入学して始業式を終えてから、初めての登校日だった。翔は極度の人見知りで保育園が一緒で家も近所の美織と一緒に登校していた。保育園の時も美織が翔と一緒にいてあげないと他のお友達と仲良く遊ぶこともままならなかったほどだった。
 だが、翔と美織は小学一年生のクラス分けで違うクラスになってしまった。だから翔は美織もいないクラスで友達が作れるのか不安でしょうがなかった。
 そして案の定、その不安は的中した。翔は中休みの時間などでどんどん作られていくクラス内のグループの輪に上手く入り込めず、終始あわあわしっぱなしで、初日は終わってしまった。
 初日の学校は四時間授業のため、給食を食べてすぐにみんな帰宅する。
 翔は足取り重く、正面玄関から校庭に出た。きっと美織はもうとっくに新しい友達作ってその子達と一緒に帰るんだろう。美織の新たな小学校ライフを邪魔したくないと思い翔は一人で家に帰ることにした。
 翔はとぼとぼと校庭を歩いて校門も目指していると、ふと視界の先にある学校の塀付近の草むらが妙に気になった。よく目を凝らして見るとそこには一つサッカーボールがぽつんと置いてあることに気付いた。翔はボールに近づき手に取った。ボールには土浦ユナイテッドFCというチーム名が刻まれていた。ここの小学校のサッカークラブのボールだろうか。もしかしたらしまい忘れたのかな?
 翔は小さい頃からサッカーボールが遊び道具だった。不器用な父はいかにも子供が好きそうなおもちゃではなく、翔がまだハイハイをしているくらいの頃から、翔に遊び道具としてサッカーボールを与えていた。保育園が終わってからもよく涼太と自宅マンション隣の公園でサッカーをしていた。その生活は今も変わらない。
 翔は校庭にあるサッカーグラウンドに目を向けた。遠くにサッカーゴールが見える。距離としては三十メートルほどだろうか。普通の小学一年生の蹴りでは到底届かない距離だ。だが、翔は知っていた。飛距離で大切なのはパワーよりもきちんと正しい足の位置にボールを当てること、そして正しいフォームだと。
 翔は足元にボールを置き、少しだけ距離を取った。そして助走を始めるとボールを勢いよくゴール目掛けて蹴りこんだ。ボールはふわっと浮き上がり美しい放物線を描きながら一度もバウンドすることなくゴールネットに吸い込まれた。
 翔はふうっと吐息を吐いた。
 その瞬間辺りからぱちぱちと拍手が巻き起こった。
「え? え⁉︎」突然の出来事に翔は慌てふためいた。
 周りを見ると昼休みに校庭で遊ぼうとする上級生達が翔見て喝采を上げていた。
「すごい! そんな小さい身体なのによく届いたね!」
「どんなパワーだよ。 君一年生だよね?」
「すごいすごい! ねぇもう一度見せて!」
 翔はどんどん顔を紅潮させていった。こんなにも周りから注目されることなんて今までになかったため、恥ずかしくてたまらなかった。
「す、すいませんでした〜!」翔は一目散にその場を後にして校門を出た。
 翔は足早に家に戻るとジャージに着替えて、自分のサッカーボールを携えて、マンション隣の公園に出た。こんなにも心がざわつく日はサッカーをするに限る。翔は公園常設のサッカーゴールがペイントされたベニヤ板目掛けてボールを蹴りこんだ。サッカーをしている間だけは嫌なことも忘れられる。翔は一旦、今日友達が作れなかった侘しさをサッカーで埋めることにした。
 翔は保育園に通っている時、よく泣く子どもだった。
「どうして僕にはお母さんがいないの」と何度も涼太に泣きついて困らせたものだ。
 だが、その悲しみも大好きなサッカーをすれば少し気がまぎれる気がした。だからこそ自分はサッカーにのめりこんだのかもしれない。母がいない寂しさを紛らわすため。
 しばらくすると公園にある遊具で同い年くらいの子供たち四人くらいが遊び始めた。同じ小学校だろうか。だとしたら早速学校で友達を作って公園で遊び始めたのだろうか。羨ましい気持ちを押さえながら翔はサッカーを続けた。
 三十分くらいしてその遊具がある方から子供たちの声は聞こえなくなった。もう帰ったのかな? そう思った矢先、その遊具のある方から子供の声が聞こえた。
「ねぇそこの君! 何しているのー?」
 翔は体をビクッと震わせ、声のする方を向いた。そこには小学生にしては体躯の大きな坊主頭の少年が立っていた。彼は明らかに自分を見ている。自分に訊いてきているのだ。すると翔はある思いに駆られた。どこかで見たことがある子だと思ったのだ。
「やっぱり思った通りだ。君同じクラスの……確か折原君だよね? さっきそこの遊具で遊んでいる時からなんか見たことある子だなぁと思っていたんだ」
「君は確か……中……」
「中住大吾。折原君と同じ一年一組だよ。まだ話したことないよね? よろしく!」
「よ、よろしく……僕は折原……翔」
 翔は一応自己紹介をしたが、急な展開に頭が追いついていなかった。
 そして今日の学校での出来事を思い出した。この中住は明るく快活な少年で今日一日だけでも明らかにクラスの話題の中心にいた。人見知りで根暗な自分とはまさに真逆の位置にいる人だと思った。そう思うと変に萎縮してしまう。
