第1章 去勢【3】
文字数 2,678文字
職業訓練の時間割は午前の三時間を簿記三級にあてて、午後の二時間をワードとエクセル、それとパワーポイントを使った一般的なパソコン学習にくわえ、インターネットの閲覧とメールのやり取りが予定されていた。
クラスメイトの中には高校で簿記を習ったことのある人もいたが、大半はコトブキのように初めてだった為、午前中は皆真剣で授業中は私語も少なかった。
一方、午後の授業はパソコン学習ということもあり、ほとんど息抜きに近かった。だから、クラスで一人だけパソコン初心者だったヒタチノゾミはプレッシャーに感じていたようだ。
本日最後の授業はメールのやり取りだった。
コトブキはヒタチノゾミと席が隣同士だったから、助けを求められることがよくあった。
「コトブキくん、小さい、ゆ、の打ち方どうするんだっけ」ヒタチノゾミは『先生』の方を窺いながら声をひそめて言った。
コトブキが、Xを押したあとにYとUです、と説明をしている間にもヒタチノゾミは『先生』の方へ注意を払っていた。
「ごめん、聞こえなかった、もう一回教えて」とヒタチノゾミは小声で言った。
どうしたの? と『先生』がやって来た。コトブキはヒタチノゾミと『先生』を交互に見た。
ヒタチノゾミはつくり笑いを浮かべ、ひどく小さな声で、もういいから、ありがとう、そうコトブキに言った。コトブキは何か取り繕うように、あとは『先生』に聞いてみてください、と言ってはみたが、ヒタチノゾミの方から返事はなかった。一方の『先生』は顔色を変えずにヒタチノゾミの背もたれに手を掛けたのが対照的だった。
「すみません……小さい、ゆ、の打ち方がわからなくて」とヒタチノゾミは言った。
『先生』は背もたれに手を付いたまま前屈みになって、ヒタチノゾミに顔を寄せた。ヒタチノゾミは『先生』の話すことに何度もうなずいていた。『先生』の声は小声でよくは聞き取れなかったが、だったらおれに聞けばいいじゃん、ということだけははっきりと聞こえた。
なぜタメ口なんだろう、コトブキはそう思った。ヒタチノゾミはうなずく度に、すみません、と謝っていた。
コトブキが二人の様子を見ていることに『先生』が気づいた。次の瞬間、舌打ちのようなものが『先生』から聞こえた気がしたが、今のがヒタチノゾミに対してなのか、それともコトブキに向かってやったのかわからなかった。
「あ、コトブキさん、もういっすよ」と『先生』は言った。
パソコン初心者のヒタチノゾミに『先生』が付きっきりになるのはめずらしいことではなかったが、コトブキはおもしろくなかった。
「あ、そうだ、コトブキさん、誰かにメール出してみてくださいね」と『先生』が言った。
コトブキは心の中の声が聞こえてしまったのではないかと思って返事に焦った。だが『先生』は気にする様子もなくて、皆さんもクラスの誰かにメール出してみてくださいねー、と大声で言った。教室の緊張が少しだけ緩んだ。
コトブキはしばらくの間メールボックスを眺めていたが、隣にいる『先生』とヒタチノゾミがどうにも気になって何も書くことができなかった。『先生』は一番声のとおる女から、『先生』ここ教えてください、と言われるまでヒタチノゾミの席から離れなかった。
教室はしだいに私語が飛び交うようになっていった。メールの宛先入力欄のCCとBCCの違いとその使い分けについて話しているようだった。コトブキはメールボックスに新着が入っているのを見つけた。
Hitachi wrote:
〉さっきはごめんなさい。寿くん優しいから
〉甘えちゃうんです。職業訓練終わるまで仲
〉良くしてください。いつもありがとう。
コトブキは、ヒタチノゾミを見た。ヒタチノゾミは恥かしそうに会釈した。隣同士でメールを出し合うなんてコトブキは新鮮な気持だった。
Kotobuki wrote:
〉こちらこそよろしくお願いします。簿記は
〉苦手だけどパソコンのことならだいたい教
〉えることができます。なんでも聞いてくだ
〉さい。
我ながらぶっさいメールだとコトブキは思ったが、早くメールを出したくて二、三回誤字脱字がないか見直しただけで送信した。正直なところ、コトブキは顔がわかる 女性とメールをしたのはこれが初めてだった。絵文字と顔文字がないところに妙な生々しさを感じた。
メールを受け取ったヒタチノゾミの横顔は嬉しそうだった。
Hitachi wrote:
〉ありがとう! 簿記のことなら聞いてくださ
〉い。高校のとき授業で少しだけ習ったことが
〉あります。休憩時間のときに声をかけてくだ
〉さい。でも、パソコンできないのがあたしだ
〉けで恥ずかしいです。
Kotobuki wrote:
〉だいじょうぶです。タイピングができるよ
〉うになれば余裕がでると思います。あとは
〉スマホのアプリと考え方はほとんど一緒だ
〉から心配ないです!
