六.龍神村に干将莫邪を求めること

文字数 11,520文字

「ほんにねえ、近頃の若いもんは、礼儀がなっとらんで困る。──ああ、その瓦は向こうの仁坂さんとこのじゃな」
 そして川合邸に面した通りで、どうしてこうなったものか、髑髏の黒騎士は地面に落ちた石礫だの屋根瓦だのの処理に追われていた。
「継ぎ屋さんは、大工町のほうにあるでな、ちょいと呼んできてもらえるかえ」
「あの、すまない、私は少々追われる身で──」
「人の家の屋根瓦を踏み割っといて、放って逃げるんかえ。ほんに、近頃の若いもんはねえ、年寄りを大事に思うとらんねえ」
 年齢のことを言えば、ナザレのイエスその人と同時代人であるイェレミアスは一八〇〇年以上を生きていることになるのだが、この際そんなことを言ったところで何も始まらないだろう。一八〇〇年の人生でおよそ丸くなるだけ丸くなったイェレミアスは、ここで独居老人を放っておけるような性格の持ち主でもない。
 髑髏顔の甲冑が瀬戸物継ぎの職人を呼んだり瓦屋へ走ったり、漆喰壁の職人を探し回ったり、途中から何故か庭の雑草を刈ったり夕飯の支度を手伝わされたりしているうちに、いつしか和歌山城下には夕暮れが訪れていた。
「されこうべの兄ちゃん、小梅ばあによろしゅうな」
「最近足腰が弱くなってもうてねえ、中々挨拶にも行けんで、気にしてたんよお」
 どういうわけか、瓦を忍者に投げられた家一軒一軒に謝罪行脚を行ったりしているうちに近所の皆さんとも仲良くなっていて、小梅ばあへの言付けを頼まれすらしたところで、やっとイェレミアスは我に返った。
 ──どう考えても、こんなことをしている場合ではない。
 夕暮れの空には未だ、セフィロトの樹が不気味に浮かんでいるが、案外人は物事になれるものである。朝には紋様を気味悪がっていた人々も、夕刻にはもうそんなものは気にせず、めいめいの日常に戻っている。小梅ばあも、天気記号のことなどもう忘れた様子で、夕飯を更に盛り付けている。それも、二人分だ。
「川合さん、申し訳ないが、私を狙うものが居るのだ。あまり長居は」
 長居はできない、と夕飯を断ろうとしたところで、どういうわけか、イェレミアスは自らの顎が思うように動かせぬようになってしまった。もとよりどのように発声しているのか良くは分からないが、顎が動かねば声は出ない、という仕組みであったらしい。何事か、と顎に手をやろうとしたところで、今度はその手も何かに固定されたかのように動かぬことを知る。すわ、無理な超常の業が此処に来て祟ったものであろうか。──
 内心、イェレミアスが焦りを覚えるなか、彼の口が──否、彼を外殻として半日ほど身体の自由を奪われたままの、中の肉体の持ち主が、イェレミアスの意思とは相反する言葉を発していた。
「よろこんで、いただきんす」
 それは、地獄の底から湧き上がるような声であった。目の前に出された食物を食べることを了承する言葉で、これほどの気迫に満ちた声は、有史以来およそ存在しなかったのではなかろうか。
 口に続き、右手が渾身の膂力を持って、食卓に乗せられた箸を握ろうとする。これ以上自分の意思を通そうとすれば、後々に響く。イェレミアスは、彼の中の人の状態を悟り、全身の力を抜いた。途端、甲冑はするすると潮が引くように下肢へと戻っていき、髑髏はぽろりと畳の上へと落ちる。
「あれ、地獄太夫さんみたいじゃの」
「ええ、わちきは地獄太夫と申しんす」
 食卓の前には、例の地獄絵図の着物を着込んだ地獄太夫が残り、落ちたイェレミアスの髑髏は放置されたまま、河合家の夕飯は恙無く進んでいった。
 そして、夜。
 川合邸の客室にて、部屋の隅に転がされた髑髏は、ようやく抗議の声を上げた。ようやく、というのは、夕飯に関する発言権を巡って静かな闘いが繰り広げられたときにどうも顎の関節が妙な具合になったらしく、今の今まで口を開くことが物理的にできなくなっていたのだ。
「地獄どの、おそらく間違いなく、我々は追われているぞ。人の家に上がり込んで長々と過ごすなど、正気の沙汰ではない」