「よろしく翔。俺のことは大吾って呼んでくれな。ところで翔はそこで一体何をしているんだ?」
「何って……サッカーだよ?」
「サッカー? なんだそれ?」
「し、知らないの?」
「うん。え、もしかしてそれって常識? 知らないと恥ずかしい感じ?」
「あ、いや。そんなことはない……かも」
 翔は小さい頃からサッカーが身近な存在だったから当たり前のように知っているが、他の子からしたら、そもそもサッカーの存在自体も知らないってこともあるかもしれない。翔はそう思い直した。
「なんか楽しそう。俺も混ぜてよ。一緒にやっても良い?」
「う、うん……良いよ」
 翔は突然のことで当惑し、ぎこちない返事となったが、嬉しくて仕方がなかった。これまでサッカーをする時は、一人か涼太と二人でしかやったことがなかったけど、同い年の子と一緒にボールを蹴るのは初めてだった。
 翔はパスやトラップといったサッカーの基本的な技術を大吾に教えていった。
「正確なパスを出したい時は足の内側の広い面をボールに当てるんだ。これはインサイドキックって言って──」
「こうか?」
「そうそう、そんな感じ。で、パスを止める時も基本は今言った足の広い面に──」
 翔は夢中で大吾にサッカーを教えて行った。大吾はまるで新品のスポンジのように翔の教えた技術をどんどん吸収していった。翔もそれが嬉しくて普段の自分とは別人のように雄弁になっていた。翔は自分の好きなことを他者と共有することがこんなにも楽しく充実することだと初めて知った。
 気付くと日は暮れ始め、空はオレンジ色に染まっていた。公園の中央にある時計は午後五時を指していた。
「あれ? 翔〜!」
 公園の外から黄色い声が聞こえてきた。その声を聞いて翔はすぐに声の主がわかった。美織だった。美織の母と並んでこちらを見ている。おそらく買い物帰りだろうと思った。美織は翔とその向かいにいる大吾を一瞥して、にやにやしながら近づいてきた。
「なにさ翔。あんなに不安がっていたのにもう早速友達作ってるんじゃない。やるじゃん」
 美織は翔の肩をばしばし叩きながら言った。
「もう痛いよ、美織。そのすぐ人を叩く癖直した方が良いよ、ほんとに」
「翔のくせに生意気だなぁ」
 美織は口を尖らす仕草を見せた。
 二人のやり取りを見ていた大吾が翔の元に駆け寄ってきて、耳打ちをした。
「ちょっと翔。このめっちゃ可愛い子誰? 知り合い?」
 翔はきょとんとした顔を見せた。頭の上に疑問符が浮かび上がる。
「可愛い? 美織が?」
 その瞬間強烈な拳が翔の脳天を直撃した。
「いっとぅあい!」翔は声を上げ両手で頭を押さえた。
「私を可愛いという認識がないのはこの世であなただけよ、翔」
「こら美織! ごめんね翔君。乱暴な娘で」
 美織の母が代わりに翔に謝った。
「大丈夫です。慣れましたので……」
 すると美織は大吾の方を向いた。大吾は当惑している表情だった。
「あ、ごめんね。私と翔のやり取りはいつもこんな感じだから気にしないで。私たち幼馴染なの。小山内美織って言います。よろしくね」
「お、俺は中住大吾。翔と同じクラスで今日仲良くなったんだ。よろしく!」
 翔はどことなく大吾が緊張しているように見えた。
「良かった。大吾君がいれば安心ね。翔は極度の人見知りだから心配だったの。大吾君。翔をよろしくね」
「う、うん。わかった」
「じゃあ二人ともまたね!」
 美織はそう言い残して、美織の母とその場を後にした。
 大吾は顔を赤らめてその場に立ち尽くしていた。
 これは惚れたなと翔は思った。昔から美織はこんなに暴力的であるにも関わらず男子に異様にモテる。翔からしたら顔が可愛いだけのゴリラにしか見えないのだが。
「ってやば、もうこんな時間だ。母ちゃんに怒られちまう」
 大吾は慌てて言った。
「あ、ごめん。こんな時間まで拘束しちゃって」
「何言ってんのさ。一緒にやろうってお願いしたのはこっちだし。めっちゃ楽しかったよ、翔。やっぱあいつらについていかずにこっちに来て正解だったわ」
「そういえば遊具で他の子たちと遊んでいたよね?」
「あいつらも翔と同じクラスだよ。今日学校で仲良くなってそのまま公園で遊んでいたんだけど、その時翔のこと見かけてさ。ずっと気になっていたんだ。そんであいつらこれからみんなでテレビゲームしようって流れになったんだけど、俺だけ抜けてこっちに来たんだ」
「そうだったんだ」
「あいつらもすごい良い奴らだからさ。明日翔に紹介するよ。あと今度ちゃんと美織ちゃん紹介してくれな! それじゃあ俺は帰るね。また明日!」
「うん、またね」
 大吾は足早に公園を後にした。
 翔は大吾の背中を見つめながらその場で呆然と立ち尽くしていた。物心つく前からサッカーと触れ合っていて、翔にとってボールを蹴っている時はどんなに嫌なことがあってもそれらを忘れて、時間も忘れて没頭できる幸せな時間だった。
 だが、翔は今、その時以上の幸福感に包まれていた。友達とサッカーをするということがこんなにも幸せで楽しくて充実することだと初めて知った瞬間だった。
