三.地獄太夫が紀州行きの許可を得ること

文字数 10,416文字

 男の名は、アハスエルス、あるいはカルタフィリスである、と伝えられている。
 伝説の概要は、こうだ。ときは古代、ところはローマ帝国支配下のユダヤ属州。ナザレのイエスが十字架を負いゴルゴダの丘へと赴く苦難の道の道すがら、ひとりの男がイエスを罵った。あるいは、伝承によっては水の求めを断ったとも、あざ笑ったとも言う。
 いずれにせよ、主イエスは、その男にこう告げた。
「私が戻るまで待っているがよい」
 かくして、男は死を奪われた。最後のさばきがおとずれ、イエス・キリストが再びこの世に臨まれるまで、彼は死ぬことも出来ず、この世を彷徨い続けるのである。――
「ま、伝説は伝説、参考程度に聞き流してくれればいい。問題は、私の身体が私から離れた状態でも不死性だけは残ってしまうことと、切り離された体の部位は取り戻さねば回復しない、ということでな。二百六十年ぐらい前にこの国に来た時に色々とあって…………ちょっと、こら、やめなさいお嬢さん方……ご婦人、聞いているか、この子らを止めてもらえまいか、なあ」
 自らにまつわる伝説をかいつまんで話すイェレミアス神父……というよりは、座布団の上に鎮座するしゃれこうべは、話の途中で飽きのきた童女らによって手に取られ、ぺちぺちと叩かれている。本来、話を聞いているべき地獄太夫はというと、髑髏には完全に背を向け、衣桁に掛けられた派手な柄の夜具を無言で切り刻んでいる。なかなかに、気迫のある光景であった。
 百鬼夜行の夜が明けて、中天に昇る太陽は、常と変わらず地を照らしている。少なくとも、昨晩魔人らの長が告げた不気味な予言は、一晩にして成るものではなかったということだ。
 『魚塔楼』との看板が掲げられた見世の、地獄太夫に割り当てられたこの部屋にも、いまごろの時間にはわずかながら日があたる。陽光に照らされた畳の上にある姿は、ひたすらに夜具を切り刻む地獄太夫と彼女付きのふたりの禿(かむろ)、それに禿達によって鞠の代わりとばかり弄ばれている髑髏のほかに、修道女の姿もある。ただし、最後の一人についてはほぼ、そこにいて話を聞いている、という他には何の役も果たしてはいない。
「ええ、聞いておりんすよ。要は、此方の八百比丘尼伝説と似たようなものでありんしょう。人魚の肉を食べれば不老不死になり、死ぬことも出来ずさまよい歩くと」
「此方にも似たような伝承が在るのかな、だがいま聞いてほしいのはそこではなく……」
「肝要なのはあの男、平戸がぬしさまの骨を飲むか否か。ま、万一嚥み下して死なぬ体になったとて、その時はその時、考えうる限りの責め苦を負わせ続けることができると考えればようござんす。手足を削ぎ、臓物を抜き、傷口に塩を塗り……」
 神父との会話が成り立っているようで微妙にすれ違っている言葉とともに、地獄太夫の握った匕首が掻巻(かいまき)を切り、中綿は掴み出され、表地は素手で引き裂かれていく。長い着物に綿を詰め込んだその高級な夜具は、馴染の上客であった平戸からの贈り物であったのだ。警察署から帰った地獄太夫がはじめに行ったのが、大事にしまい込まれていた高級な夜具を引っ張り出し、切り刻むことであったのもむべなるかな、昨晩彼女が受けた仕打ちを思えばしようのないことであろう。
「姐さま、こわぁい」
「お座敷ではこわい話はせんと約束したのにぃ」
 禿たちが、彼女らの花魁に抗議の声を上げる。こわい話、とは、地獄太夫が刺客としてはたらいている時の話であったが、たしかにいまの地獄太夫の姿は、それそのものがこわい話と言えよう。
「髑髏も怖がってくれると助かるんだがな……」