 部屋の隅に転がされた際に顔の向きも壁に向けられてしまっていたため、イェレミアスは顎を動かしてうまい具合に部屋の中へと顔の向きを変えていく。髑髏生活も、およそ一週間近く。そろそろ彼は髑髏の姿に慣れつつあった。慣れていいものか、との葛藤も、彼の心中にはわずかながら存在する。
 かたかたと顎を小刻みに動かし続けること一分四十秒、イェレミアスはようやく地獄太夫のいる方角へと顔を向けることに成功した。地獄太夫は川合家で湯を借りて、あとは布団で寝るだけ──という段階のはずであった。
 だが、そこに居たのは、いつもどおりの格好の地獄太夫──すなわち、仕事着たる地獄絵図の着物を着込み、たてがみのようにかんざしをこれでもかと結い髪に挿した、刺客たる地獄太夫の姿であった。
 闇の中で、妓が微笑む。闇の中で行う類の二つの生業を持つ彼女は、闇の中こそが最も美しく輝くときであるようだった。
「分かっておりんす。──ただ、どうっっっしても、夕餉だけは食べたかったのと、どうせなら湯浴みはしとうございんした」
 夕餉の部分には、やはり並々ならぬ気迫が込められていた。半日近く甲冑姿でイェレミアスが行った仕事は、およそ通常であれば数日がかりでもおかしくないような量のもの。それゆえ、甲冑の「本体」であるところの地獄太夫からは、相当な体力をうばう結果となってしまっていたのである。
「あれほどひもじい思いをしたは、振袖新造から部屋持ちに上がるときに受けた試験以来でありんした…………あの時はほんとうに、死ぬかと思いんしたえ…………絶海の孤島に匕首一本で十日間…………次々と死んでいく同期の新造たち…………陸を走る三つ頭の鮫との死闘…………洞窟に潜む旧幕軍の動く死骸…………」
 空腹の記憶は、どうも妙な記憶も呼び覚ましたらしい。その記憶がとてつもなく気にかかる内容であるのだが、イェレミアスは一八〇〇年物の精神力でどうにか誘惑に耐え、話を続ける。
「では、もう出立するとするかね」
「あい、寝る場所はまあ、どうにかなりんしょう」
 用意してくれていた客用の布団を隅に畳み、食事代と薪代、それに瓦だの何だのの修繕費にいくらか色を着けた金額をその上に置く。もとより持ち物は少ない。地獄太夫ははじめのとおりにイェレミアスの髑髏を帯に提げ、気配を消して客間の戸を引いた。
 その眼前に、暗闇にぼうと浮かぶ老婆の顔があった。
「いやあああああ!?」
「ひぃっ……こ、小梅さん!?」
 神父と花魁、二つの悲鳴が重なる。なお、前者がイェレミアスの、後者が地獄太夫のそれである。
「アレ、もう出ていくんかえ。せめて、紀州がどうなっとるんかは聞きたかったんやがの」
 小梅ばあは、どうやら二人が現在紀州で起きている異変に関わるものと考え、事情を聞きに来たようであった。
「申し訳ありんせんが、わちきどもにも、詳しいことは分かりんせん。それを調べに、和歌山へ来んしたえ──」
「なら、話してみい。なんぞ分かるかもしれん」
 二人の客人からしてみれば、余人に事情を話せば巻き込んでしまうやも──との思いが強い。しばし、部屋の前での押し問答が続いたが、最終的には小梅ばあの粘りに二人が折れる形となった。
「……仕方あるまい」
 大まかな話やイェレミアスの正体だの地獄太夫の下肢の件だの魔人が復活していることなどにはかなりぼかしを入れ、おおよそ、仇討のために和歌山に赴いたことと、その仇がおそらくはよからぬことを企んでおり、空に浮かぶ紋様はその余波で産まれたであろうこと、それに、「殿様」についての話をただ敵が話していた事項として、二人は小梅ばあに説明した。小梅ばあは、暗い廊下で、皺だらけの顔に更に眉間の皺を増やしながら話を聞いていたが、「殿様」についての話に至ったところで、
「──そりゃあ、南龍公のお話じゃなかろうかの。紀伊大納言、頼宣さまじゃ」
 と、何の苦もなく、正解を引き出してみせた。それというのも──徳川頼宣には、一つの逸話がある。