 翔は高揚感に浸りながら公園隣の自宅マンションに戻った。すると偶然マンションのエントランスで丁度、仕事帰りの涼太に遭遇した。
「お、翔。おかえり。学校どうだった? ……あれ?」
「お父さんもお帰りなさい。どうかしたの?」
「なんか翔、楽しそうだな? 学校で何か良いことでもあったか?」
「な、なんでもないよ。それよりお腹空いたから早くご飯にしよ」
「なんかはぐらかしたな? 良いことあったなら父さんにも教えてくれよ〜」
 翔は自然とはにかんでいた自分の表情を無理やり正し、謎の追及をしてくる父を振り払いながら家路に着いた。なんとなく普段と違う自分を父に見せるのが恥ずかしかった。
 翌日から翔は大吾とよく行動を共にするようになった。人見知りの性格は相変わらずだったが、すでにクラスの人気者だった大吾が間に入ってくれるおかげで翔もクラスの輪に入れるようになった。
 放課後、翔は大吾といつもの公園でサッカーをすることが恒例となった。たまに美織が見学に来て、三人でくだらない話で笑い合った。
 ある日の土曜の午後、翔と美織は大吾の家に遊びに行った。大吾の家は賃貸住宅であり、双子の妹二人と母親の四人暮らしで、父親は単身赴任中だった。四歳のわんぱくな双子の妹が家の中で暴れまわり、家の中は毎日お祭り騒ぎだという。翔と美織が来た日も妹二人を追いかける大吾の母親の姿を早速目撃した。
「あら、いらっしゃい。待っていたわ。ごめんなさいね。落ち着かないかもしれないけど、ゆっくりしてって。ほら大吾、ぼさっとしていないでお友達にジュースとお菓子出してあげて」大吾の母、美奈子が言った。
「はいはい。母ちゃんわかったよ」
「あ、大吾兄ちゃん、ずるい! 小春もお菓子ほしい!」
「小夏も! お菓子お菓子!」
「わかったから落ち着け二人とも! 今用意するから!」
 大吾は妹二人をたしなめた。
 翔はただただ唖然としていた。まるで晴天の下を歩いていたら突然誰かに背中を押されて、急に嵐の中に放り込まれたような、そんな錯覚を引き起こした。
「す、すごいね。美織」と言って横目で美織を確認するとすでに隣に美織の姿はなかった。そして妹二人の声が響く。
「お姉ちゃん、可愛い! ねぇ遊ぼ遊ぼ!」
 気付くと美織は既にやんちゃな大吾の妹二人にもみくちゃにされていた。
「よーし! わかった! お姉ちゃんと遊ぼう! 何して遊ぶ?」
「小春、おままごとが良い!」
「嫌だ、小夏は鬼ごっこ!」
「うん、じゃあどっちもやろう! どっちもこの翔お兄ちゃんもやってくれるからね」
「え? え?」
「やった〜! お兄ちゃんこっちこっち!」翔は小春と、小夏に引っ張られ中住家のリビングに吸い込まれていった。
 中住家に静けさが戻ったのはそれから二時間後のことだった。小春と小夏は静かな寝息を立てながら二人並んでお昼寝をしていた。
「ごめんなさいね、たくさん遊んでもらっちゃって。でもすごい助かったわ」
 美奈子が申し訳なさそうに言った。
「全然大丈夫ですよ。むしろたくさん元気もらっちゃいました。小春ちゃんも小夏ちゃんもすっごい可愛いですね」
「でも毎日遊びに付き合うのはしんどい時もあるけどね」大吾が言う。
「あんたもまだまだ手のかかる小学一年生だけど」
「もう母ちゃん、二人の前でそんなこと言うなよな」
「あら、友達の前だからってカッコつけちゃって。本当のことじゃないのさ」
 翔はつい二人のやり取りを見入ってしまった。母親と息子のやり取りってこういうものなんだろうなぁとほほえましく思える反面、自分は経験し得ぬことだとわかると、少し落ち込んでしまう。
「それと翔君。大吾にサッカー教えてくれてありがとうね。大吾から色々話は聞いてるわ。ほんとこの子家の中でも暇さえあればサッカーボール触っててね」
「そうなんですか。僕も大吾君と友達になれてうれしいです。小学校入って初めての友達が大吾君なので」
「あらそう? 今後とも大吾のことよろしく頼むわね。美織ちゃんもよろしね」
「ちょっと母ちゃん、翔と美織を困らせること言うなよな」
 翔にとってこの中住家が醸し出す空間はとても居心地が良かった。美奈子が言う言葉一つ一つに翔は確かな愛を感じていた。息子を想う愛が。きっと大吾はそれを感じてはいないのかもしれない。うっとおしいなと思っているのかもしれない。だが、翔にとってはそれはとても羨ましいものだった。誰もが享受できる幸せではないんだよと大吾に教えてあげたい気持ちになる。
「てかそうだ! 今日は翔に言いたいことがあったんだよ」
「言いたいこと?」翔は目を瞬いて訊いた。
「翔、俺と一緒にうちの小学校のサッカークラブに入らねぇか⁉︎」
「え⁉︎」翔は虚をつかれ、思わず声が跳ねた。
 まさか大吾からそんな誘いがあるなんて思ってもいなかった。
「で、でも僕たちまだ小学校一年生だけど……」
 土浦小学校には土浦ユナイテッドFCというサッカークラブがある。だか、そのクラブへの入部は小学三年生からとなっており、小学校二年生で入部するのは要相談となっていた。小学校一年生は基本的には入部できないはずだった。