 さかさまにされ、二人の童女に引っ張り合いをされているさなかのイェレミアスも、聞いてもらえぬことを知りつつ弱々しく抗議をした。痛いわけではないが、視界があちこちに揺れ動かされると、目が回るのだ。
 禿らに言われ、ようやく地獄太夫は夜具の破壊をやめた。同時に、禿らに散らばった綿を集めるよう促したことで、イェレミアスの視界もやっと安定を取り戻したのであった。
 髑髏が本来置かれていた座布団の上に戻され、地獄太夫はその正面に座する。妖幻じみた光景──と言いたいところであるが、なにぶん時刻はまだ昼過ぎ、明るい室内では妖しさよりも場違いな滑稽さが先に立つ。髑髏がただの髑髏ではなく、目玉はないにせよ眼窩に目の代わりと思しき光がやどり、カタカタと顎を鳴らして話すというのも、滑稽さに拍車をかけていた。
「まあ、そういうわけで、私の肉……あるいは、肉を焼いた灰には、それに触れた他者をも延命させる効果がある」
「わちきを助けてくださったように、でありんすね」
「そういうことだ。だが、あくまでも生きている人間の延命であって、そこに存在せぬ人間、死んだ人間を復活させるほどの力はない、はずだったのだが──」
 昨晩の、あの魔人らは、明らかにこの世のものならぬ存在が形を持った存在であった。しかも、少なくとも一人は、随分と昔に死んだ人間がこの世に舞い戻ったものであったようなのである。おまけに、あの奇妙な星の形だ。イェレミアスは単に灰が灰のままでは散逸するために固めものと思ったが、あの様子では、それそのものにも何らかの術式が仕込まれているものと思われる。
「よろしいですか、お二方」
 と、話の途切れた隙を見計らい、それまでオブザーバーに徹していた修道女が口を挟んだ。キリスト教の洗礼を受けた日本人で、名を刈谷いそという。昨夜の顛末を聞くため、教会から派遣されてここにやってきたのである。
「聞く限りでは、平戸と名乗った男はその星がいかなるものであるかを知っていたということになるかと思いますが」
 たしかに、刈谷の指摘通りであった。平戸は、怪しまれぬようあらかじめ別件の仕事を幾度か地獄太夫に依頼していたほどに念を入れて準備を行っていたのだ。で、あれば、ここで星の正体についてあれこれと悩むより、平戸を追うほうがよほど有意義であろう。
「とはいえ──申し訳ござんせんが、わちきはあの男のことは、何も知りんせん。農学者と名乗っておりんしたが、あのぶんではそれも嘘でありんしょう」
 もとより、地獄太夫の仕事は、どちらであれ客の素性を詳しく問いただす類のものではない。カモフラージュのために使われたいくつかの仕事も全く脈絡はなく、素性につながるようなものとは思われなかった。
「そういえば昨晩、魔人の一人と平戸が何やら話していたな。君らになら、何か分かるのではないかね。確か──」
 イェレミアスは、昨晩の次第を思い出せる限り述べていった。その内容はやはり、当世を生きる人間である二人にはにわかに信じがたいものであり、修道女と遊女は二人並んで怪訝げな表情を浮かべている。
「……神君、とは、家康公のことでありんしょうか。二百余年、と言うておりんしたのならば、そうでありんしょうねえ。随分と、大きなお話になりんすが……」
「千八百年ものの喋るされこうべが目の前に居るのですから、二百六年少々前に生きた人間が蘇ることもありえるのでしょう。……でも、にわかには信じがたいのも事実」
