一.遊女と神父が相対すること

文字数 6,281文字

 そして、満天の星の下、蓮華の咲きほこる不忍池を背景に、ふたつの影が向き合っている。
 ときは二月、池には氷すら張っている。狂い咲きである。狂い咲きも狂い咲き、桜が狂うならばまだしも、蓮が狂うなど、常ならぬことである。
 だが、常ならぬと言えば、抜き身の刀を手に殺気を交流させるふたりの剣士も、全く常ならぬ存在である。廃刀令が発布されたのはもう七年も前のこと。刀を手にして夜の公園地に立つだけですでに異形といえよう。此方に立つは、黒檀の彫刻の如き肉体の上にカソックと呼ばれる簡素な西洋の僧衣を纏い、大小の刀を上下段に構えたイェレミアス神父。彼方にて打刀を無形に引っ提げるは、巴御前もかくあらん、身に纏う着物には地獄絵図があしらわれ、島田に結い上げた黒髪には花簪が鬣のごとくに突き立った、地獄太夫。両者ともに、およそ人々の集う景勝地たる上野公園に似つかわしいとはいい難い出で立ち、武装である。仏の座とも言われる花々は、池の畔に立つ剣士らの魔にあてられ、狂気に至ったものかとすら思われる情景であった。
「ご婦人、地獄太夫どの、だったか。どうか、剣を下ろしてくれ。貴方を私が斬らねばならぬ理由もないし、なによりあなたが私を殺すことは出来ない」
 伴天連の僧形は、女剣士に呼びかけた。カソックに覆われていない彼の顔は、月光を受けて黒瑪瑙のごとくに輝いている。彼の容貌が、おおよそこの時代の日本人のそれとはかけ離れたものであることは異論のないところであろう。にもかかわらず、彼の話す日本語は、驚くほどに流暢なものであった。
 対する地獄太夫は、玉虫色の紅を塗った唇を、にい、と吊り上げて答えた。
「申し訳御座いんせんが、大旦那様たってのお願いでありんすえ。観念するがよろしおす、えれみや神父さま」
 郭言葉の甘い語尾が消え去らぬうちに、豪奢な袖は空をたなびいていた。彼女の標的がが自分を斬るに余念あり、と知った女剣士は、いまこそ斬り込む好機と見たのであろうか。
 えれみや、すなわちイェレミアス神父へと襲いかかる打刀の軌跡は月光を照り返し、白い扇のごとくに浮かびあがる。地獄太夫が右手にぶら下げていた刀は、そのまま右下段からの逆袈裟として、敵手の腹を裂かんとした。
 だが、打刀を握った手には、肉を断つ感触が返ることはなかった。二刀流の最大の利点とは、後の先を取ることにある。すなわち、敵に先手を取られたとて一方の剣でもってそれをさばき、もう片方の剣で斬撃を返せるということだ。
 妓の逆袈裟は、下段に構えた脇差で止められていた。同時に、上段より本差の一撃が敵手の肩口を捉えんとする。地獄太夫、絶体絶命の危機である。
 だが、神父の剣もまた、肉を断つには至らない。断たれたのは、地獄の焔を染め抜いた妓の袖口ひとつのみ。その時起きたことを肉眼で捉えることは困難であったろうが、もしもスローモーションカメラでの撮影に成功していたならば、次のような映像がおさめられていたはずだ。逆袈裟を止められ、大刀が振り下ろされんとするとほぼ時を同じくして、妓の身体が独楽のように舞う。移動する先は神父の左後、打刀を止める脇差を回転運動の基軸とし、敵手の後ろへと移動したのである──と、説明するは容易い。だが、真剣がまさに自らの肩口を斬り裂かんとしている時に、そのように曲芸じみた動作を行ってのける剣士など、どれほどこの世に居るものであろう。まして、敵の後背を取るや、回転の力をそのまま生かし、今度こそ胴を両断せんとするとは。
 三度目ならぬ、二度目の正直である。神父の左手は伸び切り、右手は振り下ろしきられている。確かに、地獄太夫の剣は、神父の身体を裂いたはずであった。
 ──だというのに、地獄太夫の眼前に神父の姿はなく、刀身には、血の一滴すら付いていなかった。