 頼宣が紀州に封じられて後の話である。手に入れた備前長光の切れ味を試したかったものか──あるいは人を斬る経験をしてみたかったものか、あるとき頼宣は臣下の家に赴き、死刑囚を使い様斬を行った。刀はまっすぐに立った死刑囚の脳天から股までを一刀両断にし、それでもなお死刑囚はすぐには倒れなかったと言うから、これは相当の切れ味、相当の腕前である。
 これに気を良くした頼宣は、引き連れていた道円という臣下に自慢をする。──和中魂に曰く、「如何。唐土に亦、此くの若き利刃あらんか」と。唐の国にも、これほどの切れ味の名刀はないだろう、と自慢したわけである。だが、道円が答えて曰く、「臣聞く、唐土にまた此れ有りと。干将・莫耶、是なり。ただ、人君にして而も(かくのごとく)為す所の者は、之れ桀紂と謂ふ」──。唐の国にも干将・莫邪という名刀があり、しかし人の上に立つものであって様斬のようなことをするものは、殷の紂王のような暴君と言われても仕方のないことです、と、彼の使える君主を諌めたわけである。(以上書き下し文 http://wachukon.com/transcription.html より引用 2017.12.31最終確認)
 この話に現れる道円というのは、那波道円、または那波活所と呼ばれる紀州藩お抱えの儒学者である。江戸期において、儒学者は藩のお抱えとなり、殿様に助言を行う役回りを負っていた。さて、ここで翻って、川合小梅という人物の来歴を見てみよう。彼女は、紀州藩校の助教の子であるが──父は早くに死に、彼女を教育したのは、祖父川合春川であった。この川合春川という人物は、紀州藩で儒学者を務めていたのである。
 故に、祖父より受けた儒学の教育が知識の基礎となっていた小梅ばあにしてみれば、様斬の話と紀州の殿様という二つのキーワードだけで、頼宣を想起するには十分だったのである。
「ううん、しかし、南龍公はいちどお諌めされてから後は、心を改めて斯様な仕儀は二度とせんかったというでな、好むか、と言われれば違うやも──」
「いえ!そのお話で十分でありんす!」
 どれだけ頭を悩ませてもわからなかった「殿様」の正体がただの一言で氷解したのである。地獄太夫は、小梅ばあの手を取り、なんども上下に振った。
 頼宣と言えばまさに神君家康公の息子のひとり、生きた時代も丁度合っている。性格が異なる、というのはやや気にかかるところだが──そも、生前のままでないことは、灰の星を食べた蛇が変じた存在であるという時点でわかっていたようなものではないか。
「──では、頼宣対策には、その干将莫邪という刀工の刀があればよいのでありんすね。現存していると良いのでありんすが──」
 小梅ばあは、話が見えぬままに感謝の意を示されて困惑するばかりである。困惑するばかりだが、彼女の手を握る派手な格好の若い娘が、あからさまに間違った認識を示したからには、それを訂正にかかる。
「アレ、干将・莫邪というは、刀工の名前じゃけども、世の刀のように何本も同じ名のものがあるわけやないんよ。唐土の剣じゃいうても、その頃のものでもなく、春秋のころの話じゃでな──」
 干将・莫邪──それは刀工夫妻の名であり、夫妻が作ったと言われる夫婦剣の名でもある。剣にまつわる伝説には、資料によって大きく変動があるが──概ね王の命令で制作され、献上されたが、製作段階あるいは献上後、刀工に悲運をもたらしたという点は共通している。
 そして何より──もっとも重要なのは、あくまでそれは伝説上の存在であり、現物が存在するわけではない、ということだ。なにしろ、実際に存在するとしても、作られたのは春秋時代、紀元前七七〇年から紀元前四〇〇年ごろまでである。どれだけ状態が良くとも、サビの塊としてでてくれば良い方であろう。
「春秋のころ──えれみや様よりもっと前の話でありんすか……」
 イェレミアスを基準値に、現存が不可能なほどの品物であることを理解した地獄太夫は、喜びから一転、気落ちした表情を浮かべる。それを、哀れに思ったものか。