メールだと饒舌な奴だと思われないだろうか、とコトブキは不安だったが、タイピングする指を止めることができなかった。
Hitachi wrote:
〉ひとつ質問いいですか?
コトブキはギクリとした。ヒタチノゾミからも下ネタをふっかけられると思ったからだった。
Kotobuki wrote:
〉なんですか?
Hitachi wrote:
〉パソコンこんなにできるのにどうして職業
〉訓練受けようと思ったんですか?
何だそんなことか、コトブキはホッとした。やはり他の下品な女と全然違うな、そう思った。
Kotobuki wrote:
〉再就職手当が早く貰えるんです。
Hitachi wrote:
〉そうなんですか? あたし仕事辞めたのは今
〉回がはじめてでよくわからなくて。
Kotobuki wrote:
〉一身上の都合で辞めた場合、普通は待機期
〉間があって何ヵ月も待たないとだめなんで
〉す。
Hitachi wrote:
〉すごーい。色々詳しいんですね。あたし一
〉番年上なのになにも知らなくて恥ずかしい
〉です。
Kotobuki wrote:
〉何でも聞いてください!
Hitachi wrote:
〉はい! がんばります。せんせい!
コトブキは顔が赤くなるのが自分でもわかった。だが、ヒタチノゾミから「先生」と呼ばれて悪い気はしなかった。
このとき、ヒタチノゾミとコトブキの二人は、『先生』から睨まれていることに気がついていなかった。
クラスメイトの中には高校で簿記を習ったことのある人もいたが、大半はコトブキのように初めてだった為、午前中は皆真剣で授業中は私語も少なかった。
一方、午後の授業はパソコン学習ということもあり、ほとんど息抜きに近かった。だから、クラスで一人だけパソコン初心者だったヒタチノゾミはプレッシャーに感じていたようだ。
本日最後の授業はメールのやり取りだった。
コトブキはヒタチノゾミと席が隣同士だったから、助けを求められることがよくあった。
「コトブキくん、小さい、ゆ、の打ち方どうするんだっけ」ヒタチノゾミは『先生』の方を窺いながら声をひそめて言った。
コトブキが、Xを押したあとにYとUです、と説明をしている間にもヒタチノゾミは『先生』の方へ注意を払っていた。
「ごめん、聞こえなかった、もう一回教えて」とヒタチノゾミは小声で言った。
どうしたの? と『先生』がやって来た。コトブキはヒタチノゾミと『先生』を交互に見た。
ヒタチノゾミはつくり笑いを浮かべ、ひどく小さな声で、もういいから、ありがとう、そうコトブキに言った。コトブキは何か取り繕うように、あとは『先生』に聞いてみてください、と言ってはみたが、ヒタチノゾミの方から返事はなかった。一方の『先生』は顔色を変えずにヒタチノゾミの背もたれに手を掛けたのが対照的だった。
「すみません……小さい、ゆ、の打ち方がわからなくて」とヒタチノゾミは言った。
『先生』は背もたれに手を付いたまま前屈みになって、ヒタチノゾミに顔を寄せた。ヒタチノゾミは『先生』の話すことに何度もうなずいていた。『先生』の声は小声でよくは聞き取れなかったが、だったらおれに聞けばいいじゃん、ということだけははっきりと聞こえた。
なぜタメ口なんだろう、コトブキはそう思った。ヒタチノゾミはうなずく度に、すみません、と謝っていた。
コトブキが二人の様子を見ていることに『先生』が気づいた。次の瞬間、舌打ちのようなものが『先生』から聞こえた気がしたが、今のがヒタチノゾミに対してなのか、それともコトブキに向かってやったのかわからなかった。
「あ、コトブキさん、もういっすよ」と『先生』は言った。