 地獄太夫と刈谷の知識の及ぶ範囲で分かるのは、「殿様」が徳川幕府を樹立した“神君”徳川家康と同時人ということ、それでいて家康の死後も生き延び、不遇をかこったと思われること──その程度であった。何分、地獄太夫はそも世事にはせいぜい客と話を合わせるための一般的な知識程度しか通じておらず、刈谷にしても洗礼を受け修道女となった後はそう俗世間との関わりを持っていなかったのだ。
 四半刻ほど、二人の女と髑髏は、ああでもないこうでもないと頭を突き合わせて悩み抜いていた。とはいえ、どれほど悩みぬけど、もとより知らぬものが頭からひねり出せるわけもない。やがて、音を上げた地獄太夫は、
「あんたたち、何か分かりぃせんか」
 と、何処とも知れぬ場所を振り返り、問いかけた。その先にあるものと言えば、ふすまと天井ぐらいのものであるが──地獄太夫の問いかけがなされるや、わずか、気配じみたものが感ぜられたようでもあった。
 気配は動くものの、しばらく待っても答えのないことを悟ると、地獄太夫は次に、禿らへと問いかけた。
「ひ和さん、いす香さん、あんたたちは知りんせんか」
 二人の童女は、集めた綿を袋に詰め、はたまた袋が足りなくなったら切り刻まれた端切れを縫って袋を作り、なかなか女郎屋育ちらしからぬしっかりした働きをしているところであった。
「ためしぎりをする、むかしのお殿さま?」
「わっち、知りんせん」
「わっちも知りんせん。あっ、でも──」
 もとより答えがあると思ってもおらぬ問いかけである。地獄太夫はかいつまんだ話の特徴だけを伝えて、詳しい説明を行ってはいない。だが、意外や、いす香との名で呼ばれる童女が、何かを思い出したようであった。
「くすりごめ、というのは、吉宗さまが江戸にお連れになったお役人のお名前でありんすよね、ねえ、ひ和さん」
 同意を求められたひ和のほうは、キョトンとした表情を浮かべている。聞いている大人たちにしても、表情には大差がない。髑髏のイェレミアスでさえ、どこか目をまんまるに見開いているようにみえるほどだ。
「吉宗公というと、八代将軍様でありんしたね──」
 徳川吉宗、徳川八代将軍にして、紀州徳川家に由来を持つ初の将軍でもある。徳川宗家の男系子孫が途絶えたことにより養子と向かえられ、将軍職についたものである。つまり、その吉宗が連れて行ったということは、紀州の役人であった、ということだ。
「では、少なくとも平戸は紀州に由縁を持つということですね。在家の信者より、紀州の出身者を探して話を聞いてみます」
「あの時の会話からすると、殿様のほうも同じく紀州に由縁あるものだろう。少しでも早く問題を可決しなければならん、あらゆる手をつくしてくれ」
 手がかりをもとに情報を得るべく、神父と修道女が話を進めていく横で、地獄太夫が黙って立ち上がる。元々、この場は彼女の私室である。諸用もあろうと部外者である二人、あるいは一人とひとつの髑髏はとくに気を払わずにいた。
 ふたたび地獄太夫に注目があつまったのは、あーっ、と子どもたちの悲鳴がふたつ、綺麗に揃ったときのことであった。妓の姿があるのは、キリスト者たちの視界からは外れた姿見の前だ。禿たちは、すっくと立った花魁の着物の裾を握り、腕にしがみつき、姐さんの行動を止めんとしている。
「おやめなんし、姐さん」
「おぐしを切りなすったら、お客様の前に立てんせんよ」
 何事か、と思えば、地獄太夫は自らの長い髪を匕首にて切り落とさんとしているのである。
「立てなくて結構、わちきは紀州へ向かいんす。ここであれこれ言っていても埒があきんせんよ」