「ああ、あとは──南龍公についてなら、紀州東照宮に行くか──もしくは、龍神に行くとええかもしれんで」
 小梅ばあは、彼女の知る限りの頼宣についての知識をひねり出してくれた。
 紀州東照宮と言えば、和歌浦に座する神社である。東照宮の名からも分かるとおり、祭神の一柱は東照大権現、神格化された徳川家康であり、もう一柱は南龍大神──すなわち、神格化された徳川頼宣である。
「近さでは此方が圧倒的でありんすが……近いだけにもう敵の手に渡っているやもしれんせん」
「それに、神格化されているのは厄介かもしれんな。逆に、そこに行くと強くなられたりすると困る」
 と、なれば、残るは龍神村ということになる。
 龍神村というのは、和歌山市から見れば南東の方向に位置する、小さな村である。江戸の頃より温泉地と知られ、弘法大師が温泉を掘り当てたという伝説もある。頼宣との関係で言えば、村にある上下の御殿が、唯一最大の接点と言えるだろう。頼宣が紀州藩主となったころ、既に温泉地として有名であった龍神を、自らの湯治場とするべく建築を命じたのがこの御殿である。ただし、実際に頼宣が存命中に同地を訪れることはなく、御殿はそのまま村の管理するところとなったそうであるが──
「ふむ……御殿を建てておきながら訪れなかった地、か。中々に曰く有りげだ」
 イェレミアスの言葉に、地獄太夫も同意を示す。これで、次の行き先は決定した。
 小梅ばあに何度も礼を言い、二人は夜半、川合邸をあとにした。残された小梅ばあは、半日ばかりの喧騒が嘘のように静まり返った屋敷に戻り、寝床に入るが寝付けず、ふと日記帳を出したままの文机のことを思い出した。
 天気の書き方は決まらぬが、書くべき内容は山ほどある。もとより、天気の記録のためだけに筆が滞っていたのも、もしかすれば書くべきことが見つからなかったのが原因ではなかったろうか。
 行灯を片手に、小梅ばあは書斎の戸を開いた。
 暗い部屋の中に、真白い少年──あるいは、少女が立っている。性別はわからぬが、美しい姿の──魔だ、と、河合小梅はとっさに思った。それほどに、その存在は──「けてる」は、通常の空間から浮き立っていたのである。
「こんばんは、おばあさん。あなたの絵、綺麗で好きだよ」
 美しい魔は、美しい笑顔を浮かべて、優しげな声で小梅ばあに語りかける。
「僕はあなたには生きていて欲しいな。寿命の許す限りね。だから、なにも、あなたは書かないほうがいい」
 語りかけながら、白い指が老婆の額に当てられる。その指に、光る糸が絡みついたようであった。──途端。小梅ばあの膝はくずおれ、畳の上に倒れた。
 だがそれも一瞬のこと。小梅ばあはすぐに起き上がっていた。そのときには既に、室内には「けてる」の姿はなく、傍らに行灯が揺れているだけ。
(転んだのだろうか)
 と、訝しんだあと、用事を済ませようとして──小梅ばあは、はたと気づいた。
(いったい、何のためにこんなところに来たんじゃろう)
 自分では呆けてはいないつもりであったが、やはり寄る年波には勝てないのだろうか──と、小梅ばあは自らの年齢を嘆く。その記憶には、この部屋に来た記憶も、そこで起きたことの記憶も、日記に記そうとしていたことすらも、もう残ってはいない。「けてる」が抜き取った光る糸──それこそ、小梅ばあの記憶の一本にほかならなかったのである。
 川合小梅の日記の原本は、現在幕末から明治初等にかけての貴重な史料として、和歌山市立図書館に納められている。また、平凡社東洋文庫より活字に起こした書籍も発刊されてもいるが──明治十六年の日記は、その前年までの密な記録とは打って変わり、雑記の中に天気の記号も伴わぬ合計八日ぶんが綴じ込まれているだけに過ぎない。読んでいけば、足腰の弱ったことなどが記されているゆえ、単に体力がなくなり、日記を書く気力を失っただけとも取れるが、はたして、真実はいかなるものであったろうか──?