パソコン初心者のヒタチノゾミに『先生』が付きっきりになるのはめずらしいことではなかったが、コトブキはおもしろくなかった。
「あ、そうだ、コトブキさん、誰かにメール出してみてくださいね」と『先生』が言った。
コトブキは心の中の声が聞こえてしまったのではないかと思って返事に焦った。だが『先生』は気にする様子もなくて、皆さんもクラスの誰かにメール出してみてくださいねー、と大声で言った。教室の緊張が少しだけ緩んだ。
コトブキはしばらくの間メールボックスを眺めていたが、隣にいる『先生』とヒタチノゾミがどうにも気になって何も書くことができなかった。『先生』は一番声のとおる女から、『先生』ここ教えてください、と言われるまでヒタチノゾミの席から離れなかった。
教室はしだいに私語が飛び交うようになっていった。メールの宛先入力欄のCCとBCCの違いとその使い分けについて話しているようだった。コトブキはメールボックスに新着が入っているのを見つけた。
Hitachi wrote:
〉さっきはごめんなさい。寿くん優しいから
〉甘えちゃうんです。職業訓練終わるまで仲
〉良くしてください。いつもありがとう。
コトブキは、ヒタチノゾミを見た。ヒタチノゾミは恥かしそうに会釈した。隣同士でメールを出し合うなんてコトブキは新鮮な気持だった。
Kotobuki wrote:
〉こちらこそよろしくお願いします。簿記は
〉苦手だけどパソコンのことならだいたい教
〉えることができます。なんでも聞いてくだ
〉さい。
我ながらぶっさいメールだとコトブキは思ったが、早くメールを出したくて二、三回誤字脱字がないか見直しただけで送信した。正直なところ、コトブキは
メールを受け取ったヒタチノゾミの横顔は嬉しそうだった。
Hitachi wrote:
〉ありがとう! 簿記のことなら聞いてくださ
〉い。高校のとき授業で少しだけ習ったことが
〉あります。休憩時間のときに声をかけてくだ
〉さい。でも、パソコンできないのがあたしだ
〉けで恥ずかしいです。
Kotobuki wrote:
〉だいじょうぶです。タイピングができるよ
〉うになれば余裕がでると思います。あとは
〉スマホのアプリと考え方はほとんど一緒だ
〉から心配ないです!
メールだと饒舌な奴だと思われないだろうか、とコトブキは不安だったが、タイピングする指を止めることができなかった。
Hitachi wrote:
〉ひとつ質問いいですか?
コトブキはギクリとした。ヒタチノゾミからも下ネタをふっかけられると思ったからだった。
Kotobuki wrote:
〉なんですか?
Hitachi wrote:
〉パソコンこんなにできるのにどうして職業
〉訓練受けようと思ったんですか?
何だそんなことか、コトブキはホッとした。やはり他の下品な女と全然違うな、そう思った。
Kotobuki wrote:
〉再就職手当が早く貰えるんです。
Hitachi wrote:
〉そうなんですか? あたし仕事辞めたのは今
〉回がはじめてでよくわからなくて。
Kotobuki wrote:
〉一身上の都合で辞めた場合、普通は待機期
〉間があって何ヵ月も待たないとだめなんで
〉す。
Hitachi wrote:
〉すごーい。色々詳しいんですね。あたし一
〉番年上なのになにも知らなくて恥ずかしい
〉です。
Kotobuki wrote:
〉何でも聞いてください!
Hitachi wrote:
〉はい! がんばります。せんせい!
コトブキは顔が赤くなるのが自分でもわかった。だが、ヒタチノゾミから「先生」と呼ばれて悪い気はしなかった。
このとき、ヒタチノゾミとコトブキの二人は、『先生』から睨まれていることに気がついていなかった。