 そう、地獄太夫が宣言した瞬間のことである。元から話を伺っていたものであろう。若衆だの新造だのがふすまをを開け放ち、はたまた踏み倒し、室内になだれ込んできた。無論、地獄太夫を物理的に止めるためである。が、いま思い切った行動を起こそうとしているものは、刀を持てばゴーレムの体を持つ不死者とすら渡り合う剣客でもあった。花魁姿は、組み伏せんとする見世番をひらりと躱し、背後から手刀を浴びせんとした番頭新造は相手方の勢いを活かして投げ飛ばし、はては数人がかりで飛びかかる振袖新造を一絡げに当身をもって昏倒させていく。部外者たちは、派手な着物があちらこちらに舞い踊る豪華絢爛な立ち回りを、ぽかんと眺める他ない。いや、刈谷のほうは、出された茶を飲んでいる辺りそう驚いているようでもないが。
 それにしても、地獄太夫のみならず、魚塔楼のものは女郎も若衆も誰もかれも、腕に覚えがあるというのはいかなることであろうか。なかには自分の「仕事道具」を持ち出して、
「地獄!客を取りやがった恨み、まだ忘れてないからな!」
 と、私怨を隠しもせずに、組紐を幾条もの鞭のごとくにして打ちかかるものまで居る始末だ。
「あれは、あんたがお客を縛って帰さぬのを助けただけのこと、大あるじ様のゆるしも取っておりんした!そも、あのことを恨みに思うなら、いまわちきのことは放っておけば勝手にでていきんすよ」
「あっそれもそうだ、うん好きにしろ」
 なにやら花魁同士の私怨に基づく死闘は妙な決着を向かえているが、それはそれとして、地獄太夫の私室とその続きの部屋は、死屍累々のありさまを呈していた。否、別に死んだものはいないが、ともかく意識を失ったもの、戦闘の継続できぬものが所狭しと積み上がっているのは事実である。そろそろ見世側の手勢も尽きたか──と思いきや。天井板を抜いて現れた影は遣り手婆で、窓を蹴破って飛び込んできたのは番頭である。一連の騒ぎから幸運にも取り残されている部外者たちは、側杖をくわぬよう部屋の隅に小さくなっているほかない。
 遣り手婆の放った無数の針と、番頭の指にて操られる細い絹糸が地獄太夫の頭上と背後より同時に襲いかかる。極小、極細の凶器は、およそ目で捉えきれるものではない。いかな地獄太夫とて、これで終いかと思われた。が。──
「──いいかげん、諦めておくんなまし!」
 針と糸は、地獄太夫の叫びとともに、斬り捨てられていた。妓の手には、抜き放たれた刀がある。抜き打ちに一閃させた刀、そのただ一刀にて、人の命を奪うに足る仕事道具である極小の凶器すべてを断ち切ったのだ。恐るべき剣技である。
「だいたいだねえ、説明しなかったわちきも悪いが、お座敷でのお客の相手は当分無理でありんすよ」
 ようやく、狂騒は収まっていた。無手であればまだ一縷の望みはあるが、刀を手にした地獄太夫に挑みかかるような命知らずは、魚塔楼にはいない。静まった見世の一同を前に、刀はさらに一閃された。切り落とされたのは、刀を握る花魁自身が纏った着物の裾だ。
「あっ」
 驚きの声を上げたのは、誰であったか。静まった廓に、静かな驚愕が広がる。それも無理からぬことである。着物の裾を落とされ、顕になった地獄太夫の下肢、およそ臍から下は、黒い半透明の硝子で出来たようであったのだ。硬質な質感でありつつ身体のやわらかな稜線を再現はしているが、たとえば毛穴だの細かな皮膚の皺までは存在しない──つまり、
「姐さん、お人形の足をつけたみたい」
 との、ひ和の感想が、地獄太夫の下肢の状態を表すには最も的確なたとえであったろう。およそ、常ならぬことであるのは間違いがない。
「……ふむ。ずいぶんと、難儀なことに手を出してしもうたようだのう」
 水を打ったように静まり返ったなかに、嗄れた声が響いた。その声を聞くや、魚塔楼のもののうち意識あるものはすべて、禿も遣り手婆も番頭も一様にその場で頭を下げ、平伏した。地獄太夫ですら、すぐさま畳に膝をつき、三指をついてみせたのだ。