 闇に浮かぶセフィロトの下を、美しい魔物は、家から家へと跳び回る。
「まったく、派手にやりあってくれるものだから、僕の仕事が増えて困るよ」
 その手には、家へと出入りするたびに絡みつく糸が増えていったが──すべての仕事を終えると、「けてる」はまるで汚れを振り捨てるように手を払った。
 光る糸の塊はごみくずのように風に流され、消え去っていった。
 ※ ※ ※
 和歌山城本丸には、いちど廃城となったが嘘のように人が行き交っている。ただし、行き交うものの大半は、かつての世にあっては堂々と城内を歩くことなど叶わぬであろう身分のものたち、すなわち徳川の治世の影にあって暗躍した、薬込の忍びたちである。
 中には、呆けたように座り込み涎を流している者の姿も見受けられる。明治十六年の世にあってはまだ珍しく、また高級な洋装を身につけているところを見るに、それなり以上の名士であるはずなのだが──いまのその姿は白痴のごとくにしか映らない。
 実際、その人物は県令と呼ばれる地位にある、まごうことなき名士なのである。同様の状態になっているものは、県令だけではない。その横では警察署長も一体此処がどこで、自身が何故此処に居るのか理解できぬ幼子のような表情で、周囲を見回している。
「いやあ、面倒だから白い子にお願いしたけど、これはこれで面倒なことになっちゃったねえ、けーちゃん」
 県令宅と警察署長宅を少人数の薬込忍者を連れて襲撃し、両者を拘束し城内に拉致せしめることに成功したところだと言うのに、作戦の立案から指揮までをすべて担当した魔人の一人、「びなあ」である。出で立ちこそ黒のダンダラ羽織に野袴、手甲、陣笠姿という歌舞伎にでもでてきそうな立派なものであるが、発せられる言葉と顔に浮かぶ表情は、とにかく軽い。
 けーちゃん、と呼ばれたは、作戦の補佐を務めた魔人、「らはみいむ」である。「びなあ」に似た黒のダンダラ羽織の下に軍装を着込んだ魔人は、眼鏡の位置を直しながら小さく息を吐いた。
「ですからさっさと斬っておけと再三申し上げたはず。作戦そのものは見事というほかなかったのに、なぜそういう微妙なところで面倒臭がるのか……。あと、けーちゃんではなく「らはみいむ」と呼ぶよう平戸殿より幾度も言われているかと」
「そんなこと言ってもさあ、俺やっぱり追い詰められないと本気出せないみたいなんだよねえ。行灯が映えるのは夜の暗い時だけっていうか。平和な状態だとダメなんだよ多分。けーちゃんは違う感じ?」
 呼び名に関する相手の言葉を無視しきって「びなあ」は妙に馴れ馴れしい態度で似た服装の魔人に絡んでいる。酒を飲んでいる様子もないので、元からそういった性格であるらしい。
 彼らの他の魔人たちはいかに過ごしているか、城内を探してみよう。
 以前は大奥であった建物は、本丸とは違い、人の気配は少ない。その代わりと言ってはなんだが、大量のランプや灯籠、ろうそくが持ち込まれて、さらには無数の鏡を使って昼間のような明るさが作り出されている。
 灯りの下には、大量の本が積み上げられている。本の山の中央に居るのは、「げぶらあ」と呼ばれた娘姿の魔人である。
 魔人の周りに積み上がっているのは、江戸期に発刊された娯楽書籍──その中でも合巻と呼ばれる、一八〇〇年台以降あたりに発刊された長編作品の数々である。
「んんんんんんんん……違う……思ってたのと違う……仕方ないんだけど……」
 いま「げぶらあ」が読んで苦悩しているのは、『傾城水滸伝』の最終巻である。正しくは、本来の作者が作品を完成させぬうちに死んでしまったため、笠亭仙果が後をついで完結させた『女水滸伝』であった。
 『女水滸伝』を最後まで読み切ると、「げぶらあ」は頭を抱えてしばしすべての動きを静止させていた。が、そのうちに気を取り直したように別の本を手に取る。今度も同じ作者の『三都妖婦伝』という作品である。しばしそのページをめくっていった「げぶらあ」は、やがてそのまま床に突っ伏してしまった。
「絵はいい……絵はいいんだけど……いや、話も普通に面白いんだけど……めっちゃ普通っていうか……」