 常識の埒外のことが起きたとて、何故なのか、一体何が起きたか、などという思考は妓の脳裏には湧き上がらない。驚愕すらほんの一瞬で捨て去られる。彼女は、そのような鍛錬を受けてきたひとりの刺客であった。
 妓は、神父が跳躍するさまを捉えられてはいなかった。ただ、絶え間なくあらゆるものを照らしていたはずの月明かりが、不自然に陰るを見た。地獄太夫が次の動作を起こすには、それだけの判断材料があれば十分であった。
「──上かッ」
 金属同士がぶつかり合い、擦れあう不快な音が響きわたる。刀同士が打ち合うことなどそうそうありはしない。まして、頭上に刀を斜めに掲げることで、体重の乗った大刀の打ち込みを受け流しきるなど、およそ常道の斬り合いで起きることではない。刃の形をしていた金属は互いにひしゃげ、削がれながらも、双方の持ち主をどうにか最後まで守りきる役目だけは果たしきった。
 神父が地面に両足をつき、へしおれた大刀を投げ捨てるや、ふたりの剣士らはふたたび向き合った。ふたたび激烈な斬り合いがはじまる、かと思われたが。──
 刃を半ばそがれながらも、妓の持つ刀はおおよそ人の命を奪う用途だけは果たすだろう。着物の裾を翻して、妓がふたたび駆けようとした、その寸前、それは起きた。
「あ、ああ、あああ」
 紅の塗られた唇が呆けたように開き、断続的に母音を紡ぎ続ける。妓の両手は、何かを押しとどめようとするかの如く、腹部を押さえている。一分の隙もなく化粧を施された顔に浮かぶものは、自らの身に起きることを理解できない困惑の色だ。彼女に何が起きているのかを理解したのは、イェレミアス神父の方がよほど早かった。
「魔術の、運び手とされたな」
 神父は妓のありさまを、そう断じた。日本の呪術に明るいものがこの場に居れば、呪いの依代とされた、と表現したかもしれない。いずれにせよ、起きていることは同じで、その解釈が違うだけのことだ。
 豪奢な着物は、無惨にも赤い血に染まっていた。血は、妓の両足の間より流れ落ちたものだ。両手で少しでもそれを押さえ込もうとした彼女の努力は、呪わしき魔の業の前には無力であった。妓の両足の下には、無数の長大な蛇が間断なく産み落とされている。丸太ほどの太さのある蛇を産み出している母体は、その身が纏う地獄絵図にも描けぬありさまであったろう。超絶の技巧を持つ女剣士もいまや、当人も知らぬうちに腹に植え付けられていた魔獣を産み落とすための苗床でしかなかった。
「大淫婦バビロン──」
 産み出される魔獣を見た神父は、一つの名を想起していた。それは、ヨハネの黙示録に記された、キリスト教迫害者たるローマ皇帝らを示したとも未来に訪れる破局の予言とも言われる暗喩(アレゴリー)の一つだ。たしかにこの魔獣の外観は、黙示録に記された獣によく似ていた。その獣は七つの頭と十の角を持ち、赤い身体であるという。角こそ無いが、七つ頭を持ち、血にぬめった鱗に覆われた大蛇とはおおよそ似通った特徴を持つ。そして何よりも。何よりも、黙示録の記述において大淫婦を特徴づけるのは、赤い獣に騎乗する女の存在だ。
「ああ、あああ」
 しゅうしゅうという大蛇の威嚇の声に混じり、妓の悲鳴も未だ、響き続けている。そう、妓は未だ意識を保ち、動いている。常であればすでに死んでいてもおかしくないほどの血を流し、身体を破壊されているにも関わらず。それもそのはず、血染めの地獄絵図を纏った花魁は、大蛇の七つ首の付け根、太い胴体の背に半ば埋め込まれるような形で取り込まれていたのだ。
 黙示録に曰く、大淫婦バビロンは豪奢な衣を身につけ、赤い七つ首の獣に跨っているという。それは、神父の眼前にある異形と、相似を示していた。
 威嚇の音を発しながら、黙示録の獣の如き七つ頭の蛇は土の上を驚くほどの速度で駆け抜ける。向かい来る大蛇を見据えながら、イェレミアス神父はカソックの裡に手を入れ、ロザリオを引き出した。正しくは、その十字架部分に隠された聖水の小瓶をだ。瓶の蓋を明けている暇はない、彼は瓶を宙に投げ、すかさず左手に握った脇差を一閃させる。聖別された水はガラスの破片とともに、脇差の刀身をしとどに濡らした。