 したがって、その場に現れた老人の姿を見たのは、乱闘を避けるため部屋の隅に避難していた刈谷いそと、その手に抱きかかえられたイェレミアスの髑髏だけであった。
「お客人がたにはお見苦しいところをお見せした。何分、ご一新の前には客商売なぞしたことのないようなものが多くてな。下のものへの指導も、どうしても甘くなりがちで申し訳ない」
 老人は、杖をついたままぺこりと頭を下げた。老人ということは分かるが、長い髭と無数の皺に覆われたその貌からは、正確な年回りは伺えない。
「魚塔楼の楼主を務めておりまする、明楽(あきら)樫茂(かししげ)と申します。お見知りおきを」
 楼主、すなわち魚塔楼のオーナーだ。一般的な廓では、若衆や女郎の雇い主ということになる。この廓に関しては、それ以外の関係性も付加されているやも知れぬ。
「皆、顔を上げるがよい。じき、昼見世よ。仕事に戻れ」
 楼主が命令するや、集まっていたものたちは驚くほどの速度で姿を消していった。意識のなかったものの姿までなくなっているのは、意識のあるものが連れて行ったものであろう。
 残ったのは、元々この部屋に居たものと、明楽翁だけとなる。
「地獄よ、して、お主はどうしたい」
 翁の問に、跪いたままであった地獄太夫は、は、と顔を上げた。
「まずは第一に、平戸と名乗る男を見つけ出し、斬りたくありんす」
「他には」
「第二に、両足を取り戻したく思いんす」
「ふむ。それは道理。しかしお客人、一つ目はともかく、二つめはいかなものじゃろう」
 老人は、修道女の膝に載せられた髑髏に問いかけた
「技術的には可能だろう。ちぎられた下肢さえあれば、私の灰があればつなげるのは容易だ。ただ──」
 問題は、ちぎれた下肢が大蛇に取り込まれたままであったことだ、とイェレミアスは述懐する。おそらくは、大蛇を完全に祓いさえすれば、下肢は残る。とはいえ、大蛇はいま、六人の魔人の身体となってしまっている上、そのうちのどこに下肢が入り込んでいるのかも予想がつかぬのだ。
「と、言うことじゃが。それでも、希望は変わらぬかね、地獄よ」
「もちろんでございんす、大あるじ様」
 答えは、明瞭であった。明良翁の皺だらけの顔が、わずかに緩んだようであった。
「そのような仕儀ゆえ、比丘尼殿、髑髏の御坊、どうかよろしくお願いいたす」
 そして、楼主はふたりの客人に深々と頭を下げた。茶をすすっていた刈谷は湯呑みを盆に戻し、同じく頭を下げる。
「分かりました。では、花魁殿とイェレミアス神父さまは和歌山へゆかれる、と。教会にはそう報告をさせていただきます」
「へ?え?待ていつそんな話になった」
 湯呑みとともに畳の上に置かれたイェレミアスの髑髏は、かたかたと顎を鳴らして抗議する。一度たりともそんな話は出なかった。出なかった、はずだ。
「あら、神父さま、あらゆる手を尽くせ、とおっしゃっておられましたわ。取りうる手の中で、直接に現地へ赴くのが一番確実なのは確かではありませんか」
 たしかに、それはイェレミアスも言った覚えがあった。刈谷の提案も、なんら間違ってはいない。だが。
「彼女といっしょに、となると、つまり、私を持ち運んでもらうことになるかと思うのだが……」
 現状では、イェレミアスはただの喋るしゃれこうべである。ゴーレムの身体をすぐには用意できぬ以上、移動しようと思えば人に運んでもらう他ない。何を隠そう警察から魚塔楼に来るまでの道のりも、地獄太夫に運ばれてきたのである。仕方はないとはいえ、地獄太夫の派手な容貌で髑髏を携えていれば、とてつもなく目立つ。ある程度までは注目を集めるのも仕方ないと思っていたイェレミアスも、すれ違う人全員から好奇の目を向けられるのはあまり歓迎したくはなかった。
