第9話

文字数 11,096文字

野中 貴弘

 二〇〇四年十二月


 大会の表彰式やインタビュー等、諸々の行事が終わったあと、涼太、友也、雄星、貴弘の四人は会場近くのファミレスに入店し、優勝の余韻に浸り、思い出トークを繰り広げた。そして自分たちのこれからのことについて話をした。
 雄星は近々教員採用試験を受け、教師への道に進む。雄星のことだ。教員採用試験は難なく合格できることだろう。小学校の教師になって、サッカーチームの監督をして全国大会に導くことが雄星の次なる夢だ。
 涼太と友也は言わずもがなかもしれないが、二年後に大学を卒業した後、プロの世界に入るようだ。すでに涼太はプロチームから入団の打診を受けているし、友也も今日の試合の活躍もあって、すぐにプロチームからお誘いがあることだろう。二人のこれからの活躍を思い描くと、今から心がワクワクして仕方がなかった。この二人は将来日本のサッカー界を背負って立つ存在になる、貴弘はそう確信していた。
「貴弘君は大学院に進むんですか?」涼太が聞いた。
「あぁ、メディカルトレーナーになるために、院に行ってスポーツ医学の知見をより深めて、その間に色々な資格も取っていこうかと思っている。だからまだしばらくは学生だ。将来的にはプロサッカーチームの専属トレーナーになってお前ら二人のプロとしての活動をサポートをしたいんだ」
「まじか貴弘君! 貴弘君なら最高のトレーナーになれるよ! 俺たちの専任トレーナーになってもらおうぜ。なぁ涼太?」
 友也は目を輝かせて言った。涼太も「そうだね」と同調した。
 この時四人の将来は希望に満ち溢れていた。何も遮るものはない、俺たちは無敵だ。そう思っていた。
「それにしてもお前らあんな観衆の面前で告白するなんてすごい勇気だな」
 貴弘が感嘆の声を上げた。
「はははッ。俺は見ていて気持ちがよかったぞ。まさに男って感じだったな」
 雄星も二人の行動を褒め称えた。
「まぁ亜由美さんにはこっぴどく叱られちゃいましたけどね」
 友也は照れ笑いしながら頭を掻いた。
「でも、まさか涼太も俺の後に続くなんて思っていなかったよ。良い意味でお前らしくなかったというか」
「今思うとめちゃめちゃ恥ずかしかったよ。友也が急に告白するもんだから、俺も負けてられんと思って体が勝手に動いたんだ。気付いたらあぁ言ってた」
「でもこれでどう言う結果になっても恨みっこなしだな」
 友也の言葉に涼太は「もちろん」と言って笑顔で頷いた。
 ファミレスを出た後、貴弘と雄星は普段滅多に来ない『さいたま市』に来たから、街で少し買い物をしてから帰ることにした。そのため、涼太と友也とはファミレスそばの交差点付近で別れることとなった。
「涼太、友也お前らと一緒にサッカーできて本当に最高だった。ありがとうな!」
 雄星は快活に信号待ちをする二人に声をかけた。
「ちょっと雄星君、今生の別れみたいに言わないでくださいよ!」
 友也が手を振りながら答えた。
「これからもまた四人で集まりましょう。僕らはいつまでも仲間でしょ?」
 涼太が言う。
「あぁそうだな。またな!」
 貴弘はそう言うと、二人に手を振ってから、踵を返した。
 そこから二、三歩歩いたくらいの時だっただろうか。何かが猛烈に迫ってくるような音が聞こえてきた。そして次の瞬間、自分たちの後方でけたたましい轟音が轟いた。
 貴弘は思わず耳を手で押さえた。反射的に振り返ると、その景色は数秒前に自分の眼に映っていたものとは別世界になっていた。
 燃え盛る火炎と高く立ち込める煙、群衆の奇声。
 貴弘は黒煙の中を必死に目を凝らして読む見てみると、なんとビルに黒い中型自動車が突っ込んでおり、そこからビルの窓ガラスが道路のあちこちに飛び散っているのが見えた。そしてその煙をあげる自動車の傍に横たわる人影を見た。
 嘘であってくれ──。
 その思いで貴弘はその人影にゆっくりと近づいた。危ないから近づかないでという群衆の声を意に返さず、貴弘と雄星は歩みを進める。立ち込める黒煙で目が染みて視界がさらに悪くなる。それでも貴弘は煙を吸わないように服の袖で口と鼻を覆い、懸命に目を凝らした。そしてその倒れる二人の姿を捉えた。
「友也‼︎ 涼太‼」
 隣で雄星のけたたましい叫び声が響いた。
 戦慄が体中を駆け巡る。体中の血の気が引き貴弘は膝から崩れ落ちた。
 夢であってくれ──。
 決して叶わないその思いを貴弘は頭の中で願い続けた。