 眼前には恐るべき魔獣が迫っている。秘跡の準備を行うべく、神父は脇差しを使い十字を切った。そこで、
「伴天連の魔獣なぞに例えるとは趣味の悪い。これは、れっきとした我が国固有の技術ですよ」
 との声とともに、彼の背に、無数の小さな刃物が飛来した。持ち手も含め金属でできた小型のナイフ状の刃物は、苦無(クナイ)と呼ばれる暗器にほかならない。
 イェレミアスほどの身体能力の持ち主であれば、暗器をすべて避ける、あるいは叩き落とすことなどは容易かったろう。なのに、彼はどちらも実行しなかった。なんということか、十センチほどの刃物は、残らず使い手の意図通り、僧衣の背に深々と突き刺さっていく。
 背に苦無を受けていると言うのに、イェレミアスが専念しているのは向かい来る大蛇の顎を避けることばかりである。それだけでも異様であるが、ことさらに異様なのは、苦無の刺さった箇所から血の流れることもなければ、イェレミアスが苦痛を感じている様子すらないことである。
「痛みを感じ性質かな、あるいは皮膚が特別分厚いのか、いずれにせよ厄介ですね」
 つぶやく声とともに、再度、暗器が放たれる。今度は、背ではなく首から上、頭部を狙ったものだった。神父はそれも防ごうとはせず、彼をねらう大蛇の七つ頭にだけ視線を投げ続けている。苦無はすべて狙ったとおり神父の側頭部だの首筋だのに刺さっている。だのに、それもまた彼に苦痛や流血をもたらす様子はない。
 ふいに、イェレミアス神父は自身に向いていた刺すような殺気が、唐突に消え失せたことを知った。神父と大蛇との間には、一体どこから現れたか、純白の裃を身につけた男が立っている。──それは、地獄太夫に神父の殺害を依頼した、平戸であった。撫で付けた黒い総髪に、どこにでも居る日本人の顔をしたその男は、編み込んだ白髪に黒檀の膚を持つイェレミアスとは丁度対照をなす容貌であった。
「貴様が、彼女に術を掛けた魔術師か!」
 現れた男に、神父は怒気を孕んだ声を浴びせかけた。地獄太夫は、今しがたまで殺し合いを繰り広げていた敵手だというのに、その敵手のために怒ってみせる──彼は、そのような性質の持ち主であった。
「魔術師、ではありませんよ。本邦の(わざ)だと言ったでしょう、鈍い坊主だな」
 イェレミアス神父は自らに刺さっていた苦無を無造作に抜き取り、池へと投げ捨てた。無論、こめかみだの頸動脈だのに突き刺さった刃は、尋常であれば即死をもたらしていたはずのものである。
「ふむ、あなたは中々に興味深い性質のようですね。ですが、拙者なぞに気を取られていてよろしいのですかな」
 と、白装束の男は右手を掲げ、振った。それが合図であったか、平戸の後ろに控えていた魔の大蛇は、イェレミアスに襲いかかる──はずであった。
 たしかに赤い大蛇の七つ頭は月光の下、おぞましき邪神の光背のごとくに広がり、神父へと襲いかかろうとした。襲いかかろうとはしたが、その直前、どういうわけか凍りついたように動かなくなったのだ。
 格好がつかぬのは、平戸だ。白皙の貌に浮かぶものは余裕ぶった表情から一転、悪鬼の如き形相で男は彼の使役する大蛇を睨みつけた。
「何をしている、早くこの坊主を殺さんか地獄ッ」
 彼にしてみれば、地獄とは呼んだが、あくまでそれは大蛇そのものに呼びかけたつもりの言葉であった。だが、
「……何をしている、とは、あちきのお尋ねいたすことではありんせんかねえ、平戸さま」
 応えたものは、たしかに地獄の名を持つ太夫の声であった。平戸の顔が、驚愕に歪む。彼にしてみれば、それは今朝の後朝の別れを最後とし、二度と聞かぬはずの声であったのだ。
「な、なぜ──」