「大丈夫だよ、多分! もうサッカーの楽しさ知っちゃったから俺、居ても立っても居られなくなっちまった。なぁ翔、一緒にチームにお願いしに行こうぜ!」
 大吾は目を輝かせていた。
 翔はその輝く瞳に見入っていた。
 大吾には自分にないすべてを持っていると翔は思った。自信、行動力、明るさ、活力、どれも自分には満ち足りていないものだった。だからこそ翔にとって大吾はこんなにも魅力的に映っているのだと感じた。それに大吾には運動能力においても秀でたものを持っていると翔はわかっていた。何度か一緒にサッカーをしただけでも技術習得力、足の速さ、俊敏性、そして生まれ持った体格、小学一年生のそれとは到底思えないものだった。翔も大吾と一緒にチームに入りたい気持ちが抑えられなくなっていた。
「うん。わかった。一緒にお願いしに行こう」
「そうこなくっちゃ! 明日にでも行こう」
「二人ともすごい行動力ね」
「美織は何かやらないの?」翔が訊いた。
「私は来年からバスケットボールクラブに入るつもり。二人には負けないよ」
「よーし。俺たち三人なら何をやっても無敵だ! 頑張ろうぜ」
「ちゃんと宿題も無敵に頑張ってよ」美奈子がぼそっと言った。
「ちょっと母ちゃん話の腰折るなよ〜」
 中住家は笑い声に溢れた。
 端から見たらまだまだ脆弱な三人組に思えるだろう。けれども、翔はこの三人がいればなんでも出来る、本当に自分達は無敵なんだと本気で思えた。
 翌日の放課後、翔と大吾は土浦小学校の校庭で練習中の土浦ユナイテッドFCに突撃した。
「俺たちをこのチームに入れてください!」開口一番、大吾の声が校庭に響いた。
 練習中の生徒たちは一斉にこちらを振り向いた。翔はつい大吾の背中に隠れてしまった。
「おい、翔。何隠れているんだよ」
「だって……」
「君たちは?」
 年配の男性がこちらに向かって歩いてきた。風貌からこのチームの監督かなと思った。
「俺は土浦小学校一年一組の中住大吾って言います。後ろにいるのは同じクラスの折原翔。俺たちこのチームに入りたいんです」大吾は真っ直ぐな眼差しで思いを伝えていた。 
 翔は大吾の言葉の後、うんうんと頷いた。
「そうか。でも困ったなぁ。うちは小学二年生から入れるってことにしてるんだよね……」
「別に良いじゃないですか。木島監督」奥の方から落ち着き放った声が聞こえてきた。
「寛人……しかしねぇ……」寛人と名乗るその精悍な顔立ちの少年は木島監督を横切り、大吾と翔の前にやってきた。
「ようこそ、土浦ユナイテッドFCへ。僕はこのチームのキャプテンで小学六年生の大和田寛人。君たちサッカーは好き?」
「大好きです!」大吾に続いて翔も「僕も」と続けた。
「サッカーが好き。このチームに入る条件としてそれ以外に何か必要ですか? 木島監督。それにうちにも一年生からやってる既に子いるでしょ」
「そうなんだが、その子達は特別で……まぁ寛人が言うなら仕方ないな」
 木島監督は頭を掻きながら答えた。
 すると次の瞬間「あ!」と誰かの叫び声が聞こえた。
 最初に反応したのは寛人だった。
「どうした、和人? そんな大声出して」
「お兄ちゃん! この翔って子、この前教えた三十メートルロングシュートをした子だよ!」
「え、本当に⁉︎」
 寛人は驚きの表情を覗かせた。すると、その場にいた生徒たちも俄かに騒ぎ始める。翔はまるで他人事の様にその様子をポカンとした表情で見つめていた。突然の展開についていけていなかった。叫んだ少年は翔に歩み寄ってきて、翔の肩をガシっと掴んだ。
「俺は和人。ねぇ、君。もう一回あのシュート見せてよ」
 和人は目を輝かせて言った。彼は妙に勢いというか圧のある、笑った時の八重歯が特徴的な見るからにヤンチャそうな少年だった
 これは後ほど翔が和人から聞いてわかったことだが、最初に話しかけてくれた、かなり年配に見える男性の木島監督は、土浦小学校の用務員さんで再来年定年を迎える五十八歳。十年間もの間、土浦ユナイテッドFCの監督を務めているベテランらしい。
 そしてこのチームのキャプテンである小学六年生の大和田寛人とその弟で小学二年生の大和田和人。翔はすっかり忘れていたことだが、学校への登校初日に翔が校庭の隅っこに転がっていたサッカーボールを遠くのゴールに叩き込み、周囲の生徒たちから喝さいを浴びたあの日。翔は恥ずかしくなってすぐに逃げ出してしまったが、あの時和人も翔のことを見ており、その興奮を兄の寛人に伝えていたということだった。
 翔は気付いたらサッカーボールの前に立っていた。以前見せた三十メートルロングシュートをまた再現してほしいということだった。翔の周りにはクラブに所属する生徒たちが固唾を飲んで自分を見ていた。半信半疑で顔をしかめている人もいる。きっと小学一年生の自分がそんなロングキック出来るはずないと思っているに違いない。翔は脂汗を手で拭った。