 櫻井 琴音

 二〇〇四年十二月


「俺たちはあいつらの傍にいたのに、助けられなかった。大切な後輩を守れなかった。悔しくて苦しくてたまらない」
 貴弘は体中を震わせながら涙を流していた。
 隣で雄星も肩を震わせ、奥歯を噛み締めている。
「でも……それは貴弘さんたちのせいじゃないですよ。悔しいけど不慮の事故だったんですから」
 奈央が貴弘をなだめようとしたが、「事故じゃない」と貴弘は食い気味に答えた。
「あれは事故なんかじゃない……殺人だ」
「え……」琴音は戦慄を覚えた。
 殺人……。
 身近でそんな恐ろしい言葉を聞くことなど初めてのことだった。
「どういうことですか……殺人ってなんでわかるんですか。どうして友也が殺されないといけないんですか⁉︎」
 琴音は責めるように貴弘に言ってしまう。貴弘を責めても仕方がないことはわかっているのに。
 貴弘の息遣いは荒くなっていた。
「さっき病院に警察が来たんだ。そして友也の母親にあることを伝えていた。偶然俺はその言葉を聞いちまったんだ」琴音は息を呑んだ。
「友也と涼太を轢いた運転手は死亡した。身元を調べたところ、平田龍彦さん、あなたの元旦那さんで亡くなった友也さんの父親でした。って」
 残酷なまでの静寂がその空間を包み込んだ。
 衝撃的な事実に琴音の心は鋭利な刃物でズタズタに切り裂かれたようにボロボロになったのがわかった。この静寂を縫うように「うそ……」という言葉が奈央の口を突いて出た。
「友也のお父さん? なんで? どういうこと? なんで父親が実の息子を殺すのよ」
 奈央は友也の過去を知らないのだと琴音は瞬時に理解した。友也の壮絶な過去を知っていたのなら、こんな言葉は出てこないはずだ。
「友也の父親はとんでもないクソ野郎なんだ。俺は友也の過去を知っている。あいつの家族はその父親から必死の思いで逃げて来たんだ。だがそいつは今月刑務所から出所したばかりだって警察から聞いた。おそらくそのクソ親父は友也のせいで自分は捕まったんだって逆恨みしている。だから友也は……」
「ちくしょう! よくも……よくも友也を! 殺す! 殺してやる! 俺がこの手で嬲り殺してやる!」
 雄星がその場で立ち上がり、我を忘れたかのように咆哮した。
「バカが! くだらねぇなこといってんじゃねぇ! 落ち着けよ! それにもうそのクソ親父は死んだんだ! 俺だって殺せるもんなら殺したいけど、死んだ奴をどうやって殺すんだよ!」
 貴弘は必死に雄星を止めた。だが、琴音も二人の気持ちがよく分かった。琴音も同じだったから。人を殺したいほど憎んだことは初めてだった。どす黒い感情が琴音の心を蝕んでいく。
「もう二人ともバカなこと言わないでよ! そんな友也君が悲しむようなこと言わないでよ……」
 奈央の涙ながらの声で二人は押し黙った。琴音も我に返った。奈央がいなければ憎しみの塊が自分の身体を支配してしまっていたかもしれない。琴音は心の中で奈央にありがとうとごめんを何度も繰り返した。
 後日、警察からの情報でわかったことだが、友也の父、龍彦は、留置所にいる間、同部屋の受刑者仲間にあることを漏らしていたという。これは警察から聞いたその受刑者の発言に基づくものだ。