 平戸の背は、敵手のことなど忘れたかのようにイェレミアスに向けられている。彼にしてみれば、地獄太夫が未だ意識を保っていることはまだしも、自ら施した術にたかが遊女風情が抵抗し、あまつさえ彼の計画の邪魔をしていることは、想像の埒外のことであったのだ。
 イェレミアスの手には、脇差がある。今ならば、この男を斬り殺すことは容易であろう。だが、術者を殺したとて、大蛇が消えるかどうかは定かではない。ひょっとすれば、術式の暴走する可能性すらある。
 神父は、平戸の脇を素通りし、地面にのたくる大蛇の胴へと跳び乗った。固い鱗状の皮膚は、月に照らされてもなお赤黒く、忌まわしい輝きを発している。血にぬめる鱗に足を取られぬよう気を配りながら、彼は大蛇の背を駆け上った。
「恵み深き聖マルタ、御身とともに我らもいと高き方に感謝と讃美を捧げん。御身のごとく、この身も神の恩寵の証人たるを願い奉る」
 駆けながら、神父は早口に聖マルタへのとりつぎの請願を唱え、脇差を使い十字を切る。聖水に浸された刃の軌跡を追うように現れた無数の淡い光の粒子は、神の恩寵の御光だ。
「我が前にあるは、魔を宿されし肉体。御身が邪竜を下したごとくに、わが退魔の秘跡を助けたまえ」
 請願の終わりとともに、燐光は脇差の刀身に集まり、魔を断つ刃となる。これで魔を宿した肉体を斬れば、宿主とともに悪鬼邪竜のたぐいは雲散霧消する、というのが彼の行いうる悪魔祓いの秘跡である。だが、彼はなるべくならばそれを成さずにすむことを祈っていた。
 地獄太夫の姿は、赤い胴の頂点、七つ首の根元にあった。下から見上げていた時は両足が蛇の背に埋まっている、程度に見えたが、いま見れば、腰のあたりまで取り込まれている。おそらくは、魔の術式が埋め込まれた箇所を起点に両者が結合しているのだ、と神父は分析した。
「ご婦人」
 と、声をかけるや、妓は振り返った。白い月を背に、存外に鋭さのある横顔の稜線が浮き上がっている。殆どが影となった顔のなか、切れ長の目だけが爛と輝き、その奥にある意思をイェレミアスに伝えんとしていた。だが、それよりも。それよりも何よりイェレミアスの胸を打ったのは、振り返った地獄太夫の腹部に、深々と刺さった一本の打刀であった。刀はちょうど、蛇との融合部のあたりを貫いている。つまり、術式の仕込まれた箇所を、だ。魔の術式とて、大抵は護符だのルーンストーンだの、物理的な物体に依存する。その物体を物理的に破壊すれば術式の発動は止まってしかるべきであるが──この場合、物理的な破壊が、地獄太夫にとって致命的であることは言うまでもない。
「ぬしさまの、言うとおりで御座いんした。わちきには、ぬしさまは殺せなかった」
 と、紅ではない赤に染まった唇が動く。
「おまけにこのような姿をお見せして、お恥ずかしい限りでございんす。つきましては、自分で始末をつける次第、どうかお見守りくれなんし」
 イェレミアス神父の日本語の能力は高いが、完全に日本人と同じほどのものかと言われれば、そうではない。彼からすれば、地獄太夫の話す廓言葉はひどく理解しづらいものである。それでも、いま目の前で地獄太夫が口にした言葉の意味は、完全に伝わった。
「やめるんだ、そんな事をする必要は、」
 と、最前まで、自らの手で妓を殺す可能性を否定していなかったのにもかかわらず、神父は妓を止めようとする。
 柄を握った地獄太夫の両手が横に引かれたのは、神父が足を一歩だけ踏み出したときのことだった。
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登場人物紹介

【地獄太夫】花魁兼女剣士。走るタイプのゾンビは苦手。

【イェレミアス神父】 さまよえるユダヤ人にしてバチカンのエクソシスト。久しぶりに日本に来たら変身アイテムにされた。

【平戸】いわゆるひとつの黒幕。結構詰めが甘い。

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