 きっと相手方も事情は同じだろう、との期待から、イェレミアスは地獄太夫に話を向ける形で言葉を切った。何しろ、敵地へ踏み込もうというのだ。目立つ出で立ちは避けたいにきまっていると。──およそ、期待は往々にして裏切られるものである。
「ええ、さようなこと、わちきは何も構いんせん。えれみや様の助けがあれば頼もしゅう思いんす」
 地獄太夫は、笑顔でイェレミアスとの同道を受け入れた。
「えっおい、いいのか!?いいのか本当に!」
 床の上で骨を鳴らして叫びを上げる髑髏の問いかけは、満場一致で無視されきった。刈谷いそと明良翁は教会と魚塔楼で諸費用を折半する話を取りまとめ、地獄太夫は無論、来るべき復讐の旅路に向けて早くも荷造りをはじめている。
 そんな中、綿を袋に詰めつづけていた禿たちだけが髑髏のもとへとやってきた。すわ、再び手毬の代わりとされるかとイェレミアスは危惧したが、振ってきたのは、
「姐さんね、骨さんを気に入っておりぃすよ」
「ほんとうの地獄太夫のような出で立ちができるものね、仕方ありんせんよ」
 との言葉であった。本当の地獄太夫、と言われても、深く日本文化を知るわけではないイェレミアスには分からぬことである。
 「地獄太夫」というのは、室町のころに名を馳せた遊女の名である。伝承に曰く、美貌ゆえにかどわかされ女衒に売られ、遊女となった後は地獄絵図を染め抜いた衣をまとい、一世を風靡したという。よく知られているのは一休宗純との逸話で、太夫のもとに現れた一休禅師と当意即妙の歌を交わし合い、のち師弟関係となった、と伝えられている。この遊女の伝承は江戸期を通じて度々浮世絵に表されるほどに人気を誇り、また明治に入っても人気を保っていた。
 明治の作品で言えば、まだこの頃には製作途中であるが、明治二十二年に完成する川上暁斎描く地獄太夫図は、暁斎の代表作に数えられる絵図のひとつである。この図に描かれているのは、地獄絵図の着物をまとった太夫と、その奥で踊る骸骨と一休禅師というものだ。この取り合わせは、地獄太夫の伝承に題材を取った絵ではおよそ一般的なものである。つまり、魚塔楼の地獄太夫の出で立ちは、室町の地獄太夫にまつわる伝承を模したものであり、「伴天連の坊主」であるイェレミアス神父の髑髏を携えていれば更に本来の地獄太夫のありさまに近づけるから修道女の提案を受け入れたに違いない……と、禿らは姐さんの心中を推し量ってみせたのである。
 はたして、地獄太夫は衣装箪笥のなかからうきうきと、昨晩血で台無しになったものとは別の、地獄絵図を描いたべべ(・・)を選び出している。その姿は、ふたりの童女の推量を裏付けているように見えた。
「大丈夫なのか……」
 急激に襲い来た不安を、イェレミアスはぼそりと吐き出した。もちろん、畳の上に打ち捨てられた髑髏のつぶやきなぞを聞き止めてくれるものはこの場にはいない。髑髏の抱く不安を放置して、妙に浮足立った旅支度は進んでいった。
 ※ ※ ※
 地獄の名を持つお抱えの女郎が、しばし見世を空けることを赦した、その晩のこと。
 明良翁は、楼主を務める楼閣の私室にて、餅を乗せた火鉢を前にひとり、愚痴をつぶやいていた。
「ああ──情けない、情けないものよ」