 龍彦はその受刑者が家族の差し入れで読んでいたサッカー雑誌を見ると、目の色を変えて「ちょっとそれ見せてくれ」とせがんできたという。そこには『次世代の選手たち』という特集が組まれており、そこに涼太と友也の姿が写っていた。
 それを見た龍彦は「俺の自慢の息子なんだ。出所したら一番に会いに行きたいんだよ。そうかサッカーでこんなにも活躍していたんだなぁ」そうやって嬉しそうに言っていたらしい。
 その受刑者は息子を想う父親のため、このように言った。
「十二月末にさいたま市のNACK5スタジアムで、大学サッカーの決勝戦がある。あんたの息子さん、その雑誌に筑波大学のエースって書いてるだろ? もし決勝に進めば、お前さん、息子の晴れ舞台をその目で見れるんじゃないか? あんた出所の予定日確か俺と同じで十二月中旬頃だろ?」と助言してあげたそうだ。
 その受刑者曰く、その時の龍彦の不敵な笑みはこれから起こる惨劇の予兆だったかもしれないと今になって思ったのだそうだ。二人は予定通り出所して、龍彦の誘いで、仲良く二人揃って龍彦の息子が出る試合を一緒に観に行くこととなった。
 そして、その元受刑者は次にこのように警察に告げたという。
「その時、龍彦はしきりに俺が車を持っているのかどうか聞いてきたんだ。俺は黒のヴォクシーを持っていたから、持っていると言うと、自分も一緒に乗せてくれないかと聞いてきたから、良いよと答えたよ。当日の会場では大きくなった息子を応援する父親の姿そのものだったよ。試合に勝った時も大いに喜んでいたな。試合が終わって帰ろうとした時、気付くと龍彦の姿はなかったんだ。そして自分のカバンから車の鍵が無くなっていた。その時初めて騙されたんだと思った。あいつ最初から俺の車を狙っていたのかってね。車を止めていた駐車場に行ったが、すでに車は無くなっていた。諦めて警察に被害届けを提出しなければと思って警察署を目指していた時、遠くの方で激しい轟音と立ち上る煙が見えてよ。なぜだか妙な胸騒ぎがしたんでね、現場に向かうとそこには無残にもぐちゃぐちゃな鉄の塊と化した自分の車があったんだよ。ほんと最悪だぜ。それにしても龍彦が自分の息子を殺すほど憎んでいたなんてなぁ。その息子もほんと可哀そうだ。こんな頭のおかしい奴が父親だなんて。将来有望な選手だったのになぁ」
 琴音はこの話を聞いて、あまりの憎しみで叫び上げそうになった。人ごとのように話すこの元受刑者が殴ってやりたくなった。お前が友也の居場所を教えなければ、車を使わせなければ、こんなことになっていなかったかもしれないのに。その禍々しいほどの思いが脳裏を駆け巡る。
 皮肉にも友也が人生を変えるきっかけとなったサッカーの存在、そのサッカーで活躍したことが仇となり、友也は龍彦に自分の居場所を自分の存在を伝えてしまっていたのだ。こんなにも残酷で非情な現実が他にあるのだろうか。やっとの思いで辛いトンネルを抜け出して未来に希望を見つけた青年に神はなぜこのような仕打ちをするのだろうか。
 これでは誰も報われない。友也には何をどう頑張っても明るい未来は待っていなかったというのか。この殺人鬼から逃げられる術はなかったというのか。そんなの酷すぎる。惨すぎる。

