第2章 痴漢【3】

文字数 10,900文字

 コトブキの背後の座席でハンドバックの金具を遊ぶ気配と咳払いと脚を組み直した複数の気配が同時に起こった。別の誰かが咳払いをしてまた別の誰かが咳払いをした。ハンドバックの金具は一定のリズムで音を立てていて、先程と違う別の誰かが咳払いと一緒に脚を組み直した。そのあと、また別の誰かが咳払いをした。気配が起こるその度にコトブキは猫背になり身を小さくした。
 吊革を握ったままの手の平が汗でベトベトだった。目のやり場がなくて正面に坐っていた女の黒いハイヒールをずっと見ていた。その女は膝のうえに手を重ねて乗せていた。左手には結婚指輪がしてあった。
 背後で誰かが立ち上がった気がした。電車が揺れて左右に傾き、床を叩くようなヒールの音がした。ハンドバックを肩にかけ直す気配と女の息遣いが近づいてくる。コトブキの視界の左側に女が入り込んできた。女は、右腕を挙げて吊革に摑まった。
 正面に坐っていた女が吊革に摑まった女を見た。次の瞬間、コトブキは正面の女とまともに目が合ってしまった。コトブキが目を逸らしたその先に、正面の女の左隣の女と目が合って、そのまた左隣の女とも目が合った。サイトのプロフ写真で見た通りのいい女ばかりだった。歳は三十代から四十代。目許や口許や髪型や装身具や着こなしや仕草が自立した女の色香で溢れていた。最後に目が合った女がこちらにむかって微笑んだ気がした。
 コトブキは、吊革に摑まる女を見た。
 女は、コトブキを意識していた。前髪を気にするようにしておでこを手の甲で触った。女が唾を呑み込んだとき首筋に浮かぶ蒼い静脈が動くのが見えた。
 女はあごが細くて鼻が高くて、印象のよい目許は薄化粧のせいか少女の面影さえ残しているように思えた。薄化粧に赤い口紅。きつめの香水。そのアンバランスな感じはコトブキの妄想を幾重にも掻き立てた。女は七分丈の白いパンツを穿いてて、ブラウスは襟元の広く開いた青いノースリーブだった。有閑なマダムという言い方がピタリとハマる。正面に坐っている女たちのような華やかさこそなかったが、コンサバな装いは頭の先から爪先まで特別な品があった。
 女の汗が腋で光っている。女は吊革を固く握りしめていた。電車が揺れると女は両手で吊革に摑まった。この女の左手にも結婚指輪がしてあった。
 電車が再び大きく揺れた。女のからだがコトブキの方にむいて寄り掛かってきた。女の吐息が首筋にあたり、コトブキは反射的に息を止めて俯いた。女は社員証のようなカードをブラウスに付けていた。
 オフィス街のOLは社員証を付けたままランチに行くという話を何かで読んだことがあったが、ここはオフィス街ではないし社員証を自慢するには閉鎖的過ぎた。正面に坐っている女も上着にカードを付けていた。その隣の女も、そのまた隣の女も上着にカードを付けている。訳アリな社員証の正体を知りたいとコトブキは思った。コトブキはもう一度俯いた。
 ばか女……と書いてあった気がしてコトブキは一瞬自分の目を疑った。二度見したが確かにそう書いてあった。カードには本物の社員証のように顔写真が載っていた。コトブキはカードの写真と女の顔を交互に見較べた。同一人物だ。
 昨夜、ばか女という人物からメッセージを貰った気がする。プロフィールページにアクセスして件名と本文を読んだ気がする。プロフィールページにアクセスしたということはプロフ写真だって見たはずだ。だが、年齢とか職業とか、どういうメッセージを貰っただとか、件名や本文に何が書かれてあったとか、プロフ写真の女の顔もまるで思い出すことができなかった。
