第3章 孤立

文字数 5,434文字

 八時五十六分、前を走るスズキ・ワゴンRのバックミラーに運転手の顔が映っているのが見えるくらい接近してコトブキは車を飛ばしていた。青信号が点滅しだした。前の車が減速しかけたのでコトブキはクラクションを鳴らした。運転手の若い女は煽り運転を初めてされたような顔をしてバックミラー越しに何度もこっちを見てきた。
 くそ、早く行け、
 八時五十九分、駐車場は既に皆の車が停まっていた。
 レジ裏に停めてあった『先生』の車の横に駐車した。少しでもショートカットしなければ間に合わない。コトブキはリュックを摑み、車を降りて走った。
 教室に入ると、ちょうど皆が起立したところだった。すみません、と言いながらコトブキは席に滑り込んだ。日直がコトブキの方を振り返ったあと、いつもの号令をかけた。
 着席したコトブキはまだ息が上がったままだった。教室の時計は九時を回ったばかりだ。間に合った、とコトブキは呟いた。
 遅刻だよ、そう女の声がした。声がした方をコトブキが見ると、女はそっぽを向いた。
 教壇から『先生』に名前を呼ばれた。何人かの女がコトブキの方を振り返った。オオハナタカコは振り返らなかった。目が合った女のうち全員がコトブキの寝ぐせを見てきた。昨日あの秘密クラブから帰ったあと十五時間以上は寝たかもしれない、コトブキはそう思った。寝ている間に何度か目が覚めた。だが、明日のことを考えているうちに眠りの中へ逃げ込むように睡魔が襲った。だから、昨夜は風呂に入っていないし、朝も母親が起こしにくるまで寝ていたのでシャワーを浴びる時間はなかった。からだに、ばか女の匂いがまだ残っている。指にはバニラのような甘い匂いも。あの出来事は夢じゃなかった。そして、今だって紛れもなく現実だった。『先生』はまだ話を続けていた。
「受講を申し込むときに職員の方から説明があったと思うけど……」
 コトブキから完全にマウントを取った『先生』はとにかく饒舌で、しかもタメ口になっていた。長話を要約すると、欠席するときは八時十五分から八時三十分の間まで連絡をしろということだった。授業の時間を奪われたクラスの皆から溜め息が聞こえだした。『先生』は立てた人差し指を、こっち来て、という風に動かした。
「この用紙にボイン捺して」
『先生』は教壇のうえに朱肉を出した。
 ボインですか?
「どうせハンコ持ってないだろ」
 コトブキは拇印を捺した。教壇のうえにはティッシュの箱がひとつ置いてあったが、『先生』は、あといいよ、とだけ言った。席に戻ったあと、ヒタチノゾミがティッシュをくれるかもしれない、そうコトブキは思ったが、その期待ははずれた。コトブキは朱肉の付いた指をジャケットで拭った。
 結局、一時間目の授業は十五分程度しかできなかった。教室の雰囲気は最悪。十分の休憩時間が始まると皆ネットを見たり、スマホをいじったりしてひどく静かだった。今ヒタチノゾミに話しかけたりしたら注目されそうな気がした。しかし、このままスマホを返さない訳にいかない。コトブキはメールボックスを立ち上げた。

Kotobuki wrote:
〉一昨日のことなんですけど間違って日立さ
〉んのスマホ持って帰ってしまいました。い
〉ま返します。ごめんなさい。

 送信した。コトブキはノートを破った切れ端に、メール見てください、と書いてヒタチノゾミの教科書のうえに置いた。ヒタチノゾミはコトブキのことを一度見てからそのメモ書きを読んだ。読み終えると、ヒタチノゾミは教壇で電話していた『先生』を一瞥したあとキーボードを叩き始めた。

Hitachi wrote:
〉おはようございます。先生に見つからない
〉ように机の下から渡してください。

 コトブキは言われた通りにした。『先生』にはバレなかったと思う。

Kotobuki wrote:
〉おはようございます。昨日は体調悪くて十
〉五時間以上も寝ちゃってました。まだ頭が
〉ぼーっとしてて現実感がありません( ;∀
〉;)