 到底気持ちの整理がつかないまま、琴音は友也の通夜に参列した。
 友也の母がクリスチャンであることは以前聞いていたが、友也が無神論者であったこともあり、キリスト教特有の教会でのお葬式ではなく、古来日本風の作法で執り行われた。明日の葬儀は親族のみで執り行われるらしい。
 通夜には友也の中学、高校時代の友人、筑波大学サッカー部の面々、決勝で戦った関西学院の選手たち、友也と日本代表で一緒に戦ったプロサッカー選手等、参列者は錚々たる面々で、かつ非常に大勢の参列者が集った。友也がいかに大勢の人々に愛されていたかを琴音は再認識した。
 祭壇には生前の友也の満面の笑みで写る遺影が飾られている。
 それを見て、琴音の胸の痛みはより大きくなる。友也を失った喪失感は全く無くなる気配なんてなかった。参列者もみんな、あまりに突然の出来事に未だ心の整理がついていないように思えた。人々の泣き声が葬儀の行われている会場を満たしていた。
「なんであいつは来てないんだよ」
 貴弘はキレ気味に言葉を漏らす。あいつとは無論涼太のことだった。貴弘と雄星、そして琴音と奈央も喪服で身を包み、四人並んで廊下のベンチに座っていた。
「自分の目の前で親友を失ったんだ。きっとまだ涼太は暗闇から抜け出せていない。無理はないだろ」雄星がたしなめる。
「でも、最後なんだぞ。本当に……。俺たちがあいつの顔を見れる最後の日なのに。良いのかよ、それで」
「それを決めるのは俺たちじゃない。涼太自身だ」
「くそッ。んなことわかってるよ」
 貴弘は悔しそうに奥歯を噛みしめ、渋面を作った。
 琴音と奈央は口を噤んだ。貴弘の気持ちもわかる。けれども、もし自分が涼太の立場だったとしたら、涼太と同じように葬儀にすら出席できないほど、心に深いダメージを負ってしまう可能性を否定出来なかった。
 通夜の一通りの段取りを終えたところで琴音は奈央と一緒にいるところを後ろから「琴音さん?」と声をかけられた。女性の声だった。振り返るとそこには友也の母の雅子と弟の史也がいた。琴音は「はい──」と答えた後、その後の言葉が続かなかった。
 普通ならここで、この度はご愁傷様でした、といった決まり文句を述べないといけないところだろうが、この二人にそんな言葉を安易に用いることが憚られた。二人は最愛の家族を二人も失っているんだ。しかも雅子からすると元夫、史也からすると実の父親に最愛の息子、兄を殺され、奈落のような深い深い悲しみの底に突き落とされ、想像絶する苦しみと戦っているんだ。そう思うとどんな言葉も浅はかに感じ、何一つ言葉は出てこなかった。
「どうして……どうしてお兄ちゃんは死なないといけなかったの?」
 史也が唇を震わせながら口にした。
「史也! あんた琴音さんにそんなこと言ってもどうするの!」
「そんなの知らないよ! でも誰にこの気持ちをぶつければ良いのかわかんないんだよ! あのクソ親父が死んでいなかったら、あいつを殺すって言う目的を持てたのに、死んじまうし、この怒りと悲しみをどこにぶつけて良いかわからないんだよ! もう心が壊れそうなんだ……。僕たち家族が一体何をしたっていうの。この世は不公平だ。ずっと辛い思いをして生きてきて、ようやく前を向いて生きていけると思ったのに、夏菜子姉ちゃんだけじゃなく、友也兄ちゃんまで奪われた。もう嫌だ。僕も二人と一緒に死ぬ!」
「史也‼︎」
 雅子が史也の頬を平手打ちしようと手を振りかぶった。その瞬間、琴音は史也を咄嗟に抱きしめていた。頭で考えるより体が勝手に動いた。何かを思い立ったわけじゃない。言う事だってまとまっていない。それでも琴音の口から想いが溢れ出た。
「ダメだよ史也くん。そんなこと言っちゃダメ。あなたが死んだら残されたお母さんはどう思う? そんなことしちゃ夏菜子ちゃんも友也君も悲しんじゃうよ。二人は生きたかったの。もっともっとたくさん生きて泣いたり笑ったりして夢を追いかけて、そして歳を取って死にたかったの。私達はまだそれが出来る。私なんかより史也くんの方がよっぽど悲しいと思う。大切な家族を殺されてどうしようもなく辛いと思う。だから泣いて良いの。でも一人で泣くより一緒に泣こう。二人を想って、たくさん悲しんで
たくさん泣こう。そして二人に代わってたくさん生きるの。たくさん生きておじいちゃんおばあちゃんになって、それから死んで、たくさんのお土産話を持って二人に会い行くんだよ。それが残された人たちに唯一出来る事だから。だから生きよう。生きよう史也君──」
「う、うわぁぁぁぁ」
 史也は琴音に抱き寄せられながら声を枯らすほど泣いた。琴音も目から溢れる涙を抑えることは出来なかった。
「琴音さん、ありがとう」雅子が琴音に声をかけ、そして続けた。
「友也はね、家であなたのことをよく話していたの。とても素敵な女性に出会えたって。友也が家でそういう話をするのは初めてだった。とても嬉しそうだったわ。きっと琴音さんは友也にとって初恋の人だったんだと思う」
「私は……」
「あ、良いのよ。琴音さんが友也を好いていたかどうかはさして問題じゃないの。私はあなたにお礼が言いたかった。友也の人生においてきっとあなたは特別な存在だった。息子に素敵な恋をさせてくれてありがとう。どうか友也のことは忘れないであげてね」
 雅子は琴音の手を取って、涙ながらに微笑んだ。琴音は雅子の手をぎゅっと握り、「絶対に忘れません」と声を絞った。