 翔は昔から人から注目を浴びることが苦手だった。保育園の劇でも緊張のあまり短いセリフを忘れ劇を流れを止めてしまったことがある。緊張して体がこわばり、そういう時は毎回いつも出来ていることが全く出来なくなった。今もそう。ダメだ出来ない、失敗する。やっぱりなと鼻白む生徒たちの顔、期待していたのにと落胆する生徒たちの顔が脳裏を過る。嫌なイメージだけが頭から離れない。翔がどんどんと負の思考に捕らわれて暗闇が翔を包み込もうとした時、突然横から声が聞こえた。
「翔!」翔は自分を呼ぶ声を探す。
「翔! 大丈夫だよ! 失敗しても良いんだ! 俺たちはサッカーを楽しむためにここに来たんだから」
「大吾……」
 翔を覆っていた暗闇が一気に晴れた。周りの景色が良く見える。一体何を気負っていたんだろう。当初の目的を忘れかけていた。自分は大吾とサッカーをより楽しむためにここに来たんだ。だったら今この瞬間も楽しめば良い。ただそれだけだ。翔は自然と笑みが零れた。
 翔はゆっくりと助走幅を取って、周りに聞こえるか聞こえないかくらいのボリュームでぽつりとつぶやいた。
「クロスバーに当ててゴールに入れます」
 翔は助走を始めた。そして的確に右足でボールを蹴りあげた。
 翔が蹴ったボールは前回のふわっと弧を描く山なりの軌道ではなく、シュート性のぐんぐんとスピードを増す球種で、みるみるうちにゴールに近づく。そして、ボールはゴール上部のクロスバーに当たり地面に力強くバウンド、そのままゴールネットを揺らした。
 辺りは一瞬の静寂が包み込んだ。生徒達はみんな、目の前の出来事をただ茫然と口を開けて目を見開きながら立ち竦んだ。そして徐々にざわつきが生まれる。
「今、クロスバーに当ててゴール決めるって言っていたよな? 本当に実行しちまったぞ」生徒たちのどよめきは大きくなっていった。
「翔! やっぱりすげぇなお前!」
 大吾が駆け寄ってきた。その後ろを和人もついてくる。
「すげぇ! またやりやがったな! ほら言っただろ兄ちゃん! こいつはすごい奴なんだって」和人が興奮気味に寛人に言う。
 寛人も翔と大吾の元に近づいて、さっと両手を差し出した。
「君すごいね。改めて土浦ユナイテッドFCにようこそ。翔、大吾」
 翔と大吾はがっちりと寛人の手を握った。

 この日以降、翔と大吾は正式に土浦ユナイテッドFCの一員となった。チームの先輩たちはみんな、一年生の翔と大吾を気にかけてくれて、とても優しく接してくれた。このチームは基本的に小学三年生から入会出来るため、ほとんどが小学三年生から小学六年生の生徒達である。小学二年生は大和田和人とその友人である植松夏樹だけであった。夏樹は和人と違って落ち着きある中性的な顔立ちの癒し系とも言える少年だった。
 年が近いこともあり、翔と大吾、和人と夏樹の四人は練習以外でも一緒に遊んだりするなど仲を深めていった。和人と夏樹も翔たちと同じく例外的に一年生からこのチームに入団したことは後になってわかった。
 ある日、四人はクラブでの練習だけでは飽き足らず、練習が休みの日に放課後、校庭でボールを蹴りあった。練習終わりに四人は校庭横にあるベンチ並んで腰を降ろした。
「ひゃあぁ、疲れた~。でもやっぱりサッカーは面白いわ」
 和人は体を大きく伸ばしながら言った。
「そうだね。でも無理し過ぎたら怪我するからちゃんとストレッチしないとダメだよ、和人はよくそこサボるんだから」夏樹が優しい口調で言う。
「へいへい。わかってますよ~」
「なんか和人君と夏樹君って夫婦みたいな関係性っすよね」大吾が笑いながら言う。
「え、どこらへんが?」和人と夏樹の声がシンクロした。二人は顔を見合わす。「そういうところッ」と大吾が付け加えた。
「僕らが訊くのはあれかもしれないですけど、和人君と夏樹君ってどうして一年生からサッカー始めようと思ったんですか?」翔が訊いた。
 和人と夏樹は頬を緩ませた。
「確かに翔が言うのはあれだね」夏樹は丸みを帯びた声で笑った。そして続けた。
「一年生から始めた理由ってのは特に僕はないな。ただ一年生の時に和人が僕をサッカーに誘ってくれたんだ。僕と和人は保育園の頃からの幼馴染なんだけど、僕はその時からいつも和人にべったりくっついていくような子だったんだよね。和人がサッカーを始めるって聞いて、すぐ僕もやりたいって思って親にお願いしたんだけど、最初はダメだって言われてたんだ。僕、昔からあまり体が強い方じゃないからサッカーみたいなぶつかり合うスポーツは危ないって言われてね……。でも和人が僕の親を説得してくれたんだ。俺は夏樹がいないと嫌なんです。一緒にサッカーやらせてくださいって。これが説得って言えるのかはわかんないけど、僕は嬉しかった。和人を見て諦めかけていた僕も必死に親を説得して。このチームに入ることが出来たんだ」
「へへ、そんなこともあったな」
「和人君は?」大吾が訊いた。
「俺はもちろん兄ちゃんの影響だよ。寛人兄ちゃんが楽しそうにサッカーしている姿を小さい頃から見ていて俺もいてもたってもいられなくなって夏樹を誘ったんだ。まだまだ兄ちゃんの足元にも及ばないけど、めちゃめちゃ上手くなって絶対俺がチームを全国大会に連れて行くんだ」
「全国大会……」翔は呟いた。
