四.壊天の儀式が執り行われること

文字数 8,868文字

 結論から言えば、神父らが紀州という土地を見出したのは、まさに正解であった。だが、そこへ向かうという決断が果たして正しいのか、否か。
「ふむ──余の住んでおったころより、数えておよそ二百年。ずいぶんと、くたびれた様子だのう」
 一人の魔人が、月下に浮かぶ巨大な影を前に、嘆息した。不忍池のほとりでこの世に再び生まれおちたときとは違い、上等な着物を着込んでいる。
 魔人の視線の先、くろぐろと鎮座する虎伏山がいただく真白い城は、和歌山城である。かつては徳川御三家が一家、紀伊徳川家の居城であったこの城も、明治の世においては政府の所轄するところとなっている。その上で、和歌山城の姿を往年のものから程遠くしたのは、明治六年、遡ること十年前に発布されたいわゆる廃城令だ。正式な名称を「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」という太政官令により廃城処分と定められた和歌山城は、場内に存在した多くの建造物を解体され、往年の威風を失っていたのだ。
「ま、敗者に対する勝者の仕打ちなぞ、往々にしてそのようなものにござろう。南龍大神の祀られる神社とて、いまはどうなっているものやら──」
 と、別の魔人が懐手のままに、どこか面白がるような声を上げた。
「けせど殿。相たがいに、生前の名を呼ばぬようにと申し伝えたはず」
「おっと失礼。う、ふ……だが、南龍大神というのは、諡号ではなかったかなあ」
 魔人が一人「けせど」へ小言を言うは、白い裃を身にまとう総髪の男──平戸である。平戸が咎め立てたのは、かつての居城の成れの果ての姿を見やる魔人の生前の名が知れることを恐れたゆえのこと。しかし、「けせど」は自身が口にした呼び名が諡号、死後に送られた名であったために、抗議の声を上げた、というやり取りであった。
「よい、どのみち、この地におればいずれ正体なぞ知れよう。余にしても、「こくまあ」なぞと呼ばれるよりは南龍公でも、なんとなればかつてのように大納言とでも呼ばれる方が好ましいぞ」
「は。しかし、殿様におかれましては、この地ではなるべくならば真の名をお隠しになるべきと存じます」
「平戸よ、存外に堅物だのう。この紀州の地で、余の名をそう隠し続けられようはずもないと言うに」
 「こくまあ」を呼び表す「南龍大神」、あるいは「大納言」──それは、紀州に君臨したある一人の藩主を同定するには十分過ぎる手掛りであった。
 然り、と「こくまあ」の言を肯定したは、やはり先程と同じく、「けせど」であった。
「然り、然り。紀伊大納言、徳川頼宣公ともあろう方の名を隠し立てするは、不敬にありましょうぞ、透破の頭領どのよ」
 平戸の顔に、神経質な怒りの様相が現れた。怒りの原因である「けせど」はというと、飄然としてすでに何処か別の方を向いている。
 紀伊大納言徳川頼宣(よりのぶ)。それが、「こくまあ」と呼ばれる、イェレミアスの泥の身体を土塊に返した魔人の正体であった。
 頼宣は、右手に剣を携え、廃城を歩んでゆく。時折剣を振るう傍ら、城内の荒れ果てた様子を見、押し黙るのも無理からぬ事であろう。彼がこの世に生を受けたのは慶長七年のこと。丁度、父君たる徳川家康が朝廷より征夷大将軍を任じられる前年のことであった。紀伊の地に封じられるは幾分か先の話とは言え、江戸幕府のはじまりとともに生を受けた徳川の血族が、幕府もとうに瓦解した時代に黄泉帰ったのだ。感慨を抱かぬはずがなかった。