 断片的に覚えていることもある。まりもという女だったり、相曾という女だったり、ノーパンパンスト女という女だったり、ユキという女の名前には確か顔文字が使われていた気がする。正面に坐っている女がまりもなのだろうか。でも容姿的に相曾という名前の方がしっくりきた。そう考えると隣の女も相曾のような気がしたし、そのまた隣の女も相曾のような気がした。寝不足の頭はひどく神経質になっていて考えを巡らした傍から蒸発するように記憶が消えていった。
 コトブキは自分に寄り掛かっている女を一瞥した。外行きという感じで肩にかかった髪が巻かれてある。この日の為にお洒落してきたのだろうか。赤い口紅ときつめの香水と巻いた髪は女のせいいっぱいという感じがした。健気そうなこの女をばか女などと心の中でそう呼ぶことさえ躊躇われた。
 女の腋の下に汗染みができていた。コトブキも胸の辺りに汗を掻いていた。車内は暑い。生ぬるい風が足元に舞っていた。空調も回っていて女たちの香水で匂い立っていた。
 電車がふいに揺れた。
 女は汗を気にしてハンカチで顔を押さえた。女の巻き髪が幾筋か頬に貼り付いている。鎖骨に汗が溜まって光っている。女は青いブラウスを着ていたから腋の下の汗染みがより目立ってきた。化粧に浮いた汗は女がハンカチで何度押さえても止まらなかった。
 コトブキは思い出したように女から目を逸らした。女はその間に俯いた。コトブキはこれまで女性のことをここまで至近距離で見たことがなかった。気づいたらずっと見ていた。
女はハンカチを握りしめた。女はまだ俯いている。コトブキの心臓は熱くなった。熱い塊のようなものが腹の辺りまで拡がっていった。欲望の数々が断片的な映像となって頭の中をかすめた。唾を呑み込もうとした喉がひりついた。
 もう一度唾を呑み込もうとして正面の女と偶然目が合った。そのほんの短い間に女は驚いたような顔をしていた。スーパーで偶然見かけた息子が万引きしているのを目撃してしまったようなそんな顔だ。ただし、そんな偶然の中に母親の被虐性のようなものがあったのをコトブキは見逃さなかった。
 コトブキは再三にわたり唾を呑み込んで口元が恥で歪んだ。小学三年のとき一学年下の女の子と放課後のグラウンドで遊んでいたのを憶い出した。樹の枝でディズニーのキャラクターとかワンピースとか描いたのを憶えている。そのことを同級生五人にからかわれたことがあった。一緒にいた女の子は急に無口になった。おれが同級生と口論している間、女の子は草をちぎったり樹の枝で地面に穴を掘ったりしててずっと下をむいていた。同級生の一人がおれの気にさわるようなことを言った。アキラは女だ、とかそんな風なことをだ。そのあと、おれは突然女の子を突き飛ばした。
 コトブキは、女の尻を触っていた。女の尻が緊張したのが手の平に伝わってきた。ずっと忘れていた十数年以上も前の出来事をなぜおれは憶い出したのだろう。女の子とは、あれ以来一度も口を聞かなかった。
正面の女から見られているような気がした。コトブキは顔を上げた。その隣の女もそのまた隣の女もコトブキを見ていた。そうだよ、おれは最低な人間なんだよ、心の中でそう繰り返し呟いた。あのとき同級生はおれが女の子を突き飛ばすことをどこかで期待していた。今だって女たちは、これからおれがやることを期待しているはずだ。目撃者として。女として。赤の他人として。責任ある大人として。野次馬として。母親として。傍観者として。コトブキは、手の平に力を込めた。
 女は息を呑んで、からだをびくびくさせた。固く緊張させた尻の溝は深くて馬のような尻だとコトブキは思った。女は踵の高い靴を履いていた。オオハナタカコに変態まがいのセクハラ行為をしたときは尻の感触を味わうような余裕はなかった。だから今回こそは爪が立つほど触りまくった。女が下をむいた折に髪の毛で顔が隠れた。コトブキがどれだけ尻を弄ぼうが女はされるがままでいた。