 「げぶらあ」は突っ伏した状態のまま言葉を探しあぐねているようだったが、やがてガバと跳ね起き、
「全部、どっかで見たことあるのよどっかで!いやそういうもんなんだけど黄表紙って!でもこう、こんなのみたことない!みたいな面白いの読みたいじゃないの!!」
 一人、本の山の中で叫んだ。無論、その場に居るのはただ一人である。
「紀州ってのが悪いのよ紀州ってのがこのクソ田舎が!これ今最新の流行りじゃないわよ絶対、江戸……じゃない東京に行かないと多分最新のが読めないんだわ!今流行の!みんなが読んでみんながそれについて話してるやつ!」
 つまり「げぶらあ」は、希望通りこの和歌山で手に入る限りの娯楽作品類を運び入れてもらったはいいが、その作品群の中にこれというものがない、という状態にあるようであった。
 その後も魔人は適当に目についた合巻をめくってみては途中でやめ、時々は用意された大量の半紙に何かを書きつけようとしてやめる、ということを繰り返していた。
「ダメだわ、これ絶対入力量が足りない奴よ、何かいいの書こうと思ったら最低十倍ぐらいなんか読まないと絶対無理だもん!このあたしが!駄作を書いてたまるもんですか!」
 一人で絶叫しながら、「げぶらあ」はバンバンと床を叩いている。本を叩かないという理性だけは、働いているようであった。
 さて、更に視点を変えて──城の西の丸では、魔人と無数の忍びとが相対している。西の丸の庭園は、徳川の城主がいた頃には日本有数の美しさを誇る庭園であったのだが、廃城となった今では池には藻が浮き、はたまた湧き水は枯れつつある。
 魔人は、藻に覆われた池の只中に立てられた竹柱の、その頂点に両の足を置いている。更には──その右目には布が巻かれ、視界を半分に遮っている。それが、忍法を極めているといえど常人の到達しうる限界の中にある薬込忍者らと手合わせをするために、魔人「けせど」が自身に化したハンデなのだった。
 よく見れば、池の外より魔人を囲む中には、十陽がうちの四人たるくノ一の姿もある。はじめに動いたは、そのうちの二人──「いぇそど」と「まるくと」の双子であった。
 「いぇそど」と「まるくと」の手より、鎖鎌が伸びる。まずはじめに鎖が魔人の胴を捉えた。二本の鎖は魔人の身体に巻き付いていき、それとともに巨大なふたつの刃が、命を刈り取らんとばかりに魔人の首へと両側より迫ってゆく。常人であれば、もはや死を逃れること能わぬ情勢である。
 更にそこに、ありとあらゆる忍び道具が撃ち出される。礫もあれば苦無もあり、中には炸薬すらある。魔人がこの場を手合わせの場に選んだは、ただ自身へのハンデというほかに、万一の場合にも池を舞台にしておけば周囲に大きな被害が出ぬ、という判断でもあったのだ。
「──遅い!全て、遅い!」
 鎌の二つ刃が、鋏のごとくに首を切り落とさんとしたその時、ようやく「けせど」は反応を見せた。その反応とは、ただ、鎖の巻かれる方向とは逆の回転をかけながら、宙へと跳躍しただけであった。ただそれだけで、身体に巻き付いた鎖は解けた。解けた鎖を魔人はむんず(・・・)とつかみ、身体の前後で旋回させてみせる。双子のくノ一が大鎖鎌を自在に操るまで、十年の月日が必要であった。そんな大鎖鎌を、魔人はごく簡単に操ってみせ、のみならず、自身を狙うすべての飛び道具をも、たちまちのうちに斬り落としてみせたのだ。
 水面に、斬り捨てられたすべての忍び道具が雨あられの如く落ちていく。そのけたたましい水音が消えると、残るは、静寂のみ。魔人の腰には、彼の愛刀が一度も抜かれぬまま収まっている。初めて見る敵手の得物を奪うだけで、薬込忍軍の精鋭による一斉攻撃は凌いで余りある、と言わんばかりであった。
「──よいか。忍びの道具はそれだけで敵手にはとてつもない脅威。それだけで、通常の相手であればいとも簡単に殺しうるはずだ。だが、お前たちが狙わねばならぬのは、そうではない相手──そうだろう」