 帰り道、琴音は奈央と二人で並んで歩いた。冬の空気はからっと乾いていて少し肌寒く、夜空では星が綺麗に瞬いていた。
「星、綺麗だね」奈央が言う。
「うん」
「友也君も見ているかなぁ。見ていると良いなぁ」
 琴音は夜空を見上げた。満点に輝く星たちが友也のように思えた。友也もこの短い人生の中で命の炎を燃やし尽くす、その瞬間までこの星たちに負けないくらい懸命に輝いて光を放っていた。誰の心にも残る強い光を放っていた。
 友也君、月並みの言葉かもしれないけど私、君に出会えて本当に良かった。君と出会ってまだ二年も経っていないなんて信じられない。それだけ私は君の放つ光に魅了されていたのかもしれない。その光は確実に私の心に焼き付いているよ。きっとみんなもそう。だからこそみんなの心の中であなたは永遠に生き続けるの。決して忘れないよ。君と過ごした日々を。おばあちゃんになるまで生きてたくさんの思い出話を持ってまた君に会いに行くから。それまで待っていてね。またね友也君──。
「奈央」
「ん?」
「友也君の分も沢山生きようね」
「うん、そうだね」
 新たな決意を胸に琴音はまたどこまでも広がる夜空を見上げた。

 友也のいなくなった筑波大学サッカー部は立ち直るのに多くの時間を要した。プレー面でもムードメイカーとしても友也の存在は筑波大学にとってなくてはならない存在になっていたからだ。
 そして追い打ちをかけたのは涼太の退部だった。怪我をしたとはいえ全治は半年ほど。治療後にまた練習を再開すればプロの舞台に行くことも涼太の実力があれば可能なはずだった。涼太にとっては、負ってしまった足の怪我よりも友也を失ったことによる心の傷の方があまりにも代償が大きかったのかもしれない。
 琴音と涼太は違う学部であったこともあり、普段学校でばったり出会う事も無く、無常にも月日はどんどん流れて行った。琴音と奈央は変わらずサッカー部のマネージャーを続けた。後輩マネージャーも入部し、先輩として、なんとか平静を装ってマネージャー業務を全うしようとしたものの、もちろん心が完全に晴れ切ることはなかった。
 月日は流れ琴音と奈央は四年生になった。琴音は看護師になるため、奈央は助産師になるため、お互い厳しい研修等も励まし合いながらなんとか耐え、たくさんの専門知識も身につけていき、来たる国家試験には見事一発合格を果たした。
 四月からは二人で地元の『霞ヶ浦総合病院』に勤めることとなった。初めてのお仕事で不安は一杯だったが、奈央がいれば頑張れると琴音は思った。
 卒業が近くなり、常に頭をよぎるのは涼太の存在だった。サッカー部をやめてからこれまで何をして、どんな思いで過ごしてきたのか。知りたかった。会いたかった。会って話がしたかった。だが、携帯電話に連絡しても繋がることはなかった。
 もう二度と会えないかもしれない、そんな諦めに近い思いを、琴音は抱きつつあった。。
 そしてその思いのとおり、結局涼太と再び会う事もなく大学卒業の日を迎えた。