 いくら女が表情を隠したところで顔にだけ気持が表れる訳ではない。コトブキはそう思って、女の腋の下に好奇の目をむけた。腋の下は一際肌が白くて毛穴がところどころ凸状になっていた。一筋の汗が腋から伝っている。目を凝らすと少しだけ白く濁って見えた。ブラウスの染みをガンミされても女は顔を隠したままでいた。
 コトブキはあることをふと思いついて顔にださないようにして笑った。女の腋の下を匂いながら正面の女を見てやった。女とはすぐに目が合った。女は、コトブキが目を逸らさないことがわかると一度俯いたが、もう一度視線を合わせたときには挑戦的な目で見つめ返してきた。そう言えば、昨日のオオハナタカコにもあんな風な顔をされた。
 女の腋の下で深呼吸をした。香水とは違う匂いがした。二度三度と続けて深呼吸をしたあとは匂いを貪った。正面の女の顔が赤くなっていく間もコトブキはずっと見つめていた。腋の下でどんな顔をして深呼吸をしていたのかコトブキは覚えていない。鼻の穴が拡がっていたような気がするし瞳はあべこべの方向をむいていたかもしれない。
 正面の女が目を逸らしたあと、コトブキは鼻で嗤った。隣の女に今の顔を見られてしまった。だが、その女もすぐに目を逸らして下をむいた。イマノカオヲミタダロという風にそのまた隣の女と目が合うとき、コトブキは恐ろしく真顔になっていた。その女もやはり申し訳なさそうに下をむいた。
 コトブキは女の髪の毛をはらえるようになるまで自信をつけた。女は伏せた睫毛の先を震わせていた。十ほど歳の離れたこの女が年下のように思えた。ずっと理解に苦しんでいた『先生』とヒタチノゾミの関係が今では嘘のように腑に落ちた。
 車内にいる女たちをコトブキはぐるりと見回した。女たち全員がコトブキから目を逸らした。女たちの頭数をあごで数える余裕さえあった。コトブキは生まれて初めて女が怖くなくなった気がした。女は全部で十三人乗っていた。
 コトブキは吊革に摑まる女の手を握りしめた。ベトベトの手汗を女に何の遠慮もすることなく塗りつけた。女が髪の毛で顔を隠そうとすれば、その髪をはらった。女はそうされると、唇を固く結んで、洟息がうるさくなった。
 レールの継ぎ目を通過する音にコトブキはしばらく耳を澄ませた。
「一週間前から……きょうのことしか考えられなくなりました」
 コトブキは、女の声が聞こえていたが無視した。女は、コトブキが今どんな顔をしているのかさえ見れなかった。コトブキは、人から見られてはまずいような顔をして女のことをガンミしていた。
 今までコトブキは重大な誤解をしていたことに気がついた。中二の夏休み明けをキッカケにして同級生が急にマセ始めた。髪型だったり、服装だったり、言葉遣いだったり、読んでいる雑誌の違いだったり、お互いのことを名字で呼びだしたり、反抗的に唇を尖らせて見せたことがあった。コトブキはこうしたハッタリを格好悪いことだと思っていたし、結局怖い先輩の前ではペコペコしててより強い集団に帰属しようと必死になっていたのを軽蔑していた。だが、そういうことは必要だったのだ。
 学年が中三に上がると強い者とそうでない者との間に明確な線が引かれてあった。コトブキは集団の同級生の目を見ることができなくなっていたし、偶然飛んできたバスケットボールが自分にぶつかっても彼らはぶつけたことにさえ気がついていないようだった。彼らのハッタリは、バスケットボールをぶつけてもこいつは何も言い返してこないという事実を見事に暴いて見せたのだ。
 この女は、おれの目さえまともに見ることができないような人間だったのだ。尻を触っても平気な女だったのだ。もし出会う場所が違っていたらそういうことに気がつかないまま通過していたことだろう。この女と偶然街ですれ違って、まさか痴漢されることしか考えられなくなった女だなどと誰が思うだろうか。