 その場に居る忍者の半数ほどは、昼間、地獄太夫とイェレミアス神父を相手にし、おめおめと逃げ帰ってきた忍びたちであった。彼らは、「けせど」の言葉に深く頷いてみせる。
「で、あれば。忍びの道具の機能に頼るのでなく──我ら剣客が剣を自らの手足とする如く、道具を自らの一部とすること、これが肝要よ」
「は!ありがとうございます、先生!」
「我ら、忍の世の最後の世代なれば、教えを請う相手も居らず困っておりました処。先生の教え、まこと痛み入りまする」
 鎖鎌を奪われた双子が跪き、感服の意を示す。すると、他の忍者らも同様の行動を取り始める。
「おいおい、感謝したって業が磨かれるわけでなし、そんなことをしている暇があるならば──まだ、時間はいくらでもある。かかってくることだ」
 深夜の鍛錬は、魔の城中にあって、不思議なほどに爽やかな様相を見せている。この様子では、次に相まみえる時には、彼らの「敵」たる神父と花魁は、今日よりはよほど苦戦する事になりそうである。──
 そして、城の天守にて──かつてこの城の主であり、いま再び城主となった魔人「こくまあ」こと紀州大納言頼宣は、ダンダラ羽織の二人がついでに捕まえてきた市民をなますに切り刻みながら、どこか物足りぬ表情を浮かべていた。
「──やはり、これではない。これではないのだ──」
 彼がいま握るは、かつて生前のころに罪人を一刀両断にしたと同じ、備前長光である。彼の眼前にある哀れな犠牲者は、驚くことなかれ、縱橫に一寸刻みにされ、頼宣が石突で板張りの床を叩くや、サイコロのように細切れになって文字通りに崩れ落ちたのである。もとより、剣技においても一流の業を持っていたはずの頼宣であるが──魔人となったあとは、もはや魔の業と呼ぶほかないほどの域に至っているようであった。
 しかし、これだけの業を見せておいて、南龍公は一体何が不満であるのだろうか?
 その答えは、殿様御自身すらも判然とはせぬ様子であった。が、備前長光を眼前に見た時、彼は天啓を得たように城下を顧みた。
「そうだ。余はあの時、あの双剣を求めたのであった。──だが、手にすること叶わなかった。この、城にとらわれていたがゆえに」
 つい先日自らの手で取り戻し、その城主となったことを誇ったばかりである場所について、かれは「とらわれていた」と表現した。──それは、ある一面では確かに間違いのないことであろう。
「そう、そうだ、だが、今ならばあれを得ることができる。あの地、我が名と同じ龍の名を関する地へと行くこともできる!」
 南海の龍と呼ばれた激烈な性質を持つ紀州藩主は、その声質に違わぬ大音声で叫んだ。その言葉を聞き──いずこに控えていたものか、白衣の忍びの頭領が天守に姿を現していた。
「殿様。ご出陣をお望みですか」
 平戸は、紀州に張り巡らせた忍びのネットワークを通じ、彼の大望を叶えるに必要な最後のピース──地獄太夫と永遠のユダヤ人たるイェレミアス神父とが龍神村へと向かっていることを察知したところであった。
形式上、城主たる南龍公にもその報告を行いに訪れたところであったが──いま殿様が叫んだ言葉は、まさに我が意を得たりと言うべきものであったのだ。
 異形の空を背に、頼宣は魔王のごとくに微笑んだ。
「無論。余は、かつて得られなかったものをすべて、今生にて晴らすことを望むぞ、平戸よ」
 御意、と平戸は顔を伏せた。
「では、薬込衆、および他の十陽すべてに号令を。行く先は龍神、我ら総力を持って敵を焼き滅ぼしましょうぞ」
 かくして──舞台は、魔風のごとくに転変してゆく。各々の思惑を乗せ、龍の名を関する小さな村へと。
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登場人物紹介

【地獄太夫】花魁兼女剣士。走るタイプのゾンビは苦手。

【イェレミアス神父】 さまよえるユダヤ人にしてバチカンのエクソシスト。久しぶりに日本に来たら変身アイテムにされた。

【平戸】いわゆるひとつの黒幕。結構詰めが甘い。

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