第1章 去勢【2】

文字数 2,664文字

 四時間目が始まるまであと十分ほどあった。
 コトブキが建物の外で煙草を喫っていると、足音が近づいてきた。革靴の踵を鳴らす歩き方で誰かわかっていたが、声を掛けられるまで気づかない振りをしていようとコトブキは思った。
「おつかれさまでーす」と『先生』は言った。
 コトブキは今初めて気がついたかのように会釈した。ありていに言えば、コトブキは『先生』のことが嫌いだった。
『先生』には休憩中や授業中にもよく電話がかかってくる。でる時は決まり文句でもあるかのように「ドウモー!」と言うのだが、そのイントネーションが如何にもおれ社会人やってます、みたいに当て付けがましい感じがしたし、そういうのをカッコいい社会人だと思っているその神経がコトブキは我慢ならなかった。このことをクラスメイトの誰かに話したかったが、『先生』を嫌いな理由が電話での挨拶だと言っても恐らく誰も信じてはくれないだろう。
「たいへんっすね(、、)」と『先生』は煙草に火を点けて言った。
 コトブキは、そうっすね(、、)、と合槌はしたものの、二人を較べてみてどう見てもコトブキの方が年上だった。『先生』はあの女どもの質問責めにも結局年齢については口を割らなかった。こうやって二人で煙草を喫っているときに、「歳がバレると舐められるでしょ」と『先生』が教えてくれたことがあった。このときばかりは素直に感心したコトブキだったが、『先生』の話を続けて聞いているうちに、そういった細部に至るまでうえからマニュアル化されていることがわかった。
「コトブキさんって熟女好きなんすか?」
 何でですか?
 コトブキは何気ない仕草を装いつつ、自分が今指に挟んである煙草を見た。さっき火を点けたばかりでまだ半分以上が残っていた。
「あ、いや、聞こえてたもんで」
 そういう訳でもないんですけど、
「ヒタチさん好きなんすよね」
 あの中でって聞かれたから、
「まあ、わかるっすよ、おれも熟女好きなんすよ」
 そうなんですか、
「おれ、大学のときバイトで家庭教師やってたんすけど、何人か調教したっすよ」と『先生』はそう言って旨そうに煙を吐いた。「普通、娘の方狙うじゃないですか、おれも最初はそうだったんすよ、でも仲良くなってくるとね、母親の方がね、色目使ってくるんすよ」
 マジですか?
「勉強終わったあとにね、あ、娘ってのは小学六年だったんすけど、遊び出かけちゃって、それで母親からお茶飲んでってって言われて……あ、そこは洋室のリビングだったんすけど、おれはソファに坐ってるじゃないですか、そしたら母親がコーヒーの粉瓶ごとこぼしちゃったんすよ、もちろん掃除しますよね、で、母親がね、爪先立ててうんこ坐りって言うんですか、しゃがんだんすよ、意味深にちらちらおれの方見つめてくるもんだから何だろうって見るじゃないですか、で、こっちはびっくりっすよ、その母親がですよ、あ、コトブキさん疑ってます? マジですよマジ、マジバナ、でね、パンツ穿いてないんすから、嘘じゃないっすよ、ノーパンすよ、ノーパン、しかもおれが気づいたら股をもっとひろげてきちゃって、やらしかったよなあ、着エロっていうんですか、おばさんっぽいスカートから覗いたアソコの飾り毛ったらマジ国宝級っすよ、たぶん処理なんかぜんぜんしてなくて、もさっとしてるんすよね、もさっと」
 それで……どうなったんすか、
「おれ、ビビっちゃって、子ども帰ってきたらどうするんですかって聞いたっすよ」
 で……どうなったんすか?
「そういうスリルに飢えてるのって言うんすよ、しかも真顔でっすよ、まいったっす、あとはなるようにしかならなかったっすよ」
 ここでも下ネタが始まった、コトブキはそう思って緊張した。一難去ってまた一男(、、)だった。
「コトブキさん、知ってるっすか? 痩せた熟女って病的に淫乱なんすよ」と『先生』は言った。「子宮下りてきたね、なんて言うと、これがまたいい声で泣くんすよ」
 いや、知らないです、
「性欲にきりがないっつーか、薬中と似てるっすね、こんな関係はこれっきりにしましょう、って口では言ってるくせに、翌日になるともう我慢できないんすよ」
『先生』は喋っている途中からずっとアスファルトを一点に見つめていたが、思い出したように顔を上げてコトブキの方を見た。
「不倫の彼女さんもそうじゃなかったっすか?」
 べつに……そういう訳でもないですけど、
 コトブキは一瞬だけ『先生』と目が合った。『先生』は、喋っている声のトーンのわりに目が全然笑っていなかったうえに、黒目がちな瞳は何か瞳孔がひらいているみたいで不気味だった。
 コトブキは嘘がバレているのではないかとふと心配になり、もしかしたら……そうだったかもしれないです、と先ほどの返事を打ち消すように言った。
「あ、そうか、彼女さんがまだ若かったからかー」と『先生』は言った。
『先生』は、どこか一人納得したように声を出しながら指を折って数をかぞえ、彼女さんって当時三十一っすもんね、とコトブキの目を覗き込んだ。
 コトブキは、そうです、と言うしかなかったし、ここまで聞き耳を立てていた『先生』に寒気を覚えた。それに小六の教え子を狙っていたことは訊くのさえ怖かった。
「でもわかるっすよ、熟女好きってほんとはそういうんじゃなくて、達磨みたいにむちむちしてるのが好きなんすよね、あえぎ方も処女みたいに恥じらってて、違います?」
『先生』は教室の窓ガラス越しに誰かを探すように目を細めたが、逆光になっていてコトブキには何も見えなかった。
 そうですね、
 コトブキが向き直っても『先生』はまだ窓ガラスを見ていて、西瓜のようなおっぱいした熟女とヤッてみたいっすよね、と何か独り言のように言った。
「あ、そうだ、コトブキさん、女の下着の色、何色好きっすか?」
 おれですか、
 コトブキは白とピンクとベージュの三色を頭に思い浮かべた。ベージュと言い掛けたそのときに昔のバイト先の先輩が黒を推していたような気がして思いとどまった。
「やっぱ黒っすよね」と『先生』は言った。
 そうっすね……黒いいっすよね、
「やっぱそっすよねえ、白とか言ってきたらどうしようかと思いました」『先生』は声の調子をあげてそう言った。
 コトブキは助かった、そう思うと同時にほとんど地に足がついていない今の自分が情けなかった。
 煙草の火は、いつの間にかフィルターのところで燃え尽きていた。



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