 ノースリーブの袖のところからコトブキは手を入れた。ブラジャーに保護された胸は固いんだな、というのが第一印象だった。それと同時にこの女がノースリーブの袖から手を入れられてもNOと言えない人間だということがわかった。ばか女……コトブキは心の中でそう呟くとこれからこの女のことをそうやって呼ぶことにした。
 胸を触っているうちに自然とブラジャーがうえにずれた。手の平を茱萸のようなものがくすぐった。既に固くなっていて右に捩れたり左に捩れたり弾力がある。
 ばか女はどこまでおれのわがままを聞いてくれるのだろうか。それが知りたくなった。この固くなった乳首で試してみることにした。まずは軽く指で抓んだ。次に抓んだ先にそっと力を込めた。とりあえずばか女はここまでは許してくれるらしい。次に指で抓んだまま捩じ回すごとに力を込めていった。ばか女は何も言ってこない。コトブキはまだまだ力を込め続けた。
 爪の先が立つくらいやってもばか女は声ひとつ洩らさなかった。乳首取れちゃうんじゃないですか、そう心の中でうそぶきながら引っ張っているうちにブラウスの縫製がぶちぶちいった。どうやら、このばか女は乳首が取れてしまってもいいらしい。つまり、この女には何をしてもいいということだった。
 ばか女の頬にかかった髪をコトブキは指ではらった。キスをしてみたくなった。異性にさほど積極的でない男特有の不潔な身だしなみをコトブキは自覚していた。年じゅう寝ぐせをつけていることもそうだし、ここまで奥手になったのには口臭を気にしていたせいもある。歯の表面を舌先で撫でると唾液が粘ついた。コトブキは、ばか女の首に回した腕で肩を握った。そして、キスをした。
 口紅が脂っぽいことをこのとき初めて知った。舌を絡めてみたい、そう思った。ばか女は遠慮気味に舌先を出した。コトブキはそれを唇で挟み、のみぞ吸った。ばか女の唾液もひどく粘ついていた。もはや舌先と呼べる上品なものではなかった。お互いの口の中でベロとベロが絡みついた。ばか女はやにわに興奮してコトブキの吐息を貪った。思えば、遠く長い道のりだった。コトブキにとって、これが二十七歳のファーストキスだった。
 お互いの唇が離れると、ばか女はその気になった。その気になった瞳でコトブキを見上げている。何かを喋りだしそうな吐息が緊張していた。吊革から手を離してコトブキの腕を両手で握った。ばか女に導かれるまま太腿のあわいにコトブキは触れた。
 女もののパンツは男もののスラックスやチノパンのようにごわごわしていなくてつるんとしていた。しかも生地が薄くて熱っぽくなっていた。クリトリスはこの辺だろうと適当に手を当てていたら、ばか女に手の位置をずらされた。
 コトブキは最初壊れ物を扱うように触っていたが、そのうちに案外固くてしっかりしたつくりになっていることがわかると手を上下させた。ばか女は、コトブキの腕に爪を立てた。そのお返しにコトブキも指腹を立てた。指腹を立てたところには縫い目があった。繰り返し同じ個所を擦っていると肉のあわいに指腹が沈み込んでいく感触があった。あわいから食みでた肉の感触もわかる。
 ばか女が不安そうな上目遣いをしてきた。赤い口紅が先程から何かを言いたがっている。肉のあわいに当てた指腹の動きを止めると、その赤い口紅が震えた。ばか女は太腿のあわいでコトブキの手を強く挟み込んだ。すると今度は訴えるような上目遣いをしてくる。コトブキへ寄り掛かるようにしてのけ反り、尻を左右に揺すぶった。赤い口紅を辛抱できなさそうに尖らせてくる。それから眉根をきつく引き絞った。コトブキに指を動かすつもりがないことがわかると、寄り掛かっていた腕を必死で愛撫してきた。