 愚痴は、稼ぎ頭がしばしいなくなることについて、ではない。ご一新で前職を無くし、新たな生業を見つけられなかったものが集まって立ち上げたのが、この魚塔楼である。はじめこそ資金繰りに難儀したこともあれど、女郎屋と暗殺斡旋屋との二足のわらじによって、今では吉原の大門近くに店を移そうと思えば移せるほどの実入りがある。河岸に見世を置いたままにしているのは単に、暗殺を請け負うにあたっては此方のほうが後ろ暗い客も足を向けやすいという都合によるものだ。地獄太夫ひとりが居なくなったとて傾くような経営は行っていない。
 では、老人は何を愚痴っているのか。
「あれだけ雁首揃えて、覚えていたのがいす香ひとりとはのぉ。女郎どもはまだよい、聞かせたものも聞かせておらぬものもおるし、老人の繰り言程度にしか思うておらんじゃろ。だが、年かさの者。おぬしらには、一度はたしかにかならず教えたはずだのにのぉ」
 今日、いす香の答えたこと──といえば、ただひとつ。地獄太夫に問われて答えた「薬込」の所以についてである。老人の言葉に伴い、なにもないはずの空間からわずか、身動ぎをするような気配がしたのは気の所為であったろうか。
「薬込役は、元来は紀州公お抱えの探索方。吉宗公の江戸入りに合わせ、紀州より十二人が江戸へと上り、以降、江戸城でも同様の職務に就くこととなった」
 部屋の四方の暗がりより、ささやきあうような声が湧き上がってきた。無論、目で見るぶんにはそこに誰かの潜んでいる様子はない。見えぬ者たちのささやきによく耳をすませば、「そんな話聞いたか?」「知らないぞ」「稽古に夢中で……」「自分の(わざ)の他にはなにも覚えてござらん」云々と聞こえただろう。
 べきり、と堅いものの折れる音が、火鉢の中で炭の爆ぜる音に混じり、部屋に響いた。火鉢に掛けられた餅をつつくための箸が、老人の手の中で折れていた。
「ええい、ここまで言ってわからんか!かくして吉宗公とともに江戸入をした十二人を祖として始まったが、江戸城御庭番よ!以来百六十年あまり、隠密機関として影より幕府を支えた御庭番も、ご一新のあとはお役御免、才覚あるものは勝手にどこぞで生きていったが忍の業の他に何も取り柄のなかった阿呆どもは、苦界の隅に儂が建てた女郎屋におさまって糊口をしのぐ嘆かわしいありさま!つまり!お前らのことじゃ忍法馬鹿ども!」
 見えぬ影たちは、彼らの元頭領にしていまは楼閣の主である明良翁の怒りを買い、ついには姿を現して赦しを請うたり、はたまた一目散に逃げ出したり、各々の判断にしたがって右往左往しはじめた。なるほど、かつての頭領がどうにかして生業を与えねばならぬと老体に鞭打って事業を始めるのもうなずける、あまりに嘆かわしいありさまであった。
 そう、つまり、魚塔楼とは、明治維新により幕府が消滅し、職にあぶれた元公儀隠密らがはじめた見世であったのだ。奉公人の半数はご一新の前には隠密として奉職していたもので、それ以外のものも彼らによって教育されたと考えれば、この見世の尋常ならざるかたちもうなずけるというものであろう。
 そんな魚塔楼も今宵は、怒りの収まらぬ明良翁の怒鳴り声と元忍びらの寛恕を請う声、それに泊まりの客を相手取る女郎らの甘い声が充ちるばかり。遠く、彼らと祖を同じくする忍びの軍団の悪しき企ても知らず、花街の夜はいたずらに更けていった。
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登場人物紹介

【地獄太夫】花魁兼女剣士。走るタイプのゾンビは苦手。

【イェレミアス神父】 さまよえるユダヤ人にしてバチカンのエクソシスト。久しぶりに日本に来たら変身アイテムにされた。

【平戸】いわゆるひとつの黒幕。結構詰めが甘い。

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