 送信した。だが、ヒタチノゾミから返信はこなかった。
 二時間目が始まった。メールに書いた通り実際コトブキはうわの空だった。簿記3級の資格を取ることはほとんど諦めていた。授業を聞いているふりをして教室の女を眺めていた。この女たちも旦那の前では淫らになるのだろうか。コトブキに、遅刻だよ、と言ってそっぽを向いたあの女だって、もしかしたら旦那の良いように毎晩調教されているのかもしれない。気分の乗らない日は犯されるように抱かれているのだろうか。秘密クラブを体験したことで服の上からでも女の裸が見える気がした。コトブキは指の匂いを嗅いだ。ズキズキと服の下でアソコが起きだしてきた。
 コトブキは教室を支配することを妄想した。女全員を裸にして横一列に並ばせたい、と。その為には、まずリーダー格のよく声のとおるあの女を最初に襲う必要があるだろう。そうすれば、仲の良い取り巻きが止めに入ってくるはずだ。女三四人くらいなら力で相手できる。必要ならぶってやってもいい。揉み合っているうちに女の着ているスーツなど簡単に破けるだろう。
 よく声のとおるあの女はああ見えてきっと泣くだろうな、そう思った。それに変わった変態趣味もなさそうだ。胸の大きさが左右違うことやロンパリ気味に垂れていることを馬鹿にしてやれば、もっと無様に泣くかもしれない。そうやって自分たちのリーダーが犯されれば、他の奴らは抵抗する気力を失うだろう。
 そうだ、服は女の手で脱いで貰おう、コトブキはそう考えた。最初はリーダーの取り巻き三、四人から裸になって貰う。それから裸のまま気をつけの姿勢をとらせよう。それを見た他の女は従うに違いない。自分から納得して脱ぐのだから羞恥心を感じずにはいられないだろうな。あとは悠然と椅子に腰をかけていればいい。オーディションと称したドMの選別をやってやろう、そう思うのだった。
 オオハナタカコのことはどうするんだ、ふいにあの一件が甦ってきてコトブキは彼女の方を見た。オオハナタカコが隣の女とひそひそ喋っているのを見つけてコトブキは気が気ではなくなってしまった。どういう訳かコトブキの妄想の中で教室の女全員を裸にさせたつもりが、オオハナタカコとヒタチノゾミの姿だけは抜け落ちていた。コトブキは急に冷めて現実に戻った。
「元気ないですね」
 昼飯の時間、女は口々にそう言った。『先生』ちょっとしつこかったよね、そう言ってくれる女もいた。この様子だと、オオハナタカコはあの一件を黙ってくれているようだ。コトブキは心の底から感謝した。
 ただ、オオハナタカコは一言も喋りかけてきてはくれない。コトブキの話題があがっても話に入ってくることはないし、コトブキの方を見ようともしなかった。一昨日までどういった調子でオオハナタカコと話していたのかコトブキは思い出せなくなった。代わりに思い出したことといえば、小学校のグラウンドであの日突き飛ばした女の子が翌日他人のような目をしていたことだった。コトブキの中でその女の子とオオハナタカコが重なって見えた。
『先生』と顔を合わせたくなくて食後の一服は我慢した。メールボックスを立ち上げた。ヘビースモーカーが煙草を取り上げられてしまうと急に時間を持て余した。

Kotobuki wrote:
〉簿記のことで聞きたいことあるんですけど
〉いまいいですか?

 コトブキはメールを数十回読み直して次のように書き直した。

Kotobuki wrote:
〉パソコンのことで何か聞きたことありませ
〉んか?