 コトブキは表情のない顔でばか女を見下ろしているうちにあることをふと思い出した。『女は何でもしてくれる』。職練の昼休みのとき誰かがそう言ったような気がする。コトブキはふいに女のおでこというものを見てみたくなった。ばか女の前髪を掻き上げた。
 ばか女は奇麗な富士額をしていた。髪の生え際にこんなに汗を溜めて、とコトブキは思った。コトブキはオオハナタカコの一件で無言が興奮することを知ってしまった。だから、ばか女に声を掛けるつもりは毛頭なかった。無言に耐える自信もつけた。ただ表情のない顔でばか女を観察し続けた。そうやって冷たくすればするほど、ばか女の愛撫は感情的になっていった。
「マゾ乳首……なんです」
 そう言ってきてもコトブキは無視した。
「頭いいふりしてるけど……ほんとはばか女なんです」
 これもコトブキは無視した。
「ほんとに……ばかです……ばか女です」
 涙ぐんだときのような声だった。ばか女は、コトブキの腕におでこを当ててむせぶ。
 コトブキはただ黙っているだけでよかった。ばか女は、敬虔なクリスチャンが神父に懺悔でもするかのように告白を続け、不慮の事故で死なせた遺族にぬかずくように謝罪の辞を口にした。その間コトブキは気まぐれに指を動かした。ばか女が熱心に懺悔すれば褒美をやるという訳ではなくて、コトブキの気に入る謝罪があれば指を動かすという訳でもなかった。文字通りただ気まぐれに指は動いたり止まったりする。ばか女の哀訴の眼差しにも、何か問題でも? というような傲慢な流し目を送った。
 ばか女は驚いたような声をあげ、のけ反った首を筋張らせた。太腿のあわいをびくびくさせて腰を振った。ぞんざいな扱いを受けていることを知り被虐の性に顔じゅうを歪ませた。半びらきの赤い口紅に唾液の糸が引いた。ばか女は咄嗟に口を手で覆い、言葉では言い尽くせないような表情をした。突然腰が不律動に痙攣した。肉のあわいが……湿っぽくなった。
 コトブキは股ぐらから手を抜いた。ばか女のことを一瞥したあと指を匂った。濃縮したバニラのような匂いがした。ばか女は慌ててコトブキの手を握りしめ、声にださずに、やめてくださいと言った。
 コトブキは妙な昂ぶりを覚えた。ばか女からもっと嫌われたい、そう思った。これまで生きてきた二十七年の中で自分に対するイメージというのがコトブキにも少なからずあった。あるときは某バンドのギタリストだったり、ハリウッドの映画俳優だったり、漫画の主人公から拝借した。妄想の中で女たちはいつもワーキャー言ってくれた。おれは七つの海を飛び回るスーパースターだった。英語を喋れるしフランス語もイタリア語もドイツ語も喋れた。インドの十八ほどある公用語の他に現地の方言だって話しているうちに覚えることができた。大陸ごとに女が待っていて奴隷からセレブまで少女から還暦に至るまでセフレがいた。ただし健全な関係だ。それがオオハナタカコの一件からコトブキの美意識は揺らぎ始めていた。今は……違うことを考えている。あの歓声が悲鳴になればいい、そう思った。どうすればいいかはわかっていた。「無言」という固有名詞から頭の中に断片的な映像が流れた。
 コトブキは、いまだに摑んで離さないばか女の手を払いのけた。間髪を入れず背後に回り込んだ。座席の女たちを眺めながらコトブキは自分のベルトを緩めた。ズボンを下ろした。車内は暑いとはいえ、外気に触れた肌が粟だった。残り一枚。その中で剥き出しの心臓が脈打った。
 正面にいる女たちは首を傾け様子を窺っている。