「あぁ。と言っても、うちのチームは正直あんまり強くはないから、毎年県の大会にすら行けず地区予選で敗退しちまってる。兄ちゃんは上手いけど兄ちゃんの周り人たちが兄ちゃんのレベルについていけてない。サッカーはチームスポーツだから兄ちゃん一人上手くてもダメなんだ。俺は兄ちゃんの思いを継ぎたい。だから──」
 和人は翔と大吾を見た。
「翔、大吾、俺と夏樹と一緒に全国を目指さないか? お前らがいれば行ける気がするんだ」翔は和人の眼差しに見入ってしまった。和人のこんなにも真剣な目を初めて見た気がした。
「もちろんだ!」大吾が言った。
「ぶっちゃけ最初は翔と楽しくサッカー出来ればそれで良いとか思ってたけど、やっぱやるからには上目指さないといけないっすよね! よぉし、なんか燃えてきた! 俺もっと練習しようっと!」
 大吾はそう言うと校庭に駆け出した。
「お、待て大吾! 俺も行くぞ!」
 続いて和人も大吾の後についていった。ベンチには翔と夏樹が残る形となった。
「お互い大変な相棒を持っちゃったね、翔」
 夏樹が微笑みながら言った。
「相棒?」
「うん。唯一無二の大切な友達ってところかな」
「……そうですね」
「でもそんな彼に僕はどうしようもなく惹かれてしまっている。翔もそうなんじゃない?」翔は夏樹の言葉を咀嚼し、こくんと頷く。
 翔にとって夏樹の言葉は間違いなく的を得ていた。翔は大吾の放つ言葉や行動一つ一つに尊敬や憧れといった思いを抱いていた。自分には持っていない全てを大吾は持っていると思った。
「どんなに大きい夢や目標でも和人なら叶えられる気がするんだ。僕は出来る限りサポートしたいし、なんなら和人に感化されて僕だって全国大会に人一倍出たいと思ってちゃってる。この僕がこんな野心を抱くなんて昔の自分では考えられなかった。和人のおかげだよ」
「大切な相棒なんですね」
「うん。とってもね。まぁそれでもたまに暴走するからちゃんと僕が彼を見ていないといけないんだけどね」
「はは。確かに」
「和人と大吾、僕と翔はなんかそれぞれ似た者通しな気がするんだ。僕らに関しては少し大人しいところとか、チームに入った境遇とか、困った相棒がいることとかね。まぁサッカーの実力は僕なんかより翔の方が遥に上手いから似てるなんておこがましいかもしれないけどさ」
「そ、そんなことないですよ。僕も似てると思ってました」
「ふふ。でしょ? 翔、僕らでしっかり彼らを支えて、そしてみんなで全国を目指そう」
「はい。頑張りましょう」
 翔は大吾と同じく楽しくサッカーが出来れば良い、その思いでチームに入った。だが二人の大好きな先輩の夢を聞いて、翔の中でも確実にその思いは伝染していた。もっと上手くなってチームを勝たせるんだ。翔は決意を新たに拳を力強く握った。

 明確な目標を持った四人はこれまで以上にサッカーの打ち込み、徐々に彼らは秀でた力を示していった。
 翔はパスセンスや足元の技術を買われ中盤のミッドフィルダー、大吾は体の強さと持ち前のスピード、決定力を買われ全線のフォワード、和人はリーダーシップ、対人の強さを買われ守備の要センターバック、夏樹は的確なコーチング、敏捷性を買われてゴールキーパー、それぞれのポジションで四人は才能を開花させていった。
 そして月日は流れ、翔と大吾は三年生に、和人と夏樹は四年生になった。四人はすでにチームの中心となり、六年生たちに混ざってコンスタントに試合に出場し続けていた。
 そんなある日の休日、大吾、美織の二人が翔の家に遊びに来た。
「え、美織。明日試合出るの⁉︎」
 翔はオレンジジュースを片手に驚きの表情を浮かべた。
「へへへ。そう大抜擢されちゃった。去年からバスケ始めたばかりだけど、才能あったみたい」
「すごいな、周りみんな上級生だろ? 女社会は怖いって言うからいじめられたりしないか?」大吾は心配そうに言った。
「心配しないでもうちの先輩たちはそんなバカ丸出しの真似しないよ。二人だってもうスタメンなんでしょ? 大吾なんて点取りまくってチームのエースとして活躍しているってうちのクラスの男の子から聞いたよ」
「へへへ、すごいだろ? 俺の元々の才能半分、翔の最高のアシスト半分って感じだな」大吾は意気揚々と語った。
「何言ってんの、大吾。今の大吾の活躍は全部大吾の力がすべてだよ」
「お前は本当によく謙遜するよな。もっと自信を持っていいんだぞ。うちのチームが今好調なのは間違いなく翔のゲームコントロールのおかげなんだから」
「……あ、ありがと」翔は少し照れくさい気持ちになる。
「でもサッカーってどうしても点を取る人が目立って凄いって思われがちだからな。翔の凄さは中々素人の人には伝わらないのが俺は気に入らない。翔のパスが良いから俺はたくさん点を取れているんだから」
 大吾は腕を組みながら不満をこぼした。
「あんたたちって本当に言いコンビよね。背丈も性格もデコボコだけど」
 美織が言った。
「それ誉めてる?」翔が言う。
「めっちゃ誉めてるよ。私にも友達はたくさんいるけど、そこまで信頼し合える友達はいないと思う。正直羨ましいよ」
 美織は若干悲しそうな顔をしたように見えた。