 彼らの道を斬り開く殿様のあとをついて行きながら、「けせど」はやはりまだ軽口を叩き足らぬ様子である。どうやら、自分の出る幕がないために退屈しているものであるらしい。
「──それに。南龍公が斯様に、思う存分に試斬をなされ、余人を討払ってくださっているのだ。我らの戯言なぞ、聞き咎めるものの居るはずもござらんではないか」
 うっそりと微笑み、わざとらしく周囲を示してみせた魔人の、その指し示した先にあったもの。それは、政府所有の建物となった和歌山城に不逞者の入り込まぬよう詰めていた警備の警官や、諸財管理のために泊まり込んでいる役人ら──ともかく、つい先刻までは息のあったはずの人間たちの、斬り捨てられた死骸であった。
「ひぃ……!い、命だけは──」
「ならぬ。余の城に無断で上がり込んでおいて助かろうとは不届千万」
 逃げる男の脳天に、魔人の手にした刀が振り下ろされる。刀の銘は南紀重国。頼宣が駿府より伴い、それより幕末に至るまで続いた刀工と、その一族の名である。いま頼宣の手にあるものは、彼のころの南紀重国の作ではなく十一代目、幕末に活動を行った末裔の打ったものであった。だが、紀州藩お抱えの刀工の末裔の仕事は、殿様のお気に召したようであった。
「さすがは南紀重国よ、頭蓋を砕いてなお刃こぼれ一つ起こさぬとは。薬込、ほかに業物はあるか」
 殿様の言葉を受け、闇の内より気配もないままに忍びの影が現れ、新たな刀をうやうやしく献上する。言葉の上では無礼討ちかのような体をとっているものの、魔人頼宣の意図が、自らの死後に打たれた数々の名刀、業物をつかって試斬をおこなうことにあるのは火を見るより明らかであった。
「う、ふ、ほら、申し上げたとおりでござろう」
 いままさに眼前で行われている悪逆非道の行いを目の当たりにしても、「けせど」は少しも動じる様子はない。それどころか、時折自らもその所業に加わりたくて仕方のない様子すら見受けられた。そも、彼がこの場にいるは、自らの居城を取り戻すことを所望する頼宣に万一のことがあってはまかりならぬと、用心棒代わりに平戸が連れてきたものであった。実際は見ての通り、「四ノ星」の出る幕など、一分たりとも存在しない様子である。つまるところ、魔人としてこの世に再び生を受けた彼は、自らの手で殺戮を成せぬことに飽いているのだ。
 ふたりの魔人と、彼らに付き従う忍びらは、廃城を血に染めながら、城の天守へとのぼってゆく。白亜の城は、内部で起きている惨劇も知らず、月明かりに白く輝いている。
「これが、いまの紀伊か。うむ──相も変わらず、余の治めるに相応しい地よ」
 やがて天守閣の窓より、一つの影が現れた。全身に赤々と返り血を浴びた魔人の姿は、さながら赤鬼のようであった。鬼の後ろには、無数の薬込衆らの姿がある。もはや生けるもののない廃城にあっては、隠形の必要もなしと判断したものであった。
「今宵、このときより、紀伊和歌山は再び我が手のもとに」
 魔人は、血に染まった掌を、天守より望む城下の景色へと伸ばした。明治の世に移ったとはいえ、和歌山に訪れる変化の波は未だ緩やかなものだ。江戸の頃よりそう変わらぬ牧歌的な風景を、赤鬼の手は掴みどらんとしていた。
 唱和するように、平戸が言葉を紡ぐ。 
「そして、大願成就はいまこの夜に。──さあ、十陽のみなさま方。はじめましょう」
 ※ ※ ※
 いつ、そこに現れたものか。天守の床には、十の円を線で繋いだ図式が現れていた。
 もしもこの場にカバラ魔術師、あるいは単にカバラの知識を持つものが居れば、それが「セフィロトの樹」と呼ばれる図であると知っただろう。