 コトブキの尻の辺りで血管の中を細長い虫が這っていったようにピクピクした。背後にいる女や車両の右側にいる女たちの視線が下腹部に集まっているような気がした。オオハナタカコの一件が頭にちらついてきて二度、三度コトブキは躊躇った。ついに覚悟を決めたとき、足の輪郭がなくなってしまったように震えた。ブリーフを足首までずり下ろした。もしこのことでおれが逮捕されたら……ふいにそんなことをコトブキは考えた。
 インタビュアーにマイクを向けられた昔の友人らはどう答えるのだろうか。まさか彼がそんなことをするとは思いませんでした、そう口を揃えて言うだろう。女の級友は、大人しかったのにねえ、とか、恥かしがり屋だったんじゃないですか、とか、喋ったことないからわかりません、とか、あんまり覚えてないかも、とかそう言うかもしれない。近所の人は、アキラちゃんって呼んでいたときから知ってるからねえ、素直でいい子でしたよ、よく挨拶してくれました、そう答えるかもしれない。そういうことを考えていると、コトブキのペニスはよりいっそう固くなるのだった。その固くなったモノをばか女の尻に当てた。思った通り背後からやると痴漢っぽさが増した。痴漢は合意であってはならない、一方的な欲望の排泄だ、そう思った。
 ばか女を羽交い絞めする格好でブラウスのうえから胸を触った。ブラウスを胸に張りつかせると乳首の先が浮かび上がった。マゾ乳首だと自分から言ってくるくらいなのだから発達していて大ぶりだった。
 コトブキは、ばか女の頭の影に隠れて嗤った。ブラウスの袖を摑んだ。そして捲り上げて元に戻す、捲り上げてまた元に戻す行為を繰り返した。こうするとブラウスの袖に乳首の先が引っ掛かり、舌筆に尽くし難い感触を味わえた。最後に胸のうえでブラウスの裾をたゆませた。
 ばか女の頭の影から胸を見下ろした。少女のように色白な肌にあって乳首だけがかぐろくてばか女の静謐な顔に似つかわしくない貫禄があった。何人の男の唾が染み込めばこんな色になるのだろうか、そう思った。同時にコトブキは強い嫉妬を覚えた。この女の思い出を破壊してやりたいと思った。その為にはおれのことを忘れられないように傷をつけてやる必要があると思った。乳頭を抓んだ。永久に跡が消えないくらい爪を立てて力を込めた。
 生意気にもばか女は喜んでいた。眉間を狭めて悶絶こそしているが赤い口紅には色を浮かべていた。悲鳴のひとつもあげて泣くだろうと思っていた当てが外れてコトブキは苛立った。
 喜んでんじゃねーよ、ばーか、
 陰湿を楽しむ為に無言を貫くつもりだったから喋らされたことにまた腹が立った。
 ばか女の様子がおかしい。その異変に気がついたとき、コトブキは最初笑っているのだと思った。揮えたような吐息を募らせて鼻で笑われた気がしたのだ。探るような目でばか女を見たときだった。突然嘔吐でもしたかのようにうめいた。からだが小刻みに揮えだし二度三度続けてうめいた。もんどり打ったような低くて太いうめき声だった。
 どこから声だしてんだよ、ばーか、
 軽い調子でそう言ってやった。
 すると、ばか女は悶絶した。野太いうめき声を引き摺りながら。筋張った頸に爪を立て引っ掻いた跡が朱くなっていく。匂い立つように発汗してきて胸を触っていたコトブキの手の平がぬるぬるになった。ばか女が何かを言った。
 は?
 うめき声と一緒に、ばか女は再び何かを言った。次はコトブキが喋る番だったかもしれないが、何も喋らず合槌もせず無視した。罰の悪い間を埋めるかのようにばか女はうめき声をあげた。うめき声が少しずつ言葉になっていった。
「ほんとに……ばかだと……思ってるんですね」
 コトブキは無視した。それが返事だった。二秒、三秒、四秒、とお互いの無言が続いた。六秒、七秒、やにわにばか女の洟息が揮えた。頭のいいばか女だ、とコトブキは思った。
「ばかに……されているんですね……あたし」
 返事の代わりに乳首の先を捩じり回した。
 いま何されてる?