 着慣れない袴で身なりを整え、大学で過ごした四年間に思いを馳せた。サッカー部の後輩達は涙ながらに自分たちの門出を盛大に祝ってくれた。奈央に誘われて踏み入れたサッカーという未開の地で沢山の出会いや経験に恵まれて、友の死という辛いこともあったけどそれでもこのサッカー部に入って本当に良かったと心から感じた。
 いよいよ来月から社会人だ。卒業式を終え、琴音と奈央は大学の門の前にいた。
「なんかあっと言う間だったね。辛いこともあったけど奈央といられて幸せな大学生活だったよ。来月からは同僚兼親友としてまたよろしくね」
「うん、琴音は私からは離れられないよ〜。ずっと一緒! 大好き!」
「私も大好きだよ、奈央」
 そんなやりとりをしている時だった。琴音の視界の端にある人物が映った。その人物は建物の影に隠れ、すぐに見えなくなる。琴音は咄嗟に体が動いて、その人を追った。「琴音⁉︎ どうしたの⁉︎」
「ごめん、奈央。私まだやることがある!」
 動きづらい袴で琴音は懸命に走った。
 今会えなかったらもう二度とその人に会えないと思った。琴音はその人の後を追った。そして琴音はその人物を見つけた。彼は無人のサッカーグラウンドの横にあるベンチに座って、着慣れていなさそうなスーツを見に纏い、ぼんやりと宙を眺めていた。琴音はグラウンドに駆け寄って、大きく息を吸った。
「涼太君!」
 涼太は体をビクッと振るわせ、こちらを振り向いた。
「琴音ちゃん……どうして……」
「やっと見つけたよ」
「俺……」
「ちょっとお話しない? 久しぶりだしね」
 琴音は涼太の隣に座った。自分から話そうと言ったものの何から話せば良いのか、わからなかった。
「言いたいことたくさんあるよね。色々ほんとごめん。俺何でも答えるから」
 涼太は申し訳なさそうに眉尻を下げていた。
「それじゃあ、まず一言言わせて」
 琴音はまた深く息を吸った。
「電話くらい出なさいバカ涼太君! どれだけ心配したと思っているの!」
「ご、ごめん……」
「来月からは何をするの? ちゃんと大学は卒業出来たんだよね?」
「うん。単位ぎりぎりだったけどなんとか。実は公務員試験受けててさ。なんとか合格出来たから来月からは土浦市役所で働くよ」
「そう。それは良かった」
 なんでプロを目指すことをやめたのかは聞けなかった。聞くだけ野暮だと思った。
「琴音ちゃんは来月から看護師?」
「うん。奈央と一緒に霞ヶ浦総合病院に勤めるの。また奈央と一緒だから心強くて」
「それなら怖いものなしだね」
「あのさ……友也君の通夜、行かなくて良かったの?」
 これも琴音は聞くか躊躇った。友の死を認めたくなかった、それが理由。聞かなくてもそれくらいはわかる。でも涼太の口から真実を聞きたい気持ちがあった。
「それは……」少しの沈黙が二人の間に流れた。「信じられないかもしれないけどさ、友也が死んだ夜、あいつ……俺に会いに来てくれたんだ」
「え?」
 涼太はその夜の出来事を話してくれた。




