5.いつか愛されていた僕へ。ずっと愛している君へ。

文字数 1,904文字

5.いつか愛されていた僕へ。ずっと愛している君へ。

僕の最愛の人が亡くなった。僕が初めて愛した人に愛してると伝えられなくなってしまった。
口から漏れ出る愛は目的地もなく、ふらふらとさまよう。
彼女はよく笑う人だった。少なくとも、僕が彼女と過ごしていた間は、彼女が笑顔を絶やしていたのを見たことがない。
それは好物を僕が食べて怒っていた時も、二人で飼っていた犬があの世に行ってしまった時も、病室の窓から狭い世界を覗いていた時も、最期に僕と喋っていた時も、いつまでも。
眩しくて、つい目を細めてしまいそうなほどの、けれどどうしても視界に入れてしまう、そんな不思議な笑顔だった。
その笑顔を僕はいつも彼女の横で見て、ついつい笑みをしてしまう、そんな平和な日常を今日も過ごしているのだと、あの頃は思っていた。
——ああ、目の焦点が合わなくなってしまう。
段々とピントの合わないカメラへとなっていくのに耐えきれず、そっと服の裾を濡らす。そのまま上を見上げ、彼女には遠く及ばない、輝く星々を見つめる。彼女を見送ったときにダムが決壊して、全部流し切っていたと思っていたんだけどな。
現在は深夜の一時、いや二時だろうか。周囲は灰色と黒で一杯になっている。普段空っぽなはずの使えない脳みそは既に彼女に占領され、時間を考える余裕すら僕にはもうない。
足を止めても、頭は回るらしい。暗くて深い闇に包まれた公園のベンチで、今度は顔を下げ、ぼーっと思案する。
僕はこれからこんなに辛い思いを背負って生きていくんだろうか。それとも、数年、数ヶ月でこの悲しみも忘れてしまうのだろうか。忘れてしまうのならば、人の生とはどうしてこんなにも虚しいのだろうか。
無性に気持ちが落ち込んだ。きっと彼女はこんなこと望んでいないのだろうけど、それでも理性が半分以上吹っ飛んだ僕にそれを止めることは難しい。赴くままに気分と月は落ちていく。いや、月は雲に隠れて見えなかったけれど。
こんな時、彼女が横にいたならばどうしてくれたのだろう。
あのふわりとした優しさに満ち溢れた手で、これまたふわりと僕の頭を撫でてくれただろうか。
それとも、あの華奢な体で、力強く、けれど聖母のような慈愛で僕の体を包んでくれたのだろうか。
やっぱり、あの天使のような、太陽のような笑顔で僕の心も明るく照らしてくれたのだろうか。
今となってはもう知り得ない。もはや会えることのない彼女への妄想は膨らんでは風船のように割れていく。
気分はまた落ち込んだ。いつしか奈落、あるいは深淵にまで届いてしまいそうだ。
すうっと、淡い光がそんな僕の深淵と公園を照らした。どうやら恥ずかしがり屋が雲の中から顔を出したらしい。
顔を上げて光源を眺める。卵の黄身のような丸い月は、なんでだろうか、いつもよりも美しく見えて、引き込まれた。
先ほどまでの沈んだ気持ちを押し上げるように、月はひっそりと僕の顔を照らす。
ゆっくりと立ち上がり、遼遠なそれに僕は手のひらを重ね、ぎゅっと、掴むように拳を握る。
僕の胸の辺りで何かがぷつんと切れるような音がした。いや、どちらかと言えば、すとんと落ちるような感覚だろうか。
兎にも角にも、空虚とはまた違う空いたものが僕の胸の辺りを満たす。なんとも言えぬ高揚感が自然と僕の口角を上げた。
そのまま、衝動に突き動かされるように公園の自販機でその独特な苦味が大嫌いだったブラックコーヒーを買い、プルタブを思い切り開けて黒い液体を口に流し込む。
——やっぱり、嫌な苦さだ。
——けど、妙に体は拒まない。
ハハハ、と今まで出したことのない少々引きつった笑い声が漏れ出る。
勢いのまま缶の中身を胃に送り込み、自販機の横のゴミ箱に捨てる。
苦さの残った口の感覚をしっかりと感じながら、深呼吸をして目を瞑った。
数秒後、ゆっくりと世界が現れていく。
さっきとは全然違う、色のついた世界が僕の視界に現れていく。
木々は緑の葉と茶色い幹で構成されていて、さっきまで座っていたベンチは橙色に着色され、砂場は薄い黄色、花壇は赤やら青やら白など様々な色で満ちてる。
彼女の死に思考を奪われて、今の今までずっと忘れてしまっていた。これが本当の、僕に見える景色なのに。
半分以上なかった理性も少しづつ戻ってきたし、そろそろ帰ろうか。
帰路を辿るべく、僕は公園の外へと足を踏み出した。
「■■■■■」
背後から何か言葉が聞こえた気がして、咄嗟に振り返る。が、もちろんそこに人がいるわけもなく、一陣の風が公園を駆け抜けては止んだ。
そう、人はいなかったのだ。
だから、きっとあの輝かしい笑顔を浮かべていた彼女も、ただの幻影に過ぎないのだと。
僕は自分に言い聞かせた。


作:かりんとう
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