 そう書いたメールをまた消した。昔登録したことのある出会い系サイトで今のような質問メールを送ってシカトされたことをコトブキは思い出したのだった。ヒタチノゾミは鼻歌を歌うほどで、とても機嫌が良さそうだった。
 コトブキはヒタチノゾミにメールを出すことを諦めた。スマホから『みなさんエキストラの時代ですよ』にアクセスした。新着が五十七件入っていた。秘密クラブの電車から降りたあと一回もサイトにアクセスしていなかったとはいえ、五十七件は驚きだった。「先生」のハンドル名の横でランキングUP、という赤字が点滅していた。
 リンク先に飛んでみると『殿方ランキング』というページが表示された。順位とハンドル名と属性の項目で構成されたランキング表だった。属性には、ツンデレ、先輩、後輩、幸薄、無口、毒舌、純粋、おしゃべり、ドジ、クーデレ、悪魔、甘やかせ、Sっ気あり、Mっ気あり、初見から好感度MAX、幼なじみ、熱血漢、ムードメーカー、タカビー、帰国子女、恥かしがり屋、不思議ちゃん、クール、電波系、メガネ、小動物系、などがあり、「先生」の属性は『悪魔』だった。ランキングは五十位中、三位で『大名』の称号が与えられていた。
 そういえば……コトブキは思い出した。『匿名体験ルポ』というページがあったはずだった。アクセスすると、「先生」が電車に乗るところから降りるまでが書かれてあった。それは現場で見ていなければ絶対にわからないような内容だった。乗客は全部で十三人いたはずだ。そのうちの誰かが書いたのだろうか、それとも……記事が投稿された日付と時間が載ってある。10/27. 15:23。この時間コトブキは家に戻っている。ベッドに横になっていて、もしかすると既に寝ていたかもしれない。つまり、記事を書く時間的余裕は乗客全員にあった。もうひとつ考えられるのはやはり秘密クラブのスタッフだった。車両のどこかにカメラが付いていたのだろうか。カメラというその固有名詞はウェブカメという固有名詞をコトブキに連想させた。ウェブカメ……生配信。コトブキはゾッとなりサイトを閉じた。
 しかし、コトブキに再びサイトを閲覧させる気が起こるような事件が起きた。五時間目が始まってすぐからヒタチノゾミの様子はおかしかった。尻をもじつかせたり、椅子に坐り直すような仕草を繰り返したり、意味もなく姿勢を正したり、肩を触ったりしてとにかく落ち着きがなかった。
 授業はコトブキが欠席した昨日から始まったパワーポイントで、数日後にプレゼンする為の資料集めだった。ほとんど自習のような雰囲気で教室はうるさかった。うるさかったもうひとつの理由に、『先生』の方から老舗デパートの元従業員に話しかけていたことだ。そのどさくさの中で『先生』はヒタチノゾミに指令を与えていた。『先生』がピンチアウトのような指の動きをしたときに机の下で誰にも悟られないようにヒタチノゾミは脚をひろげていたのだ。
 コトブキの位置からだと、ヒタチノゾミのショーツが両の足首の間で今にも引き千切れてしまいそうなくらい伸びきっているのがちょうど見えた。ヒタチノゾミが片時もジッとしていられなくなってくるとスカートが捲れ上がってきた。直に見たヒタチノゾミの太股は写真よりずっと肉づきがよくてぬめ白かった。だから、太腿のあわいに黒い叢を見つけたときは、ただもうそれだけで卑猥な感じがした。
『先生』は積極的に女に話しかけているような気がした。コトブキ以外の人間でヒタチノゾミに注意をむける者は誰一人としていなかった。『先生』はときどきヒタチノゾミに流し目を送った。ヒタチノゾミは太腿のあわいに腕を重ねるように置いていたが、一方の手は明らかに自慰をしていた。
 コトブキがそれとなく動くとヒタチノゾミは咳払いをさせた。少しずつ俯いている時間が長くなった。時折顔を上げるときは必ず『先生』の方を見た。湿っぽい音が……下から聞こえるようになってきた。
 ヒタチノゾミがキーボードを打ち始めた。パソコン画面とキーボードを交互に見ながら指一本で打っていて自慰はそのまま続けている。『先生』にメールを書いていることくらいコトブキにもわかった。しかし、『先生』は老舗デパートの元従業員とずっと談笑していてメールを受信した様子はない。いくらタイピングに不慣れなヒタチノゾミでも遅過ぎるし、指一本で打っているにしても十五分はなかった。コトブキは横目で見た。ヒタチノゾミはマウスに手を置いたまま固まっていた。コトブキはまさかと思いメールボックスを立ち上げた。

Hitachi wrote:
〉チェリーくんがこっち見てます。恥ずかし
〉いです。

 教室がやにわに騒がしくなった気がした。誰かが、臭くない? と言ったからだった。臭いよね? 何の匂い? 臭いよね? あたし鼻悪いからわかんない。臭いよね? 臭いかも。臭いよね? あたしじゃないわよ。臭いよね? 何の匂いだろ? 臭いよね? 臭いくさい。臭いよね? 臭いくさい臭いくさい臭いくさい臭いくさい。女はまるで未開のジャングルに住む部族が危険を知らせるときのように次々と声をあげた。ヒタチノゾミは頭から湯気が出そうなくらい顔が赤かった。
「エアコンじゃないかな」と『先生』は言った。
 エアコンのスイッチを消した『先生』は、どう? と女に訊いた。女は口々にまだ臭いと訴えたが、『先生』は、そうかなー、と首を傾げた。その間にヒタチノゾミは服の乱れを直した。そして、『先生』はこう言った。
「やっぱ臭えなー」
 教室が終わると、コトブキは『先生』からエアコンの掃除を命じられた。女は足早に帰り、ヒタチノゾミもきょうはすぐに帰った。掃除班もじきに帰った。一時間かけてやっとエアコン掃除が終わったあとも『先生』は用事に行っていて戻って来なかった。


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