「じゃあ、美織も俺たちとコンビになれば良いんじゃないか? なぁ翔?」
「うん。そうだね。三人だからコンビじゃなくてトリオだけど」
「ほんとお前は細かい奴だなぁ」
「大吾が適当過ぎるんだよ」
 翔と大吾が話していると美織が二人の間に入り、肩を組んできた。
「まぁあんた達だけじゃ心配だから、この私がコンビになってあげよう」
 美織は笑いながらも目が若干潤んでいるように見えた。
「だからトリオだって美織」と翔が訂正すると「細かい!」と美織のチョップが翔と大吾の脳天に直撃した。「なんで俺も⁉︎」と大吾の嘆き節が響いた。
「あ、いらっしゃいみんな。ゆっくりしてってね」
 涼太が翔の部屋からひょっこり顔を出した。
「あ、翔パパお邪魔してます」
「やぁ美織ちゃん。今日も可愛いね」
「ありがとうございますッ」
 美織は頬を緩ませた。単純な女だなと翔は心で呟いた。
「涼太おじさん! また練習付き合ってよ! 前に教えてもらったやつだいぶ上手くなったと思うんだ」
「ごめんな大吾君。今日はおじさんこれから予定があるんだ。また今度な」
「えぇそうなのかぁ。じゃあまた今度ね」
「あぁ約束だ」涼太はそのまま居間に戻っていった。
 大吾に父が昔すごいサッカー選手だったことを伝えたのは約一年前。それから何回か三人で練習をすることがあった。この一年間の間に大吾の技術が飛躍的に伸びたのは涼太の的確な指導が一因であることは間違いなかった。大吾は単身赴任で長いこと家にいない彼の父としばらく一緒に過ごせていない。きっとこのことも大吾が涼太を慕う理由かとも思った。
 翔は大吾に自分は生まれた時に母を病気で亡くしており、一度も会えたことがないことを告げていた。大吾は大切な友人だから自分のそういう過去も知ってほしいと思ったからだ。
 それを聞いた大吾は「じゃあ俺が翔の母親の代わりになるぜ」という言葉で翔を励ました。不器用な大吾らしい言葉に翔は救われる思いだった。
 次の練習の日、土浦ユナイテッドFCを指揮する新しい監督がやってきた。
 彼は永森と名乗った。今年四月に土浦小学校に赴任してきたばかりの先生だ。以前までいた木島監督は用務員として定年を迎えたため退任した。退任のセレモニーを部員一同で行った時の木島監督の涙が翔にとってはとても印象に残っていた。
 永森先生は見るからにガタイが良く、笑い声が大きな男性だった。どことなく醸し出す雰囲気が和人や大吾に似ていると思った。彼らのような勢いと熱意がある類の人種だろうと思った。
 大学ではなんと全国優勝も経験しているらしい。永森先生は挨拶の際に開口一番に「チーム目標は全国大会出場だ!」と声高に叫んだ。
 これにはチーム内でざわめきが起きた。まだ県大会に出場すらしたことがないチームでこの新人監督はいきなり何を言っているんだ、自分が全国大会優勝者だからって大仰な目標を立てられちゃ困る。こっちは緩くサッカーを続けたいだけなのに、と色々な意見が翔の耳に飛び込んできた。
 このチームは一枚岩ではない。生徒毎に色んな意見、考えを持つのは当然だけど、こんなにも考えがバラバラでは全国大会出場なんて到底出来ないと思った。生徒達の顔は一様にやっかいな監督が来てしまったと言わんばかりに表情に陰りを見せていたが、和人、夏樹、大吾だけは笑みを浮かべて永森先生を見ていた。
 翔はこの三人だけは自分と同じ考えだと感じ取った。こんな監督を待っていたと。
 永森先生はみんなの実力を見たいとして、軽くアップをしたあと、早速試合形式の紅白戦をすることとなった。翔はやる気に満ち溢れていた。全国大会出場という明確な目標を持ってから、和人、夏樹、大吾とお互いスキルを高めてきた。チームの要となるべく、自分がチームを勝たせるという気持ちで翔はこの紅白戦に自分の出来る得るプレーをすべて惜しむことなく出し尽くした。
 練習後、翔は永森先生に呼ばれた。彼は興奮気味に話しだした。
「翔、君のプレーは本当に素晴らしかった。他にも大吾や和人、夏樹もとても良かった。君は今後チームの中心選手になっていうだろう。よろしく頼むぞ」
「は、はい」翔は永森先生の言葉を胸に確かな自信を得ることが出来た。翔の胸は意欲と情熱に満ちていた。全てが順風満帆だった。母がいない寂しさ、それさえ除けば最高に楽しい学校生活だと言えた。
 しかし、その一週間後、上手くいっていた生活に大きな亀裂が生じる出来事が起きてしまう。
 サッカー練習終わり、翔は大吾と一緒に帰路についていた。そこで大吾はため息交じりに愚痴をこぼした。
「なぁ翔、涼太おじさんって結構口うるさいか?」
「ううん。全然怒らないからむしろ心配するくらいだよ」
「そうか、良いなぁと思って」
「? どうかしたの?」
「母ちゃんがさ、最近今まで以上にがみがみうるさいんだよ。宿題しろだの、お手伝いしろだの、妹の世話しろだの。こっちは練習で疲れているんだから家でそんなにがみがみ言われるのが正直きつくて」
「確かにそれは大変かもね。でも大吾のお母さんもお父さんが近くにいなくて、やんちゃな妹二人をずっと見ているのはきっとかなり大変なんだよ。頼れるのは大吾しかいないと思うしさ。お母さんの事助けてあげようよ」