 折原 涼太

 二〇〇四年十二月


 頭が痛い。腕も足も痛い。けれども、それよりも何よりも、心が痛い。
 友也が死んだという事実を飲み込むことが出来ないまま、涼太は病院のベットに横になっていた。虚無感が心を支配する。何も考えられない、何も考えたくない。我ながらなんとも情けない姿かと思った。
 こんなところ友也に見られたら怒られちまうな……。
「そのとおりだよ、このバカ」
「え⁉︎」涼太は自分の目を疑った。目の前には胡坐を組んで、さらに腕も組んで、仏頂面で宙をぷかぷかと浮かぶ友也の姿があった。
「ど、どうして……」
「あぁこれはあれだよ。オバケだよ」
「オバケ⁉︎」
「本当に死んでもこうやって会いに行けるんだな。こりゃ死んでみないとわかんないわ。夏菜子もこうやって俺に会いに来てくれたんだな」
 まるで他人事のように笑う友也を見て涼太は歯を食いしばる。
「何笑ってんだよ。お前死んじまったんだぞ。俺が死んでいれば……。お前、どうしてあんなことを──」
「それ以上は言うな、涼太。これで良かったんだ。それに俺を殺したのは俺のクソ親父だ。だからこれはうちの家族の因縁なんだ。お前に首を突っ込ませてちゃダメなんだ。あの野郎は俺が死後の世界行ってから思う存分ぶん殴ってやる」
「友也、あんなにプロになりたがっていたじゃないか。プロになって家族を養うってそう言っていたのに、もう死んじまったらプロにもなれないんだぞ」
「それはもちろん悔しいよ。でも、もしお前が死んでしまっていたら俺はプロを目指せなかったかもしれない。お前がいないサッカー人生なんて考えられないから」
「それは俺も同じだよ。友也がいないのにプロを目指す意味を俺は見つけられない。もう無理だよ」
「ま、良いんじゃねぇの? それで」
「え」
「別に俺メンヘラじゃないからさ。俺の代わりにプロで活躍してくれなんてこと言うつもりはないよ。涼太には涼太の人生がある。俺はそれに口を出したくない。涼太の人生は涼太自身の手で謳歌していってほしい。ただ、これだけは約束しろ。後悔する人生だけは送るな」
「友也……」
「まぁ唯一心残りがあるとすれば琴ちゃんの答えを聞けなかったことかな。まぁ多分振られちゃっていたとは思うけど、それならそれでよかったんだ。好きでいさせてくれた、それだけで俺は琴ちゃんに感謝しているから。琴ちゃんには誰よりも幸せになってほしい。涼太、琴ちゃんのことよろしくな。こんなことお前にしか頼めないから」
「友也……俺……」
「お前がそんな心の強い人間じゃないことは知っている。俺が死んだこともお前にとって相当な重荷、負担を強いることになるだろうから、すぐには立ち直れないかもしれない。それは本当に申し訳ないと思ってる。でも琴ちゃんならきっとお前を支えてくれる。強くなくったっていいんだ。お前は誰よりも優しい奴だから。人の取り柄なんて一つあれば十分だろ。足りない部分は誰かに補って貰えばいい。それが人間ってやつだろ」
「怖く、ないのか?」
「何が?」
「死んだ先の世界がどういうところなのかもわからないじゃないか。不安じゃないのか?」
「不安だし怖かったよ。でも今はあんまり怖くないんだ」
「どうして?」
「夏菜子に会えるから。まぁこんな早く会いに行ったら、すぐに来過ぎだってどやされそうだけどさ。でも、だから怖くない」
「……俺、お前に出会えてほんと良かった」
「俺もだよ。お前がいなかった今の俺はいなかった。感謝しかない。一生俺の相棒でいてくれよ。ただお前はまだこっちに来るな。夏菜子と一緒に涼太の幸せを心から願っているから。またな、涼太──」
「友也──」
 辺りは光に包まれ、涼太の意識は光に溶けていった。




 櫻井 琴音

 二〇〇七年三月


「通夜には、あいつの死を完全に認めてしまうのが怖くて、足がすくんで動けなくて、行けなかった。俺は友也がいないと輝けないんだ。だからもうサッカーは……出来ない。でも、それでも諦めきれないことがある」涼太力強い目で琴音を見据えた。
「俺、琴音ちゃんのことは諦めたくない。一目見た時からずっと好きだった。小学校の時、ディズニーランドで見たのは間違いなく琴音ちゃんだった。あの時から俺は君を探していたんだと思う。そしてようやく見つけたんだ。こんな弱い俺だけど、俺と付き合ってくれませんか」
 涼太は琴音に手を差し出した。
 琴音は二年前の光景が脳裏に浮かんだ。インカレ優勝後に涼太と友也が自分に手を差し出して、告白してくれたあの光景を。あの時と違って友也の姿はもうないけれど、友也の事はみんなの心に刻まれている。誰も忘れたりはしない。琴音は涼太の想い、そして友也の想いを受け止め、涼太の手をしっかりと握りしめた。
「私が涼太君をこの世の誰よりもいっぱい幸せにする。私で良ければ、よろしくお願いします」
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