 カバラにおけるセフィロトの樹というのは、神の力が流れ出る段階を図式的に示したものだ。十の数円(セフィラ)がそれぞれ現世に至るまでに神の力が見せる十の相を象徴しており、図の上部ほど神に近いとされている。
 十の円の前には、これもいつ現れたものか。十の影が立ち、術者たる平戸の言葉を待っている。天守にはほの白い光が満ちている。月明かりではない。床に描かれたセフィロトの樹が、輝きを発しているのである。
「呼気はけてる(・・・)
 と、平戸が言うや、第一のセフィラに立つ魔人が、円に向けて手を伸ばす。「けてる」とは、そこに立つ魔人の呼び名であるとともに、第一のセフィラの名でもある。
 簡素な生成りの布をまとった、美しい少女とも少年ともつかぬ魔人は、伸ばした手指を自らの爪で傷つけてセフィラの中に血を落とした。
「右脳にこくまあ(・・・・)
 第二のセフィラの前に立つは、言うまでもない、紀州大納言頼宣である。生前の位に相応しい豪奢な裃を身に着けた魔人は、予め掌に着けていた切傷から血を落とす。
「左脳にびなあ」
 三番目に呼ばれた魔人は、こちらも予め着けていたものであろう切傷より第三のセフィラへと血を落とした。なにぶん、「びなあ」のいでたちは、黒地に白い入山型を染め抜いた羽織に黒の野袴、手甲に、垂布付きの陣笠姿。武家火消の装束に似た、堂に入った衣装である。予め用意をしておかねば、刃を通すも一苦労であったろう。
右手(めて)けせど(・・・)
 対して、次なる魔人は、木綿の着流し一枚のあまりにラフな出で立ちである。だが、その格好は、彼の無頼漢じみた言動に、ひどく似合っていもいた。
 「けせど」は帯に挿したる三池典太の鯉口を切る動作をもって親指を傷つけ、第四のセフィラに落とす血を用意した。
左手(ゆんで)げぶらあ(・・・・)
 第五のセフィラを担当する魔人は、誰もかれも異風ばかりの魔人の中にあって、特に異彩を放っている。なりが少女のそれである、というのも無論、場にあって異彩を放つ原因の一つではあるが──それよりも、娘姿の魔人が纏っている衣装が、西洋のドレス、それも真っ黒なものにふんだんなレースだの銀細工だのを縫い付けたものであるというのが、主だった原因であった。
 痛いわよねえ、ああ、絶対痛いじゃないの、とつぶやきながら、「げぶらあ」は小刀で自分の小指の先を切った。一滴だけ、血が足下の円に吸い込まれてゆく。
「胴にらはみいむ(・・・・・)
 儀式に参加する魔人の中でしんがりをつとめるは、第三のセフィラの前に立つ魔人に似た出で立ちの魔人である。肩より羽織っているものは、「びなあ」と同じ、白黒のダンダラ模様の陣羽織。違うのは、その下に纏うものが黒い洋式の軍服であることと、陣笠は無く総髪がそのまま見えていることだ。
 「らはみいむ」は若々しいとまでは行かぬがそう年配とも見えぬ顔に乗った眼鏡を直した後、脇差で無造作に手の甲を傷つけ、第六のセフィラに血を落とした。
 〈さまよえるユダヤ人〉の灰を固めた星で蘇った魔人は、これにて全員。しかし、それではセフィラと数が合わぬ。ゆえに、残る四つのセフィラの前には、平戸が配下より選びだした四人のくノ一が立っている。彼女らは、事前にイェレミアスより奪った不死者の骨を食み、この場に臨んでいたのである。
「右足はねつぇは(・・・・)
 顔に大きな傷を負ったくノ一が、第七のセフィラに血を落とす。
「左足はほおど(・・・)
 第八のセフィラの上で刃を握ったは、ごく幼い、童女と言っていいほどの年回りのくノ一であった。幼い見た目にかかわらず、娘姿の魔人「げぶらあ」が膚に刃を立てるのを怖がった、その一割ほどの恐怖すら「ほおど」は示しはしなかった。