「あたしのことを……ほんとうに、ばかだと思っている人に……乳首を……虐められてます」
 耳元でせせら笑いをすると、ばか女はよりいっそう下品にうめいた。
 泣かせたいと思ってるのに、こいつ喜んでるよ、
 ばか女の髪をクロワッサンのような形にして束ね、手繰った。あごの上がったばか女の顔の横に頬を寄せて正面の女たちをコトブキは見た。正面の女三人全員がこちらを見るまでコトブキは待った。その間ばか女の頭はずっと揺れ続けた。最後の女がようやく目を合わせてきたところでコトブキはこう言った。
みさなーん、こいつカッコつけてっけどほんとは何してもいい女でーす、
 その証拠としてピースサインをした指をばか女の鼻の穴に入れた。これを見た女たちは目を白黒させた。
 ねっ、ばか女、
 可愛らしくコトブキはそう言った。
 するとどうだろう。ばか女は一際下品に揮えあがった。食用に四肢を拘束された動物が解体されるときのような声だとコトブキは思った。断片的な映像が頭の中に入り込んだ。映像はフラッシュが焚かれたように鮮明だった。獣毛のない腹の切込み、浮袋のような臓器が脈打つごとにその切込みから勢いよく飛び出た。切込みが肛門にまで達するとピンク色の襞が赤黒い塊と一緒に地面へ溢れた。
 コトブキは心臓が熱くなり、腹の中が熱くなり、ばか女の尻に当てた肉のごろつきがトクトクトクトク脈を打つ。欲望がせり上がってきた。せり上がってきたその感覚で寸止めは無理だと諦めた。正面の女たちを見ながら逝ってやろう、そう思った。そうすれば、ばか女の尊厳をまた一段と傷つけることができる。
 太腿のあわい奥深くまで肉のごろつきを入れた。腰を振った。電車が揺れた。よろめきそうになるのを鼻の穴に入れたたった二本の指で支えた。電車が揺れると鼻の穴はいびつに拡がった。
 コトブキは「ばか」と言った。声にださずに正面の女たちにむかって。ほとんど人間を辞めた顔をしていたような気がした。ばか女の摑んでいる吊革が金属的な音を立てた。それだけ電車は揺れていたしコトブキの腰は激しかった。鼻の穴にはずっぽりと太い指が入っていて時折奇妙な音をさせて息が抜けていった。ばかと言った回数は既に五十回は越えただろう。コトブキはほとんど逝きそうだった。腰を振った。腰を振った。腰を振った。初めて味わうような膝のガクつきにも耐えて腰を振った。電車がひどく揺れる。腰の抽送に合わせてわざとそうしているような揺れ方だった。
 からだを支えているのが困難になってきた。コトブキはUFOキャッチャーの要領でばか女の頭をむんずと摑み、鼻の穴を指フックの形に変えた。電車は揺れるのをおもしろがっているようだった。そのすべての負荷はばか女の鼻の穴が支えた。逝きそうだ。そう思うと同時に痴漢心が疼いた。黙って逝ってやる。コトブキは射精した。
 腰を振り出してから一度もばか女の顔を見なかったことに満足した。正面の女たちはそれぞれ床を見遣った。恐らく精子があそこまで飛んだのだろう、とコトブキは思った。肉のごろつきはまだ脈打っていて尿道の詰まりを吐き出していた。
 申し合わせたみたいに電車が減速していった。Tシャツの汗が冷たくてふいに寒さを感じた。肉のごろつきを丸出していることが急に恥ずかしくなってきた。コトブキは慌ててズボンを上げた。やがて電車は完全に停車し、ドアが勢いよく開いた。
 コトブキはもはや女たちの顔を見上げることができなかった。これじゃ本当の痴漢みたいだ、そう思った。逃げるように電車を降りると、後ろの方で女たちから残念そうな声があがった気がした。


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