 翔のこの言葉に大吾はムッとする表情を浮かべた。
「翔は知らないんだよ。母親ってのは時に厄介な存在なんだ」
「そりゃ知らないよ。僕にはお母さんがいないから。逆に大吾が羨ましいよ」
「翔にも母親がいたら羨ましいなんて気持ちに絶対ならねぇよ。だから母親がいない翔が羨ましい。家でもストレスなくて平和だろ? 逆にいなくてラッキーだったんじゃね?」 
 何気ない大吾のこの言葉に歩を進めていた翔の足が止まった。
「翔?」
 立ち止まる翔に大吾は声をかける。
 翔はいくら親友の言葉とは言え聞き捨てならなかった。
「ラッキーだって? 本気でそう言ってるの?」
 大吾は翔を見てたじろいだ。眉間に皺を寄せて鋭く睨みつけている。こんな表情の翔を大吾は初めて見たのだろう。
「お、おい、翔。何ムキになってるんだよ。おまえらしくもな──」
「良いから答えてよ!」
 食い気味に大吾の言葉を遮り怒る翔の態度に、大吾もムッとし始める。
「母親何て口うるさいことしか言わないんだから、いない方が楽で良いに決まってんだろって言ったんだよ!」
 翔は大吾にぐっと詰め寄り、彼のジャージの襟をつかんだ。
「ふざけるなよ、大吾。お前は何もわかっていない。母親がいないってことがどれだけ孤独で、寂しくて、虚しいのかを。僕は大吾が羨ましかった。大吾のお母さんは大吾のことが大好きで心配で愛おしからこそ、厳しく接してくれているんだ。あれは大吾の母さんなりの愛だろ? そんなこともわからないのか」
「うるせぇな! 愛とかなんとか知らねぇよ気持ち悪い! んなもんわかるわけないだろ!」
 大吾は翔の腕を無理やりほどいた。
「母親がいないお前に俺の気持ちなんてわかってたまるか!」
 翔は奥歯をグッと噛み締めた。悔しさや悲しさや怒りが同時に体の内側から込み上げてくる。
「お前なんか……お前なんかもう僕の友達じゃない!」
 翔はそう言い放つと踵を返し走り出した。
「おい! 翔!」
 大吾の言葉を無視して翔は涙を流しながら走り続けた。
 辛い、苦しい、悔しい。大吾には自分の気持ちを理解してほしかった。母親がいないことがどれだけ辛いことなのか。母親がいることがどれだけ幸せなことなのか。親友の大吾にだけは母親がいなくてラッキーだなんてそんな軽はずみなことを言ってほしくなかった。
 端から見れば、些細な子供の喧嘩だと思うかもしれない。何をそんなに熱くなっているんだと鼻で笑われるかもしれない。冗談の通じない面倒臭い奴だと思われるかもしれない。ただ、翔としてはそんな簡単に割り切ることが出来る問題ではなかった。大吾への友情が深かったからこそ、生じた亀裂はその反動で大きくなってしまったのかもしれない。
 翔はその後、三日間練習を休んだ。サッカーはしたかったけど、大吾の顔を見れなくて足は校庭に向かなかった。
 翔は永森先生にクラブをやめる意向を伝えた。
 もうこのチームにはいられない、それは衝動的な行動であった。永森先生は必死に理由を聞いたが、翔は答えなかった。
 その翌日、和人と夏樹が翔のクラスに入ってきた。その後ろには大吾も付いて来ていたが、翔に近づいてくることはなかった。和人は翔の机を力一杯両手で叩いた。その音にクラスメイトも驚きの声を上げる。。
「何やってんだよ翔。なんでやめるんだ。おかしいだろ。俺たちになんの相談もしないで。俺たちと全国大会を目指すんじゃないのかよ、翔⁉︎」
 和人がうっすらと涙を浮かべながら翔に詰め寄り、凄んだ。
「もう嫌になったんです。サッカーが」翔は苦し紛れに嘘をついた。
「嘘つくなよ! お前ほどサッカーが好きな奴はいないだろが!」
「もう良いっすよ。こいつは腰抜けになっちまった。そんな奴はチームにいても足手まといだ。俺たち三人で全国めざしましょう」大吾は冷めた表情で淡々と述べた。
「大吾! お前もどうしちまったんだよ! お前らあんなに仲良かったじゃねぇか!」
 すると教室にチャイムが鳴り響いた。次の授業が始まる時間だった。
「ほら、もう行きましょう和人君、夏樹君」大吾は踵を返して教室を出た。
「くそ! 待てよ、大吾」
 和人はまだまだ言い足りないといった様子で渋々大吾に続いて教室を出た。
 夏樹もその後に続くが、途中で止まり、振り返って翔を見た。
「翔。君に何があったのかはわからない。言いたくもないと思う。でも僕は君が戻ってくるのを待っている。うちのチームには君が必要だし、僕も和人と同じくらい君が必要なんだ。君は僕にとって大切な友達だから。ずっと待ってるからね、翔」
 夏樹はそう言うと優しく微笑み、教室を後にした。
 夏樹の言葉に翔の心は大きくぐらついた。それでも翔の気持ちは変わらなかった。

 夏樹君ごめんなさい。もう前みたいな仲の良い四人には戻れそうにないんです。
 友達だって、必要だって言ってくれて嬉しかった。
 弱くてごめんなさい。
 期待に答えられなくてごめんなさい──。
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