「陽根と、割礼にて失わるる皮膚には、いぇそど(・・・・)およびまるくと(・・・・)
 最後の二つのセフィラは、まとめて呼び表された。それも道理、第九、第十のセフィラの前に立つくノ一は、瓜二つの外見を持った、双子の姉妹であったのだ。
 これにて、すべてのセフィラに、「さまよえるユダヤ人」の肉体の一部を取り込んだ血が落とされたことになる。今宵、虎伏山にて行われる壊天の儀式、その第一幕が終わったことになるのである。
「これら十に裂かれし肉体をもって、扶桑(ふそう)より出ずる十陽とする。扶桑の十陽の灼熱は、造物主の罪科を照らし、天を焦がし、真の世界を見んと欲すため」
 ただセフィロトの樹の外で印を結び、呪文、あるいは詠唱を口にしているだけに見えて、平戸の顔はまるで生気を吸い取られているかのように頬がこけ、窶れてきている。和歌山という土地に存在する龍脈を利用しているとは言え、この呪法を執り行うための殆どの霊力は、平戸自身のものを使っているのだ。何分、和歌山は田舎とは言え、二百六十年の間徳川の領地であった土地だ。地脈は豊富なれど、同時に和歌山という街、和歌山という土地そのものを栄えさせるため、豊富な地脈の霊力はすでにいわばインフラに利用されている。儀式に使うことができるのは精々が虎伏山にあるだけのぶんであろう。
 痩せこけた貌のなか、ただ二つの目だけを爛と光らせて、平戸は血を吐くように呪術を続行する。一体、一族の悲願とはこれほどまでに人を駆り立てるものであるというのか。
偽りの神(やるだばおと)の偽光の守護者よ、汝の敵はいま此処に、神の呪い受け此処に立つ。我が声を涜神と見なさば、(みち)よ開け──」
 セフィラと、セフィラ同士をつなぐ二十二本の経路が、血をたたえ、赤く光る。のみならず、光は次第に帯の形状へと変わっていくではないか。やがて、赤光(オーロラ)のごとくにはためきだした光のなかに、新たな影──否、光の塊が出現するのを、呪術の紡ぎ手は目の当たりにした。
 赤い妖光の中にあってなお、宗教画に描かれる光背のごとくに神々しき光を放つものたちは、いずれもセフィラの円の中にある。奇妙なのは、その姿がどれも、背に最低でも一対の翼を負うていることだ。
「これが、御使い──」
 自らが偽光と呼んだ白光に目を灼かれているにもかかわらず、平戸はその姿に目を奪われそうになっている。カバラによって体系化された世界の一つの解釈をつかい呼び出したものは、やはり同じく、カバラにおいて各々のセフィラを守護すると言われる御使い、天使であったのだ。
 御使いらは、自らの前にある姿がどれも、忌まわしき業によってこの世に顕現した存在、あるいはそれに近い存在であるとすぐさま理解をした。天使とは、残らず至高者の軍勢につらなる兵士でもある。背に翼持つ戦士らは、すぐさま腰の剣を抜き、弓を引き、槍を打ち下ろし、目前に立つ魔を打ち払わんとした。
 天使は、残らず全能者の加護を受けている。その力は、戦が起きれば叛逆天使の戦列に向けて天上の山を投げ、異教の悪霊を一刀に屠るほどのものだ。ただ呪術でこの世に黄泉帰ったに過ぎぬ魔人はもちろん、不死者の骨を食んだ程度の人の身など、一撃で六度死に、十二度死んでいても不思議はなかった。
 もしもここが、尋常の場であったならば。
「──否!我らが目の当たりにするはただのあるこおん(・・・・・)!偽の神に使える下級霊にすぎぬ!」
 血を吐くような叫びで、くノ一らは、魔人らは、打たれたように我へと帰る。否、「ような」ではない。実際に、平戸は血を吐いてすらいた。魔を打ち砕かんとした御使いらの攻撃は、どれも敵手を打ち倒しはしなかった。おお、なんたる涜神の業であろうか。──彼らの持つ黄金の剣は、燃える鏃は、氷の槍先は、赤い光帯に阻まれ、砕け落ちていたのである。
 血を吐きながら、平戸は自身の不甲斐なさを恥じる。彼の一族の悲願は、彼の望みは目前にある。ただ霊的な上位者を目前にしただけで気後れするとはなんたる不覚──平戸は自らの頬を叩き、御使いらをしっかと見据えた。
「──そう、所詮下級霊に過ぎぬのであれば、今の諸君らに打ち倒せぬはずがない。十のセフィラを冠するものよ、日出処の十陽よ、旧き守護者に代わるはいま!」
 忍びの頭領の両手が、複雑な印を結ぶ。平戸の声に呼応して、まずは彼の配下である四人の女が、各々の担当するセフィラの守護天使へと刃を振り下ろし、突き刺した。内から外への攻撃とは違い、外から内へ向けての攻撃は、簡単に通った。続き、六人の魔人もまた、御使いに向け、各々が生前に培った技量を思う存分に叩き込む。もしもここが尋常の場であり、万軍の主の兵士らが小さな円から外に動くことができれば、人が生涯をかけて研鑽した技であっても、かすりもしなかっただろう。だがここは、魔の業によって作り出された、壊天のための場であった。
 光の結晶の如き神々しい肉体に、無残にも裂傷が生じる。のみならず、生じた傷には、なんたることか、禍々しい赤い光が入り込んでゆくではないか。神の呪いを受けた肉体を媒介に、さらに人の持つ原罪と、蠱毒の蛇の呪いとを重ね掛けして作り出した赤光は、神性の威光を受ける御使いの身体にこそ最も効果を発揮する毒の光であったのだ。
 人の耳では感ぜられぬ悲鳴が天守に響く。赤い光が入り込むに連れ、御使いらの身体は光を減じ、ついには石のごとくに成り果ててゆく。
「いまぞ、我らの征く道は天に!セフィロトの樹に昇る十陽の焔をもって、天堂は焼け落ちよ!」
 やがて砂礫へと変じてゆく十の御使いの姿を最後まで見ることなく、魔軍の頭領は天守より漆黒の夜空へと両手を掲げた。そこにあったものを小さなものに例えるならば、銀河を駆ける赤い彗星の尾で描いた星座であろうか。だが、今宵、空には彗星はおろか、星屑一つ見えはしない。あるのはただ一つ、天という天を使い描き出されたセフィロトの樹であった。
 セフィロトの樹とは、神の力がこの世に至るまでの経路を模式的に示したもの。各セフィラは、現世から神の座に至るまでを十の段階に分け、それぞれの段階に対応させたものだ。その上で、たった今、セフィラの守護者は倒され、魔軍の構成員たちがそれに取って代わった。──そして、彼らが望むものは、壊天である。
 夜空に星を使って描いたがごとき図像の、最下部のセフィラから亀裂が走った。まるで、世界が崩壊するかの如き大音声が響き渡る。まさにそれは、「壊天」であった。マルクトのセフィラが象徴するは王国、この現世のことである。それが壊れるということは、この世の壊滅をも意味している。亀裂はついに全天に至り、更には地平線にすら至る、かに思われた。
「ん、これは──」
 訝しげな声を挙げたは、「けてる」であった。同時に、歓喜に満ちていた白皙の顔は、見る間に失望の色に塗り固められていく。平戸の見る前で、折角広がった亀裂は見る間にふさがり、元の空が戻り来ていたのだ。
「ヒラト、だめだ。やはり頭蓋、ダートがないと、術式が完成しないみたいだ」
 床の上、御使いの砂礫を邪魔そうに払い除けながら描かれた図式を調べていた「けてる」が指し示したもの──それは、ケテル、ビナー、コクマーの織りなす三角形の真ん中に、小さく存在する円であった。
 セフィロトの樹は十のセフィラから成るが──実を言うともう一つ、隠されたセフィラというものが存在する。それがダートである。
「では、候補者をもう一人、否、やはり私が──」
「それじゃあダメだ。アハスエルスの本当の頭蓋骨も、本来使うはずだったアハスエルスの星も、どちらも此処にはない」
 美しい魔人は、残念そうに首を横に振った。彼、あるいは彼女が言うは、イェレミアス神父の髑髏と、地獄太夫の下肢を補う「星」がないゆえ、隠されたセフィラの守護者を呼び出す事ができぬということだ。血反吐すら吐き、術式を履行した平戸の顔には、もはや絶望にしか見えぬ落胆の色が浮かぶ。
「──だけれど、ヒラト。別に、事態が後退したわけじゃない。むしろその逆だ。少なくとも、ヤルダバオトより流れ出る力の大部分はせき止められているわけだからね。ただ、壊天の日取りがちょっと伸びたと言うだけだよ」
 セフィロトの上には、天使であった砂粒が残っている。セフィロトの守護者には、いわゆる七大天使の一角や、天使の九階級の最上位に属する御使いも含まれている。それほどの存在を文字通り灰燼に帰したのだ。平戸の目的からすれば、十分に前進したと言えよう。
「なに、壊天っての、先に延びたの?ほっとしたわ、世界が滅びちゃったらいま流行ってる戯作も読めないものね。ああ、それから、たいぷらいたあ、っていうんだっけ?言葉を紙に記す為の異国の機械。それも触ってみたいし、あとそれから──」
 重苦しい表情の並ぶ中、一つだけ儀式の前と変わらぬは、「げぶらあ」の愛らしい顔だ。可愛らしい顔に笑顔を浮かべた魔人は、どうやら今生にてやりたいことがいくつも残っているようだ。おねだりをするその姿は愛らしい。が、しかし、愛らしいだけに、赤黒くなりつつある血糊がそこかしこにべったりとつき、生臭い臭いも残ったままの魔の術式の行われた場で行う動作としては、この上なく不気味ですらあった。
 うむ、と娘姿の魔人の横で、もっともらしく頷く顔があった。片目をつぶった無頼漢じみた顔は、「けせど」のものである。
「正直なところ、我らとて似たような思いにござる。各々、願いを携えて再びこの世に黄泉帰ったというに、何もかもお釈迦、みんなご破算では話にならぬ」
 便乗した「けせど」の言に、面と向かって異を唱える魔人はいない。つまりは皆、口には出さぬが思いはそう変わらぬのである。
 平戸は、白い袖が汚れるのも構わずに口元を拭い、青い唇で苦笑を浮かべてみせた。
「──世界を維持するはもはや「だあと」のみ。遊び女ひとり、しゃれこうべ一つ確保すれば済む話なれば──どうぞ魔人がたはそれまでの間、思う儘にお過ごしください」
 今宵、わずか一刻ばかりひとりの魔人が剣を振るっただけで、廃城のなかには数の知れぬ屍が積み上がっている。それも、この「敵」というは、文字通りの意味で世界を壊そうとし、その試みにほぼ成功せしめているのである。彼らを「敵」とするものが相手取らねばならぬのは、これほどの魔、これほどの暴虐であるのだ。
 地獄太夫は、不死者の髑髏を携え、紀州和歌山へ向かっている。はたして、この不可思議な組み合わせのふたりは、いかにして恐るべき「敵」と相まみえるのであろうか。──
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登場人物紹介

【地獄太夫】花魁兼女剣士。走るタイプのゾンビは苦手。

【イェレミアス神父】 さまよえるユダヤ人にしてバチカンのエクソシスト。久しぶりに日本に来たら変身アイテムにされた。

【平戸】いわゆるひとつの黒幕。結構詰めが甘い。

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